2024年10月08日
ゴダール「カラビニエ」を見る
昨日は例によって、「処分前一見」の一環で、未見だったゴダールの「カラビニエ」をDVDで見ました。ゴダールといえば映画に革命を引き起こした巨匠という評価が定着しているようですが、別段映画オタクでも何でもない無責任な通りすがりの一観客として、どんなすぐれた映画でも、どんなくだらない(けれども面白い)映画でも、まったく同じ扱いで見る身としては、そんな名前に特別の畏怖も感慨もなく、これまで彼の作品は何本かビデオで見てきたはずですが、いずれも全然心を動かされることもなければ面白いと思った記憶もなくて、たぶん私の性に合わない映画だったのでしょう。
或いは彼のつくるような映画の受け止め方というのは、「時代の気分」に大きく左右されるところがより大きいのかもしれません。以前にトリュフォーの「ピアニストを撃て」を(勿論何十年も「季節外れ」になってから)見たときにも、なんでこんなつまらない映画が、映画ファンたちにそんなに衝撃を与えたのか、どう考えても不思議でなりませんでした。私が二十歳前後のころに邦訳で読み漁ったアンチ・ロマンとかヌーボー・ロマンとか呼ばれたフランスで流行した作家たちの作品を今読めば、なんでこんな退屈なものを夢中になって読んだのかな、と感じるのと同様でしょう。崇拝者たちにとっては別でしょうし、巨匠といえば盲目的にすごいものだと思い込む権威の好きな人もあるので、人それぞれですが・・・
今回見た「カラビニエ」は彼自身が、ラ・フォンテーヌの寓話みたいなもんだ、と言っているように、ナチスをパロディ化した一種のblack comedy というのか、black fableというのか、楽しい内容ではないけれど、苦い笑いとある種のショックといおうか、呆れ、一瞬唖然とするような感情を見る者に与える、皮肉な風刺のきいたコントといった趣の作品になっています。話の中身はまったく荒唐無稽なので取り出してみても仕方がないでしょう。
若いころにイタリア人の友人に誘われてロンドンの場末の映画館でみた映画の前座に放映されたごく短いフランスのコントがあって、なにもかもうまくいかずに、たしかピストル自殺でもしようかとしていた主人公の実業家らしき男が、死ぬのは思いとどまって、社長室みたいな部屋の机の前の窓際の椅子に深々と腰をかけて、とりあえず一服、と煙草に火をつけて、よいしょと背もたれにさらに深く身をもたせかけたとたんに、その椅子が来るっと窓側に一回転して、男は高く足を挙げたまま窓外へ飛んでいく(もちろんビルの窓の下はコンクリート舗装の道路かなにかでしょう)という、ものすごくテンポのよい寸劇で、そのラストシーンには一瞬あっけにとられ、大笑いした覚えがあります。
友人は、これこそ典型的なフランス流の笑いだと言っていました。経験の乏しい私には彼の言う意味は正直のところ分からなかったけれど、イギリス流のユーモアや風刺の類とはまた異なるのだ、と言いたかったのでしょう。いま「フランス流の笑い」と書きましたが、「フランス流のファルス」などと言ったのかもしれませんが、残念ながら記憶にはありません。
今回、「カラビニエ」のラストシーン(決定的瞬間の主人公たちの姿は撮影されないけれど)を見て、あのときの一瞬唖然とさせられたラストシーンを思い出しました。シチュエーションとして似たシーンは「ライフ・イズ・ビューティフル」のラスト近くにもありますが、あれは逆にそれまでの流れから全然唖然とさせられるような驚きはなく、いわば必然的な、そうなるであろうという、重く、ウェットなシーンになっています。「カラビニエ」のラストシーンはその真逆で、実にカラリとしたドライな処理で、この作品にふさわしいものでした。
私はゴダールという監督をほとんど知りませんが、この作品は彼の作品の中でもちょっと異色なものではないかな、という気がしました。笑えるところもあって、面白くなくはなかったし、そう悪くはないけれど、ちっとも感心はしませんでした。
才能豊かな監督が本気でナチスなり、第二次世界大戦の世界に関して「寓話」を語りたいのなら、例えばフォークナーの『響きと怒り』という小説の世界を「寓話」とみなして、あのような「寓話」を撮る覚悟というか、器量あるいは膂力のすべてを挙げて取り組むべきものではないか、という気がします。そういえば韓国のキム・ギドク監督はつねづね自分の撮る作品を「寓話」だと語っていたと思いますが、彼が積極的に「寓話」だという「春夏秋冬、そして春」でしたか、あれは寓話にもなっていないと思いますが、それよりも「悪い男」は見事な「寓話」に成り得ている作品でした。せめてゴダールもあれくらいの「寓話」をつくればいいのに。「カラビニエ」は所詮、巨匠の小手先のお遊びにすぎません。
