2019年08月31日

『早川幾忠獨談録 東京下町の思ひ出』を読む

 これは日本で最後の文人と言われた早川幾忠先生が、80歳を過ぎて言い残しておきたいことを、カセットテープ75巻、80時間分も語り遺された言葉のうち、約30時間に及ぶ、彼が生まれ育った東京下町の思い出話を、息子さんの聞多さんが、お父様が亡くなられて17年後の平成13年に書き起こして編纂し、非売品として関係者に配布されたもののようです。

 先般義母が亡くなり、パートナーと共に家の中を整理する中で、この本を見つけ、持ち返って読んでみるとこれが実に面白いのです。

 早川先生の著書は以前から義母に勧められて、まず小説「疎開」(1970.のち『天ざかる鄙に五年』として1977年に新潮社から出版)を読み、それ以降も、短歌論の『中院歌論』、『續中院歌論』、あるいは先生の関心が深かった国語論をまとめた『實感的國語論』なども関心に応じて拾い読み、義母のところに積み上げてある先生の展覧会の図録や集大成的な書画篆刻歌集『七十有七年』や『八十有八年』の頁も時折開いてきたのですが、今回読んだこの語りおろしが、私には一番面白かった。

 下町江戸っ子の語り口もそのまま記録されていて、途中であらたまった語り口になったり、内容的にもやたらと東京下町の非常にローカルな地域の風景や、どこそこにどんなものを食わせるどんな店があったとか、そこにどんな人間が住んでいて、その細君がどこから嫁いだどんな性格の人間で、旦那の妾がどこに囲われていて、なんてことが延々と語られるので、まぁ東京の下町なんて知らないいまの読者に一般受けしない部分も多いかもしれませんが、そこにはたぶんもうすっかり失われてしまった古きよき貧しき江戸の下町、庶民の暮らしの場が、これ以上ないくらい生き生きと肉声で活写され、またそこに息づいていた人と人との関係のありよう、人情のありようが鮮やかに浮かび上がってくる、すばらしい語りの描写があって、これがより広い読者に知られないのはとても残念な気がします。

 「早川幾忠獨談録 東京下町の思ひ出」というタイトルに「明治三十年より昭和初年まで」と語られる時代が添え書きされていて、明治30年深川に生まれた氏が文中の記述を拾えば「俺はいま八十四なんだけど」という歳になって、祖父幾右衞門とその一族が暮らした深川大島あたりのことから語り始め、生涯に27,8度も職業を変えたという「實にでたらめ」で「責任とか義務なんか考へたことはないでせう」と評される、生涯「何をしてるんだかはっきりしない生活をして貧乏を續け」た文久3年生まれの父と、その「父が何をやってどう貧乏しようが、決して不服な顔をしたことがな」く、「黙って父のやるとほりに付いていっ」た、語り手である息子の目からみても「非常に不思議に思って解釋の爲様のない」明治元年生まれの母や兄弟たちとの下町の生活の場を転々と移っていく、その日々の暮らし、出会う人々、目にする光景が生き生きと描かれていきます。 
 
 その父が手掛けた「職業」の一こまに、こんなのがあります。

 その紙屑の立場(たてば:屑屋が集めてくる屑を仕切て銭に替えてくれる問屋みたいなところ)をやってる男がネ、「實はその紙屑の爲事の中にいい爲事があるんですが、それをやつてみませんか」といふ譯なんだナ。で、どういふ爲事かツていふとネ、神田の下宿屋街、本郷の下宿屋街、そこらを歩くとネ、學生だの書生だのが褌(ふんどし)を捨てるんだナ。洗ふの面倒くせえだらう。そこで汚れると紙屑籠に抛りこんで、そのまま屑屋に出すんだナ。屑屋もそれを少し高く買つてネ、それを集めて日暮里の立場へ持つていくツてえと、その褌だけをまた高く買つてくれるわけだナ。で、それをどうすんのかツていふとネ、世の中ツてもんは實に不思議なもんでネ、それがみんな浴衣だの手拭になるんだヨ。
 手拭ツてのは昔は足袋屋の軒下に下がつてたんだ、一本十錢か十五錢でネ。それを職人たちは鉢巻にしたりなんかしたわけだナ。さういふ手拭は新しい晒しの布で作るんぢやないんだ。學生や書生が捨てた褌は六尺だらう。だからそれを半分に切るとちやうど三尺の手拭になるんだナ。・・・


