2019年06月24日

柄谷行人「丸山眞男の永久革命」への違和感~つづき

 昨夜、雑誌『世界』7月号に掲載された柄谷行人の「丸山眞男の永久革命」を読んだときに感じた何とも言えない居心地の悪さというのか、違和感について用意もなく触れて、そのままずるずる書いたのが尾を引いて、もうひとことふたこと書いておかないと半世紀前には多少とも拾い読みしていた丸山眞男について感じていた自分(たち)の受け止め方とのあまりに大きな齟齬や、そこからくる柄谷の文章への違和感もうまく表現できないな、と思ったので、もう少し書いてみましょう。

 当時、私が高校から大学入学までの時期くらい、ちょうど1960年安保が終わったころですね、言論界ではいまジャーナリズムで幅をきかせているような保守的な言説はほとんど例外的なもので(林房雄とか高坂正尭とか)、いわゆる進歩的文化人の花盛りといった状況で、まだ米ソ対立の時代で、社会主義に対する幻想も一部の先鋭な知識人を除けば、多くの市民主義的な知識人に共有されていて、共産党や社会党のようないわゆる「革新政党」に対する同伴者的な知識人、シンパサイザーが数多くいたと思います。

 学校のテキストや参考書にも登場するような小林秀雄をはじめ、文芸評論家やエッセイストの文章は読んでいても、マルクスもレーニンもほとんど知らず、京都へ出てくるまで部落問題なんてのもまるで知らなかったオクテの少年として大学へ入学したとたんに、早熟な都会の新しい友人たちにあおられるようにして、羅針盤もなく手当たり次第に様々な思想的な言説に触れることになり、数多くの進歩的文化人の書くものにも目を通すことになりました。その中では、丸山眞男はあまりジャーナリズムの前面へ躍り出て軽薄に踊って見せるタイプではなく、ふだんはアカデミズムの奥の院に鎮座して、一目置かれる知識人という印象でした。

 多くの進歩的文化人の書き散らすものには目を通しても、かれらの本業のほうの主著までは読む気にもならない、というのが多かった中で、丸山の著作は読んでみようという気を起こさせ、「超国家主義の論理と心理」や「日本の思想」を読んで、とても鋭利な分析だな、とそこそこ感心もしていました。

 そういう「一目置く」ような存在としてのイメージが完全に崩れて、私(たち)の中で丸山が「終わった」のは、いわゆる大学闘争の時期でした。私は全共闘世代ではなくて本当は大学闘争がはじまる年には卒業しているはずでしたが、個人的な事情で転学部して卒業を延期し、学内でモラトリアムの期間を過ごしていたために、たまたま学部のストライキや学園封鎖などの事態に遭遇することになりました。

 それはともかく、それ以前に私が数多くの知識人たちの言説の中で信用ができると思ってその著作を読んできたのが、理学部でもあったから、物理学者の武谷光男だったり、文系であったけれども彼を評価していた鶴見俊輔で、その鶴見が大学へ講演に来た時に、繰り返し「ヨシモトリュウメイ」という私にはまだ聞き覚えのなかった名を上げて、非常に高く評価していたのが印象的でした。それがきっかけで吉本さんの本を片っ端から読むようになり、それまでの社会主義観についても根底からゆさぶられ、自分が読んできた進歩的文化人たちがことごとく偽物だった、ということを痛感させられ、さらに「言語にとって美とはなにか」を読むにいたって、はじめてよりどころとなる文学理論にめぐりあった、という感触を得たのでした。

 その吉本さんは大学人ではなかったから、大学闘争に関してはいわば遠くから、その距離感を正確に自覚した高い視点からの発言しかしていなくて、それは渦中にいる私(たち)にとって、非常に好ましい、さすがは吉本さんだな、と思えるような位置取りでした。だから井上清や羽仁五郎などもろに全共闘に寄り添い、あるいは煽ってみせるような知識人に対してはちっとも尊敬の念を持たなかったけれど、遠くから確かな目で見ている吉本さんには敬意を持ち続けていました。

 吉本さんが直接大学闘争について語って記録に残っている数少ない機会の一つが、1969年の1月17日に中央大学自主講座で行われた講演の記録を掲載した雑誌「状況」の1969年3月号「大学共同幻想論」でした。