或いは彼のつくるような映画の受け止め方というのは、「時代の気分」に大きく左右されるところがより大きいのかもしれません。以前にトリュフォーの「ピアニストを撃て」を(勿論何十年も「季節外れ」になってから)見たときにも、なんでこんなつまらない映画が、映画ファンたちにそんなに衝撃を与えたのか、どう考えても不思議でなりませんでした。私が二十歳前後のころに邦訳で読み漁ったアンチ・ロマンとかヌーボー・ロマンとか呼ばれたフランスで流行した作家たちの作品を今読めば、なんでこんな退屈なものを夢中になって読んだのかな、と感じるのと同様でしょう。崇拝者たちにとっては別でしょうし、巨匠といえば盲目的にすごいものだと思い込む権威の好きな人もあるので、人それぞれですが・・・
今回見た「カラビニエ」は彼自身が、ラ・フォンテーヌの寓話みたいなもんだ、と言っているように、ナチスをパロディ化した一種のblack comedy というのか、black fableというのか、楽しい内容ではないけれど、苦い笑いとある種のショックといおうか、呆れ、一瞬唖然とするような感情を見る者に与える、皮肉な風刺のきいたコントといった趣の作品になっています。話の中身はまったく荒唐無稽なので取り出してみても仕方がないでしょう。
若いころにイタリア人の友人に誘われてロンドンの場末の映画館でみた映画の前座に放映されたごく短いフランスのコントがあって、なにもかもうまくいかずに、たしかピストル自殺でもしようかとしていた主人公の実業家らしき男が、死ぬのは思いとどまって、社長室みたいな部屋の机の前の窓際の椅子に深々と腰をかけて、とりあえず一服、と煙草に火をつけて、よいしょと背もたれにさらに深く身をもたせかけたとたんに、その椅子が来るっと窓側に一回転して、男は高く足を挙げたまま窓外へ飛んでいく(もちろんビルの窓の下はコンクリート舗装の道路かなにかでしょう)という、ものすごくテンポのよい寸劇で、そのラストシーンには一瞬あっけにとられ、大笑いした覚えがあります。
友人は、これこそ典型的なフランス流の笑いだと言っていました。経験の乏しい私には彼の言う意味は正直のところ分からなかったけれど、イギリス流のユーモアや風刺の類とはまた異なるのだ、と言いたかったのでしょう。いま「フランス流の笑い」と書きましたが、「フランス流のファルス」などと言ったのかもしれませんが、残念ながら記憶にはありません。
今回、「カラビニエ」のラストシーン(決定的瞬間の主人公たちの姿は撮影されないけれど)を見て、あのときの一瞬唖然とさせられたラストシーンを思い出しました。シチュエーションとして似たシーンは「ライフ・イズ・ビューティフル」のラスト近くにもありますが、あれは逆にそれまでの流れから全然唖然とさせられるような驚きはなく、いわば必然的な、そうなるであろうという、重く、ウェットなシーンになっています。「カラビニエ」のラストシーンはその真逆で、実にカラリとしたドライな処理で、この作品にふさわしいものでした。
私はゴダールという監督をほとんど知りませんが、この作品は彼の作品の中でもちょっと異色なものではないかな、という気がしました。笑えるところもあって、面白くなくはなかったし、そう悪くはないけれど、ちっとも感心はしませんでした。
才能豊かな監督が本気でナチスなり、第二次世界大戦の世界に関して「寓話」を語りたいのなら、例えばフォークナーの『響きと怒り』という小説の世界を「寓話」とみなして、あのような「寓話」を撮る覚悟というか、器量あるいは膂力のすべてを挙げて取り組むべきものではないか、という気がします。そういえば韓国のキム・ギドク監督はつねづね自分の撮る作品を「寓話」だと語っていたと思いますが、彼が積極的に「寓話」だという「春夏秋冬、そして春」でしたか、あれは寓話にもなっていないと思いますが、それよりも「悪い男」は見事な「寓話」に成り得ている作品でした。せめてゴダールもあれくらいの「寓話」をつくればいいのに。「カラビニエ」は所詮、巨匠の小手先のお遊びにすぎません。
