2020年02月16日

「アイリッシュマン」ほか ~手当たり次第に

マーティン・スコセッシ監督「アイリッシュマン」(2019)

 「アイリッシュマン」は先般のアカデミー賞にノミネートされ、ネットフリックスが力を入れて作った作品と言うので前評判が高かったので、出町座で先般見て来ました。

    主人公はマフィアの手下フランクでこれがロバート・デニーロ、マフィアのボス・ラッセルがショーン・ペン、映画ではフランクが殺ることになる全米トラック運転組合委員長のホッファがアル・パチーノと名優3人が顔を揃えた作品で、スコセッシ監督がどう料理したかという興味もあったわけですが、確かに3時間30分飽きさせず、アル・パチーノの悪の強い演技をはじめ、3人の好演を楽しむことはできました。

 しかし作品としてなんというのか、人間に対し、社会に対して果敢に切り込んでいくような、表現としての鋭利な刃らしきものが一向に見えないという感じで、ただ3時間半、飽きずにマフィアもののちょっとハラハラするドラマを見せてもらいました、というにとどまる作品だったように思います。まぁ、実在の人物を描いたところが、以前たしかホッファを描いた映画を見ていたので、面白かったと言えば面白かったけれど・・・。それにしてもアメリカって国にはひどい国ですよね。ケネディも何もあったもんじゃない。裏を返せば、みんなマフィアが取り仕切っている、みたいな・・・。

「女は二度決断する」ファティ・アキン監督  2017

 これはドイツの映画ですね。

 夫の事務所前に仕掛けられた爆弾で愛する夫と子供を無慙に殺されたカティヤ(ダイアン・フルー)が弁護士の助けを借りながらも心の苦痛から逃れられず麻薬に手を出し、絶望の果てにリストカットして死のうとする正にその時、警察が犯人を逮捕し、ネオナチのテロとわかります。

 カティヤは犯人の一人である女を直前に目撃して声をかけていたところから、自らも証人として、捕らえられた犯人2人の裁判に出廷し、犯人を追い詰めたと思いきや、判決は証拠不十分の「無罪」。

 再び絶望の淵に立つ彼女は、2人の犯人を独力で探し出し、隠れ家を見つけ、夫と子供を殺したのと同じ爆弾を作ってテロリストが隠れるキャンピングカーに一度は仕掛けるけれど、そこに止まる小鳥の姿を見て爆弾のスイッチを押すのをためらって、引き返すのですが、心は揺れています。そして・・・

 この映画、裁判のシーンがマジで怖いです。テロリスト側の証人に同じネオナチの男が立って、事件当時2人がギリシャにいた、という証言をします。また、爆弾の原料となる薬剤などを隠していた小屋のカギは誰かが盗んではいる可能性だってある、という向こうの弁護士の逞しさ(笑)。

 いやぁ、実際の裁判の場というのは、あんなふうに、私たちが普段常識で考えて、あいつが犯人に決まっているじゃないか、状況から考えてもそれ以外にないし、証拠の品だってたんとあるじゃないか、と思っていることが、被告の弁護人の目でこれ以上ないほどの細密な疑惑の目で見ていくと、いくらでも言い逃れのできる「不確かな事実」に変えられてしまうのですね。そういうことが現実の裁判でもきっとあるんだろうなぁ、と戦慄を覚えずには見られませんでした。

 日本では人質司法やら、でっち上げやら、強引な自白誘導やらで、検察への風当たりが強いし、事実そういうことを日本の検察はやってきた負の歴史を背負っているけれど、弁護士の法だって、相当なもんなんだろうな、と思ってしまいます。とくに政治家とかお役所だとか、大企業だとか、暴力団とか、教育委員会&学校だとか、そういう組織がバックについている被告の場合、この映画にあるように、やったに決まってるじゃないか、と常識の目で見て明らかな犯罪であっても、見事に言い抜け、「推定無罪」に落とし込むような手練手管を駆使して、これまでたくさんの悪人が生き延びてきたんだろうな、と。あの弁護士、優秀すぎてこわい(笑)

 まぁラストは映画としては、あれしかなかったのでしょうね。あれで、夫も子供も殺されました、犯人もわかってます、でも無罪放免で大手を振って街を歩いてます、って・・・それであきらめました、なんてのじゃ映画になりませんから。でも実際の被害者の家族はいまもそういう状態に置かれている人がたくさんいらっしゃるのでしょう。それを思うと怖い映画です。作品としてはもう一つ、どうかと思いますが・・・


