2024年10月05日
娘3人を殺されてなおイスラエルとの懸け橋になるというパレスチナ人医師
昨日夜の6chTVのニュースだったと思いますが、パレスチナとイスラエルの懸け橋になろうと志してイスラエルの病院に勤務していながら、パレスチナの自宅にいた娘3人をイスラエル軍に射殺されたというパレスチナ人医師が登場してインタビューに答えていました。
彼はそんな悲劇に見舞われながら、なお志を捨てず、暴力は暴力を、殺戮は殺戮は生むだけだと主張し、どんな惨劇に遭っても復讐だけはしない、と言うのです。インタビューしている女性キャスターは彼にどうすればよいと思うか(だったか定かではないけれど)と反問されて、ほとんど答えに窮するというか、頭では彼の主張を理解しても、とてもついていけないといった感じで立ち往生の感がありました。
すごい人があるものだと私もある種の衝撃を受けました。たしかに理屈で考えれば、暴力は暴力を生むだけで何の解決にもならない、というのは、今起きているパレスチナの悲劇を見ていても自明のように思われます。しかし何の罪もない自分の娘を無慈悲に全員射殺した兵士たちを皆殺しにしてやりたいと思わない父親があるでしょうか。たとえ自分が非力だとしても、法の裁きで、あるいはそれができないなら、殺人部隊に敵対するいかなる勢力の力を借りてでも復讐してやりたい、と願うのはむしろ親の感情としては当然ではないでしょうか。
仮にそれは感情論であって、理性的に、復讐は復讐の連鎖を生むだけだという主張を正しいと認め、きびしく自制して和解あるいは許容することが「論理的に正しい」?としても、こんどはそういう「解決法」?が本当にこうした事態を良い方向へ、つまりそうした惨劇が起きない方向へ向かうかと言えば、私は疑問だと思います。
殺人部隊の兵士たちは、そんな片方の自制や寛容さなどに無関心で、さらなる殺戮に邁進するだけでしょう。いまイスラエル軍がガザやレバノンでやっているように、です。個人レベルの理性や倫理などというものと、国家のような共同性に覆われた逆立ちした人間の「理性」や「倫理」などというものとはまるで次元を異にして、触れあうことなど金輪際ないだろうと思います。
正義はつねに最終的には勝つ!というのは、少年の日の夢であったマンガのヒーローたちのセリフで、マンガではそのとおりになるかもしれないけれど、現実の世界では、こうしたまったく良識だの人間性だのといったものを失わせる国家意志で動く暴力装置に組み込まれた殺人部隊の兵士たちを抑えられるのは、自制や寛容さではなく、彼らの者とは異質のものではあっても、やはりある種の「力」にほかならないでしょう。
それが具体的にどんなものかと想像してみると、私には、歴史的に革命の際などにみられるような、圧倒的多数の民衆の団結力であり、抵抗にほかならないように思われます。決定的な瞬間には、どんな強力な武器も圧倒的多数の民衆の団結力による抵抗の前に屈するほかはない、と。
おそらくそれ以外には大国の権力で一時的にそうした事態をとめえたとしても、また同じことがその大国の胸三寸で起きてしまうにちがいありません。むしろいかなる国家権力でも抑えることができない、圧倒的多数の民衆の抵抗力によってしか、最終的な解決はありえないのだろうと思うのです。
私はその民衆の力に、怨念も復讐もすべて包括されるだろうと思うし、それは当然だと思うので、復讐はよくないといったわけしり顔の御託宣に心を動かされることはありません。それがたとえイスラエルの殺人兵士たちに娘三人を皆殺しにされたパレス人の言葉であるとしても、です。
いまはパレスチナにみるように民衆の力は極めて弱く、ただ殺戮されるままにみえます。しかし、パレスチナの民衆がいつまでもそうだとイスラエルの狂人たちが思っているなら、それはとんだ間違いだったと思う日が必ずくるでしょう。
映画「アルジェのたたかい」のように、無知無力のうちにわずかなテロルを実行するしかなかったアルジェリアの民衆が、長い年月の間堪えがたいフランス軍の圧倒的な力の前に抑圧され、弾圧、拷問に堪えて蓄積してきた圧倒的なエネルギーが爆発したとき、フランス軍は執着した利権を放棄して撤退するほかはなかった。同様に、パレスチナをはじめとするアラブの圧倒的な民衆が立ち上がるとき、イスラエルなどと言う砂上の楼閣は吹っ飛んでしまう日が必ず来るでしょう。そのときいまイスラエルがやっていることを知る世界は、イスラエルに同情などすることなく、むしろ喝采するのではないでしょうか。