 そこには丸山眞男に触れた次のような一節があります。

 "私が、大学ということですぐ思い浮かべるのは、丸山真男が『現代日本の革新思想』の中で、私らのようなものを、心情的ラジカリズムとして批判している発言です。
 心情的ラジカリズムを持っている連中ーたとえば評論家や編集者などーはいわば社会的な意味では無用なものという系譜に属しているから、大学教授のような社会的プレステージの高い人間に対して、劣等感を持ったり、反感を持ったりして、そういうものが自然に心情的ラジカリズムとなってくるのだといっているわけですが、そのことばはそのとき非常に私のカンにさわったわけです。 
 つまり、その発言の中には大学教授というものは社会的に偉いものだという無意識の思い上がりがあると思うのです。
 大学教授が偉いとか、優秀であるとかいえるのは、自己の専門の学問の領域で一定年数研鑽をつんだとか、そういう意味でいえるのであって、それ以外の意味では決して偉くも何ともない。そういうところの認識が全くないということが、その当時私のカンにさわったわけですけれど、そのことが、たとえば学園闘争の中でも非常によく現れていると思います。
 丸山真男はたとえばー新聞記事だからこれは話半分に聞かなければいけないがー法学部の封鎖が起った時、こういう風な暴挙は、軍国主義者もナチスもやらなかった、という風にいったそうですが、とんでもないことだと思います。 
 日本軍国主義が、太平洋戦争中に丸山真男の書斎にふみ込まなかったことは確かです。そして丸山真男の思想を許容し、兵隊として受け入れたということも確かです。
 しかし問題は、そういう発言が自然に出てくる基盤で、この社会が通用せしめている特権に対して全く自覚的でないということだと思います。学問の専門の領域ではいかように自負を持ってもいいわけですが、しかしそのことの自負と、社会的な地位として社会で承認しているものを自分がそのまま受け入れるということとは違うということについての自覚が、全くないと思うのです。そこのところが完全に逆倒されない限り、大学紛争は続いていくだろうと思います。 
 そのところが一番重要なわけで、学園紛争の中に政治性というものがあり得るとすれば、社会の秩序が容認するものを無意識のうちに容認するか否かという極めて感性的な問題の次元で最もラジカルに出ているのだと思われます。”(吉本隆明「大学共同幻想論」『情況』1969.3)
 
 当時、吉本さんが触れた『現代日本の革新思想』も確認のために読んだ記憶があります。それを読んだときに、私の中で丸山眞男は完全に「終わった」と言っていいでしょう。それは彼が専門領域でどんな業績を残しているとか、数多くのしょうもない進歩的文化人の中では一目置いてしかるべき政治的な洞察力や豊かな教養を持った知識人だということとは(構造的に根っこを掘って行けば無関係ではないけれども)かかわりなく、そこで彼が思わず漏らしたホンネのひとことだけで、彼が物書きとして書いてきたこと、言ってきたことがすべてパァになった、と当時の私(たち)には確信できました。

 よく自民党の大臣などつとめる有力な政治家が、自分の支持者の集まる集会などで調子にのって喋っているときに、思わずポロリと漏らすホンネが、いまでいうヘイトスピーチにあたるような、民族差別や男女差別などポリティカル・コレクトネスに反するような意識まるだしで、野党やジャーナリストからやり玉にあげられて、いや本心ではない、「誤解」を招くような発言をしてしまって、などとしどろもどろで弁解して、結局撤回したり、辞任に追い込まれたりすることがありますが、緊張感のある公的な場ではタテマエでしゃべっていても、自分の気心の知れた連中と気軽な座談などしているときには、つい気が緩んでふだん思っているホンネが出てしまうのは、政治家ばかりではないのでしょう。

 かえってそういうときに漏れるホンネのほうが、抽象的な論理で武装した言葉とは違って、その人のふだんのものの感じ方や考え方、偏見や差別意識など、いわば否定的、劣情的な側面を正直にあらわにしてしまうものです。

 吉本さんが引いた丸山眞男の座談でのその発言は、彼の人間性を正直に暴露し、その思想の根っこに、どんな人間観、社会観があるか、を明らかにしてしまったのです。

 ”もう少し微視的に個々人を見てみると、こいうラディカルは政治的ラディカルというより、自分の精神に傷を負った心理的ラディカルが多いですね。その心の傷は、ある場合には党生活のなかでの個人的経験に根ざしているし、ある場合には戦中派の自己憎悪に発しているし、ある場合は、俺は一流大学を出て本来は大学教授(?)とか、もっと「プレスティジ」のある地位につく能力をもちながら、「しがない」「評論家」や「編集者」になっているという、自信と自己軽蔑のいりまじった心理に発している。”(梅本克己・佐藤昇・丸山眞男『現代日本の革新思想』における丸山発言)

 こういう発言をする人物を、私(たち)は、決して人間として尊敬も信頼もできないし、思想について語る資格などない、と考えてきました。

 結局、どんなに専門領域で業績を上げた人であっても、抽象的な論理の言葉で高度なことを語っている人であっても、自分の生き方とそうした仕事や人間として多元的に生きて感じ、考え、行動して、人と向き合っている中でとっている姿勢とが一貫して、きちんと結びついているようでなければ、それは本当にその人の思想であるとは言えないわけで、どんなに気の効いたことを言い、どんなに偉そうなことを言っても、結局は文明開化でヨーロッパの意匠を借りて偉くなったつもりの鹿鳴館知識人たちと何も変わりはないわけです。