ヒッチコック監督「引き裂かれたカーテン」

 古い映画ですが、先日ゴーン元日産会長が、衣装ケースみたいな箱に身を隠して海外逃亡したニュースのときに、そういえばヒッチコックに、衣装ケースに隠れて国外脱出したスパイ映画があったね、という記事をいくつか見たので、ゴーンさん記念に(笑)、まだ見ていなかったこの作品を見ました。

 主演は物理学者で、ソ連に亡命?するふりをして、実は向こうの核ミサイル防衛装置か何かの原理を頭の中の数式で持っている学者からそれを引き出して持ち帰るという大変な任務を受けたポール・ニューマン演じる男が、予期しなかった婚約者の強引な同行で予定外の行動をとる必要が出てきたり、スパイであることがいまにも露見するかという瀬戸際で所期の目的を達して、秘密組織の協力で婚約者と脱出する、スリリングな物語。

 結構面白くて、例のショーの一座の化粧箱に隠れて脱出するシーンもなかなかスリリングでした。ただ、ポール・ニューマン演じるこのスパイ、タクシーで秘密組織の隠れ家の農家にのりつけたりしているところなど、あまりにも迂闊で、案の定その運転手の通報で急を要する事態になるのですが、まぁ本来の職業はスパイじゃなくて物理学者だから多めに見ることにしましょうか。

「天命の城」(ファン・ドンヒョク監督 2017)

 前にもちょっと書いたのですが、これは明末の中国で明を追い詰めた清が、明の属国として朝貢していた李氏朝鮮に、これからは清の属国となるよう迫り、従わない朝鮮を攻めて、その王たちを南韓山城に包囲し、降伏恭順を強いた1636-7年の「丙子の役」を囲まれた朝鮮軍の側から描いた作品で、ものすごく暗い映画です。

 主演は李氏朝鮮の大臣で、人民の為に屈辱を忍んで清に降伏することを提言する大臣チュ・ミュンギル役のイ・ビョンホンと、彼とは厚い信頼関係にありながらも反対に、国の威信をかけて徹底抗戦を唱える礼曹大臣キム・サンホン役のキム・ユンソクで、共に韓国を代表する様な俳優です。

 いつも韓流史劇のテレビドラマでおなじみのパターンで、陸続きの中国の各政権の圧力を受け、朝鮮半島の政権はつねに中国と通じた降伏恭順派と、それに抗う自主独立派との内部分裂を起こし、それがドラマの主軸となっていく展開です。しかし、これまで私が見て来た韓流史劇あるいは史実ではない架空の(伝説的な)韓流時代劇のほとんどでは、自主独立、徹底抗戦派(それなら大抵玉砕、敗北しかないわけですが)あるいは少なくとも、表面上は恭順ながら外交手腕を駆使して相対的独立を守った、というふうな朝鮮の指導者をヒーローとして描くようなものがふつうだったと思います。そうでなければ、そういう戦乱の世を生きる個人とかをヒーローにするしかないわけです。

 今回見たこの作品がそれらと大きく違うのは、近代に属する史実なので、史実を曲げるわけにはいかないから、徹底的な敗け戦なのですね。もし徹底抗戦すれば、もう全員殺されてしまうしかない玉砕戦になることは目に見えている。山城に立てこもっていて包囲され、食べ物はおろか、飲み水までおさえられいるから、戦う以前に餓死してしまうような悲惨な状況で、兵士たちの多くも逃亡して投降してしまっています。

 そんな中で、王仁祖はチュ・ミュンギルの唱える降伏の決断をして、清王の強いる恭順の儀式を受け入れて、韓江南岸の三田渡の清軍陣営に赴き、粗末な平民服を着て、最下壇から最上壇に座す清のホンタイジに向けて仁祖王みずから三跪九叩頭して恭順の意を示す屈辱に甘んじることになります。この史実が三田渡の屈辱として朝鮮半島の人々の胸に今に至るまでわだかまっていると言われます。