きょうの夕餉
キノコと生ハムのレモンクリームパスタ
ロールキャベツ
チーズとバケット
グリーンサラダ
きょうも上賀茂の野菜自動販売機を覗きに行きましたが、電動アシスト自転車をこいでいると風が涼しくて気持ちが良かった。
野菜はほとんどありませんでしたが、最初の100円均一おじさんのところで、とても美味しそうな生きのよい小松菜が買えました。また、戸田農園さんの販売機はたったひとつのボックス以外は全部空っぽでしたが、そのひとつというのが、古漬けの小さなスグキでした。200円。もちろんすぐ買ってきました。きっとたくさん出されてもすぐ売り切れてしまっていたのでしょう。このところみんなが知ってしまったせいか、いつ行っても戸田さんのボックスは空っぽです。
フーコーの講義シリーズが出るたびに品切れになって、古書市場で異常に高い値段がついているので、私もたまたま買っていた数冊の中で「処罰社会」というのは、タイトルからみて、まあもう読むまでもなかろう(「監獄の誕生」を読んで、彼の視点や考えはおよそわかっているからな、と)と思って、しめしめ高く買ってくれる人がいそうだから処分してしまおうか、と思っていたのですが、まあ念のためにちょっと目を通しておこうか、ときょう読み始めたら、やっぱり面白くて、とうとうノートを取りながら本格的に読むはめになってしまいました(> <) これじゃ当分処分できそうにない・・・
彼の講義録は、自分が持っていない本はすべて府立大学図書館にあったので、借りて来てコピーさせてもらって、いつでも読めるのですが、そうなるとなかなか、じゃひとつゆっくりと1冊ずつ読んでいこうか、とはならないんですね、これが(笑)。コピーしちゃうと、なんだか安心してしまって、なかなかその時間をとろうという気にならない。本代に匹敵するほどとは言わないけれど、せっかく高いインク代払ってコピーしたのに(笑)、楽しみをあとにとっておくタイプなので、ついついほんとうに読みたい本のほうがあとまわしになってしまいます。
彼はそんな悲劇に見舞われながら、なお志を捨てず、暴力は暴力を、殺戮は殺戮は生むだけだと主張し、どんな惨劇に遭っても復讐だけはしない、と言うのです。インタビューしている女性キャスターは彼にどうすればよいと思うか(だったか定かではないけれど)と反問されて、ほとんど答えに窮するというか、頭では彼の主張を理解しても、とてもついていけないといった感じで立ち往生の感がありました。
すごい人があるものだと私もある種の衝撃を受けました。たしかに理屈で考えれば、暴力は暴力を生むだけで何の解決にもならない、というのは、今起きているパレスチナの悲劇を見ていても自明のように思われます。しかし何の罪もない自分の娘を無慈悲に全員射殺した兵士たちを皆殺しにしてやりたいと思わない父親があるでしょうか。たとえ自分が非力だとしても、法の裁きで、あるいはそれができないなら、殺人部隊に敵対するいかなる勢力の力を借りてでも復讐してやりたい、と願うのはむしろ親の感情としては当然ではないでしょうか。
仮にそれは感情論であって、理性的に、復讐は復讐の連鎖を生むだけだという主張を正しいと認め、きびしく自制して和解あるいは許容することが「論理的に正しい」?としても、こんどはそういう「解決法」?が本当にこうした事態を良い方向へ、つまりそうした惨劇が起きない方向へ向かうかと言えば、私は疑問だと思います。
殺人部隊の兵士たちは、そんな片方の自制や寛容さなどに無関心で、さらなる殺戮に邁進するだけでしょう。いまイスラエル軍がガザやレバノンでやっているように、です。個人レベルの理性や倫理などというものと、国家のような共同性に覆われた逆立ちした人間の「理性」や「倫理」などというものとはまるで次元を異にして、触れあうことなど金輪際ないだろうと思います。
