2020年02月16日

「ジョーカー」を見る

 トッド・フィリップス監督 の映画「ジョーカー」(2019)をDVDで見ました。
  
 ジョーカー役のホアキン・フェニックスのこれを見るだけでも価値がある怪演ともいうべき熱演が圧倒的で、ラストに近いシーンでは、殺人者であるピエロの彼が鬱屈を爆発させた群衆のヒーローとなり、彼自身はパトカーで連行されるものの、そのパトカーの車内からみえるゴッサムシティの街は、彼に倣ってピエロのマスクをつけた群衆の破壊と放火で火の海となって燃え上がる・・・残酷な美しさに溢れた映像がみられる、非常にインパクトの強い作品です。

 富める者はますます富み、貧しきものはますます貧しくなり、前者はもはや後者のことを一顧だにせず、踏みつけ、排除することによって、自分たちの快適な生活を守る、そんなひどくなる一方の格差社会で、大多数を占める貧しい一般大衆は先の希望もなく貧しさの底でいつ暴発しても不思議ではない鬱屈を抱え込んでいる。そんな街のひとつゴッサムシティはゴミ業者のストライキでゴミが町じゅうに溢れ、悪臭がたちこめ、ネズミが大量に発生しています。

 極端なようだけれど、これはもうそのまま今のアメリカ社会そのものです。ネット上で、ソキウス101というサイトに「アメリカの貧困と格差の凄まじさがわかる30のデータ」という色々な統計データを紹介してくれているページがあります。   http://socius101.com/poverty-and-inequality-of-the-us/ 

 それによれば:
   ・米国では上位1%が持つ資産は下位90%が持つ資産の総量より多い。 
   ・上位1%の資産で全米の33.8%を占有。
   ・上位10%で所得は5割、資産は7割を占める。
   ・上位1%の富裕層が米国の40%以上の金融資産を持ち、上位20%で90%以上を占める。
   ・下位50%のアメリカ人がもつ総資産が全米の総資産に占める割合はわずか2.5%。
   ・アメリカ人の半分は年収300万円以下。
   ・アメリカの子供の貧困率は世界で2番目に高い。

 ものすごい格差社会ですね。日本も安倍さんが頑張って、それに追いつこうとしているのですが(笑)。ちなみに、日本は上位10%で所得は全体の41%、資産は34%を占めているそうです。

 こういうアメリカ社会の実情、トランプなどがフェイクな情報をスパンコールみたいなのをつけた目隠し布で覆っている薄皮を一枚剥がせばたちまち露わになるこんな暗黒の格差固定社会を直視するなら、”ジョーカー”となっていくこの映画の主人公アーサー・フレックのような若者がいまのアメリカ社会には無数に居て、いつ暴発しても不思議ではない鬱屈をかかえてひっそりと生きているのだろうと思わずにはいられません。

 必ずしもただちに暴発して犯罪者とはならなくても、私たちの周囲にも、そうした若者のうちの一人ではないかと思えるような、「人が殺したかった。誰でも良かった」と嘯くような犯罪者をメディアを通してであれ、以前には考えられなかったほど頻繁に見るようになりました。

 そうしたいまの「豊かな社会」の薄い皮膜を剥がした現実の姿を、これが見えないか、と突き付けて見せるインパクトは、たしかにこの作品にはあります。

 マンガの「バットマン」に登場するスーパーヴィラン(特別な能力を持った悪役)、”ジョーカー”が悪に堕ちる経緯を描いた作品だとかで、人気漫画のほうに由緒因縁があるようですが、私はそのマンガは名のみ知るだけで、読んだこともなく、映画化された作品も見ていないので、そちらのジョーカーは知りません。でもこの映画は映画として独立して楽しむことができます。

 主役の怪演とラストシーンの映像で、五つ星評価なら三つ半くらいには十分値する作品だと思いますが、私はこの種の犯罪の絡む映画で、主役の犯罪者が精神を病んだ人間、というふうな作品がどうしても好きにはなれません。それは、ポリティカルコレクトネスの観点から、とかいうようなことではなくて、なにか脚本のストーリー作りのところで、それはルール違反だろう、という気がしてしまうからです。

 近年私はほとんどそういうのは読みませんが、犯罪小説(警察小説、推理小説、刑事もの、スリラー、etc.・・・)で、つかまえてみれば犯人は異常者、精神病者、というのが目についたり、映画やテレビドラマにもそういうのが目立っています。猟奇殺人ものなんて、ほとんどそんなものかもしれません。
 心の病と犯罪をそう安易に結びつけるようなことをしないでくれ、というのをポリティカル・コレクトネスのような観点から言うこともできるでしょうが、それ以前に、心を病み、あるいは脳に障害があったり神経を病んで、それが犯罪行為につながった、というようなことが、ストーリーの核心をなす犯罪の動機というのか因果の原因みたいに措定されているとすれば、それは話の作り手がどうにでもしてしまえる。犯罪が行われた。それは犯人が普通の人間じゃなくて、狂っていたからですよ、と。そんな安易な「創作」があるでしょうか。

 機械じゃあるまいし、ちょっと故障していたから暴走しちゃったんですよ、で読者或いは映画の鑑賞者として納得できるでしょうか。

 もちろん、この「ジョーカー」という作品がその種の安易な作品と同じだというつもりはありません。主人公が心を病んでいたとしても、その背後には格差社会の底辺で病んだ母の世話をしながら広告塔としてのピエロを職業として辛うじて生きている鬱屈した日々があり、”ジョーカー”が生まれてくる背景は描かれているので、ただ機械が故障してしまいまして、というふうなものでないことは確かだからです。