 日本の知識人というのはごくおおざっぱに見れば、ずっとそういうことを繰り返してきたので、本当に思想が一人の人間の血となり肉となり、根付いた、と言えるようになるのはいつのことか、というのが、ペイペイの学生だった私たちにも共有されていた思いで、知識や経験でどんなに敵わない知識人たちに対しても、内心ではある種の侮蔑感を懐き、決してその知識ゆえにその人物や思想を信頼したり尊敬したりしていなかった私(たち)の傲慢さにも、それなりの根拠があったのだと思います。

 以前にも書いたことがありますが、ずっと後に私が家庭をもち、小学生の息子たちが近所の小さなレストランのご亭主や彼に賛同するもと父兄のオジサンたちの指導してくれるサッカーチームで面倒をみてもらっていたとき、その指導者の姿に心から感動して話していたとき、以前の職場で割と頻繁に一緒に仕事をしていた、当時たしか既に大学の講師か何かになっていた人が、「世の中でしかるべき社会的地位につけない人が、そのルサンチマンをそういうボランティアとかで頑張っちゃうケースがよくあるよね」という風な意味のことを言って、私のその指導者に対する尊敬の念に冷水を浴びせて、価値を低めるような言い方をしたので、カチンとくると同時に、あぁこの人はふだんは気の利いたことを言ったりもできる頭の悪くない人だけれど、人間としてはダメだな、人を見る目、人と接する姿勢、思想の根っこが腐っている人だな、と感じたことをいまも記憶しています。

 丸山の発言を知ったとき、私(たち)はまだ20歳そこそこの青二才で、無知で未熟で、丸山が誇るような知識も知力も持ち合わせていなかったけれど、いわゆる知識人だの文化人だのと言われる人たち、物書きに対する一読者としての判断において、この人は人間として、物書きとして信頼できるかどうか、尊敬できるかどうか、要は「ホンモノ」か「ニセモノ」か、という判別に関しては、きわめて鋭敏で容赦なかったと思います。

 私たちが自分の所属する学部の教授たちと話し合う場(丸山のいう「つるしあげ」に近いのもあったでしょうが・・笑)で教授たちに詰問し、やりとりする中で私(たち)が半ばあきらめながらも、あれでも一人二人、まともな人がいないか、と期待して待っていた反応というのは、まさに吉本さんが指摘しているような、「社会的な地位として社会で承認しているものを自分がそのまま受け入れ」ていることを自分の人間としてのありようとして、どう考えているのか、ということに対する真摯な答であり、それはその人の人間としての生き方、ものを感じ、考え、行動していく人間としての一番根本の姿勢がどうなのか、というきわめて素朴で端的な問いかけだったのですが、何十人も居並ぶ錚々たる教授陣の中で、私(たち)の期待にわずかでも答えてくれた人は、ただの一人もいなかったのです。

 自然私(たち)は自分たちが直接知らない遠い存在へと書物をたどることになるわけですが、そこで出会った人の中でも、辛うじて信用のできる物書きとおもえたのは鶴見俊輔や江藤淳、あるいは吉本隆明のような指折り数えてあとが続かないほどわずかな人たちに過ぎませんでした。丸山眞男はそういう意味では上記の発言ひとつで完全に思想家としては失格でした。

 丸山のこのときの発言と吉本さんの批判については、後日、まだ大学闘争のさなかというか余燼くすぶる中でのことでしたが、作家でもあり、まだ確か大学にも助教授として籍を置いていた高橋和巳を講演に来てもらったとき、高橋さんはそのことに触れて、「吉本さんの批判はまっとうなもので、丸山さんは当然応えるべきだったが、なにも応えないまま逃げて逃げて、とうとう逃げおおせてしまった。そうやって逃げることができたのは丸山さんがアカデミズムの中にいるからであって、これが私のいる文壇のような民間の物書きの世界であれば、もうその世界では生きられない、死を意味するはずです」という意味のことを語っていました。

 言葉はもちろん正確に記憶していないし、どこかの雑誌社が掲載したいと言ってきたことがあったので、どこかに記録が残っているのかもしれませんが、なぜ覚えているかというと、私がたまたま高橋さんを呼んだ学生グループの端くれに属していて、その講演の録音テープ起こしを自分で担当したからです。

 高橋さんのこの発言はとても印象に残りました。「憂鬱なる党派」や「邪宗門」はある意味で楽しんで読んでいたけれど、作家として好きというわけでもなく、またしかるべき敬意をもっていたとも言えず、学生にシンパシーを感じ、それを明らかにもしてくれていた数少ない教官の一人ではあったけれど、そのことを特別ありがたいとも思っていませんでしたが、先の彼の言葉を聞いて、あぁ、彼もさすがに作家だな、アカデミズムの奥の院であぐらをかいていたような教授連中とは一味ちがったな、と好感をもって聞いていました。

 その後彼は大学の職を辞し、作家として生き、短い生をまっとうしました。たしか梅棹忠夫だったか、高橋和巳は作家などやめて中国文学者一本の研究者になるべきだった、とそれは彼の学者としての資質に好意的な立場から言っていたのをどこかで聴いたか読んだかしたことがありますが、私はそうは思いませんでした。もちろん彼が中国文学の一研究者として生涯を終わろうとかまわないわけだけれど、彼自身はそれを逃避であり、文学者としての死だと感じただろうと思うだけです。