正義はつねに最終的には勝つ!というのは、少年の日の夢であったマンガのヒーローたちのセリフで、マンガではそのとおりになるかもしれないけれど、現実の世界では、こうしたまったく良識だの人間性だのといったものを失わせる国家意志で動く暴力装置に組み込まれた殺人部隊の兵士たちを抑えられるのは、自制や寛容さではなく、彼らの者とは異質のものではあっても、やはりある種の「力」にほかならないでしょう。
それが具体的にどんなものかと想像してみると、私には、歴史的に革命の際などにみられるような、圧倒的多数の民衆の団結力であり、抵抗にほかならないように思われます。決定的な瞬間には、どんな強力な武器も圧倒的多数の民衆の団結力による抵抗の前に屈するほかはない、と。
おそらくそれ以外には大国の権力で一時的にそうした事態をとめえたとしても、また同じことがその大国の胸三寸で起きてしまうにちがいありません。むしろいかなる国家権力でも抑えることができない、圧倒的多数の民衆の抵抗力によってしか、最終的な解決はありえないのだろうと思うのです。
私はその民衆の力に、怨念も復讐もすべて包括されるだろうと思うし、それは当然だと思うので、復讐はよくないといったわけしり顔の御託宣に心を動かされることはありません。それがたとえイスラエルの殺人兵士たちに娘三人を皆殺しにされたパレス人の言葉であるとしても、です。
いまはパレスチナにみるように民衆の力は極めて弱く、ただ殺戮されるままにみえます。しかし、パレスチナの民衆がいつまでもそうだとイスラエルの狂人たちが思っているなら、それはとんだ間違いだったと思う日が必ずくるでしょう。
映画「アルジェのたたかい」のように、無知無力のうちにわずかなテロルを実行するしかなかったアルジェリアの民衆が、長い年月の間堪えがたいフランス軍の圧倒的な力の前に抑圧され、弾圧、拷問に堪えて蓄積してきた圧倒的なエネルギーが爆発したとき、フランス軍は執着した利権を放棄して撤退するほかはなかった。同様に、パレスチナをはじめとするアラブの圧倒的な民衆が立ち上がるとき、イスラエルなどと言う砂上の楼閣は吹っ飛んでしまう日が必ず来るでしょう。そのときいまイスラエルがやっていることを知る世界は、イスラエルに同情などすることなく、むしろ喝采するのではないでしょうか。
きょうの夕餉
キノコと生ハムのレモンクリームパスタ
ロールキャベツ
チーズとバケット
グリーンサラダ
きょうも上賀茂の野菜自動販売機を覗きに行きましたが、電動アシスト自転車をこいでいると風が涼しくて気持ちが良かった。
野菜はほとんどありませんでしたが、最初の100円均一おじさんのところで、とても美味しそうな生きのよい小松菜が買えました。また、戸田農園さんの販売機はたったひとつのボックス以外は全部空っぽでしたが、そのひとつというのが、古漬けの小さなスグキでした。200円。もちろんすぐ買ってきました。きっとたくさん出されてもすぐ売り切れてしまっていたのでしょう。このところみんなが知ってしまったせいか、いつ行っても戸田さんのボックスは空っぽです。
フーコーの講義シリーズが出るたびに品切れになって、古書市場で異常に高い値段がついているので、私もたまたま買っていた数冊の中で「処罰社会」というのは、タイトルからみて、まあもう読むまでもなかろう(「監獄の誕生」を読んで、彼の視点や考えはおよそわかっているからな、と)と思って、しめしめ高く買ってくれる人がいそうだから処分してしまおうか、と思っていたのですが、まあ念のためにちょっと目を通しておこうか、ときょう読み始めたら、やっぱり面白くて、とうとうノートを取りながら本格的に読むはめになってしまいました(> <) これじゃ当分処分できそうにない・・・
彼の講義録は、自分が持っていない本はすべて府立大学図書館にあったので、借りて来てコピーさせてもらって、いつでも読めるのですが、そうなるとなかなか、じゃひとつゆっくりと1冊ずつ読んでいこうか、とはならないんですね、これが(笑)。コピーしちゃうと、なんだか安心してしまって、なかなかその時間をとろうという気にならない。本代に匹敵するほどとは言わないけれど、せっかく高いインク代払ってコピーしたのに(笑)、楽しみをあとにとっておくタイプなので、ついついほんとうに読みたい本のほうがあとまわしになってしまいます。