 学生が使って捨てた汚れた褌を集め、カルキで晒して、川の流れに据えた大きな石にぶつけて洗い、天日で干して括って染物問屋へ納める、なんて商売の話ですが、これは私なんかは初めて聞く話で、とっても面白かった。江戸時代の生活世界は完全なリサイクル社会だった、と言われることがあるらしいけれど、その名残は明治以降も日本の下町でずっとこうして生き残っていたんでしょうね。

 父民治郎はこれをやらないかと声をかけられて、ちょうど仕事の金を使い込んで縄目にかかって出所してきていた語り手の兄にあたる亮一郎という息子に手伝わせようと考えます。

 そりやおもしれえ、汚ねえ爲事だけど、どうせあの野郎、つまり亮一郎のことだナ、あいつも臭え飯喰つてきたんだから、そのくらゐのことから始めねえと、何もできやしねえツてんでネ、兄貴にそれをやらせることにしたんだヨ。

 この思い出話を読んでいて、私が驚嘆するのは、語り手の信じられないほどの記憶力の良さと強烈な好奇心です。まぁ人並み外れて記憶力の悪い私が言っても値打ちがないようなものではあるのですが、幾忠先生の幼いころからの、周囲の人々や下町の光景、個々の店や食べ物についての記憶は、ものの値段など数字を含めて語り手の頭に刻まれているようで、微に入り細に入り信じられないほど鮮やかな言葉の映像として見えてきます。こんなふうに東京に残っていた下町の光景を、人々を、いまはすっかり失われてしまっただろう店々やそこで出していた食べ物を触感的に語れる人はもういないのではないでしょうか。

 女の丸髷を結つていくらだったか知らねえが、ガキの俺なんかの頭は三錢だったナ。バリカンで頭を刈り込むだけだつたがネ。それから錢湯が一錢。俺の家の前が風呂屋ですぐ裏が髪床だつたからナ。そして隣が古着屋だつた。古着屋なんていふと今ではをかしいだらうけど、その時分は古着を賣つててそれが役に立つたんだ。で、その古着屋と俺ン家(ち)との二階が繋がつててナ、その下が三尺ほどの路地になつてて、路地の入口には中に住んでる人の名前がずらりと書いてあつたヨ。式亭三馬の『浮世風呂』の挿繪なんかを見ると、長屋の路地の入口に先達つあんだの海苔屋のおばさんの名前を書いた看板が出てたりするけど、ああいふもんだつたナ。そこを入るとずつと廣くなつててネ、七、八軒の長屋がいく流れかあるわけだナ。俺ン家のすぐ裏が井戸でネ、そこを抜けると裏の通りへ出るんだが、裏通りにはちつぽけな材木屋だの粉屋だの精米所だの髪床なんかがあつてネ、そこのおぢさんやおばさんが子供が好きでみんなよく集まってたナ。
 それにまじつて駄菓子屋があつた。一文字菓子屋だナ。一間半くらゐの間口の普通の家でネ、表が開けてあつて出格子を取つぱらつた所に菓子の箱を竝べてた。大抵ばあさんがやつてんだヨ。その時分の駄菓子ツてえと捻りん棒だとか花林糖だとか金花糖といつたものでネ、それに一錢のアテ物なんかもあつたナ。それはボール紙の上に紙縒(こより)でできた小さなクジが糊で貼つてあつてネ、それをはがすと一等からハヅレまで書いてあるんだ。ハヅレといつたつて何かちよつとしたもんをくれるんだけど、そのアテ物をみんなめくりに行つたもんだヨ。それから貝獨樂(べえごま)なんかも賣つてて、正月が近付くと奴凧なんかも賣つてたもんだ。そしてかたがた心太(ところてん)だの蜜パンなど、さういふものも賣つてた。
 で、さういふ所で蜜豆を賣つてたんだナ。飯碗ぐらゐのガラスの入れ物に作つてくれるんだが、蜜豆ツてえのは茹でた豌豆豆(えんどうまめ)に蜜をかけたつて美味くなんかねえヨナ。それがネ、あの賽(さい)の目に切つた寒天を混ぜて蜜をかけたら乙なもんになるんだナ。
・・・・


 子供だから駄菓子などへの関心は高いけれど、駄菓子だけではなく、食べ物一般についてはこの語りの中でも非常に詳しく鮮明な記憶と自分の舌で味わったものについての評価を述べていて、彼の関心、執着の高さを示しているようです。そういう場面での語り手の幼いころからの好奇心の強さは際立っているように思えます。自分を取り巻く下町世界への好奇心の強さが、その子細な観察眼を支え、この記憶の語りを生んでいることが納得できるようです。