 王子や大臣らの子女を人質に差し出し、莫大な黄金、白銀などの貢ぎ物を毎年上納することを約束させられ、またこのとき朝鮮の50万人もの男女が捕虜として清に連行され、女性は性奴隷にされたと言われ、

 また、これ以後244年間にわたって、朝鮮は計161回に及び清の勅使を王自らが三跪九叩頭の礼で迎え、また500回以上清に朝貢使を派遣しつづけたそうです。朝鮮が独立を認められ、清の属国から解放されたのは、清が日清戦争で敗北し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせた1895年のことだったとか。(ウィキペディアによる。)

 これは朝鮮にとって最大の歴史的屈辱で、最近になって韓国の文政権が中国から国防に関する「三不の誓約」を呑まされた折にも、韓国のメディアの中には、三田渡の屈辱の再現だと非難する声もあったそうです。数百年を経ても朝鮮半島の人にとって忘れることのできない民族的な屈辱の記憶なのでしょう。

 この映画を見ていて、いわゆる大国と陸続きの周辺国の悲哀を痛感せざるを得ませんでした。中華思想を奉じる国にとって、四囲辺境の国々は東夷、北狄、西戎、南蛮、要するにみな文明の中心から遠く離れた野蛮この上ない下等民族であって、中華国に朝貢して属国としての礼を尽くすのが当然で、抗えば大軍をもって押しつぶすだけのこと。やられる方では、常にプライドをかけて玉砕を恐れず徹底抗戦するか、命あっての物種と降伏恭順して生き延びるか、基本は二つに一つしかないわけです。

 日本のように荒海を隔てた島国であれば、大軍をもって南から北まで一気に押しつぶすなんてことは昔ならば実際上困難だったでしょうし、実際、圧倒的な軍事力をもった蒙古軍もうまく日本を攻略できませんでした。また、徹底抗戦を試みれば、相手のほうも、かなりの犠牲を払ってまでして、攻略するほどの価値はなさそうだ、という判断をしたかもしれません。

 しかし中華帝国の陸続きの周辺諸国は歴史的に常に痛い目に遭ってきたのは、私たちが習った東洋史を周辺諸国の側から眺めてみれば一目瞭然でしょう。三国志演義で諸葛孔明が「南蛮」を三度攻めて、土地柄が分からず結構苦労して、大きな犠牲を出して勝利しながら、三度とも敵将を許して帰してやり、とうとう心から降伏させて南の地を安堵する、という逸話が描かれていて、あれを読むときは諸葛孔明の側に立って読んでいるので、すごいなぁ、と思って立派な行為のように感じて読んでいるけれど、攻撃され、諸部族を糾合して侵略者に命を張って抗っては敗れた「南蛮」、たぶんいまのベトナムとかの国々の側に立ってみれば、巨大な軍隊の力にものを言わせて侵略してくる孔明の軍は悪の権化だったでしょう。

 長いものには巻かれよ、というけれど、資源も人員も軍事力も圧倒的なボリュームを持ついわゆる「大国」と本当に戦争でぶつかって周辺のこれら小国が、どう頑張ってみても勝てるわけがないので、そこでは相手に和をもって治める理性がなければ、やられる側では徹底抗戦の玉砕か、屈辱の和平か、しかないわけです。これが悲しいかな歴史的な現実ですわね。

 こうした国々には気の毒で、悪い気もするけれど、日本は海を隔てた島国でほんとうによかった、と思わずにはいられません。でも、これからは海を隔てていることが、昔ほど大きな意味を持たなくなっていると思います。経済大国なんて言われていい気になっていたころほどではなくても、ある程度の経済的な規模を維持したとしても、全体としての国力の差は、広大な土地を持ち、従って膨大な資源を持ち、かつ膨大な国民を擁する「大国」との間で、ますます広がっていくに違いありません。