saysei at 22:21|Permalink│Comments(0)│
2024年10月04日
ピーター・グリナウェイ「水の協奏曲」をみる
随分以前に買ったきり、なんとなく見たい気がしないままほうっておいた、ピーター・グリナウェイ&マイケル・ナイマンの「水の協奏曲」という短編3本が入ったDVDの封をあけて、はじめて視聴しました。こういう前衛好みのひとの喜びそうな監督の映画というのはダメだろうな、と予感していたとおり、やっぱり性に合いませんでした。
最初のは"Making A Splash"と称して、山間を流れる水のしぶきの映像から始まって、ディズニーランドのスプラッシュ・マウンテンかなんぞのように勢いよく滑り台を滑り降りてプールの水しぶきをあげる子供たち、子供たちの競泳、跳びこみetc.etc.と人が水に触れてしぶきがほとばしるシーンがこれでもか、というふうに繰り出され、果てはシンクロナイズド・スイミングの演技を延々とみせられるのには閉口しました。なんでこんなものが取り込まれているのか訳がわかりません。この作品を撮ったころには珍しかったのでしょうか。あるいはこれが人間と水の戯れの極致だとでも?(笑)
映像にシンクロしているナイマンの音楽で、小動物たちが水しぶきを立てたり水しぶきを浴びたりする動作に音が合わされているのなど、ちょうど半世紀ほど前のディズニー映画「砂漠は生きている」のサソリのダンスとか、ああいう手法そのままです。全体に前衛気どりなのに、基本のセンスがおそろしく古臭い。
二番目は"26 Bathrooms"というお題で、文字通り26のお宅のバスルームを紹介して、有閑富裕マダムが居間に浴槽を作ったり、湯船につかったまま食事したり、そういうことが何か生活の豊かさであるとか、創造的な生き方であるとか錯覚しているらしい姿を、なんの皮肉も嘲笑もなく撮っているところを見ると、この監督もそういうのが面白いとマジで考えているらしくて、これまた閉口しました。こちらはくたびれた中年男女の浴室で裸体をさらけだすのなど、見たくもありませんから(笑)。
最後は"Fear of Drowning"という、グリナウェイの代表作らしいDrowning by Numbers(「数に溺れて」)のシーンを細切れに示しながら、そこで起きる水難を装った妻たちの殺人事件のからくりや、その事件の進行に「数」をひとつの枠組み(制約)として用いたと称して、作品のそこかしこに登場する「数」とのからみを解説する、監督による作品解読の試みといったところです。とりあげている自作映画そのものが、私にはどうみてもまっとうな作品だとはみえないので、数を絡ませ、それに変な理屈をつけてしかつめらしく解説なんぞされても、ちっとも納得できないし、第一全然おもしろくもなんともないから、これまた閉口せざるを得ませんでした。
世界の映画オタクの中には、この種の奇人監督が小手先で作った楼閣の玩具みたいな作品をゲージツだとおし戴いてありがたがる御仁も少なくないのかもしれませんが、私は金輪際ごめん蒙ります。しめしめ、これで何の心おきもなくさっさと処分できますわい。
きょうの夕餉
鯵のから揚げのチキン南蛮風。きょうも牛乳を買いにいくついでに、なにか魚も見て来て、と言われて私が選んだのが、割と新鮮そうで綺麗な鯵のひらき(3枚)で、400円台の安さだったので、鯵は割と好きだし、あとはいつも顔を見る凡庸な魚しかなさそうだったので、これを買ってきて料理の仕方はパートナー任せ。
すでにから揚げに味はつけてあったけれど、このタルタルソースと中華風甘酢だれのいずれかをかけて食べると、より美味しくいただけました。
いつもの好物とうがんと、鶏の手羽元のスープ煮
豆腐の鶏味噌かけ
モズクきゅうり酢
(以上でした)
これはきょうのお昼に食べた蕎麦。
芙蓉は雨の中、30輪くらいでしたか、咲いていました。
雨はうっとうしくはあるけれど、掘り返した水仙などの球根の芽が出かかっていたし、キンカンやオレンジレモンの根元に肥料も置いたので、しばらく雨で肥料と土をしっくり馴染ませてくれるのも悪くはなさそうです。