 いま丸山眞男の遺した3冊の私的メモのようなノートを編纂した『自己内対話』など読むと、丸山が大学闘争の渦中にあって、まったく自分の置かれた状況もその意味も分かっていなかったことが無惨なほどよく見えてくるような気がします。彼は闘争の中で飛び交う言葉のエモーショナルな側面を毛嫌いし、自己否定なる合言葉やノンセクトラディカルが自分たちを非政治的だと思っているなどと誤解と偏見に満ちた目で毒づき、大衆を語る者は大衆に媚びへつらい、すり寄る者としてそこにポピュリズムを見、みずからが「現代日本の革新思想」で語ったような特権を享受していることに無自覚なまま、「東大教授」であるがゆえに不当に攻撃されていると錯覚しては憤る、といったありさまで、今読めば目を覆いたくなるような混乱ぶりです。

 もっとも、激動期の渦中に生きる者はだれしもそうした或る程度の錯乱は避けられず、今時分が生きている現実の意味を同時に透徹した目で見定めることは困難だと言えば言えるかもしれません。丸山ほどの知性でも、それは避けられないことなのでしょう。

 彼は自らその渦中にある「大学紛争」についてこんな風に書いています。

 「大学紛争はナショナルには社会問題であり、東大についていえば、管理運営の欠陥の問題だ。すくなくとも研修医問題からはるかに範囲をひろげた東大紛争はプライマリリーにそうである。」(『自己内対話』)

 そうして彼は、「なぜこういう自明のことをいうか」として、”「師弟関係の崩壊」とか「研究者・教育者の自己否定をかけたたたかい」とか、あまりにもモラリスティックな発想が、まさに「良心」を自任する教官にも、またイデオロギー的にはそうしたモラリズムに全面的に否定的に立ち向かう筈の共闘会議の学生にも氾濫しているからである””と釈明しています。

 彼が否定的に語る、その「モラリスティックな発想」がなぜここで必要だったのか、彼に何が問われているのか、残念ながら丸山にはまるで理解できなかったのです。

 これを先の吉本さんの認識と比べて見れば、大学とは遠く距離を置いていながら鮮やかに示された、吉本さんの認識がいかに透徹したものであったか、いまではだれの目にも明らかでしょう。

 ”学園紛争の中で、私が思想的に一番着目している点は、いわゆる戦後民主主義者ーつまり市民主義者あるいは進歩主義者ですがーがちょうど教授とか助教授という形で、学園紛争に関与しているわけですが、その連中が、戦争中から戦後にかけてみがいてきた自分の思想にいかに耐えるか、あるいはいかに対応するかとということです。
 いいかえればそれは、市民主義者、戦争中の一種の二重主義者ーつまり人殺しはやりたくないと心の中で思いながら、鉄砲かついで戦争に行ったという連中ですが、そういう連中が戦後にすべり込む過程において、いかに自分の戦争体験を思想的に咀嚼し、戦後二十年をやってきたかが問われている試金石であると思います。”
 
 これを私的なノートの言葉とはいえ、大学紛争は「東大についていえば、管理運営の欠陥の問題だ」としか言えない丸山と比べて見れば、凡庸な大学の管理者としての管理主義的な視点と思想家としての高い視点の違いは誰の目にも明らかです。

 こうした視点の高さ、透徹した事態の本質への眼差しを持っていた知識人は、私(たち)の知る限り吉本さんを措いてほかにはありませんでした。私たち渦中にあった学生が、党派に属してその影響下にあったもの以外は、身近な教授たちや自分たちにすり寄ってくる味方づらした知識人、文化人の類ではなく、またいわゆる全共闘のリーダーのように目されていた東大や日大のリーダーたちの言よりも、自分たちから遠い距離にありながら、そのことを自覚した上でこうしたみごとな認識を示す吉本さんの言葉のほうにはるかに信を寄せ、いつもその声に耳を傾けようとしていたことは当然でした。

 吉本さんは上記の言葉につづけて、もう結論まで語り切ってしまっています。

 ”私は、戦争中から戦後にかけて、彼ら(引用註:市民主義者)とは全く違う位相にあるわけですが、しかし、その連中が、自分なりの市民主義原理で思想的にある場合に頑強に学生に立ち向かい、ある場合には市民主義原理を固守する形で、たとえ一人であってもそういう見事な形で自分の思想を提唱する人があったらというのが、私などの秘かな願望であったわけです。
 しかし、そういう希望は無残に砕かれたという感じを持っています。つまりそれは、どたん場において、最もラジカルな部分を警察機動隊に売っておいて、学園紛争を収拾しようとする技術的な態度をとったことで、思想原理、つまり市民主義原理が完全に放棄されたという風に私には思われます。”

