2006年03月10日

青春デンデケデケデケ

花粉症がひどくて、メグスリ、点鼻薬、市販内服薬を併用しつつ、会議で出勤。昨日私も一緒で教務委員が完成した書類を、全体の担当の先生に渡しに行って、いちおう春休み前の仕事はめでたく終了。

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 ゼミ室でサークルの先輩のためのビデオを編集しているゼミ生さんに、なつかしいベンチャーズを演奏しているビデオを見せてもらう。彼女は「青春デンデケデケデケ」の小説も映画も知らないという。あれは小説も映画もなかなかの出来栄えだった。メジャーになることを夢見る若い人のバンドの話を、いまのスゥイングガールズなんかのような明るいタッチで描いて、なかなか面白かった。

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 4時ころ就活の相談に来るというゼミ生を待っていたら、別人のクラスの学生さんが久しぶりに覗いてくれる。何度か来てくれたらしいけれど、部屋にいなかったらしい。彼女と同じゼミの友人も来て、一緒にけっこう長時間就活の話などをして過す。

 書いたものも見せてもらい、十分時間をかけて話してみて思うのは、やっぱり学生さんは意外に自分の「強み」とか「自分らしさ」を的確にとらえていないということ。また、直観的には分かっていても、なかなかそれを言葉にするのが難しいらしいということ。

 喋っているうちに、なるほどなぁと自分自身に気づくようなところはあったのではないかと思う。

 文章のほうは、ほかの年長者にも見てもらっているようだけれど、やはりおじさん世代の文章は、よくできているけれども、所詮おじさん世代の文章。若いそのひとなりのキャラクターが素直にストレートに出たリズム感に欠ける。そんなに論理的な書き方、喋り方をしない学生さんの文章が、妙に論理的になっていたりすると、無難な文章にはなるけれど、彼女の個性の魅力がうまく伝わるようにはみえない。

 その点は、添削など頼まれてホイホイとやってしまうことの怖さで、いい文章に直したつもりでいて、もともとの勢いや初々しさの魅力を殺いでしまっていかねないところがある。

 それでもなにかを頼まれるというのは、少しは自分もその人の役に立てるのかもしれない、と思えて、嬉しいものだ。頭の回転が速く、いつもは話が横滑りしてなかなか波長の合わせにくい人が、こちらの話を真剣に聞いてくれて、まっすぐに手ごたえを返してくれるという機会もそうそうあるものではないから、とても楽しいひとときだった。

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 約束をしていた待ち人は来たらず、6時を過ぎたので3人で一緒に梅田まで出る。実は今日は珍しくケータイを家に忘れて出てしまったので、きっと待ち人はケータイにメールを入れてくれたのだろうと思ったが、どうしようもなかった。家に帰って、夜中近くになって、やっと届いたメールを見る。幸か不幸か、彼女も用が長引いて、約束をキャンセルするメールだった。

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 日銀の量的緩和の解除で、金融・経済の一つの時代的な区切りがついた。早くから予測できていたことなので、市場に急変はないけれど、じわじわ効いてくるに違いないので、目が離せない。面接でトピックスとしてそんなことも訊かれる人が出てくるだろうから、ゼミででも話をしてあげたらよかったなぁと思う。もっとも、そんな話を始めたら居眠りが増えるかもしれないけれど。



 

 

at 00:06|Permalink

2006年02月25日

リンダリンダリンダ

 大阪芸大出身・山下敦弘監督の「リンダリンダリンダ」のDVDが出たので、アマゾンで予約しといたのが届いて、評判になったこの映画をようやく観ることができた。南館でやっていたときには行く間がなかった。

 以前に山下監督の作品をみたときは、退屈で閉口したけれど、この作品は面白かった。ただ、やっぱりテンポが遅くて、少し退屈なところはある。そのスローテンポの中にしか棲息できないちぐはぐでとぼけたユーモアがあるので、長所と短所は表裏一体。

 ずいぶん前にメイキング本みたいなのを読んで期待が膨らんでいたので、それほどでもなかったな、という印象。ただ、気分を絵にすることで、いまの女子高生の「マンマ」(ありのまま)を、うまく表現できているのに感心した。
 
 「スウィングガールズ」と似ていると言われるそうで、それは女子高生がいろいろあるけどバンドをやって最後は演奏会で一体になってカタルシスを感じるみたいなシチュエーションは似ているけれど、明確なストーリー展開とテンポの速さでひっぱっていくエンターテインメント性とはこの映画、ちょっと違うと思う。

  トイレで二人の会話が韓国語になったり、トイレの鏡にうつるトイレットペーパーのロールの山は見ているときに、おや、と思ったけれど、(恵の夢の中の話ではあるのだけれど)アソビとして見ていて面白いシーンだった。