 語り手が十六、七のころ、文芸仲間と遊んだ千住、荒川あたりのことを思い出しながら、芭蕉のことを連想して語る部分もとても面白い。

 芭蕉が「奥の細道」の旅に出發する時、千住で見送りのみんなと別れるよナ。その際に「行く春や鳥啼き魚の目は泪」ツて句を作るが、あれはどうやら俺たちが遊んだ荒川土手の掛茶屋のやうな所で作つたんぢゃないのかナ。俺たちは夜中だが、芭蕉は朝早く深川を出て舟に乗つて大川から隅田川を上つてネ、千住に着いて土手に上がつて、そこでみんなと別れを告げて日光へ旅立つて行つたに違ひないんだ。當時そんなことをみんなで言ひ合つたもんだ。
 すつと後になつて、俺はその時の「魚の目は泪」は白魚の目だと思ふやうになつたんだ。隅田川の白魚ツてのはネ、向島の小梅に住んだ水戸光圀公が白魚が大好きでネ、故郷の三河から白魚の種をとり寄せて、隅田川に移植したとどこかに書いてあつたナ。だから元禄の頃には隅田川の名産になつてたんぢゃないかナ。芭蕉の句に「白魚にあたひあるこそうらみなれ」ツてのがあるからナ。あれなんかは深川の芭蕉庵での經験から詠んだ句だと思ふんだ。芭蕉が「奥の細道」に旅立つ季節は春も彌生だからちやうど白魚の旬だからネ、白魚を肴に一杯やつてみんなと別れたんだと思ふんだ。白魚ツて魚は全躰が半透明で、目だけが見事に黒いからナ。「行く春や鳥啼き魚の目は泪」ツて聞くと、俺は白魚の目を思ひだすんだ。・・・


 早川先生が、いまではミシェランの三ツ星か何かで世界に知れ渡ってしまった嵯峨は鰻の廣川の創業にアドバイスしたというような話は義母から聴いていましたし、彼が、自分は鰻屋の息子だから、とおっしゃっていたことや、鰻が大好きで廣川にもよくいらしたことは知っていましたが、この語りの中でも鰻はどこでとれたのが美味いとか、鰻屋へ入ったら刺身なんぞ注文しちゃいけないとか、鰻の肝は本体の鰻が食べられないやつが、食べるもんだとか、いろんなところで顔を出し、その蘊蓄に啓蒙されます。
 僕がもの心ついた頃は、家は深川の永代橋の角で鰻屋をやつてゐた。僕が明治三十年生まれだから三十二年頃だナ。店の名前は金田ツていつてネ、江戸時代からの鰻屋で名前はいいらしいヨ。それを御袋が兩國の倉田ツていふ料理屋のおかみさんからもらつたんだ。・・・・家にゐた職人は綱平ツていつて、あばたツ面で四十くらゐだつたけれど、お袋が言ふには、それが毎日「めそつこ」ツていふ鰻の小さなのを割いてネ、ちやんとタレを付けて蒲焼にしてネ、赤ん坊の俺に喰はしてたさうだ。だからお前は鰻を食べて育ったんだよツて言つてたナ。

 こういうところを読むと早川先生と鰻の切っても切れない関係(笑)がよくわかりますね。

 食べ物やそれを売る店などへの関心と同時に、人に対する関心も子供としては驚嘆するほかないほど高いと思います。どこそこのこういう女性はだれそれのお妾さんで、とか(笑)、誰の亭主とどこやらの女性とがいい仲になってしまって、どこそこへ逃げ込んで住まわせてもらっていたとか(笑)、まあそういう話は大人の世界でもすぐ伝わるし、こどもも傍で否応なく聞こえてきて心得るようになるのでしょうが、次々に生まれてくる子が、どこそこへもわられていったとか、どこそこから戻って来たとか、そういう形の人の行き来というのは、現代とはまるで違った、当時の下町の世界に住む人々の間では、ごくありふれた人のやりとり、居場所の交換みたいな往来が、表の世界とは違ったネットワークを形成していたんだろうな、と感じさせるようなところがあります。