最初のは"Making A Splash"と称して、山間を流れる水のしぶきの映像から始まって、ディズニーランドのスプラッシュ・マウンテンかなんぞのように勢いよく滑り台を滑り降りてプールの水しぶきをあげる子供たち、子供たちの競泳、跳びこみetc.etc.と人が水に触れてしぶきがほとばしるシーンがこれでもか、というふうに繰り出され、果てはシンクロナイズド・スイミングの演技を延々とみせられるのには閉口しました。なんでこんなものが取り込まれているのか訳がわかりません。この作品を撮ったころには珍しかったのでしょうか。あるいはこれが人間と水の戯れの極致だとでも?(笑)
映像にシンクロしているナイマンの音楽で、小動物たちが水しぶきを立てたり水しぶきを浴びたりする動作に音が合わされているのなど、ちょうど半世紀ほど前のディズニー映画「砂漠は生きている」のサソリのダンスとか、ああいう手法そのままです。全体に前衛気どりなのに、基本のセンスがおそろしく古臭い。
二番目は"26 Bathrooms"というお題で、文字通り26のお宅のバスルームを紹介して、有閑富裕マダムが居間に浴槽を作ったり、湯船につかったまま食事したり、そういうことが何か生活の豊かさであるとか、創造的な生き方であるとか錯覚しているらしい姿を、なんの皮肉も嘲笑もなく撮っているところを見ると、この監督もそういうのが面白いとマジで考えているらしくて、これまた閉口しました。こちらはくたびれた中年男女の浴室で裸体をさらけだすのなど、見たくもありませんから(笑)。
最後は"Fear of Drowning"という、グリナウェイの代表作らしいDrowning by Numbers(「数に溺れて」)のシーンを細切れに示しながら、そこで起きる水難を装った妻たちの殺人事件のからくりや、その事件の進行に「数」をひとつの枠組み(制約)として用いたと称して、作品のそこかしこに登場する「数」とのからみを解説する、監督による作品解読の試みといったところです。とりあげている自作映画そのものが、私にはどうみてもまっとうな作品だとはみえないので、数を絡ませ、それに変な理屈をつけてしかつめらしく解説なんぞされても、ちっとも納得できないし、第一全然おもしろくもなんともないから、これまた閉口せざるを得ませんでした。
世界の映画オタクの中には、この種の奇人監督が小手先で作った楼閣の玩具みたいな作品をゲージツだとおし戴いてありがたがる御仁も少なくないのかもしれませんが、私は金輪際ごめん蒙ります。しめしめ、これで何の心おきもなくさっさと処分できますわい。
きょうの夕餉
鯵のから揚げのチキン南蛮風。きょうも牛乳を買いにいくついでに、なにか魚も見て来て、と言われて私が選んだのが、割と新鮮そうで綺麗な鯵のひらき(3枚)で、400円台の安さだったので、鯵は割と好きだし、あとはいつも顔を見る凡庸な魚しかなさそうだったので、これを買ってきて料理の仕方はパートナー任せ。
すでにから揚げに味はつけてあったけれど、このタルタルソースと中華風甘酢だれのいずれかをかけて食べると、より美味しくいただけました。
いつもの好物とうがんと、鶏の手羽元のスープ煮
豆腐の鶏味噌かけ
モズクきゅうり酢
(以上でした)
これはきょうのお昼に食べた蕎麦。
芙蓉は雨の中、30輪くらいでしたか、咲いていました。
雨はうっとうしくはあるけれど、掘り返した水仙などの球根の芽が出かかっていたし、キンカンやオレンジレモンの根元に肥料も置いたので、しばらく雨で肥料と土をしっくり馴染ませてくれるのも悪くはなさそうです。
saysei at 21:39|Permalink│Comments(0)│
2024年10月03日
イランの「節度ある」イスラエル攻撃
昨日、<きなくさい世界>と感じたところを書いたばかりですが、夜になると、イランがミサイル200発以上をイスラエルに打ち込んだというニュースが飛び込んできました。軍事施設だけを狙い、死者は一人もいなかったとか。