 こうして彼は、”戦後民主主義は、現在の学園紛争の中で、思想的に完全に終ったといいっていいのではないかと私は考えています。”と引導を渡しています。

 丸山は「知識層の役割。」と項目を立てたメモにおいて、「社会の異議申し立て人であること・・」云々と書いて、サルトルの定義を一瞥したのち、「知識人は社会的・政治的関心が例外的に高い階層である。・・・」云々と知識人前衛論的な発想の言葉がつづきます。そして、”知的エリートが管理者のなかにくみこまれる傾向がますます一般的であればこそ、「異議申し立て」階級としての知識層の役割は大きくなる。それも、社会を「動かす」には大衆運動との結合が不可欠だ。知的指導なき大衆のエネルギーは盲目であり、大衆のエネルギーに支えられない知的指導は空転する。」と非常に古典的な前衛、後衛の二分法を前提にした組織論めいたことが書かれています。

 丸山は大衆におもねるポピュリズムを批判する箇所では、知識人も民衆の一人なんだぞ、と言いながら、知識人の役割を論じる箇所では、そのうちなる「民衆」と知識人をうまく内在的に接合することができず、「知識層の役割」を民衆の概念とは無関係に規定しています。その上で組織論として前衛としての知識層と大衆運動をつなごうというわけです。これはほとんど、戦前以来の共産党などの前衛論と同じで、知識層が「社会の異議申し立て人」として前衛的役割を果たし、いまだ目覚めぬ大衆を目覚めさせ、そのエネルギーを「知的指導」で導いて社会を「動かす」というポンチ絵的な構図です。 

 これも吉本さんの、知識人の役割は大衆の原像を繰り込むことだ、という言い方と比較してみれば、民衆なり大衆と言われる存在への二人の向き合い方の違いがよく分かるのではないかと思います。

 柄谷の書いたものでは、丸山眞男は市民主義者ではなくて、社会主義者で、彼がずっと関心をもっていたのはマルクス主義だということで、講座派を継承するもの、というふうな前回書いたように私には奇妙に思える規定をしているわけです。

 たしかに「自己内対話」にも、こんな言葉が遺されています。

 ”私はどのような意味で社会主義者であるか、もしくはありたいか。”(註:下線部は原文では傍点)

 彼は社会主義者である、という自己規定をしていたか、そうありたいと願望していたのでしょう。でもそのことを今の時点であまり重くみるのはどうかと私は思います。

 当時はまだ日本の進歩的文化人の間で社会主義に対する幻想が消えてしまったわけではなく、むしろ大盛況だったわけで、いまのように保守的な言論が幅を利かせているような状況とはまるで違っていたわけです。
 敗戦直後のことだったでしょうか、なんと三島由紀夫までが小田切秀雄だったかに、共産党に入らないか、と大真面目に誘いの言葉をかけられた、と三島自身が嬉しそうに語っている(書いている)のを読んだことがあるくらいです。猫も杓子も、天皇制ファシズムのもとでも節を曲げなかった指折り数えるほどの共産党員をほめそやし、社会主義に希望を見ていた時代だった、と言ってもいいでしょう。
 
 丸山にしても、そういう共産党員への個人的な尊敬の念と、民衆の前衛であり指導組織としての共産党など革新政党の理念と実践、組織のありようといったものとは区別してしかるべきで、後者は冷静な批判を免れるものではない、といった批判は展開したものの、吉本さんらがやっていたようなそれら既存の前衛党派やその理念に対する本質的な批判を展開できたわけでも何でもありませんでした。

 その意味ではほかの同伴者的な市民主義的進歩的文化人と何ら変わりはなかったのです。それを今の時点で彼に「社会主義者である」あるいは「でありたい」という願望があったからといって、他と区別する主格助詞「は」を使って、"丸山「は」社会主義者であった"、と言えばむしろ虚偽に近くなるのではないか。"丸山「も」他の多くの、当時は知識人のほとんどがそんな雰囲気であったところの「社会主義者」だった"、というのなら分かりますが(笑)。

 それに、私は丸山には潜在的な大衆嫌悪のホンネがあったのではないか、と思っています。
 
 直接丸山が言葉で大衆嫌悪を表明しているわけではないけれど、「自己内対話」を通読して感じるのは、彼には潜在的か顕在的かは分からないけれど、大衆嫌悪があったのではないかと感じられるのです。文字面だけ追えば、いや彼は大衆を嫌悪したわけではなく、「民衆は偉大だとか、民衆の力を評価せよ、とかいう日本のインテリのポピュリズム」を嫌悪しただけだ、ということになるかもしれません。

 それは、この引用句につづく ”・・・「民衆」にすりよってくるインテリにたいして、民衆が示す反応はおそらくあの「悪女の深情け」へのやりきれなさに似ていないか。”というような言い方によく現れているような気がします。大衆嫌悪をもたない人間には、こういう民衆のありようの譬え方はしないものだと、私には直観的に思えます。