 この物語の語り手は若い女性の素敵な姿もきっちりとらえて記憶しています。

 そしてお諏訪さまの前から一本道を先にゆくとネ、また一軒の掛茶屋があったヨ。その掛茶屋では時に人が休んでゐてネ、甘酒をすすつたり心太(ところてん)をすすつたりしてゐた。道灌山の上の一本道は一應上野から王子の方へ行く街道だつたんだらうナ。それであんな道端に掛茶屋があつたんだらう。春時分にその掛茶屋の前を通りかかつたら、女の子が茶を出したり甘酒を出したりしてんのが見えたが、その女の子ツていふのがネ、これが切紙細工のやうな江戸前の女の子なんで驚いたヨ。桃割に結つてネ、黒襟のかかつた黄八丈の着物に赤い帯赤い前垂を型のごとく着てんだナ。それが甘酒を汲んで出したりしてんのを見てるとネ、まつたく切紙細工の女の子ぢゃねえかと思ふやうにキチツとしててネ、そこの風景にぴつたり嵌つてるやうだつたナ。

 エピソードとしては、貧しさゆえ交通費もなく、徒歩で北国から東京まで出てきて、お金もたべものも尽きて、行き倒れのように寒い冬の夜を、まだ子供だった語り手の彼の家の軒下を借りて一夜を過ごした親子に語り手の母親が握り飯を食べさせたり、持たせたりしてやる話や、自分たちが住んでいたところに近い後方の丘の上に住んでいた15-6人の乞食たちが、こちらの人間は偏見もあって、貸家全体のための裏の井戸で、飲み水だけでなくこっそり洗濯などもしてるんじゃないか、と思って夜になって見ていると、彼らはきちんと汚れものは川で洗い、飲み水だけ井戸水を薬罐に汲んで帰った、朝になればこちらの人間にも挨拶の声をかけて仕事にいく、「乞食ツてえと今ぢや社會人として失格みたいに思ふだらうがネ、だいたい乞食をする人間てものは、あんまり悪い人間はゐねえんだ。」と。どちらもいい話でした。

 お兄さんが銭湯へいく途中で、汽車に飛び込んで、足も飛んで失せたのにまだ生きていて、医者を呼んでくれ、と言ったという話で、やっぱり借金だろうな、と言い、また家から二軒ばかり東寄りの貸家で首くくりがあった、ということを語ったあとに続く言葉・・・

 そんな事があるとネ、今なら政治がどうの行政がどうしなきゃいけねえとか、すぐ言ふだらう。でもナ、そんなことと生きるツてことは何の関係もなかつたナ。お互ひかうやつて世の中に生まれついてネ、そして生きていくことは自分たちのやることだつたんだ。今なら自己責任とか扶養義務とかいふよナ。昔はそんなこともいやしないヨ。自分たちが生きていくことは自分たちがやるんだナ。米が買へなかつたら食はないこともあるだらうし、またお粥にして食ふこともあるだらう。それでもネ、自分たちは自分たちでやつていくツてことなんだナ。さういふことは別に教はつたこ譯でも何でもねえんだ。全部自然なんだナ。ガキの時から自然にさういふ風に思つてたんぢゃねえのかナ。今の世の中は随分樂になつたよナ。もし何かさういふ社會に缺けたことが出てくるとすぐにネ、どこか相談所へ行つたり役所へ救済を求めに行つたりするよナ。でも昔はナ、さういふ世の中を整へるツていふことと人間が生きてゆくツてこととは、なんか知らないけど直接關係するもんぢゃなかつたナ。それで政治に缺陷があるとか政治の傾向がどうだとか、さういふおとは考へてもみなかつたヨ。
 こんなこと言ふとネ、今の人間はその時分はみんな無知で無學でヨ、社會のことも政治のことも何も知らなかったからツて考へたり言つたりするだらう。そんなことは大嘘だヨ。俺は特に生意氣でませてたが、今の若いのに比べりや、その時分の人間は皆ませてたんぢゃねえのかナ。その頃俺は數えの十七、今なら十六歳だヨ。そんな俺がすでにいろんなことを知ってたヨ。


 彼が物語ってきた、当時の東京下町のさまざまな生き方、けれども均並みに貧しい、それらの人々の暮らし、日々の生きようをつぶさにたどった末に、こんな言葉に出遭うと、私たちのこの「樂」で昔とは比べられないほど豊かな生活というのは何だったのだろう、どこで私たちはまっとうな人間としての「自然な」生き方、ものの考え方というのを失ってきたのだろう、と思わずにはいられないところがあります。