イランが支援してきたパレスチナのハマスが実質的に支配するガザに地上侵攻して4万人以上の住民を殺戮し、イランの賓客として招かれていたハマスの指導者をイラン国内で暗殺し、また同様にイランがテコ入れしてきたレバノンのヒズボラの最高指導者を殺した上、いままさにレバノンへの地上侵攻に踏み切ったイスラエルに、これまでなんら有効な反撃をなしえなかったイランとしては、このままイスラエルの暴挙を黙って見過ごせばパレスチナをはじめとするイスラエルの圧政に抵抗する人々の今のところ唯一のよりどころとしての信頼を失いかねない、ぎりぎりのところで、敵の軍事関連施設だけを攻撃する、象徴的、かつきわめて節度ある攻撃に踏み切った、といったところでしょう。
その行動には、これ以上の攻撃の応酬を繰り返すつもりはなく、全面戦争に引きずり込まれるつもりもない、という明確な意志が読み取れるわけですが、イスラエルの狂犬ネタニヤフはイランを戦争に引きずり込む口実ができたことに笑いが隠せないようで、待っていましたとばかり「反撃」すると公言したようです。
ふつうなら、ほかのアラブ諸国は何をしているんだ?となじりたくなるところですが、昔からアラブ諸国は政治的にだけではなく、まずもって宗教的に同じイスラム教世界での、宗派間の近親憎悪的な、従って最もきつい、根の深い対立をかかえて、一致団結してイスラエルに立ち向かう、ということが甚だ困難で、ソ連の強力な後押しがあったかつての中東戦争のような具合にはいかないようです。
イスラエルは過去半世紀以上、この国をでっち上げた米国がユダヤ財閥の資金力に物を言わせて最新兵器を惜しみなく注ぎ込み、コンパクトでも頭の先から尻尾の先まで最強の武装で固めた超攻撃的な軍事国家を作り上げ、さらに米国の意志にも逆らって密かに核兵器を保有するに至って、思うがままに他国に侵攻して殺戮を繰り返しても、これを止める力をもつものがいない、というとんでもない状況を作り出してしまいました。
こんな事態を終息させるのは、最後の審判のときのように、すべてが劫火に焼き尽くされ、生きる者も見られなくなるようなすさまじい光景が現実のものとなるときだけなのではないか、とさえ思われ、想像するだけでも戦慄を覚えざるをえないほどです。
イスラエルがどんな極悪非道の国際犯罪をしでかそうと、バイデンなどがイスラエル支持をやめられないのは、米国の国家権力を支えているおそらく最大の資本が陰に陽に米国そのものを支配するユダヤ系資本だからで、世界は米国にこの件では何ひとつあてにできないことは自明で、それ以外の国々、諸地域、民族から声を挙げて、この超「ならずもの」国家を孤立させ、アラブ世界での傍若無人な大量殺戮と圧政をやめさせなければ、世界の平和などついに絵にかいた餅にすぎないでしょう。
日本は例によって米国追従一点張りで、イスラエルのガザでのジェノサイトやレバノンへの地上侵攻、あるいは国家によるアラブ指導者個人の暗殺という前代未聞の暴挙にも、まっとうな批判の声一つ挙げられず、そうした暴挙を繰り返して来たイスラエルに対するイランの今回の極めて自制的、象徴的な反撃に対してだけは、ことさらに反対してみせる、という、まったく世界の人々に顔向けできない、恥ずかしい振る舞いに及んでいます。日本人として情けない限りです。世界中の心ある人々が、日本は米国の使い走りの手下、自分で何も判断できない属国だとみなすのも無理はないでしょう。
きょうは頑張って終日マーケットプレイスへの出品作業をしてきましたが、やっているあいだにもすでに2件の発注があって、雨の中、近くのポストへ商品を投函してきました。そのうちのひとつは、さきごろ新聞、雑誌の書評欄で非常に評価の高かった、岡真理さんの『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義』という本でした。
いまこういう本を読もうという人は偉いね、とパートナー。前に読んでこのブログでもとりあげ、賛否はともかく、まずは必読書、と感じたことを記憶しています。ただ、この種のメッセージ性の強い書物は、私は本来の好みではなく、著者の一貫したものの見方と明確な立場とが、どうしても或る偏りをもったもののように見えてしまうところがあって、おそらく読者の中には同じように感じる人も少なくはないだろうな、と思っています。