 この映画を見ていて感じたのは、そういう屈辱の「ひとごとではない」という思いです。


ジャファル・パナヒ監督「オフサイド・ガールズ」

 先般、「ある女優の不在」というパナヒ監督の、とてもいい作品を見たので、レンタルビデオ店に合ったこの作品を借りてきてみました。一言で言えばめっちゃ面白かった。イランでは女性はサッカー場での観戦が許されていないらしいのですが、2006年のドイツワールドカップの最終予選をグラウンドで何とか見ようと、若い女性たちが監視員のすきを突き、人々に紛れて会場へ入り込もうとしては警備兵につかまり、客席の背後の回廊の一隅に囲われた場所に集められ、監視下に置かれるのですが、なんとなく若い警備兵たちもそういうことがバカバカしいと本音では思っているところがあるし、女性たちのほうもなんで行けないのよ、ちょっと見るくらいいいじゃない、と強気で、それでも見せてもらえないものだから、若い兵士に頼み込んで半ば強いるようにして、ピッチの光景を覗いて口頭で「実況放送」などさせたり、トイレに行きたいといって、兵士がついてくるのですが、他の観客を排除しようとして兵士がトラブっているすきに逃げ出して会場にもぐりこんだり、とテンヤワンヤ。

 よくまぁこんな何もない回廊の一隅に集められて見張られているだけの状況で、こんな愉快なドラマが作れるものだな、と感心します。徹頭徹尾男尊女卑の建前の社会で生きる女たちの逞しさ、その「男社会」の滑稽さ、でも男たちもみんな素朴で人が良くて、たくましい女たちにしてやられて、というイラン社会の模様が生き生きと活写されています。

 警備兵の上司の車がきて、みなそれに乗せられて分隊へ移動させられるのですが、その途上でも社内のラジオでサッカー試合の中継をみんな集中して聴いて一喜一憂し、アンテナの故障で聞こえにくくなると、兵士の責任者が車外に手を伸ばしてアンテナを支え続けて聞こえるようにしたり(笑)。

 そしてワールドカップ出場が決まった瞬間には警備兵も女性たちもなく皆抱き合い大声で叫んで喜びあい、女性たちと一緒に連行されていた少年がもっていた爆竹に火をつけて鳴らし、やがてドアを開いて街路の熱狂にまぎれ融けていく…なんとも素敵なラストシーンです。

「芳華」(フォン・シャオガン監督 2017)

 1970年代の中国の軍隊(省軍)の文芸工作隊がドラマの舞台です。1970年代というと、毛沢東が死に、四人組が失脚し、唐山大地震にみまわれた中国にとっては大変な年です。この激動の中国で軍の文芸工作隊(歌舞団)でトレーニングに励む若者たちの青春群像を描いた作品で、私がみた中国映画の中ではなかなか興味深い素材の世界でした。

 いかにも中国らしい背景のもとにではありますが、昔見ていいな、と思った「セントエルモスエルモスの火」という後に結構活躍して有名になる男女の若い俳優が出ていて、彼らの出発点になるような映画で、青春群像が初々しく描かれているのがとてもよかった映画があるのですが、なんとなくあの映画を思い出しました。

 ストーリーは古典的なものでしたが、人間の描き方は、かつての中国映画のプロパガンダ的なものとは格段に進化(深化)しているのを感じました。イジメあり、恋あり、挫折あり、失恋あり、別れあり、ヒーローあり・・・

 一つ興味深かったのは、今まで中国の映画で見たことがなかった、対ベトナム戦争、「社会主義」国を自称する国どうしの戦争の光景がドラマの一部として描かれていることです。主人公の女性が思いを寄せた文工隊のリーダー格だったが腰を痛めて美術班に移り、修理工のような仕事をしていた青年がこの戦争に参加して片腕を失います。また主人公の女性は、この戦争に従軍看護婦として加わり、献身的な働きで英雄として顕彰されるのですが、同時に心を病む、というかつての中国映画では考えられなかったような展開です。

 この中越戦争の戦闘場面が出てきますが、中国にとっては相当厳しい、激しい戦闘だったんだな、ということがうかがわれます。あれは小国ベトナムが対アメリカ戦争の経験を積んで軍事的には洗練された大国になっていて、カンボジャと組んで侵略を試みた中国を撃退した、中国にとっては実質的な敗け戦だったことが、ほんのちょっとのこの映画の場面からもうかがわれます。今の中国はこの程度の描き方なら許容しているようですね。

 この作品に登場する文工隊のダンサーたちのダンスがすごく綺麗です。とても練習生とは思えない美しさ。そこは見所のひとつです。

 ただ、この文工隊は解散させられて、仲の良かったメンバーたちも散り散りになっていくのですが、その悲哀は外面的には描かれるものの、もう一つ、一人一人の内面にどう影響を与えていくのか、その後の主人公らの生き方に関して、こうしたできごとの与えた影響が見えにくいところがあって、やっぱり人間の内面の掘り下げに関してはいまだし、の感があるように思えました。