 彼は西欧文化にあこがれ、優秀でもあったから、研鑽を積んでその文化を消化し、少なくとも頭だけはどっぷりひたって、そこから日本社会を考え、その特異性や遅れを的確に指摘することができた、典型的な日本型知識人、文明開化の頃の紳士淑女よりははるかに洗練されてはいたかもしれないけれど、やっぱり本質的には鹿鳴館型知識人の典型だったと私などは思っています。

 今回彼の遺した『自己内対話』を読んでいて面白かったのは、東大闘争の渦中に共闘会議の学生たちに拉致されたときのエピソードを記した箇所。

 ”私の眼前に座を占めているのは、あとできくと、文学部の院生が多かったようだが、もっともひどい言葉を使ったのはこの連中である。たとえば「そろそろなぐっちゃおうか」「ヘン、ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」等々。”

 この「ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」には思わず笑ってしまいました。しかも、丸山眞男はその2ページほどあとで、帰宅して一人で寝室で横になって興奮さめやらず今日あったできごとを回想している場面でこう記しています。

 ”興奮が醒めないためか、精神的にはむしろ闘志が湧いて、それほどミゼラブルな気持がしなかった。ただ、いかに見知らぬ学生とはいえ、さきの「ベートーヴェン云々」の言葉に現われているような、むき出しの憎悪の表情にとりまかれたのは、これが初めての経験である。”・・・

 ここでもう一度「ベートーヴェン云々」が登場するのが興味深い。ふつうはこれ、どちらかと言えば「なぐっちゃおうか」のほうが「むき出しの憎悪」をより強く表現する言葉のように思うし、そっちが先に出てきそうだけれど、丸山は「ベートーヴェン云々」のほうを、「むき出しの憎悪」の象徴のように挙げています。

 たまたまかもしれませんが、なにか彼の心理の影が読み取れるようなところです。

 もちろんベートーヴェンを聞きながら学問しようが、都はるみや美空ひばりを聞きながら学問しようが好きにすればいいわけですが(笑)、丸山は決して都はるみや美空ひばりを聞きながら学問はしなかったでしょう。彼は西洋のクラシック音楽に造詣が深く、たしか一冊音楽に関する著書か何かあったと思います。半端な趣味程度のものではなかったのでしょう。それもこれも、彼の西欧文化への憧憬の強さ、深さ、彼のなじんだ教養の源がどこにあったか、彼の資質的な志向がどういうものだったかを如実に示すものだと思います。それは文明開化以降の日本のすぐれた教養的知識人の典型みたいな資質、志向のありようだったのではないでしょうか。

 柄谷がマルクスの方法にならって、小さな差異に着目して全体の評価を転倒させるような方法で、丸山眞男を単に西洋文化に憧れ、その目線で遅れた日本社会を批判した市民主義者、進歩的文化人ではなく、社会主義者として講座派の跡を継ごうとした者であった、というのは、こういった丸山眞男のトータルな人間のありようを考えれば、やっぱりそのトータルな人間のコンテクストを無視してその一部の特徴を無理に引っ張り出してきたもののように思えてなりません。

 小さな差異に着目して、これを梃子に全体の評価を転倒させるのは、なにもマルクスゆずりの柄谷の専売特許というわけではなくて、まっとうな思想家はみんな先人たちの思想を継承する中でそうすることで自分の思想を生み出してきたのだと思います。それで不思議に思ったのは、吉本さんもマルクスの初期の著作、経哲手稿に記された自然哲学を読み込むことで、そこでマルクスが見出した人間と自然の相互関係を表象するものとしてあらわれる疎外の概念を武器に、マルクスの思想全体を読み替えていったことは周知のことだし、当然柄谷も知っているはずですが、奇妙なことにあるとき柄谷が書いたたしかライプニッツだったかに触れた文章で、なんだか吉本さんの思想についても主体性というキーワードのもとで初期マルクスを再評価するような世界的な気運の中に位置づけてしまうかのような書き方で言及したものを読んだことがあって、今回一所懸命掲載誌を探したのですが、残念ながら見つけられず、ここに証拠を出せません(笑)が、なぜ丸山については小さな差異に着目して、吉本さんについてはそういう通俗的な括りにしてしまうのか、不思議に思ったのでした。もちろん、マルクスを後期と初期に分けて初期の疎外論を評価するようなタイプの思想とは、吉本さんの思想はまるで違うことは吉本さん自身がまさにマルクスを論じる中で既に明確に語っていることで、そういう閉じた思想と同一視することはまったくの錯誤に過ぎません。

