2019年08月15日
今村夏子著「むらさきのスカートの女」を読む
文藝春秋9月号に芥川賞受賞作、今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」が全文掲載されていたので、久しぶりに芥川賞を受賞した小説を読みました。
語り手である「黄色いカーディガンの女」(以下<黄色>と略)が、ストーカーのようにその後を追っかけて注視しつづける「むらさきのスカートの女」(以下<紫>」と略)が、親しい人もなく、職もなさそうな、髪はぼうぼう、爪は真っ黒でおよそ職探しをしても無駄と思われる不潔ななりで、いつも公園の決まった「専用の」ベンチにぼんやりと座っていて近所の子供たちにからかわれるような存在から、ホテルの清掃係に雇われて案外に素早い適応力を示してみるみる変貌していき、同僚や上司から高い評価を受けるにいたるものの、やがて職場での盗みの疑惑や上司との不倫をきっかけに坂道を転げ落ちるように、周囲の嫌悪や憎悪の的となっていったまさにその時、不倫相手の上司ともめる最中に階上から相手を突き落としてしまい、上司が死んだと思いパニックのむらさきに、それまでひたすら語り手であり、<紫>を追うストーカー≒観察者であった<黄色>がいわば舞台のアクティングエリアに登場して<紫>に手をさしのべて周到に準備した手順によって彼女を逃がす、という予想外の展開なります。
ところが<紫>を逃がして、彼女と落ち合うはずの場所に<黄色>が行って見ると、<紫>の姿はどこにもなく、その後<紫>の行方は杳として知れず、いつの間にか<黄色><紫>にとってかわって、物語のはじまりのころ描かれた<紫>のような風貌となって、かつて<紫>「専用の」ベンチに座り、子供たちが<紫>をからかっていたように突然うしろから彼女の肩を叩いて驚かせるのです。
非常にうまい、よく巧まれた作品ですが、この作品に登場する「二人の」女性が現実の人間であるなら、ともに私にはまったく興味の持てない女性で、できれば彼女たちのご近所の主婦たちと同様に、そばを通っても知らん顔して通り過ぎたい存在です。この作品で描かれた世界、彼女たちの日常の姿や仕事場で働いたり同僚とどんなやりとりがある、といった物語にも、ほとんど何の興味も持てません。
それはいまならどこにでもいそうな、世の中からおちこぼれ(かかっ)た存在で、このごろ新聞でよくとりあげられているような、就職氷河期に高校や大学を就職できないまま卒業して、臨時雇いやフリーター的な仕事でかつかつその日暮らしをしているような30代半ばから40代にわたる世代に多いと言われるような人たち。
将来を思い描くこともできず、生きる目標も持てず、恋人はおろか親しい友ひとり持つこともできず、嵩じればひきこもりともなり、身なり体裁をかまう気持ちも失せて、仕事もしたりしなかったり。半ばホームレスのように公園などでぼんやりと過ごし、近所から不審な目で見られ、避けられ、蔑まれる、子供たちにもからかわれるような存在です。
従って、たまたま就いた仕事もありふれた3K仕事(ホテルの清掃係)で、その職場の人間関係もごくありふれたおきまりの経緯をたどるような物語にすぎません。
にもかかわらず、こんな物語をぐいぐい読ませて最後までひっぱっていく筆力というのは、たしかに並々ならぬこの作家の力量かもしれません。
もとより徹底した「見る人」であり「語り手」である<黄色>のありようは、いかに<紫>と友達になりたい、というモチベーションが挙げられてはいても、リアリズムから言えば、ちょっとありえないでしょ、というような不自然なところはあります。
けれども、ここではそういう糞リアリズム的な観点での矛盾をとやかく言っても意味はない、と思わせるだけの物語の仕掛けとして、そういう「見る人」と「見られる人」、「語り手」と「語られる人」との関係が動かしがたいフレームとしてセッティングされているので、ただそのことから見えてくるもの、この「見る人」が何を見、「語り手」が何をどう語るかを読者である私たちはひたすら追っかけていくはめになります。
