2007年11月08日

「クローズド・ノート」&「サウスバウンド」(脚本)

 『シナリオ』11月号掲載の、映画「クローズド・ノート」と「サウスバウンド」のシナリオを読んだ。

 「クローズド・ノート」は、きっとまた若い女性が泣きに行く映画なのだろうと思う。「世界の中心で愛を叫ぶ」と同種の映画で、監督も行定勲とあれば、もうキマリだ。沢尻エリカ、伊勢谷友介、竹内結子と旬の俳優を使って、アイドルファンを大勢引き寄せること、まず疑いなし。

 2人の女性の状況と想いが重ね合わされる設定も、リュウの絡み方も、伊吹を待ち受ける運命も、歌謡曲の恋と雨と涙のようにお定まりだし、伊吹は徹底的に理想化された非現実的な人間像のパターンをなぞっている。

 本心を書き付けた日記のページを破って紙飛行機にして飛ばす人はまずないだろうけれど、そのへんまでくればもう涙がとまらない観客は、そんな野暮なイチャモンをつけたりはしないだろう。

 いつでも大多数の人はこの種のメロドラマを好むものだし、旬の女優さんの美しさに惚れ惚れし、周到に準備された泣かせどころに、そうと知りつつ泣かされて帰ってくるのだろう。

 細部の、たとえば映像の転換に、とてもいいところがある。もちろん多数の観客の心を捉えようと思えば、その種の映画的な仕掛けについてはプロの腕前を見せなくてはならない。

 セカチュウが流行ったとき、つい、つまらない映画だった、と口走って、可愛い目にありったけの憎悪をこめて睨まれ、自分がいい映画だと思ったんだからいいんですっ!と切り口上で言われて閉口した。

 もちろん人それぞれ。ひとの好みをとやかく言うつもりはサラサラ無いので、私は私の好みを言っただけなんだけど、まぁ自分が大好きなものをけなされたと思ったのでしょうね。

 もちろん原作とシナリオ、シナリオと映画はまた別物。映画は映画で見てみないと分らないでしょう。きっと泣かせる映画ですよ。

                *

 「サウスバウンド」のほうは、私にとっては面白そうな映画になっていそうだ。全共闘あがりの一郎といういまは中年のおっさんになっている男の造形が面白い。

 これをいま演技からみて(年齢がただ若いから旬というだけの俳優ではなくて)旬の俳優、豊川悦司が演じているので、よけいにそう思う。テレビで先行上映した「犯人に告ぐ!」を見たとき、映画としては大したことなかったけれども、豊川悦司には感心した。

 脚本・監督の森田芳光は、「家族ゲーム」と「(ハル)」で絶対的な信頼感がある。(ときどき首をかしげるようなのもあるけれど。)

 全共闘あがり(あるいは「くずれ」)が描かれるときは、これまでのところ、まずほとんど全部、否定的にしか描かれなかった。頭の硬い、アナクロのおっさんというのが相場だ。口で反体制とか小難しいことを言いながら、若い女に寄生しているような偽善者であったり、ただただ殺意と暴力に凝り固まった小児病的な狂気の集団であったり、最悪の毛沢東思想にかぶれて現実離れした能天気な農村主義者であったり、いずれにせよ遅れてきた世代の特権で、全共闘世代については、思い思いの勝手なイメージの百花繚乱。そのすべてが否定的なものだったと言っても大過ない。村上春樹の描く「鼠」のように例外的にすぐれた作品もあるけれど、否定的な造形であることでは同じ。

 でも森田芳光のシナリオに登場する一郎は面白い。頭の硬い、アナクロのおっさんで、周囲を巻き込んでさんざん迷惑をかける、と普通に言えば言ってしまえるようなオッサンだけれど、彼は作者によって大きく肯定されていて、なかなか頼もしい存在感がある。

 まぁ作品としては支離滅裂、こっちの世界の話だと思って読んでいると、あれよあれよという間にあっちの世界へ行ってしまって、あちらでも大暴れ、といった痛快さ。失敗作かどうかは分らないけれど、こういう何かを突き破っていくような面白い作品はぜひとも必要だ。

          

at 02:08|Permalink

2007年11月01日

『日蝕』(平野啓一郎)

 読んでいるうちに、これは前に読んだ作品だったな、と思い出した。『葬送』で脱帽した作者の文壇デビュー作と思えば、なるほどなぁと若さに関係なく腰の据わった反時代的な作風、骨太な思想性、プロフェッショナルな作品づくりの細部の徹底性、重厚な想像力などを見ることができるけれど、最初に読んだときは、こういう擬古典の文体がぺダンチックで鼻についた。

 スコラ学僧だから、こういう日本語になるわけ?時代と場所が中世のラテン世界であっても、神学僧の内面を通して描かれる世界であっても、すなおな現代日本語で書いていいんでないの?と感じた。もともと西洋ものを日本人俳優が赤毛鬘に付け鼻なんぞつけて演じるようなのをいくら名演だの名演出だの言われても好きになれないので、いかにもつくりものめいたこの作品の文体にも違和感をおぼえたのだ。