saysei at 11:41|Permalink│Comments(0)│
2024年10月07日
『京都秦家~町家の暮らしと歴史』を読む
きょう、前に秦家住宅の本づくりのときお世話になった秦さんから、『京都秦家~町家の暮らしと歴史』(岩波書店刊)という新刊書を送っていただきました。関心の深い内容でもあったので、すぐに読み始め、読みやすい記述だったこともあって、夕食までに全部読み切ってしまいました。
歴史の専門家3人と写真家による著作で科研費の研究プロジェクトとして行われた研究の成果の一環とした刊行されたものだそうですが、本自体はお堅い専門書というわけではなくて、歴史や京町家あるいは京都文化にやや深い関心を持つ一般の読者をターゲットにした本だと思います。
私が以前に関わらせていただいた『秦家住宅』(新建新聞社刊)は、秦家の全体像を紹介したはじめての本だったと思いますが、専門家の論文も入ってはいますが、より広い読者層を対象として、たくさんの抽きだしを用意し、論文もあれば、秦家の主であるめぐみさんやお母さんからの聞き書きもあり、秦家に出入りするファンの方たちの座談会記事もあり、豊富なヴィジュアルにも留意した、ムックスタイルの本でした。今回の本はそれと比べれば、より学究的な知識、歴史学的な知見を論じていく、もっぱら知性に訴えかける教養書といった趣で、ターゲットはより狭く歴史学的な知見により深い関心を持つ読者層に定められているような気がします。
しかしそれだけ本のつくりはシンプルで、とりわけ著者の一人三枝暁子さんの第一章から第二章1,2に及ぶ論述は、秦家を京町屋とその歴史のうちに位置づけ、両者を関連づけながら語っていく語り口も一貫していて、とても読みやすく、説得的でもあり、読みごたえがありました。以前に秦家住宅の本をつくるお手伝いをさせていただいたとき、素人ではありますが、多少は勉強したはずですが、今回の本を読んで、はじめて知ったことも少なからずあって、とても興味深く読めました。
たとえば、秦家の庭の灯篭がキリシタン燈籠で、川端康成が『古都』を書いたときに見に来て、作品の中で(秦家の灯篭なんて書いてあるわけではないけれど)これをモデルとする記述がある、というところを読んだときは、あっと思いましたね。まだまだ秦家には私などポッと出の素人がまったく気づいていないことや知らないことが山ほどありそうです。
きょうの夕餉
昨日長男が三嶋亭のすき焼き用牛肉と松茸を届けてくれていたので、長男を交えた今日の夕食はすき焼きということになりました。少しは涼しくなっていたからよかった・・・
これがその三嶋亭の肉です。分厚い!大きい!以前に高島屋にあった三嶋亭の肉を年末買って、正月2日目の夕食にすき焼き鍋を皆で囲んでいたときも、肉は切り落としだったし、それでも十分だったけれど、本来の三嶋亭のすき焼き用というのは、こんなにボリュームのあるものだったらしい。知らなかったぁ・・・おまけに私たちにはとても手が出せない松茸まで・・・こないな贅沢させてもろてええのんやろか、とおそるおそる、でも目いっぱいいただきました(笑)
箸やすめ
サツマイモとクルミのサラダ
上賀茂戸田農園さんの古漬けのスグキ。先日、たったひとつ残っていた200円のをゲットしてきました。ミニサイズだったけど味は変わらずとても美味しかった。
歴史の専門家3人と写真家による著作で科研費の研究プロジェクトとして行われた研究の成果の一環とした刊行されたものだそうですが、本自体はお堅い専門書というわけではなくて、歴史や京町家あるいは京都文化にやや深い関心を持つ一般の読者をターゲットにした本だと思います。
私が以前に関わらせていただいた『秦家住宅』(新建新聞社刊)は、秦家の全体像を紹介したはじめての本だったと思いますが、専門家の論文も入ってはいますが、より広い読者層を対象として、たくさんの抽きだしを用意し、論文もあれば、秦家の主であるめぐみさんやお母さんからの聞き書きもあり、秦家に出入りするファンの方たちの座談会記事もあり、豊富なヴィジュアルにも留意した、ムックスタイルの本でした。今回の本はそれと比べれば、より学究的な知識、歴史学的な知見を論じていく、もっぱら知性に訴えかける教養書といった趣で、ターゲットはより狭く歴史学的な知見により深い関心を持つ読者層に定められているような気がします。