物語の中に没入せずに、なんでこの<黄色>はこんなにストーカーみたいに熱心に<紫>を追っかけ、かくも一部始終を見たり聞いたり語ったりするのか、と突き放して考えれば、彼女と「友達になりたい」と思って、つねにそのきっかけを見出そうとしながら、なかなかその機会にめぐまれない<黄色>という物語上の設定と合わせて、この<黄色>もまた彼女が見、彼女が語る<紫>と同様に、人付き合いが不器用で友達もない孤独な人間であって、それゆえに自分と同じあるいはそれ以上に孤独な存愛にみえた<紫>に激しく惹かれ、離れることができなくなっているんだな、というふうに得心することはできます。
しかし、そこのところは、簡単にこの<黄色>の孤独な心情にも、また彼女に見られ、語られる<紫>の孤独にも、私たち読者が情緒的に共感し、孤独な魂に、芥川賞選者のひとりである堀江敏幸が言うような「いとおしさ」を感じて寄り添うことができるようなエモーショナルな語り口にはなっていません。
物語はあくまでもその或る意味で病んだ<黄色>のいびつな目で、しかし彼女としては客観的な観察者であり客観描写の文体を持つ小説の語り手であるかのように「見」、「語る」彼女の言葉から成り、見る彼女、語る彼女の孤独な姿がエモーショナルにこちらの魂をゆさぶるようには語られていません。
また、彼女に見られ、語られる<黄色>の姿もまた、ある種の嫌悪感を誘ったり、笑いをさそったりする面があるとしても、決してその孤独な魂に触れるような感触を与えてくれるような視線で見られるわけでもそのような語り口で語られるわけでもありません。
それはすべてこの物語りの仕掛として設けられた「二人」の「見る者」と「見られる者」、「語る者」と「語られる者」という役割の中に還元されて、そこから立ち上るはずのエモーショナルな要素はむしろ最初から排除されています。
したがって、そのまま行けば、この物語はまるでドラマチックなところのない、平凡陳腐などこにでもいそうな限りなく卑小な登場人物の限りなく卑小な、ありふれた日常を追うだけの物語に終始したことでしょう。
<紫>が職場で最初はひきこもりみたいに人間関係をつくっていくことのできない、社会的不適応者のようにみなされ、何の期待もされず、周囲から忌避されるような存在であったのが、次第にもちまえの意外な適応力で周囲の認識をあらためさせ、逆に高く評価され、愛されるまでの存在になっていってピークを迎えるものの、そのあたりから今度は周囲の嫉妬や彼女自身の勝ち得た自信からくる行動が周囲の考える行動規範をはみ出ることで疑惑や不審の念を狩り立て、また上司との不倫も発覚して憎悪の対象にまでなって、いわば失墜していくプロセスも、そこで起きるすべてのできごとは、みな平凡陳腐なこの世の中でありふれたパターンどおりといっていいようなことばかり。そこには戯画的な誇張による通俗的な面白さはあっても、どんな新鮮さもありません。
ただ、<黄色>という<紫>を見、語る語り手との関係に着目してみていれば、<紫>をめぐる陳腐な一連の出来事もまた、もともと孤独な自分の魂と同一視することで<紫>に一体化していた<黄色>にとっては、<紫>の職場での意外な成功は、彼女が自分から遠い存在へと離れていってしまうようなプロセスであったはずだし、またピークを過ぎて坂道を転げ落ちるように彼女が転落していくプロセスは、逆に<紫>が自分のもとに帰ってくるプロセスであり、ひそかな喜びであったはずで、そういう目に見えないプロセスに注目すれば、平凡だの戯画的な語りだのと済ませることはできないでしょう。