 テレサ・テンの歌を聴いてワクワクしているシーンとか、ちょっと笑えました。

「その日の前に」(大林宣彦監督)


 じっくりと死に至る時間をひきのばして描き、生きていることの意味を問う作品。死を「覚悟」してからの迷い、未練、構えた「終活」の意気込み、周囲の人々、家族への想い、後悔、過去への回帰etc.etc. ・・・そんなのを全部詰め込んだ作品です。

 癌で死んでいく(余命1カ月とか)妻に寄り添って、過去への旅に出る中で語り合う二人の姿を通して、夫の目線で語ります。あらゆる作品に死の影がさしている大林監督の作品なら、正面から死に向き合う人間をどう描くかな、という興味で借りて来たビデオでしたが、大林さんらしい作品と言えばらしい作品で、死に瀕した、そしてある程度死までに時間のある人間がどう考えるか、そこにどんな落とし穴があるか、というのも、ちゃんと描かれてはいました。ただ、私が見たいと思っていたようなものとはちょっと違っていたけれど・・・

 竹下景子が良かった。

「女ざかり」(大林宣彦監督)

 自称サユリストのくせに、案外サユリさんの作品は見ていないんですね(笑)。「伊豆の踊子」一本でいいや、という気がしていなくもないのかも。もちろん、キューポラのある街やら愛と死をみつめてやら、あれこれ拾ってみてはいたのですが・・・

 この映画はサユリさんが新聞社の女ざかりの新米論説委員を演じています。資質的にあんまり似合う役のようには思えなかったけれど、無難に演じていました。独身の彼女が妻子ある男(津川雅彦:これはいかにも、という配役)と大人の関係をつづけていて、仕事の話をして助言されたり、扶けようとされたり。これもどうもそういう女性と、サユリさんのイメージが合わなくて、これはサユリさんの映画はやっぱり見ない方がいいかも、こちらの、中学生の頃に植え付けられた先入観的イメージが強すぎてとても駄目だ、と思い知りました(笑)。

「銃」(武正晴監督)

 中村文則の小説が原作だったので、見てみようと思いました。
 たまたま殺されたか自殺したかで倒れていた男の傍に落ちていた拳銃を拾った青年が、だんだん拳銃を手にすることで全能感を覚えるようになって、刑事に怪しまれながら、ふてぶてしくなっていって、最後は電車の中で、大きな顔して携帯を使っている隣席の男をぶち殺してしまうまでを描いています。

 このラストの血なまぐさい映像だけれど、現実か幻想か分からないような鮮烈な映像がとてもインパクトがあり、素敵です。 
  
 配役ではいやらしく青年にからむ刑事役のリリー・フランキーがとてもいい。主役の西川トオルを演じた村上虹郎も悪くないし、脇役を演じた二人の女性も、とてもよかった。

「セーラー服と機関銃」(相米慎二監督 1981)
 
 もう一度見たくなってビデオ借りてきて見ましたが、昔見た印象ほど良いと思えなかった。素っ頓狂な話ですが、薬師丸さんの初々しさがいい。案外シビアなやくざの殺し合いのシーンもあったんだな、と改めて思いました。だから荒唐無稽で素っ頓狂なお話というだけで終わらない情趣を醸すところがあったんだろうな、とも。

「イギリスから来た男」(スティーブン・ソダーバーグ監督)
 
 ソダー―バーグ監督だから見たのに、ちっともよくなかったし、面白くなかった。スタイリッシュを気取った映像だけれど、ちっともスタイリッシュじゃない。迫力がない。味もない。悪人の底が浅すぎて話にならない。脚本が悪い。

 唯一面白かったのは、イギリス英語が仲間にもよく聞き取れないらしいシーンがあって、そこは面白かった。イギリス英語とアメリカ英語との違いが科白を聞いてよく聞き取れたら結構面白かったのかもしれませんが・・・

「アリータ:バトル・エンジェル」(2019)
 
 ジェームズ・キャメロン脚本・製作というので見たのですが、新しい映画だけど、ひどかった。

「飢えたライオン」(2017)

 ひどかった。

saysei at 19:10│Comments(0)

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