 さて元へ戻って(笑)、現代の鹿鳴館型知識人たちが西洋文化に恋焦がれて、というのは、むろん良い、悪いの問題ではないので、単に個人の趣味の問題、恣意性の問題に過ぎないのではあるけれど、そうやって舶来の知識を取り込み、豊かな教養を身に着け、知的に上昇していくこと自体を至上の価値のようにみなしていく日本的な鹿鳴館型知識人のありよう自体に自覚的でなければ、仕入れた借り物の知識、技術、思想を自分が自分のよって立つ大地の土をこねて作り上げたもののように錯覚し、その基準によってやがて「遅れた」日本社会を見下し、その「特異性」を云々するだけのありふれた進歩的文化人に成り下がるだけのことで、その言辞にどんなに鋭利な分析があり、気の利いたセリフを吐いたとしても、日本社会の現実の岩盤にまるで一振りの鍬の跡もつけることができず、精神の肉体を持たない空虚な言葉の戯れに興じるだけの亡霊のような存在にすぎないものになっていくだけでしょう。

 そして、そういう人間ほど、ただ日々の生活の中へ自らの思想性を還していく大衆をも、内心では嫌悪し、見下すものだろうと思います。

 「ヘン、ベートーヴェンなんかききながら、学問をしやがって!」という、たしかに憎悪むきだしの侮蔑の言葉は品のない罵倒だけれど、現代の鹿鳴館型知識人への揶揄としてみれば、まんざら当っていなくもないし、それを聞かされる側はへそのあたりで人知れず隠し持っていたものだけれども、思い当たるところがあるために、余計に侮辱として「こたえる」ものだったのではないかと思います。

 知識人の大衆嫌悪のホンネはふだんは抽象的な論理の言葉の影に隠されて明かされることはないもののようだし、ことにそれがリベラルな言辞を弄する人の場合は、いっそう秘されているものなのでしょうが、ときにその種のホンネが明かされ、驚かされることがあります。

 ”マスとかいわゆる一般大衆というかいうものとは関係なしに生きたいと思う瞬間というのは、たぶん皆さん方にもあるかもしれないし、私には完全にあるわけです。これは主義主張の問題じゃあなく、アレルギーみたいな病気です。朝、電車を待っていますと、「10パーセントの飴の確率」という予報にごく忠実に慎ましく傘をかかえた人たちが電車のホームをうずめつくしている。これがまず気に入らない。そのうち必ず一人くらいは傘を逆さにして何かゴルフのスイングみたいなことを始めるわけですね(笑)。で、ああいう連中と同じ電車に乗るのは絶対に恥であるから家に帰ろうと思うわけですけれど、帰りません。やはり、どこかで妥協しているというところがあります。しかし、自分が一日をつつがなく生活するには、こんな人たちの姿が見えないようなところで暮らせたらなあという夢があるわけです。けれども、それはまあ誰もが持っている排除と差別への誘惑という程度のことであって、それを主義として論陣を張ろうというものではないわけです。”(蓮實重彦「物語の時代」GSfile)

   実はこの引用は、吉本さんの出していた雑誌『試行』の1986年2月に掲載されたのを『完本 情況への発言』にまとめられたのを孫引きしました。昨日、丸山眞男の『現代日本の革新思想』での発言をたしか吉本さんが試行の情況への発言でも取り上げていたのではなかったか、と思って、この本のページを繰って探していたら、探し物はみつからずに、たまたま見つけた中にあって、読んで、とうに忘れていたけれど、蓮實がこんなことを言ってたんだ、と思い、やっぱりな、という感想を持ったので、先の丸山眞男の潜在的な大衆嫌悪みたいなものと同じ意味で引用してみたのです。

 吉本さんはこういう引用をして蓮實さんを批判したり否定したりしているわけではありません。ただ、なんか気の毒だね、こんなことを思いながらやってるなんて、大変だよな、と同情しているというか(笑)、自分とあまりにも真逆な大衆への姿勢に呆れているというか(笑)そんな感じがする引用の仕方だったと思いますが、私はこういうホンネをもらすような人が、どんなリベラル風な口をきいても、民衆がどうの大衆がどうのと言っても、全然信用できません。

 ついでに思い出したから書いておくと(笑)、吉本さんが亡くなったとき、なにかの雑誌で追悼の特集があった中に蓮實重彦も短い文章を書いていて、追悼らしからぬ文章だったけれど、ほかにも同じ趣旨の彼の書いたものを読んだ記憶がありますが、そこでも彼は吉本さんの「言語にとって美とはなにか」で打ち立てた理論に、それが出された当初の蓮實の受け止め方を回顧するような形で、そこに当然考慮さるべき(ソシュールに由来する)「差異」の概念が欠如していて驚いた、あるいは呆れた(?笑)といったニュアンスの文言が連ねられていたので、しつこいやつだな、と読むこちらのほうが呆れた記憶があります。

 だいたい、吉本さんがドゥルーズだのデリダだのフーコーだの舶来流行の花々の間をきょうはこちら、明日はあちらと飛び回って「差異」か何か知らないが美味そうな蜜を集めてまわり、自分が創り出したものであるかのように吹聴してはしゃぎまわるなどと思うほうがどうかしています。文明開化の時代のような野暮な紳士淑女ではなく、現代でははるかに高度に洗練されているかもしれないけれども、そういう日本型知識人の伝統を固く守る鹿鳴館的紳士淑女はいまだにたくさんいるけれども(笑)、吉本さんが最初からそういう横文字好きの連中とは縁もゆかりもないことは誰もが知っていることです。