しかし、そうした<黄色>の気持ちとか、<紫>の内面などというものは、この物語りの仕掛けの中では一切排除されて語られることはありません。だから<黄色>の言葉で語られる<紫>の遭遇する一連の出来事が平凡陳腐で戯画的なものに見えるのですが、それを見、語る<黄色>と、見られ、語られる<紫>との関係性を軸に物語を見るなら、そこには排除されたものが、目には見えないけれど依然として二人のあいだに持続している緊張感は、その淡々とした<黄色>の語り口のうちに潜在していると言わなくてはならないでしょう。
それが、とうとう一挙に顕在化するのは、<黄色>が不倫相手の所長を突き飛ばして階上から落とし、所長が死んだ(と思われた)ときに、突如としてそれまでは「見る者」「語る者」にすぎなかった<黄色>が、<紫>のなまみの同僚たる「権藤さん」として現われ、周到に準備された逃走経路を示して<紫>をせかして逃がしてやる、という驚くべき転換点にさしかかった瞬間です。
この瞬間に最初に物語に設定された「二人」の登場人物の、「見る者」と「見られる者」、「語る者」と「語られる者」との二項対立的なフレームを物語自体が壊し、<黄色>は「見る人」、「語る人」から逸脱して、行動者としてアクティングエリアに登場してきます。
<紫>の日常に生起する陳腐な一連のできごとから成る<黄色>の語る物語は、ここで語り手が舞台に登場することで、まるで舞台裏を表舞台へと反転して見せるドタバタ喜劇のように、急転直下、唐突にして奇想天外な展開を見せます。
自分が首尾よく逃がしてやった<紫>と落ち合うべく、贈れて待ち合わせ場所へ着いた<黄色>でしたが、そこに先に着いているはずの<紫>の姿はなく、ついに<紫>は杳として行方知れずになってしまいます。つまりこの物語から<紫>の姿は消えてしまうのです。
従って、<紫>の観察者であり語り手にとどまっていた<黄色>、新たに舞台のアクティングエリアに登場した<黄色>が、、自分が語るべき<紫>を見失って、今度は自分自身を「見られる人」として見、「語られる人」として語るほかはなく、依然として語り手をも兼ねながら、同時に「見られる人」、「語られる人」として、かつての<紫>の位置におさまることになります。
こうして<黄色>は<紫>に置き換わり、<紫>の「専用の」ベンチだった公園のベンチに腰掛け、<紫>がそうだったように近所の人々から不審がられるような姿となってぼんやりと時を過ごし、近所の子供たちにちょうど<紫>がそうされたように不意に肩を叩かれ、からかわれるのです。
ここまでくると、この「入れ替わり」によって、もともと冷めた「見るひと」「語り手」であるかのように見えた<黄色>の見る目がいかに歪み、その語りがいかにいびつなものであったかが思いやられもし、その歪んだ姿をさらして<紫>と入れ替わった<黄色>こそがこの作品の真の主役で、その目をひずませ、その語りをいびつなものにしていた彼女の孤独な姿が、彼女の見、語る<紫>の姿に投影されていただけではなかったか、ということに気づかされもします。
そうすると、ここで実体的に「入れ替わる」ことで示されるように、<黄色>と<紫>はもともと一体の同一人物ではないか、という選者たちの一部の推測のように、「黄色のカーディガン」は上半身を、「むらさきのスカート」は下半身を示唆しているので、ふたつあわせて一人の女性ということになる、と辻褄が合うことになります。
まぁ、こういう凝った仕掛けがほどこされた、なかなか手の込んだ作品で、クライマックスからいきなりドタバタ喜劇調に急転するあたりなど、ふつうなら芥川賞系の作品で、それはないだろう、と思うようなありえない展開で、典型的なエンターテインメント系の作品のような味わいになっています。