 バス停で二人並んで話している光景は、山下監督の前の作品ではどうしようもない男の子二人がならんで喋っている、見慣れた光景だが、男の子たちに向けたカメラが、女子高生を向くことで、明るく、シャープになった。恵のようなキャラクターは男の子どうしでは出てこなかった。4人の異なる性格の組み合わせと関わりが絶妙で、そこが一番面白い。

at 02:20|Permalink

2006年01月30日

となり町戦争・ニート・輪舞

 「白夜」が面白かった、と言ったら、そうかな?推理小説としてしっかりした構造を備えていないし、きまりきったパターンの繰り返しだし・・・と長男はクールで、そう言われればそのとおり。ただ、主人公二人の行動と内面を直接は一切描かずに周囲の登場人物の客観描写で抑えて抑えてあの長尺を描ききっていく力量はやっぱり並みじゃないと思う。

 で、その長男が最近読んだ若い世代の小説でちょっと面白かったのは「となり町戦争」くらいだった、というので、早速今日の車中で読んだ。三崎亜記という70年生まれの人だから30代半ばの作家だ。日常的な世界とぴったり重なるように目に見えないもう一つの世界があって、それがところどころズレたりほころびがみえたりして、そのハザマにこぼれ落ちて右往左往するといった設定のなかで、実はわたしたちにとって戦争というのは、こんな形でやってくる、いやすでにやってきているし、いまその中でぼくらは生きているんじゃないか、と言いたげな小説だ。

 糞リアリズムと切れた人工的な作品世界で、すこしひ弱な印象はあるけれど、こういう世界をつくるという意志は感じられて、それが十代か二十代のナイーヴな青年作家の作品のような透明感を感じさせて、悪い印象ではない。ただ、そのせっかくの設計が弱くて、荒唐無稽が日常を突き破っていくような迫力に欠ける。

 当然こういう作品を読むと、日常のすぐ隣に自分をとらえにくる法の執行官がいたり、掟の門番がいたりするようなカフカの世界が想起されるけれども、カフカ自身は病弱ひ弱な肉体の持ち主だったけれどその作品世界はひ弱ではなく、その荒唐無稽はあの虫のように日常性を食い破っていく。

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 芥川賞を受けた糸糸山秋子(糸がふたつ並んだ字の「いと」)「ニート」。これは面白かった。ニートのキミに語りかける二人称的(?)な語り口がよく効いていて、いまどきの脱力系の男女のつながりかた、切れ方が、なかなかたくらみのある文章で描かれていて、各所でにんまりするようなところがある。まぁ、好きなタイプの作品じゃないけれども。

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 テレビドラマは「白夜」と「輪舞」をビデオにとって見逃さないようにしている(笑)けれど、(白夜」のほうは、作品が私にとっては面白かっただけにがっかりの連続だ。あえて作者が厳しい抑制から描かなかった主人公たち2人の行動と心理を直接追っかけようとして完全に失敗していると思う。ここには二人のクールさも非情さもない。ただ行き当たりばったり、なりゆきに翻弄され、その都度おろおろ泣いたりわめいたりしながら罪を重ねていく、凡庸な青少年犯罪者の姿しかない。

 原罪を背負い、宿命的に結び付けられた二人が、表舞台には一度も姿を見せず、寄り添う姿を見られることもなく、極悪非道を冷徹につらぬいて、永遠に陽のささぬ白夜を手をたずさえてひた走る、読者はその無垢の原点を知るゆえに、その汚辱にまみれた極悪非道が、親鸞がいう悪人正機の極悪人の行ないのように、まるごと浄化されるかのようだ。だから二人の白夜行が、明け六つの鐘を聴きながら曽根崎の森へひた走る男女に重なり、現代の道行のように見えてくる。

 そんな原作の美しさを、このドラマは台無しにしてしまった。男優は「セカチュー」以前にテレビドラマで消防士を演じていたころから、一途な演技が嫌いではなかったし、女優もわるくない(少女時代を演じた福田麻由子が抜群によかったので、彼女がハイティーンになればああいう顔になるかも、と思わせるところがあるし)のだけれど、なにせ脚本がいけない。松浦役の男優など、役者はなかなかいいのだけれどなぁ。どこかにもっといい脚本家がいるだろうに!といっても三谷幸喜じゃぁ喜劇になっちまうしなぁ(笑)

 それにひきかえ、「輪舞」(ロンド)のほうは、和製香港ノワールって感じで、なかなかイケル。なんたってチェ・ジウだ。悪かろうはずがない!(笑)。美しき日々のセナ役と再び姉妹役ってのもサービス満点だ。竹野内豊も好きだし、ホットでクールな難しい役どころを魅力的に演じている。
 まわりを固めている俳優たちもいい。もこみちもよくやっているし、きっとチェ・ジウたちの探している父親なんじゃないかと思う「神狗」の親玉の韓国人役も迫力満点。いま一番楽しいテレビのエンターテインメントだ。

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 映画でも小説でも、私は「大衆性」のある作品が好きだ。エンターテインメントという意味ではなく、観客や読者に開かれている、ということだ。

