2019年10月13日
「天使の入江」を見る
「シェルブールの雨傘」のジャック・ドゥミが一つ前に撮った監督2作目という「天使の入江」、古いVHSテープに他の映画と一緒に録画してあったのを見つけて、見ました。きっとテレビでやったのを録画したのでしょうから、ひょっとしたら一部カットされたりしているかもしれないけれど、今みても結構楽しめました。
どうしようもなくギャンブルにハマってしまう人間が実にそれらしく描かれていて、自分も一度やったらあんな風になってしまうかも、と思わせるほど感覚的に納得できる(笑)。考えてみればギャンブルに限らず、いけないことだ、つまらないことだ、やばいぞ、と分かっていながら、こんな風にどうしようもなくのめり込んでしまって、自分からその地獄へ飛び込んでいって、そこからどうしても抜け出すことができない、ということは、少なからずあると思います。
「健全な」精神の持ち主から見れば、そういうのにはまっていく人間というのは、自分が制御できない意志薄弱な弱い人間ということになるのでしょうが、視点をそんなに「健全」ではない私たち普通の人間の中にも潜んでいるようなありようの方に移して見れば、むしろそういうありようの方が、人間本来のありようというか、いかにも人間らしいありようのようにも思えます。
麻薬患者のような典型的な症例に限らず、近頃マスメディアでよく取り上げられる児童虐待やDV、学校や職場でのいじめ、万引きのような常習犯罪、昔から言われるような酒に博打に女・・・いや失礼!性犯罪なども再犯が多くて本人たちにとってはやめられないらしい。人に迷惑はかからないかもしれないけれど、スマホ中毒だとかSNS浸りなんかもその類かもしれないし、私みたいにブログに駄文を書かずにいられないのもその種の症状なのかも。
そうしてみると、この映画を見ていて、アホやなあ、80万フラン儲けたところでやめときゃいいのに、400万フランも儲けたならあとは何もせずに左団扇で暮らせばいいのに、なんて「健全な」精神で持ってアホな主人公たちを冷めた目で見ている私たちも、彼らとなんら変わりのないアホな人間なんやろなぁ、と思えてくると、途端にこの映画がどうしようもないギャンブル狂いのアホな男女を描いたものというのから一挙にわれわれ誰もがそうなんじゃないの、という普遍的なものに転化して見えてくるような気がします。
男は女に対して愛情を感じていくけれど、女の方は別段男を騙して利用するというような悪意はない、ある意味で無邪気で単純な女性だけれど、あくまでも男との関係は偶然的な出会いにすぎず、その場その場の打算で行動を共にしてきただけ、と見えて、最後の最後にはそんな自分の中に男への愛情が根付き始めていたことに気づくのを暗示するラストになっていて救いもあります。人間ってみんなこん風に生きているのかも知れないな、と。
そう思うと、決してもう若くも美しくもなく、自分をコントロールすることもできない、弱く自堕落で醜くさえある女が、何かしらまだ世間知らずの無知で無邪気な少女のように可愛らしく、男にとって彼女がそう見えていただろうように、愛おしい存在にさえ見えてくるから不思議です。
そう見えるような非常に難しい役どころを、流石にジャンヌ・モローが見事に演じています。ギャンブルにハマっていくけれど、女ほどには自分を失わず、女に対する愛情を見出していく生真面目な銀行員を演じたクロード・マンもとても良かった。
ドゥミは私の好きな「幸福」の監督アニエス・ヴァルダの旦那さんだそうで、二人ともヌーヴェルバーグの左岸派と呼ばれていたそうですが、そういうレッテルは作品を見る上ではなんの意味もないんじゃないかと思います。私が学生の頃は、文学でもヌーヴォーロマンだとかアンチロマンだとか呼ばれたフランスの新しい文芸が次々に翻訳されて、そういう作品を新しい世界の文学として持て囃す翻訳家や評論家がたくさんいました。そんな小説が小説の書き方に多少の拡がりを与えたのかも知れませんが、正直のところどれを読んでもちっとも面白くなかった(笑)。
その面白さというのはちょっと理屈っぽいもので、「浮かれ女盛衰記」や「パルムの僧院」を読んで無条件に心を揺さぶられるような面白さとはまるで異質な、頭の先っぽで感じるだけの、閉じた小さな世界での体験に過ぎなかったから、その時期を過ぎてしまえばなにも残らない。今読めばきっとなんでこんなものを一所懸命読んだりしてたんかいな、と思うでしょう。