芥川賞系の作品にありがちなウエットな、対人関係の不得手な不器用で社会的不適応な女性の内面に寄り添い、共感や同情を誘うようなエモーショナルな要素は、その語りの仕掛けによって周到に排除し、「見るひと」「語るひと」の役割を与えられた<黄色>によって、ひたすら客観的に「見る」こと、「語る」ことで、なんでもないありふれた<紫>の日常性を描いて見せるようでいて、実はそれを見、語る<黄色>のありようを、<紫>とのそうした一方的な、実は歪んだ、いびつな関係性を潜在的にずっと持続しながら、ラスト近くで一気に顕在化させて<紫>と<黄色>を入れ替え、同時に両者を一体化を示唆するようなラストへもっていく、そのことで最終的にこの<黄色>の、あるいはそう言ってよければ<黄色>≒<紫>であるような「二人」の社会的不適応な女性の孤独な姿が私たち読者の手に残される、というふうな手の込んだ仕掛けがこの作品を成り立たせているようです。
<紫>が遭遇する一覧の周囲の人々の彼女に対する態度や職場の従業員や上役の態度、彼女の変貌ぶりなど、すべて非常に誇張され、パターン化され、戯画化されていて、ありきたりなものに過ぎないのですが、それはこの物語に最初からしつらえられた「仕掛け」のうちなので許容され、その仕掛けとして効果をもつと言えるものであって、語りの言葉がひとつひとつ炊き立てのご飯の粒が一粒一粒立って輝いているようなタイプの作品とは様相が異なって、むしろエンターテインメント系の小説のほうに近い文体になっています。
その易しい語りの文体は、<黄色>の語りとして、一見客観的に見、客観的に語るかのような文体だからこそであって、実はその目自体が歪み、その語り自体がいびつなものであるところに、エンターテインメント小説とは違った作者の企みがあるということになるでしょう。
従って、私たち読者はこの文体をたどる過程で、ひとつひとつの言葉の響きによって私たちが世界に向き合う感性を洗われ、あらたな世界が開かれて行くのを感じたりするといった経験をするわけではなくて、いわばタネもシカケもある世界で、そのシカケに乗ってシカケを楽しみ、最後にタネあかしをされて、あぁそういうことか!と腑に落ちはするけれど、そこで何かそれまでの自分の認識がひっくり返されたり、新鮮な認識を加えられたといった感覚とも異なり、いわばよくシカケの仕組まれた、そしてちょっぴり主人公(たち)の孤独が身につまされるような、ワサビもきき、同時に喜劇性をも備えた、よくできたエンターテインメント系推理小説を読みおえたような気分になった、というのが正直なところでしょうか。
ただし、推理小説のように、これが落ちだ、というネタが明かされるわけではなくて、たとえば私が先に書いたように、<紫>が<黄色>の内面の投影にすぎないのではないか、という疑問や、<紫>と置き換わった<黄色>は、実は同一人物だったのか、という疑問に対する作者の「タネアカシ」があるわけではありません。それはむしろこの作品にとってはどうでもよいことで、この語りの仕掛けによって、一人だか二人の、だか分からないけれども、社会的に不適応な資質ゆえに深い孤独のうちにある女性がここに確かに存在する、ということが読者にまざまざと感じられるなら、おそらくこの作品を読んだことになるのではないか、という気がします。
<黄色>の語りの言葉ひとつひとつによって、何ら私たちの感性に変化が起きるわけではないという意味のことを書いたけれど、この作品を読んだあとで、たとえば公園のベンチに所在なげに一人で腰かけている、髪の毛がぼうぼうで爪も黒ずんだ見るからに不潔で友達もいそうにない、仕事をしているのかどうかもわからないような女性をみかけたとしたら、私はこれまでのように、傍を通ってもできるだけ見ないように、わずかでも心を動かされるようなことのないように細心の注意を払って知らん顔で通り過ぎる、というわけにはいかず、きっとチラッとその姿をみるだけで、この物語りの<紫>あるいは<黄色>を思い浮かべ、その向こうに私などの手の届きようのない深い孤独がうずくまっていることを、その気配を感じざるを得ないのだろうな、という気がします。