 しかし、直接の引き金となったのは、アーサーの非常に個人的な過去にその原因があります。
 彼の母親が生活の困窮を訴えて援けを求めた市長に立候補しようという富裕層の男トーマス・ウェインがアーサーの父親だという母の言葉で、アーサーは自分の「父」トーマスの屋敷を尋ねていき、使用人に追い返され、今度はトーマスが劇場へ出かけたところへ押しかけて息子だと言うのですが、トーマスによればそれは事実ではなく、アーサーの母はトーマスのところの使用人で妄想癖があり、養子アーサーを虐待して精神病院に入れられたのだと告げられ、事実アーサーがその精神病院へ行って過去の記録を見出してそのことが証明される、という風なことです。

 アーサーが緊張すると笑いの発作がとめられなくなるという症状も、こうした幼児期のドメスチックヴァイオレンスの結果だと推測できるでしょう。彼の心の病は養母のきわめて個人的な心の病に元を辿れるものであって、必ずしも社会的な要因へのつながりがあるようには描かれていません。

 アーサーの暴発の直接の引き金は、この母親による幼いアーサーに対する、伏せられていた継続的な暴力行為、潜在的な敵対的関係とそれに伴う葛藤にあり、この事実を顕在化したトーマスの拒絶であって、それは必ずしも格差社会の貧富の差から直接生み出されたものではありません。
 もちろんトーマスの横柄な態度や、かつての使用人であるアーサーの母親に対する姿勢もまた同様であったろう事を考えれば、そこにも階級的なバックグラウンドがあることはあるけれども、この映画におけるアーサーという主人公の行動を規定するような類のバックグラウンドではありません。

 あとは過去のいきさつはどうであれ、現実にアーサーと母親が今の格差社会の底辺で辛うじて生きていて、一人前のお笑い芸人になりたいと夢見るアーサーが、なかなかその日常から這い上がれない、他の多くの底辺の人々と同様の境遇にある、ということと、その一環として、たまたま同僚から押し付けられるようにしてもらった拳銃を小児病棟でのパフォーマンスの際に落としてしまって、そのことが原因にもなって、広告塔ピエロの職を解雇されてしまう、というあたりが、唯一の「格差社会の現実」とのつながりでしょうか。

 ついでに言っておけば、同僚から拳銃をもらう、という重要な契機も、またアーサーが解雇されて失業する直接の契機となった、小児病棟にわざわざ拳銃を携行していったこと、しかも踊ったらすぐ落とすような持ち方をして・・・というようなところは、まったく安易でお粗末な脚本だと思います。

 それにしても、コメディアンとしても這い上がれなかった要因のひとつは、彼が笑いの発作を持っていたからでもあって、結果的にはそれが逆説的にプラスに働いて人気司会者のマレーの番組に出演することになるわけですが、ここのところも社会性というよりは、彼個人の生理的な要因にかかわっています。

 地下鉄の中で3人のサラリーマンを撃ち殺すことになるのも、たまたま女をからかっていた3人と同じ車両に乗り合わせたアーサーが、笑いの発作を起こして3人に絡まれ、暴行を受けたことがきっかけで、何らそこに社会性はなく、たまたま同僚からもらった拳銃を持ち歩いていたことと、彼の生理的神経的な病が要因になっています。もちろん、母親を撃ち殺すのも全く彼個人の過去に属することが要因で、そこに彼個人の置かれた社会的バックグラウンドが浮かび上がってくることはありません。

 そんなわけで、この主人公の行動を支配しているのは彼自身の心の病(笑いの発作)や、母親との関係、その母の過去、といった徹頭徹尾個人的な要素であって、格差社会云々の要因は二義的、間接的な要因ないし背景でしかありません。

 もちろんラスト近くに彼は自分の行動を正当化するように、富裕層への怒りをぶちまけ、彼らは自分たち社会の底辺で生きる貧しい者のことなど見向きもせず、踏みつけにして生きているだけだというようなことを言い、街を燃やし叫び乱舞する群衆もまたそういう主張に共感し、富裕層を攻撃するジョーカーをヒーローに祭り上げてそのピエロ姿を模倣するわけですが、アーサー自身がそれ以前の言動においてそうした富裕層の攻撃や格差社会の批判をしていたかと言えば、そんなことはありません。また、そういう行動をとっていたわけでもありません。

 だから、意地悪く言えば、最後の彼の富裕層攻撃や社会批判らしき主張は、あとでとってつけた自分の行動の正当化に過ぎず、もとより彼の行動を正当化するものでもなければ、客観的にそうした行動とつながってもいません。

 もちろん、犯罪者の犯罪行動が、社会的現実から論理的な因果関係でつねに辿れるようなもののように思うのは俗流社会学者、心理学者等の錯覚に過ぎず、むしろ犯罪者の生きて来た現実とその犯罪行動との間にある切断こそが現在的な問題なのだろうとは思います。けれども、だからといって、その切断の一方に犯罪者の病理をつなぐのは、作品としてあまりに安易ではないか、という気がして、この映画に限らず、犯罪者が心を病んでいた、という類の話は好きにはなれないし、後味もひどく悪い思いがします。



 

saysei at 15:44│Comments(0)

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