ヌーベルバーグも似たようなものだろうと思っていたけれど、こうしてたまたま個別の作品に遭遇売ると、案外そうではない作品もあったりするので、文芸と映画は違うんかな、と思ったり、面白いものだな、と思って「再会」を楽しんでいます。
どうしようもなくギャンブルにハマってしまう人間が実にそれらしく描かれていて、自分も一度やったらあんな風になってしまうかも、と思わせるほど感覚的に納得できる(笑)。考えてみればギャンブルに限らず、いけないことだ、つまらないことだ、やばいぞ、と分かっていながら、こんな風にどうしようもなくのめり込んでしまって、自分からその地獄へ飛び込んでいって、そこからどうしても抜け出すことができない、ということは、少なからずあると思います。
「健全な」精神の持ち主から見れば、そういうのにはまっていく人間というのは、自分が制御できない意志薄弱な弱い人間ということになるのでしょうが、視点をそんなに「健全」ではない私たち普通の人間の中にも潜んでいるようなありようの方に移して見れば、むしろそういうありようの方が、人間本来のありようというか、いかにも人間らしいありようのようにも思えます。
麻薬患者のような典型的な症例に限らず、近頃マスメディアでよく取り上げられる児童虐待やDV、学校や職場でのいじめ、万引きのような常習犯罪、昔から言われるような酒に博打に女・・・いや失礼!性犯罪なども再犯が多くて本人たちにとってはやめられないらしい。人に迷惑はかからないかもしれないけれど、スマホ中毒だとかSNS浸りなんかもその類かもしれないし、私みたいにブログに駄文を書かずにいられないのもその種の症状なのかも。
そうしてみると、この映画を見ていて、アホやなあ、80万フラン儲けたところでやめときゃいいのに、400万フランも儲けたならあとは何もせずに左団扇で暮らせばいいのに、なんて「健全な」精神で持ってアホな主人公たちを冷めた目で見ている私たちも、彼らとなんら変わりのないアホな人間なんやろなぁ、と思えてくると、途端にこの映画がどうしようもないギャンブル狂いのアホな男女を描いたものというのから一挙にわれわれ誰もがそうなんじゃないの、という普遍的なものに転化して見えてくるような気がします。
男は女に対して愛情を感じていくけれど、女の方は別段男を騙して利用するというような悪意はない、ある意味で無邪気で単純な女性だけれど、あくまでも男との関係は偶然的な出会いにすぎず、その場その場の打算で行動を共にしてきただけ、と見えて、最後の最後にはそんな自分の中に男への愛情が根付き始めていたことに気づくのを暗示するラストになっていて救いもあります。人間ってみんなこん風に生きているのかも知れないな、と。
そう思うと、決してもう若くも美しくもなく、自分をコントロールすることもできない、弱く自堕落で醜くさえある女が、何かしらまだ世間知らずの無知で無邪気な少女のように可愛らしく、男にとって彼女がそう見えていただろうように、愛おしい存在にさえ見えてくるから不思議です。
そう見えるような非常に難しい役どころを、流石にジャンヌ・モローが見事に演じています。ギャンブルにハマっていくけれど、女ほどには自分を失わず、女に対する愛情を見出していく生真面目な銀行員を演じたクロード・マンもとても良かった。
ドゥミは私の好きな「幸福」の監督アニエス・ヴァルダの旦那さんだそうで、二人ともヌーヴェルバーグの左岸派と呼ばれていたそうですが、そういうレッテルは作品を見る上ではなんの意味もないんじゃないかと思います。私が学生の頃は、文学でもヌーヴォーロマンだとかアンチロマンだとか呼ばれたフランスの新しい文芸が次々に翻訳されて、そういう作品を新しい世界の文学として持て囃す翻訳家や評論家がたくさんいました。そんな小説が小説の書き方に多少の拡がりを与えたのかも知れませんが、正直のところどれを読んでもちっとも面白くなかった(笑)。
その面白さというのはちょっと理屈っぽいもので、「浮かれ女盛衰記」や「パルムの僧院」を読んで無条件に心を揺さぶられるような面白さとはまるで異質な、頭の先っぽで感じるだけの、閉じた小さな世界での体験に過ぎなかったから、その時期を過ぎてしまえばなにも残らない。今読めばきっとなんでこんなものを一所懸命読んだりしてたんかいな、と思うでしょう。
ヌーベルバーグも似たようなものだろうと思っていたけれど、こうしてたまたま個別の作品に遭遇売ると、案外そうではない作品もあったりするので、文芸と映画は違うんかな、と思ったり、面白いものだな、と思って「再会」を楽しんでいます。
saysei at 13:59│Comments(0)│