語り手である「黄色いカーディガンの女」(以下<黄色>と略)が、ストーカーのようにその後を追っかけて注視しつづける「むらさきのスカートの女」(以下<紫>」と略)が、親しい人もなく、職もなさそうな、髪はぼうぼう、爪は真っ黒でおよそ職探しをしても無駄と思われる不潔ななりで、いつも公園の決まった「専用の」ベンチにぼんやりと座っていて近所の子供たちにからかわれるような存在から、ホテルの清掃係に雇われて案外に素早い適応力を示してみるみる変貌していき、同僚や上司から高い評価を受けるにいたるものの、やがて職場での盗みの疑惑や上司との不倫をきっかけに坂道を転げ落ちるように、周囲の嫌悪や憎悪の的となっていったまさにその時、不倫相手の上司ともめる最中に階上から相手を突き落としてしまい、上司が死んだと思いパニックのむらさきに、それまでひたすら語り手であり、<紫>を追うストーカー≒観察者であった<黄色>がいわば舞台のアクティングエリアに登場して<紫>に手をさしのべて周到に準備した手順によって彼女を逃がす、という予想外の展開なります。
ところが<紫>を逃がして、彼女と落ち合うはずの場所に<黄色>が行って見ると、<紫>の姿はどこにもなく、その後<紫>の行方は杳として知れず、いつの間にか<黄色><紫>にとってかわって、物語のはじまりのころ描かれた<紫>のような風貌となって、かつて<紫>「専用の」ベンチに座り、子供たちが<紫>をからかっていたように突然うしろから彼女の肩を叩いて驚かせるのです。
非常にうまい、よく巧まれた作品ですが、この作品に登場する「二人の」女性が現実の人間であるなら、ともに私にはまったく興味の持てない女性で、できれば彼女たちのご近所の主婦たちと同様に、そばを通っても知らん顔して通り過ぎたい存在です。この作品で描かれた世界、彼女たちの日常の姿や仕事場で働いたり同僚とどんなやりとりがある、といった物語にも、ほとんど何の興味も持てません。
それはいまならどこにでもいそうな、世の中からおちこぼれ(かかっ)た存在で、このごろ新聞でよくとりあげられているような、就職氷河期に高校や大学を就職できないまま卒業して、臨時雇いやフリーター的な仕事でかつかつその日暮らしをしているような30代半ばから40代にわたる世代に多いと言われるような人たち。
将来を思い描くこともできず、生きる目標も持てず、恋人はおろか親しい友ひとり持つこともできず、嵩じればひきこもりともなり、身なり体裁をかまう気持ちも失せて、仕事もしたりしなかったり。半ばホームレスのように公園などでぼんやりと過ごし、近所から不審な目で見られ、避けられ、蔑まれる、子供たちにもからかわれるような存在です。
従って、たまたま就いた仕事もありふれた3K仕事(ホテルの清掃係)で、その職場の人間関係もごくありふれたおきまりの経緯をたどるような物語にすぎません。
にもかかわらず、こんな物語をぐいぐい読ませて最後までひっぱっていく筆力というのは、たしかに並々ならぬこの作家の力量かもしれません。
もとより徹底した「見る人」であり「語り手」である<黄色>のありようは、いかに<紫>と友達になりたい、というモチベーションが挙げられてはいても、リアリズムから言えば、ちょっとありえないでしょ、というような不自然なところはあります。
けれども、ここではそういう糞リアリズム的な観点での矛盾をとやかく言っても意味はない、と思わせるだけの物語の仕掛けとして、そういう「見る人」と「見られる人」、「語り手」と「語られる人」との関係が動かしがたいフレームとしてセッティングされているので、ただそのことから見えてくるもの、この「見る人」が何を見、「語り手」が何をどう語るかを読者である私たちはひたすら追っかけていくはめになります。