 だいぶ前に、西宮で映画館をつくる運動をしている人の誘いで、彼らが商店街の幾つかのスポットを借りて上映した映画「祭」を夫婦で見に行ったときのこと。カフェみたいなところに、若いボランティアスタッフがたむろしていて、そこでもテレビのディスプレイで学生のつくった映画を上映していた。

 少々場違いな感じはしたけれど、カウンターの前に座って、次々に上映される映画を見た。ほんとうに死ぬほど退屈な、そしてつまらない映画だった。帰り際に感想を聞かれて、なんとか一つくらい良いところを見つけて言ってあげないと、スタッフのみなさんも苦労の甲斐がないわなぁと思って焦るのだけれど、何一つ思いつけなくて困った。仕方なく、どうもこういうのは苦手で・・・あまりぴんとこないというか、・・・というようなことを言ったのだと思う。

 すると、カウンターの内側にいた女性が、不満だったようで、「自主制作映画を見たことがありますか?あまり見なれてないと、なかなかこういう映画は分かりにくいでしょうね」みたいな言い方をした。

 目が点になってしまった。自主制作であろうがメジャーであろうが、こっちの知ったこっちゃない。いいものはいいし、ダメなものはダメなの。それが分からなかったら、映画に関わることなんかやめたほうがいいし、文化がどうのこうのなんて言うべきじゃない。

 たまたま次男が映画や音楽に関わるようになったので、ほかの若いクリエーター(のたまご)たちにも接するようになったけれど、彼らがあの彼女のようでないことを祈る。

 若いからプライドが高いのは結構だし、傲慢であっても不遜であっても構わないけれど、「自主制作映画だから、つまらない映画でもハンディをつけて評価してくれ」、というような根性だったら、はじめからやめたほうがいい。

 金がない、暇がない、いいスタッフやキャストが集められない、だからこういう映画しか作れないんだ、と泣き言をいうくらいなら、映画づくりなんかしないほうがいい。

 200万には200万の、60万なら60万の作り方ができるはずだろう。60万の製作費だからといって、キャストやスタッフはどんなやつでもいい、と少しでも思ったらアウトだと思う。60万なら60万の範囲で、最高のキャストとスタッフを必死で探すべきだし、みつけたら土下座してもひっぱってきてやってもらう熱意を示すべきだろう。

 京都国際学生映画祭でも見た、学生の自主制作映画につきまとう、本人だけが大真面目で傍からみれば滑稽でしかない、気恥ずかしくなるようないくつかのシーンや、独りよがりな暗さ、意味のない意味ありげな「目くばせ」の類、閉じたサークルの中でしか意味を持たないそんなガラクタは、自分で覆っている暗幕を取り去ってしまえば全部カラッと消えてしまうし、そのとき初めて作品が不特定多数の観客に開かれるのだと思う。 
 それは「セカチュー」に感動するような観客に媚びることではないし、エンターテインメントに堕ちることでもないはずだ。

 次男の周囲の人たちを見ていると、それぞれの判断を尊重するのはいいが、その前に徹底的に議論しあうとか、批判しあう、ということがないのが気になる。互いに立ち入るまい、立ち入られまい、という中途半端な距離感を保とうとしているようにみえる。これはぶち壊したほうがいい。雇ったアーチストにどんなコネがあるのかは知らないが、そんな音楽じゃだめだ、というのは、はっきり言うべきだと思う。怠けていないで真剣にやれ、というのも言ってやればいい。それが相手の才能を本当に尊敬する友情というものだろう。
 それでも、オレはこうするぞ、というなら、最後はプロデューサーなり監督なり、最終責任を持つ者の判断に委ねればいい。それまでのプロセスが物足りない。それは確実に作品に反映されるはずだ。

 次男の友人たちが、いま数十万、せいぜい100万、200万の映画しか作れなくても、そういう「自主制作映画仲間」みたいな<部分社会>に閉じて、「自主制作映画を見慣れていて自主制作映画がわかる」お仲間どうしほめあって自己満足するような人たちであってほしくない。
 切磋琢磨して、万人に見てもらえる開かれた映画をつくる努力をしないで、これが分からんやつは映画が分からんのだ、というプライドだけ高い閉じた「自主制作映画長屋」の住人であってほしくはない。そういう人たちは、永遠にその貧乏長屋から出ることはないだろう。

 いま現実には100万の映画しか作れないとしても、1000万与えられれば1000万の、1億与えられれば1億の作品を、いつでも作ってみせる、という誇り高い姿勢と技量を磨く努力を保ち、不特定多数の観客に開かれた志をもって作っていってほしいと思っている。

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 仮称クルミちゃんは明日が予定日なのだけれど、きょうもさしたる徴候はない模様。さすがにまんまるにふくらんだおなかのほうに、「もうそろそろ出てきてもいいぞぉ?っ!」と声をかけてみる。
 

at 22:05|Permalink
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