 いま読むと、そういうノイズを取っ払ってみて、「私」が錬金術師ピエェルに強烈な磁力に吸い寄せられるように惹かれ、光輝くアンドロギュロスを目撃する場面から、それが焚刑に処せられるとき天変地異が起こり、「私」がアンドロギュロスと一体になるクライマックスの異様な迫力が、「異端」の抗し難い魅力(魔力)のように感じられる。

 作者は文学史に意識的な作家だから、たまたま読んだ新潮文庫版の四方田犬彦の解説のようにこの作品を「通過儀礼の物語」であり、その反復であるとして、部分部分にそれぞれ反復してみせた当のものを充ててみせるという、これもまたまことにぺダンチックな、文学史的知識をひけらかしながらの解釈が、ふ?ん、そんなものかね、といちおうは納得できるようにみえるけれど、ルビの使用に意味の撹乱を図るエクリチュールの戦略をみる、とまで言われると、なんだかこの作品のスケールと密度に釣り合いのとれない深読みに思えてくる。

 

at 01:32|Permalink

2007年10月31日

葬送 6

 一昨日、とうとう『葬送』を読み終わってしまった。なんだか淋しい。まぁ何回も読めばいいのだけれど、やっぱり車中の細切れの時間で読むのは辛いところがある。また少し時間ができたら読み返すことにしよう。

 ショパンの苦しい、緩慢な死が、演奏会の描写と同様に、スローモーションのように繊細かつ苛酷に描かれる。いろんないみで、しんどい部分だけれど、読んでいるうちに、本当に人間の死というのはこういうものなのだろう、と死に侵されて行くショパンに立会いながら、ショパンの死を超えて人の死を実感できるような気がしてくる。

 引き延ばされた苛酷な死ではあるけれど、自分を侵す病魔を見据えながら、妹や姪や親しい友人たちに次々に会い、言葉を交わし、見取られながら死に一歩一歩近づいていくショパンの死は、現代の孤独な不意の死に比べてなんと古典的で牧歌的に見えることか!

 ショパンの死をそれぞれの友人や家族たちがどう受け止めるかも、多くの言葉が費やされるわけではないけれども、実に的確に描かれている。一番詳しいのはこの作品のもう一人の主人公であるドラクロアだが、その悲しみの描写はほんとうの意味でリアルだと感じた。

 ずいぶん昔、NHKの大河ドラマで、緒方拳が忠臣蔵の大石をやったとき、主君の死の知らせを受けた彼が、ほとんど実感の伴わないぼぉとした表情をして、りくが声をかけるのもうん、とかあぁとか生返事をして、いつもどおりはかまを脱いだり、食事にしましょうかと言われて食膳について箸を運ぶ。そして食べいる最中に突然、はたと飯椀を取り落とす場面があった。平野のドラクロアを読んでいて、あれを思い出した。

 きっと人間というのは本当に深いところに衝撃を受けたときは、こんなふうにしか受け止められないのだろう、と納得させるような描写が丁寧になされている。

 ショパンの死の受け止め方に限らず、人間関係の微妙な差異を、この作品は実に繊細に区別しながら描き分けている。ショパンとドラクロアはごく親しいのだけれど、それは既に傑出したそれぞれの道の才能として世に出たのちに出会った友人どうしのそれで、ほんとうに細やかな交情ではあるけれども、おのずから節度があり、距離がある。

 でも、ショパンとフランショームの友情はそういうものではない。本当に心を許しあった親友というのはこういうものだという、まさにそういうものが、これ以上ない的確さ、繊細さで描かれている。

 いやもちろんここにも節度があり、距離もある。私たちの例えば若い日のいささか粗雑な友情からみると、考えられないほどに、互いにほんの一瞬心を過ぎる影さえも見過ごさずに自分の相手への思いやりや言葉に織り込んでいくような繊細な友情、深い尊敬の念、強い自制や自己犠牲、純粋無垢の愛情、いやどう言葉を費やしてもうまく表現できそうにないが、むしろ「共感」「共鳴」あるいは「共振」しあう魂、とでもいうべきものだ。

 ショパンのチェロ伴奏者であった彼は友人としても人間ショパンとすぐれた楽器のように共鳴、共振している。

 フランショームとドラクロアや、その他のショパンの友人たちとのショパンをめぐる会話に、彼らのショパンへの想いが見事な間接話法で活写され、しかもそれぞれのショパンとの微妙な共振の違いが綺麗にスペクトルを描くように描き分けられている。

 今日の車中では、大著を読み終わってほっとしながら、同じ著者のエッセイ集『文明の憂鬱』を気軽に繰っていたのだが、著者は世代は若いけれど、やはり現代に生きるそうした年代の世代としては稀有な、なかなか反時代的な精神の姿勢を持った、たぶん周囲からみればひどく古典的で頑固にみえる構えというか風格をもった人なんだな、という印象だ。

 一息ついて、また以前に読んだことのある「日蝕」や雑誌で読んだ「顔のない裸体たち」など他の作品が、『葬送』を読み終わったいまの目にどう映るか確かめてみたい。

 

at 00:33|Permalink
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