物語の中に没入せずに、なんでこの<黄色>はこんなにストーカーみたいに熱心に<紫>を追っかけ、かくも一部始終を見たり聞いたり語ったりするのか、と突き放して考えれば、彼女と「友達になりたい」と思って、つねにそのきっかけを見出そうとしながら、なかなかその機会にめぐまれない<黄色>という物語上の設定と合わせて、この<黄色>もまた彼女が見、彼女が語る<紫>と同様に、人付き合いが不器用で友達もない孤独な人間であって、それゆえに自分と同じあるいはそれ以上に孤独な存愛にみえた<紫>に激しく惹かれ、離れることができなくなっているんだな、というふうに得心することはできます。
しかし、そこのところは、簡単にこの<黄色>の孤独な心情にも、また彼女に見られ、語られる<紫>の孤独にも、私たち読者が情緒的に共感し、孤独な魂に、芥川賞選者のひとりである堀江敏幸が言うような「いとおしさ」を感じて寄り添うことができるようなエモーショナルな語り口にはなっていません。
物語はあくまでもその或る意味で病んだ<黄色>のいびつな目で、しかし彼女としては客観的な観察者であり客観描写の文体を持つ小説の語り手であるかのように「見」、「語る」彼女の言葉から成り、見る彼女、語る彼女の孤独な姿がエモーショナルにこちらの魂をゆさぶるようには語られていません。
また、彼女に見られ、語られる<黄色>の姿もまた、ある種の嫌悪感を誘ったり、笑いをさそったりする面があるとしても、決してその孤独な魂に触れるような感触を与えてくれるような視線で見られるわけでもそのような語り口で語られるわけでもありません。
それはすべてこの物語りの仕掛として設けられた「二人」の「見る者」と「見られる者」、「語る者」と「語られる者」という役割の中に還元されて、そこから立ち上るはずのエモーショナルな要素はむしろ最初から排除されています。
したがって、そのまま行けば、この物語はまるでドラマチックなところのない、平凡陳腐などこにでもいそうな限りなく卑小な登場人物の限りなく卑小な、ありふれた日常を追うだけの物語に終始したことでしょう。
<紫>が職場で最初はひきこもりみたいに人間関係をつくっていくことのできない、社会的不適応者のようにみなされ、何の期待もされず、周囲から忌避されるような存在であったのが、次第にもちまえの意外な適応力で周囲の認識をあらためさせ、逆に高く評価され、愛されるまでの存在になっていってピークを迎えるものの、そのあたりから今度は周囲の嫉妬や彼女自身の勝ち得た自信からくる行動が周囲の考える行動規範をはみ出ることで疑惑や不審の念を狩り立て、また上司との不倫も発覚して憎悪の対象にまでなって、いわば失墜していくプロセスも、そこで起きるすべてのできごとは、みな平凡陳腐なこの世の中でありふれたパターンどおりといっていいようなことばかり。そこには戯画的な誇張による通俗的な面白さはあっても、どんな新鮮さもありません。
ただ、<黄色>という<紫>を見、語る語り手との関係に着目してみていれば、<紫>をめぐる陳腐な一連の出来事もまた、もともと孤独な自分の魂と同一視することで<紫>に一体化していた<黄色>にとっては、<紫>の職場での意外な成功は、彼女が自分から遠い存在へと離れていってしまうようなプロセスであったはずだし、またピークを過ぎて坂道を転げ落ちるように彼女が転落していくプロセスは、逆に<紫>が自分のもとに帰ってくるプロセスであり、ひそかな喜びであったはずで、そういう目に見えないプロセスに注目すれば、平凡だの戯画的な語りだのと済ませることはできないでしょう。
しかし、そうした<黄色>の気持ちとか、<紫>の内面などというものは、この物語りの仕掛けの中では一切排除されて語られることはありません。だから<黄色>の言葉で語られる<紫>の遭遇する一連の出来事が平凡陳腐で戯画的なものに見えるのですが、それを見、語る<黄色>と、見られ、語られる<紫>との関係性を軸に物語を見るなら、そこには排除されたものが、目には見えないけれど依然として二人のあいだに持続している緊張感は、その淡々とした<黄色>の語り口のうちに潜在していると言わなくてはならないでしょう。
