2019年06月29日
出町座の三本

久しぶりに出町座で「嵐電」をみて予告編やチラシに接すると、またすぐ映画が見たくなって、きょうはその想いを晴らしに、先日から終日電動ノコで硬くて太い木の枝を切った報いで痛めた腰をものともせず、朝から夕方まで、カフェのフレンチトーストを頬張りながら、3本連続で見てきました ^^;
最初は、チャン・リュル監督の「慶州(キョンジュ)~ヒョンとユニ」です。これは素晴らしかった。
チャン・リュル監督の作品は、「キムチを売る女」(2005)というのを、ビデオで以前に一本だけ見ていて、感想をこのブログで書いたことがあります(2017年8月28日記)。中国の辺境地域で、厳しい差別を受けながら社会の底辺に逞しく生きる朝鮮族の女性を描いた、すぐれた作品で印象に残っていました。
それで今回チラシを見て、ぜひ見たいと思ったのですが、今回の作品ですっかりこの監督のファンになりました。「キムチを売る女」が直球勝負といったところだとすれば、「慶州」はカーブもシュートも交え、一見肩の力を抜き、少し対象から引いた目線で、自然にその目に映るのは現在と過去が二重写しに重なって見える、といった多層性、多元性を内包した、繊細で奥行きを感じさせる、実に豊かな作品に仕上がっています。
2014年の作品らしいので、「キムチを売る女」から10年近くたって作られているわけで、監督は1962年生まれだそうですから52歳の作品ですね。やはりそれだけの人生の歳月を経なければつくれない作品だという気がします。
主役の パク・ヘイルとシン・ミナがほんとうに素晴らしい演技をみせてくれます。
パク・ヘイルが演じるのは若くて優秀な北京大学の教授チェ・ヒョンで、権威ぶったところなど微塵もない、どちらかといえば学生の延長みたいな、柔和な印象でカジュアルなライフスタイルをもついまふうの若い大学の先生です。ただし、既婚者の彼ですが、旅先でかつて関係を持った後輩の女性を呼び出したり、なかなか隅におけない先生ではあります(笑)。
彼は、自殺して亡くなった先輩の葬儀に出て、そのままその先輩といっとき過ごした過去の記憶に引き寄せられるようにして慶州へ赴き、その先輩ともう一人の先輩と3人で訪れた茶屋を訪ねて、3年前からそのオーナーをつとめる美しい女性ユニの接待を受け、彼が確かに見たという壁に貼ってあった春画の行方を尋ねます。
ユニはちょっと不思議な印象の美しい女性ですが、その不思議な印象というのはうまく説明できないけれど、たとえば日本でこういうところにたまたま美しい女性がいて旅先で出会っても、彼女に受けるような印象は受けないと思うのです。それはこの物語りの設定がそう感じさせる雰囲気なのか、それとも日本の女性と韓国の女性との精神文化みたいなものの微妙な違いがまるで異なる雰囲気を醸し出しているのか、私にはよくわからないところがあります。
彼女は訪れる客に、たとえばこの作品に登場する日本の韓流ファンみたいな二人のおばさまに対する接し方にみるように、サービス満点で愛想よく温かく客に接しているけれど、決して受身ではなく、客に媚びたりへつらったり、もてなす側として合わせていくような印象がなくて、最初から自立した一個の人間として客と対等な存在感をもって登場しています。この女優さん自身がそういう存在感を備えている、というべきなのでしょうか。
だから、或る意味でこの二人に何かが起こらないはずがない、という予感をおぼえるけれど、それは必ずしも二人が男女として惹かれ合って、恋愛感情を持つにいたる、というふうな通俗メロドラマ的予感ではないのです。むしろこの女性はそういう女性とは異なる自立した存在感をもっているようなのです。男性のヒョンのほうも、彼女のその不思議な魅力、存在感をまざまざと感じているけれど、それは逆に、男女のことではすみにおけないところのあるこのイケメンの若手教授ヒョンが、すっと通俗的なひとめぼれみたいな感情に滑り込んでいかない要因にもなっているような気がします。
けれども、それが見ていくうちに、私たち観客がふと気づくと、男女以外のなにものでもない親密な距離感に転じていて、その転換の自然さに舌を巻くようなところがあります。その流れのままに或る夜、ヒョンはユニを送って彼女の部屋に上がり込みます。「こうなるような気がしてたわ」とユニは言うのですが、結局二人は抱き合うこともないまま、ヒョンは彼女のもとを去って行きます。
セックスも殺しも暴力もなく、小さなこだわりをめぐるヒョンの不思議な過去と現在が重なる場への旅を淡々と描く、その手つきが非常に抑制のきいて洗練され、繊細で、心をゆさぶられます。慶州の青々とした墳墓の連なる光景が実に美しい幻想的な背景をかたちづくっています。