 そう言えばもとに戻って柄谷行人も、誰かとの対談の記録だったか、忘れてしまったけれど、柄谷が吉本さんと個人的に話したときに、彼自身が「言語にとって美とはなにか」を書いたときに、ソシュールを十分理解していなかった、と率直に認めていましたね、などと語っているのを読んだことがあります。
 あれも故意か偶然かは知らないけれど、ずいぶんミスリーディングな言い方というのか、個人的エピソードの披露の仕方だな、といぶかしく思いました。周知のように、吉本さんはのちに『ハイ・イメージ論』の拡張論において、ソシュールの言語学とみずからの言語美の理論とを丁寧にすり合わせて論じています。それを読めば、吉本さんが「言語にとって美とはなにか」を書いた時にまるでソシュールを理解しそこねて、後でそれを悟って、自分は理解しそこねていたね、と語ったかのようにも聞こえるのが、まったく嘘というのか、ほとんど誤解を与えるための言い草に聴こえます。

 もとよりまっとうな思想が展開されていくとき、それまで触れあわなかった新たな思想に遭遇し、あるいは新たな現実の出来事に遭遇して影響を受け、遺伝子の組み換えのように交叉しあって新たな思想的展開にいたるとしても、それは現代でも鹿鳴館型知識人がやっているような、あっちの思想のほうが新しそうで流行の舶来思想だから、あっちに飛び移っちゃう、などというものでないことは明らかであって、自分がそれまでの思想をはぐくんできた延長上に、どう新たな出会いの契機を取り込んでいくか、という課題として取り込まれていくものでしょう。

 だから、よく吉本さんの言語論にフランス舶来の差異概念がない、なんて欠陥のように言う者があるけれど、まったく馬鹿げたことで、いつも借り物の出来合いの概念でしか物事を考えてこなかった、そしてそういう最新流行の舶来概念をいち早く輸入して振りまくことをアドバンテッジと心得ているような連中だけがそんなことを言うのだと私などはずっとみてきました。

 それにしても、ソシュール理解が間違っていたよ、あれはほんとは正しかったんだね、おれ間違ってたから修正しといたよ、なんて簡単なものでなかったことだけは確かで(笑)、ましてやハイ・イメージ論が出た後で柄谷があんなことを言ったのだとしたら(その前後関係は知りませんが)まったく故意にミスリーディングなことを言ったことになってしまうでしょう。

 ずっと以前にやはり「情況への発言」の中で、吉本さんが柄谷を批判したことがあって、それは吉本さんが柳田国男全集の月報だったかに「無方法の方法」という短い文章を書いたのに触れて、吉本が柳田の方法を「無方法の方法」と呼んだが、自分はそうは思わない、柳田は体系的ではないけれども、そういう叙述形式とは別に、一貫した内的な体系があり、方法がある、という主張を展開したのに対して、その書きぶりについて「詐術」に等しいとかなり手厳しい批判をしていました。その末尾に「わたしは戦術や小才だけで、文学の世界をわたり歩く文学者の失墜を信じて疑わない。」とあって、これを半世紀近く前に読んだときは、何のことかよくわかりませんでした(笑)。

 当時の柄谷はまだ若く、なんとなく上から目線でえらそうな人だな(笑)という印象はあったけれども、マクベス論などをおさめた「畏怖する人間」だったか、読んで面白いなと思っていたので、こういう言い方で吉本さんが叩くのはちょっと意外に思えたのです。もちろんその後、吉本さんが彼の優秀さも認めたうえで、直接にも面識があるらしい若い批評家を叱咤激励するような意味合いで叩いていたんだろうな、とは思いましたが・・・。

 しかし、あれから4,50年たって、みな歳をとり、吉本さんが亡くなってしまってから、なぜ丸山眞男論なんだろう?(笑)。いや、そういえば近年、生後何周年とか没後何周年とか、いや海外に紹介するためとか、いろいろ現実的なきっかけはあるのでしょうが、丸山眞男や花田清輝をとりあげる企画が少なからずあったり、それも大抵はそのついでに、彼らの生前、思想的な敵対者であった吉本さんを(彼らを今の時点で対等に扱うことによって間接的に)相対的に価値を低めるような言説を陰に陽にその言説の中にもぐりこませるようなのがあったり、吉本さんの名を直接挙げずに、吉本さんが生前よく言っていた「自前の思想」を揶揄するようなことを言ってみたり、なんだかそういう輩が多くなりましたね。自分でみっともない、と思わないのでしょうか・・・。

 私などは、ああ、またゾンビが一人甦って来たか(笑)・・・と思って見ていますが。私はホラーは嫌いで、とくにゾンビは大嫌いなので、これ以上はおつきあいしかねますが(笑)・・・

saysei at 00:21│Comments(0)

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