それが、とうとう一挙に顕在化するのは、<黄色>が不倫相手の所長を突き飛ばして階上から落とし、所長が死んだ(と思われた)ときに、突如としてそれまでは「見る者」「語る者」にすぎなかった<黄色>が、<紫>のなまみの同僚たる「権藤さん」として現われ、周到に準備された逃走経路を示して<紫>をせかして逃がしてやる、という驚くべき転換点にさしかかった瞬間です。
この瞬間に最初に物語に設定された「二人」の登場人物の、「見る者」と「見られる者」、「語る者」と「語られる者」との二項対立的なフレームを物語自体が壊し、<黄色>は「見る人」、「語る人」から逸脱して、行動者としてアクティングエリアに登場してきます。
<紫>の日常に生起する陳腐な一連のできごとから成る<黄色>の語る物語は、ここで語り手が舞台に登場することで、まるで舞台裏を表舞台へと反転して見せるドタバタ喜劇のように、急転直下、唐突にして奇想天外な展開を見せます。
自分が首尾よく逃がしてやった<紫>と落ち合うべく、贈れて待ち合わせ場所へ着いた<黄色>でしたが、そこに先に着いているはずの<紫>の姿はなく、ついに<紫>は杳として行方知れずになってしまいます。つまりこの物語から<紫>の姿は消えてしまうのです。
従って、<紫>の観察者であり語り手にとどまっていた<黄色>、新たに舞台のアクティングエリアに登場した<黄色>が、、自分が語るべき<紫>を見失って、今度は自分自身を「見られる人」として見、「語られる人」として語るほかはなく、依然として語り手をも兼ねながら、同時に「見られる人」、「語られる人」として、かつての<紫>の位置におさまることになります。
こうして<黄色>は<紫>に置き換わり、<紫>の「専用の」ベンチだった公園のベンチに腰掛け、<紫>がそうだったように近所の人々から不審がられるような姿となってぼんやりと時を過ごし、近所の子供たちにちょうど<紫>がそうされたように不意に肩を叩かれ、からかわれるのです。
ここまでくると、この「入れ替わり」によって、もともと冷めた「見るひと」「語り手」であるかのように見えた<黄色>の見る目がいかに歪み、その語りがいかにいびつなものであったかが思いやられもし、その歪んだ姿をさらして<紫>と入れ替わった<黄色>こそがこの作品の真の主役で、その目をひずませ、その語りをいびつなものにしていた彼女の孤独な姿が、彼女の見、語る<紫>の姿に投影されていただけではなかったか、ということに気づかされもします。
そうすると、ここで実体的に「入れ替わる」ことで示されるように、<黄色>と<紫>はもともと一体の同一人物ではないか、という選者たちの一部の推測のように、「黄色のカーディガン」は上半身を、「むらさきのスカート」は下半身を示唆しているので、ふたつあわせて一人の女性ということになる、と辻褄が合うことになります。
まぁ、こういう凝った仕掛けがほどこされた、なかなか手の込んだ作品で、クライマックスからいきなりドタバタ喜劇調に急転するあたりなど、ふつうなら芥川賞系の作品で、それはないだろう、と思うようなありえない展開で、典型的なエンターテインメント系の作品のような味わいになっています。