一本とばして、三番目に観たのは、同じチャン・リュル監督の「春の夢」(2016) です。モノクロ101分の作品で、これがまた滅茶苦茶面白かった。さきほどの野球のピッチャーの持ち球でいえば、この監督がストレートはもちろん、カーブ、シュートの定番に、チェンジアップ、超スローボールから時に星飛雄馬なみの魔球まで投げられる監督(笑)だと分からせてくれる、実に楽しい映画です。
それこそ社会の底辺で、どこにも自分の居場所がみつけられないような、はみだし者の3人の男たちが彼らのマドンナで、車椅子で眠りつづける父親の介護をしながら小さな場末の居酒屋を営む若い娘イェリを守るようにして、ついてまわったり、酒を飲んだり、映画に行ったり、なんということもないホームレス的な日常生活を描いているだけなのです。
だけどこの3人のキャラクターが実に人間味あふれて味わい深く、個々の小さなエピソードも彼らどうしの会話も立ち居振る舞いも、みな面白い。何度も声を挙げて笑ったほどで、それでいて軽喜劇というわけでもなくて、3人の男の中の兄貴分のイクチュンはさらに上のチンピラ兄貴分からヤバイ仕事に巻き込まれそうになっているし、父親の遺産でイェリの営む居酒屋の家主になっているジョンビンは癲癇もちだし、いま一人のジョンボムは北朝鮮からのわけありの脱北者で給料不払いのまま解雇されていたり、さらにマドンナ役のイェリもまた両親との過去をひきずって、いまの車椅子の父との現在があるわけだし、彼女と仲が良くてオートバイにいつも乗せてくれている詩を書く女の子はイェリに同性愛的な思慕を懐くひとであったり、社会の掃き溜めに生きる存在ならではのそれぞれの過去・現在をひきずっていて、そういう居場所のない、なにひとつ取柄のなさそうな、だけど純心で心優しい者たちがイェリに、またその居酒屋に引き寄せられるように身を寄せ合って生きている、その姿がふつうの人たちの人生、社会の姿を反転した陰画のように、しみじみと人生の一面を、世の中の一面を感じさせてくれます。
このこころやさしい三銃士を演じているのが、それぞれみな映画監督なんだそうです。その起用はみごとに成功していて、プロの俳優の演技よりもずっと自然で味のあるたたずまいや、相互のやり取りを見せてくれていると思います。
この二つのチャン・リュル監督の映画の間に、イザベル・コイシェ監督の「マイ・ブックショップ」(2017)を観ました。この映画もつくられたドラマとしては悪くなかったけれど、これをはさんだ二本の映画があまり素晴らしかったので、私の印象の中ではちょっと損をした感じでした。
でも190年代後半のイギリスの街の光景や自然に触れられたのは、英国ファンとしては嬉しい経験でした。主人公の書店を営むフローレンスはいかにもイギリス人女性という顔立ちだし、彼女を援けたいというナイト役の引きこもり老紳士ブランディッシュはいかにも英国の老紳士という風貌だし、書店員としてフローレンスを助ける少女クリスティーンもまたほんの子供なのにひどく大人びていて、取り澄ましてみえるいかにもイギリスの女の子らしい美少女だし、登場人物がいかにもイギリス人らしい役者で、それを見ているのも楽しかった。
タイトルを見た時は、「チャリング・クロス84番地」のような作品かな、と思っていたので、フローレンスが権力者のおばさんに憎まれて徹底的に苛め抜かれて、書店を開いた文化財的な住まいをも街をも追い出されていく結末にはちょっと暗然としてしまいましたし、もうひとつの驚愕の結末にも必ずしもいじめっ子のガマート夫人に対する鬱憤は晴れなかったので、それほど後味はよくありませんでしたが・・・
保守的な街で自分のセレクトした読んでほしい本を並べて街の人々の意識を変えて行こうというチャレンジングな女性の孤独な闘いを描いて、この書店の建物を買い取ってアートセンターをつくろうと、フローレンスの追い出しを謀る権力者ガマート夫人一派への「勇気あるたたかい」「勇気ある女性」を描いたというのがチラシの趣旨だけれど、突き放して見れば、フローレンスはそういう女性にしては少し脇が甘いのではないか(笑)。書店としてのありようにしても、街の人たちを味方につける戦略にしても、敵ガマート夫人に対する備えにしても、あまりに無防備で芸がなさすぎるのでは?と思わなくもありませんでした。まぁ善意の人というのは、敵意をもつ他人の屈折した悪意がなかなかわからないから、往々にして無防備になりやすいのかもしれませんが・・・
saysei at 00:07│Comments(0)│