2019年07月29日

「さよならくちびる」をみる

さよならくちびる ァfhれtt

 出町座で塩田明彦監督(原案・脚本)の『さよならくちびる』を見てきました。とっても良かった。一番前の席でクローズアップされるハル(門脇麦)、レオ(小松菜奈)の表情や、二人の気持ちをあらわすような歌が歌われるのを聴いていたら心がふるえて涙が出てきました。涙腺がゆるくなっているとはいえ、最近では珍しいことです。

 「寝ても覚めても」や「きみの鳥はうたえる」以来、ひさしぶりにいい日本映画を見たと感動して、出町柳から川辺の遊歩道を歩いて映画の中の世界を反芻しながら帰ってきました。

 なにかこうひりひりするような傷ついた心の痛みがじかに伝わってくるような作品です。けれどもそこによくその種の日本映画にありがちな、じとじとと湿ったもの、べとついた印象はなくて、どこか軽みも可笑しみもあるロードムーヴィーみたいな世界で、強く結びついた二人の若い女性がその魂を真剣にぶつけあうところから、いっそう傷つき、最初からバンドの解散を前提にラストツアーに出る設定から、途中でいつ破綻するかと思わせるような場面がぐいぐい引っ張っていってくれます。

 その二人と三角形のもうひとつの一見やや弱い三極目に位置する付き人(ローディ兼マネージャー)の役割をするシマ(成田凌)がまた実に良くて、無くてはならない第三極になっています。

 三人がつくる三角形の最初に描かれる極はハルで、彼女が同性愛者でかつて真剣に愛した同性の恋人を失い(米国へ行って結婚している)、その喪失感から立ち直れないほどの深手を負っていることが、この作品での3人の関係をも作品の世界をも規定しているのですが、そのことはまったく前面に押し出して描かれず、ただハルの現在のありように深甚な影響を与えている彼女の過去として背後に折りたたまれた形で、ときおり垣間見えるだけです。

 また、レオのほうも、洗濯屋みたいなところで働いているとき、一緒に音楽をやらない?とハルに声をかけられてインディーズ・バンドを組むことになる以前の彼女については、私たちに何も知らされてはいません。けれど、ハルが自分のつくったカレーをレオに食べさせるシーンで、何も言わずにカレーをぱくついていたレオがポロポロ涙を流して泣きだすシーンで、彼女が幼いころからおよそ誰かに温かい食事をつくってもらえるような過去を持たなかったこと、レオもまた心に深い傷を負った女性であることが私たちに一瞬で分かるのです。

 こういうところが、愛情とか別れとか、ひとの心がぶつかり、傷つけあう難しい関係を描きながら、へんにジメジメもベトベトもしないで、いまの二人の関係のありよう、そのそっけないほど端的な言葉のやりとり、その言葉以上に雄弁な表情やふるまいで、ぶつかり、傷つけあい、しかも深い絆を感じている二人の存在感をそれぞれの個性を通して鮮やかに伝えてくれる所以だろうと思います。

 シマについても、彼自身の口から若いころ少し軽薄な色男ぶったミュージシャンだったことは知られるけれど、彼の過去が私たちの前にわりあいはっきりと示されるのは、カメラが一人で、古レコードを売る店の2階へ上がっていくレオを追って、その店に先に入っていたシマと出会う場面で、レオがシマの好みをきく場面でシマが昔の自分のやっていたバンドのレコードを示して語る場面くらいだろうと思います。あとは過去に女のことでもめたことのある別のバンドのメンバーに待ち伏せされてボコボコにされる場面くらいでしょうか。

 だからレオとハルの出会の場面や、ハルが目撃したホームレスが路上でマッサージを始めて客が来るわけはないよなとハルが思っていたら水商売の女が何のこだわりもなくホームレスの置いた椅子にすわって気持ちよさそうに肩をもませていたという回想場面など、過去へのフラッシュバックはいくつかあるけれど、作品の世界は基本的に3人の毀れそうな緊張を孕んだ現在進行形の物語としての流れを失わずに、3人の間の居心地の悪そうな共存と火花の散るぶつかりあい、そして一人になったときにみせる深手を負った者の孤独な表情等々を、静岡、三重、大阪、新潟、山縣、青森、北海道と全国7都市をめぐりながら見せていきます。

 3人の間の不協和音をそれが耐えがたく爆発しそうになりながら、そのたびに、とにもかくにもカッコに入れて3人をつなぎとめ、共存の形をアピールして、バラバラな存在が無理に一つになっているというのでなく、本当は深くつながっている絆の向こうに、一人一人の傷ついた心を隠している存在として見えてくるような形でわたしたち観客に訴えてくるシーンが、「ハルレオ」として舞台で歌い演奏する場面です。

 これはストーリーを追うだけだと、もう解散寸前の仲たがいした、とうてい再びひとつにはなれそうもないメンバーが、とにもかくにもツアーだけは契約上やりおえなければならないから、無理して一体のバンドですという顔をして舞台に立っているだけだ、という話になるはずでしょうし、にこやかに語り合うそぶりもなく、そっけない硬い表情で舞台に上がる二人の姿は、一見まさにそんな設定のように見えるけれど、実は彼女たちの実にぴったりと息の合った歌と演奏自体が、そうした設定というのか、二人のぶつかりあい、反発もしあい、傷つけあって、ぎこちない関係を裏切っているのです。

 その歌はどれも素晴らしくて、彼女たちの気持ち、いまぶつかって反発し合い、傷つけあう心よりももっと奥で魂が求めているような絆で結ばれている、そんな二人が、それぞれに過去に深い傷を負った魂をかかえ、ようやく出会った二人として互いに心の奥底で求め合っていながら、行きがかり上ぶつかっていま別れていこうとし、そういう成り行き自体を、人生とはそんなものだ、とても人と人とがわかりあえるなんてことはありえないんだ、と自分を半分納得させようともし、しかしさせられもせず、いま別れてしまえばもう二度とそんな人とは出会うことができないだろうという哀しみの予感にふるえる、そういう状況や心境が、ハルのつくる歌には重ねられていて、彼女たちの口から和解の言葉が語られなくても、その感動的な歌と演奏自体が二人の本当の絆を私たち観客に直接訴えかけてくるところがあります。

 そのために、ツアーの先々で歌われ演奏されるこのライブシーンで、私たちは幾度か泣かされることになります。

 だから、ラストは言われなくても見ていればわかります。けれど、別段それは肩透かしでも何でもなくて、必然的なこうしかないよな、という後味のよいラストだし、この映画はもちろんロードムーヴィーとして、ゴールがどこかではなくて、その旅の途上の3人のやりとりとその背後にみえてくる奥行きをあわせた若い魂のぶつかり合い、傷つけあい、求め合う姿にみるべきものがあるので、それが楽しめればきっとこの作品が好きになるでしょう。

 この作品自体の中で前面に押し出されるわけではない深手を負った過去をかかえていまを生きる二人、とりわけ要になるハルは、なかなか難しい役どころだと思いますが、門脇麦という若い女優さんはハルのそんな複雑さと奥行きをよく演じていたと思います。それから、レオの小松菜奈はとてもチャーミングでした(笑)。

saysei at 01:12│Comments(0)

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