芥川賞系の作品にありがちなウエットな、対人関係の不得手な不器用で社会的不適応な女性の内面に寄り添い、共感や同情を誘うようなエモーショナルな要素は、その語りの仕掛けによって周到に排除し、「見るひと」「語るひと」の役割を与えられた<黄色>によって、ひたすら客観的に「見る」こと、「語る」ことで、なんでもないありふれた<紫>の日常性を描いて見せるようでいて、実はそれを見、語る<黄色>のありようを、<紫>とのそうした一方的な、実は歪んだ、いびつな関係性を潜在的にずっと持続しながら、ラスト近くで一気に顕在化させて<紫>と<黄色>を入れ替え、同時に両者を一体化を示唆するようなラストへもっていく、そのことで最終的にこの<黄色>の、あるいはそう言ってよければ<黄色>≒<紫>であるような「二人」の社会的不適応な女性の孤独な姿が私たち読者の手に残される、というふうな手の込んだ仕掛けがこの作品を成り立たせているようです。
<紫>が遭遇する一覧の周囲の人々の彼女に対する態度や職場の従業員や上役の態度、彼女の変貌ぶりなど、すべて非常に誇張され、パターン化され、戯画化されていて、ありきたりなものに過ぎないのですが、それはこの物語に最初からしつらえられた「仕掛け」のうちなので許容され、その仕掛けとして効果をもつと言えるものであって、語りの言葉がひとつひとつ炊き立てのご飯の粒が一粒一粒立って輝いているようなタイプの作品とは様相が異なって、むしろエンターテインメント系の小説のほうに近い文体になっています。
その易しい語りの文体は、<黄色>の語りとして、一見客観的に見、客観的に語るかのような文体だからこそであって、実はその目自体が歪み、その語り自体がいびつなものであるところに、エンターテインメント小説とは違った作者の企みがあるということになるでしょう。
従って、私たち読者はこの文体をたどる過程で、ひとつひとつの言葉の響きによって私たちが世界に向き合う感性を洗われ、あらたな世界が開かれて行くのを感じたりするといった経験をするわけではなくて、いわばタネもシカケもある世界で、そのシカケに乗ってシカケを楽しみ、最後にタネあかしをされて、あぁそういうことか!と腑に落ちはするけれど、そこで何かそれまでの自分の認識がひっくり返されたり、新鮮な認識を加えられたといった感覚とも異なり、いわばよくシカケの仕組まれた、そしてちょっぴり主人公(たち)の孤独が身につまされるような、ワサビもきき、同時に喜劇性をも備えた、よくできたエンターテインメント系推理小説を読みおえたような気分になった、というのが正直なところでしょうか。
ただし、推理小説のように、これが落ちだ、というネタが明かされるわけではなくて、たとえば私が先に書いたように、<紫>が<黄色>の内面の投影にすぎないのではないか、という疑問や、<紫>と置き換わった<黄色>は、実は同一人物だったのか、という疑問に対する作者の「タネアカシ」があるわけではありません。それはむしろこの作品にとってはどうでもよいことで、この語りの仕掛けによって、一人だか二人の、だか分からないけれども、社会的に不適応な資質ゆえに深い孤独のうちにある女性がここに確かに存在する、ということが読者にまざまざと感じられるなら、おそらくこの作品を読んだことになるのではないか、という気がします。
<黄色>の語りの言葉ひとつひとつによって、何ら私たちの感性に変化が起きるわけではないという意味のことを書いたけれど、この作品を読んだあとで、たとえば公園のベンチに所在なげに一人で腰かけている、髪の毛がぼうぼうで爪も黒ずんだ見るからに不潔で友達もいそうにない、仕事をしているのかどうかもわからないような女性をみかけたとしたら、私はこれまでのように、傍を通ってもできるだけ見ないように、わずかでも心を動かされるようなことのないように細心の注意を払って知らん顔で通り過ぎる、というわけにはいかず、きっとチラッとその姿をみるだけで、この物語りの<紫>あるいは<黄色>を思い浮かべ、その向こうに私などの手の届きようのない深い孤独がうずくまっていることを、その気配を感じざるを得ないのだろうな、という気がします。
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