もっとも、あの本はまさにタイトルどおり、今起きていることに対して見過ごしにはできず、すぐに行動しなければ、と心急く思いで「緊急講義」され、吐き出された言葉なので、無理のないところはあるのですが、では日本人の多くが著者の主張に共感を覚えて、直ちに行動を起こせるかといえば、それは無理でしょう。
もちろんそこにはただちに直接の利害の及ばない、物理的にも精神的にも遠い世界のことのように思えるということもあるでしょうが、われわれがふだんから関心をもち、それなりの知識も身近な経験も十分に備えていて、鮮明な主張に触れて、ただちにそうした自分の見解を駆動させて立ち上がることが出来るような準備はまったくないので、とても行動にいたることは難しいと思います。
ひとが主体的に行動を起こすためには、きっかけは外部からのアジテーションなり誘いなりであったとしても、それ以前にその問題の根に触れるような身近な経験や切実な知識を蓄え、ああでもない、こうでもない、と自分なりに考えてきて、ある程度の主体的な見識を備えるに至ってはじめて、外部からのきっかけがこれに火をつけて燃え上がる、といったものであろうと思うのです。
そういうものでなくて、外部からのアジテーションにやすやすと行動できるような人というのは、結局その考えが自身のものとして血肉化されたものでも何でもないので、派手に立ち回るように見えても、吹けば飛ぶようなものでしかないでしょう。
やはりイスラエルという存在について、またそのアラブ世界との関係について、日本人の距離感と独特の視角覚から、いまの私たちにも深く納得がいくような、掘り下げた議論をして、その過程自体がわたしたちの経験値を豊かにしてくれるような機会を与えてくれる書物なり講義なりというものが現われればいいな、と思います。
きょうの夕餉
とんかつ、なす、さつまいも、おくらの大葉豚肉巻きのフライ
ジェノヴェーゼ・ヨーグルト・マヨネーズソース
レンコン、ゴボウ、ニンジンのキンピラ煮
マカロニサラダ
カブの葉の辛し和え
もずくキュウリ酢
(以上でした)
イランが支援してきたパレスチナのハマスが実質的に支配するガザに地上侵攻して4万人以上の住民を殺戮し、イランの賓客として招かれていたハマスの指導者をイラン国内で暗殺し、また同様にイランがテコ入れしてきたレバノンのヒズボラの最高指導者を殺した上、いままさにレバノンへの地上侵攻に踏み切ったイスラエルに、これまでなんら有効な反撃をなしえなかったイランとしては、このままイスラエルの暴挙を黙って見過ごせばパレスチナをはじめとするイスラエルの圧政に抵抗する人々の今のところ唯一のよりどころとしての信頼を失いかねない、ぎりぎりのところで、敵の軍事関連施設だけを攻撃する、象徴的、かつきわめて節度ある攻撃に踏み切った、といったところでしょう。
その行動には、これ以上の攻撃の応酬を繰り返すつもりはなく、全面戦争に引きずり込まれるつもりもない、という明確な意志が読み取れるわけですが、イスラエルの狂犬ネタニヤフはイランを戦争に引きずり込む口実ができたことに笑いが隠せないようで、待っていましたとばかり「反撃」すると公言したようです。
ふつうなら、ほかのアラブ諸国は何をしているんだ?となじりたくなるところですが、昔からアラブ諸国は政治的にだけではなく、まずもって宗教的に同じイスラム教世界での、宗派間の近親憎悪的な、従って最もきつい、根の深い対立をかかえて、一致団結してイスラエルに立ち向かう、ということが甚だ困難で、ソ連の強力な後押しがあったかつての中東戦争のような具合にはいかないようです。
イスラエルは過去半世紀以上、この国をでっち上げた米国がユダヤ財閥の資金力に物を言わせて最新兵器を惜しみなく注ぎ込み、コンパクトでも頭の先から尻尾の先まで最強の武装で固めた超攻撃的な軍事国家を作り上げ、さらに米国の意志にも逆らって密かに核兵器を保有するに至って、思うがままに他国に侵攻して殺戮を繰り返しても、これを止める力をもつものがいない、というとんでもない状況を作り出してしまいました。
こんな事態を終息させるのは、最後の審判のときのように、すべてが劫火に焼き尽くされ、生きる者も見られなくなるようなすさまじい光景が現実のものとなるときだけなのではないか、とさえ思われ、想像するだけでも戦慄を覚えざるをえないほどです。