 早川先生はまだごく若い二十歳にもならない頃に、浅草の曾我廼家五九郎の座付作者をつとめていたことがあったようです。

 俺が浅草の曾我廼家五九郎の座付作者だつたのはネ、大正四年の一月からその年の九月に一座が解散するまでなんだ。五九郎一座に入る前は本所の埋堀町に住んで精工舎の職工になつてたんだが、職工してても爲様がないから喜劇を二つ書いてネ、四十枚くらゐのを二つ五九郎の所に送つたんだ。そしたらすぐ來てくれツてんで、數への十八の七月に五九郎の所に行つたんだ。そしたら五九郎がびつくりしてネ、「早川くんツて君かい。まだ子供ぢゃないのか」ツて笑つてネ、「たいへんうまいんで、すぐ來てもらつたんだけど、そんな子供で作者になるのか」ツて訊くんで、なりたいツて言つたら「ぢゃおいで」ツてことになつたんだナ。・・・

 上の学校へも貧しさゆえに進めず、絵も肖像画家(実はただの肖像画家ではなく油絵も描くアーチストだったようですが)の所で勉強し、琵琶も偶然に聴いたすばらしい演奏に惚れて修行する、父親が聴講した大学の講義録を全部自分で読んでしまう・・・そんなふうに早川先生は多様な芸術や学問を若いころから独学で身につけていかれたのですね。私が最初に拝読した「疎開」は小林秀雄が激賞して文芸誌に掲載されたとたしか義母から聞いたことがあります。

 「疎開」を読んで面白かったのは、その小説の素材とした疎開の時期は、この本の巻末年表によれば先生が既に50歳にさしかかったころですが、考え方が非常に合理的で、きっとこんな戦争は早く終わればいいと思っておられて、敗戦でやれやれ、とホッとされ、やってきた進駐軍はそれこそ解放軍のように感じられただろう、というような感触でした。

 そういう感触は、ご高齢になられてから、直接お目にかかった早川先生からも少しも変わらず感じ取れました。80歳を超えてもチャキチャキの江戸下町っ子という印象でした。

 30時間にわたって自らの過去を語って来た語り手が最後に語る「親父とお袋のこと」には、「下町の不思議な夫婦」というサブタイトルが添えてあります。語り手は自分の両親を「不思議な夫婦」とあえて第三者の目で見るような、一見とぼけているかのようにもみえる表現で語っているのですが、このさりげなさは、ここでおそらく両親への限りなく哀切な想いに涙なしには二人のことを語りえなかった語りてのshynessの表現、照れ隠しのように私には思えました。この長い物語の掉尾を飾る両親への素晴らしい手向けだし、そこまで彼の語りに耳を傾けてきた私(たち)読者も涙なしには読めないラストでした。



 

saysei at 19:22│Comments(2)

この記事へのコメント

3. Posted by saysei-kyoto   2020年05月06日 10:40
コメントありがとうございます。

早速「早川幾忠のアトリエ」にアクセスし、「獨談録」の絵画についての幾忠先生のお話を試聴し、ちゃんと聞けましたので、次に他のテーマでのお話にうつったところ、その後半部の方を試聴しようとすると、いま小生のパソコンにあるアプリでは再生できません、と表示されました。

 そこで、「その他のアプリを使用」などクリックしていくと、なんだか不要の余計なアプリまでインストールしなきゃいけないページに誘導されるので、中断しました。

 その後、元のサイトに戻ってほかのページを開こうとしたところ、元のインデックスページ自体が開けず、Hello world! という、ウェブサイト作成サイトらしいページが表示されます。

 念の為、グーグル検索の「早川幾忠のアトリエ」サイトのキャッシュを呼び出して見たら、最初に開いたインデックスページが出てきましたので、最初はうまくいっていたことが確認できました。

 たぶんサイトを開かれたばかりで調整中なのではないかと思います。これだけ多岐にわたる音声データも含めた情報をアップロードされるのは大変だろうと思いますが、頑張ってください。あらためて拝見させていただきたく、期待しております。

[追記]
 ご教示いただいたサイト、昨日拝見したところちゃんと拝見できました。現在も正常にアクセスできるようになっていることを確認しました。失礼しました。(2020年5月8日)
1. Posted by (読者)   2020年05月06日 09:24
初めまして、幾忠の息子の早川聞多と申します。『東京下町の思ひ出』にご興味をお持ちとのこと、先月22日(亡父の命日)に「早川幾忠のアトリエ」といふサイトをアツプしました。その内に「獨談録」として、『東京下町の思ひ出』の基になつた録音データを収録してあります。ご興味あれば開いて聞いてみてください。
 なほ初めて自作したサイトですので、バグがあればお教へいただければ幸ひです。

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