イスラエルがどんな極悪非道の国際犯罪をしでかそうと、バイデンなどがイスラエル支持をやめられないのは、米国の国家権力を支えているおそらく最大の資本が陰に陽に米国そのものを支配するユダヤ系資本だからで、世界は米国にこの件では何ひとつあてにできないことは自明で、それ以外の国々、諸地域、民族から声を挙げて、この超「ならずもの」国家を孤立させ、アラブ世界での傍若無人な大量殺戮と圧政をやめさせなければ、世界の平和などついに絵にかいた餅にすぎないでしょう。
日本は例によって米国追従一点張りで、イスラエルのガザでのジェノサイトやレバノンへの地上侵攻、あるいは国家によるアラブ指導者個人の暗殺という前代未聞の暴挙にも、まっとうな批判の声一つ挙げられず、そうした暴挙を繰り返して来たイスラエルに対するイランの今回の極めて自制的、象徴的な反撃に対してだけは、ことさらに反対してみせる、という、まったく世界の人々に顔向けできない、恥ずかしい振る舞いに及んでいます。日本人として情けない限りです。世界中の心ある人々が、日本は米国の使い走りの手下、自分で何も判断できない属国だとみなすのも無理はないでしょう。
きょうは頑張って終日マーケットプレイスへの出品作業をしてきましたが、やっているあいだにもすでに2件の発注があって、雨の中、近くのポストへ商品を投函してきました。そのうちのひとつは、さきごろ新聞、雑誌の書評欄で非常に評価の高かった、岡真理さんの『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義』という本でした。
いまこういう本を読もうという人は偉いね、とパートナー。前に読んでこのブログでもとりあげ、賛否はともかく、まずは必読書、と感じたことを記憶しています。ただ、この種のメッセージ性の強い書物は、私は本来の好みではなく、著者の一貫したものの見方と明確な立場とが、どうしても或る偏りをもったもののように見えてしまうところがあって、おそらく読者の中には同じように感じる人も少なくはないだろうな、と思っています。
もっとも、あの本はまさにタイトルどおり、今起きていることに対して見過ごしにはできず、すぐに行動しなければ、と心急く思いで「緊急講義」され、吐き出された言葉なので、無理のないところはあるのですが、では日本人の多くが著者の主張に共感を覚えて、直ちに行動を起こせるかといえば、それは無理でしょう。
もちろんそこにはただちに直接の利害の及ばない、物理的にも精神的にも遠い世界のことのように思えるということもあるでしょうが、われわれがふだんから関心をもち、それなりの知識も身近な経験も十分に備えていて、鮮明な主張に触れて、ただちにそうした自分の見解を駆動させて立ち上がることが出来るような準備はまったくないので、とても行動にいたることは難しいと思います。
ひとが主体的に行動を起こすためには、きっかけは外部からのアジテーションなり誘いなりであったとしても、それ以前にその問題の根に触れるような身近な経験や切実な知識を蓄え、ああでもない、こうでもない、と自分なりに考えてきて、ある程度の主体的な見識を備えるに至ってはじめて、外部からのきっかけがこれに火をつけて燃え上がる、といったものであろうと思うのです。
そういうものでなくて、外部からのアジテーションにやすやすと行動できるような人というのは、結局その考えが自身のものとして血肉化されたものでも何でもないので、派手に立ち回るように見えても、吹けば飛ぶようなものでしかないでしょう。
やはりイスラエルという存在について、またそのアラブ世界との関係について、日本人の距離感と独特の視角覚から、いまの私たちにも深く納得がいくような、掘り下げた議論をして、その過程自体がわたしたちの経験値を豊かにしてくれるような機会を与えてくれる書物なり講義なりというものが現われればいいな、と思います。
きょうの夕餉
とんかつ、なす、さつまいも、おくらの大葉豚肉巻きのフライ
ジェノヴェーゼ・ヨーグルト・マヨネーズソース
レンコン、ゴボウ、ニンジンのキンピラ煮
マカロニサラダ
カブの葉の辛し和え
もずくキュウリ酢
(以上でした)
saysei at 22:03|Permalink│Comments(0)│