しかしそれだけ本のつくりはシンプルで、とりわけ著者の一人三枝暁子さんの第一章から第二章1,2に及ぶ論述は、秦家を京町屋とその歴史のうちに位置づけ、両者を関連づけながら語っていく語り口も一貫していて、とても読みやすく、説得的でもあり、読みごたえがありました。以前に秦家住宅の本をつくるお手伝いをさせていただいたとき、素人ではありますが、多少は勉強したはずですが、今回の本を読んで、はじめて知ったことも少なからずあって、とても興味深く読めました。
たとえば、秦家の庭の灯篭がキリシタン燈籠で、川端康成が『古都』を書いたときに見に来て、作品の中で(秦家の灯篭なんて書いてあるわけではないけれど)これをモデルとする記述がある、というところを読んだときは、あっと思いましたね。まだまだ秦家には私などポッと出の素人がまったく気づいていないことや知らないことが山ほどありそうです。
きょうの夕餉
昨日長男が三嶋亭のすき焼き用牛肉と松茸を届けてくれていたので、長男を交えた今日の夕食はすき焼きということになりました。少しは涼しくなっていたからよかった・・・
これがその三嶋亭の肉です。分厚い!大きい!以前に高島屋にあった三嶋亭の肉を年末買って、正月2日目の夕食にすき焼き鍋を皆で囲んでいたときも、肉は切り落としだったし、それでも十分だったけれど、本来の三嶋亭のすき焼き用というのは、こんなにボリュームのあるものだったらしい。知らなかったぁ・・・おまけに私たちにはとても手が出せない松茸まで・・・こないな贅沢させてもろてええのんやろか、とおそるおそる、でも目いっぱいいただきました(笑)
箸やすめ
サツマイモとクルミのサラダ
上賀茂戸田農園さんの古漬けのスグキ。先日、たったひとつ残っていた200円のをゲットしてきました。ミニサイズだったけど味は変わらずとても美味しかった。
saysei at 23:27|Permalink│Comments(0)│
2024年10月06日
「ロビンソンの庭」を見る
きょうは共同庭の掃除の日で、朝から重労働(私にとっては)で疲れました。ただ自分の家の裏を出たあたりの専有庭の延長みたいな狭い範囲で、蚊が無数にたむろしている木蔭の狭い通路や敷石の辺りに生えている草を抜き、それを落ち葉とともに竹箒で掃きあつめてゴミ袋に入れる、というだけの作業ですが、しゃがんで草を抜いたり、手鍬で硬い草の根をちょっと掘り起こしたりするだけで、情けないことにいまの私の肺は悲鳴を上げて、しばし停止して呼吸ができるようになるまで待たなければ続けることができません。
それでも何とか裏の木戸から半径2mくらいの半円を描ける程度の範囲の目立つ草を抜き、落ち葉と草を掃いて、なんとか最小限の義務を果たして、今度は玄関の方へ廻って、玄関先のさつきや卯の花を植えてある並びに生えている目立った草を抜いて、同様に竹箒で掃き集めて今日の清掃は終了。それでもトロトロとやっていたら、9時ちょうどから初めて1時間はかかりました。
中腰などの中途半端な恰好では体の負担が大きくて無理なので、必ずしゃがむときは膝をついて体の重みを支えて作業するので、長ズボンも靴下もドロドロ。蚊がすごいのと、枝などでちょっとした怪我をしてもステロイドのせいで傷がいつまでも治らないので、必ず長袖で出ます。だいぶ涼しくなったとはいえ、きょうも作業していると全身汗まみれ。すぐにシャワーを浴び、梅干しをひとつ入れてもらったお茶を飲んで休憩。
きょうは午後の時間、疲れていたので、椅子に寝そべったまま見られるビデオを見ることにして、これも例によって処分前一見というやつで、確認もかねて、ずいぶん古い映画ですが、「ロビンソンの庭」という山本政志監督・脚本のVHSを見ました。昔入手した折に一度は見ているはずですが、何も覚えていなかったので、初見と同じように新鮮な目でみることができました。記憶力の極端に乏しい私にはいつものことですが(笑)。
この作品は、ケース裏のキャッチコピーに「緑と廃墟を神秘と幻想で描いた衝撃のスーパー・カルトフィルム!」とあって、なるほどいわゆる前衛映画というのか実験的な映画というのか、映画を志す映画学校の生徒さんなどが自主制作で作りそうなタイプの、まさしくカルト映画といった類の作品でした。
いまみるとなんとなくちょっと懐かしいような古臭さが感じられて、80年代のバブルの世の中で、そのバブルの恩恵を受けながら、それに抗ったり背をむけたり拗ねてみせたり、わざとバカ騒ぎして浮かれてみせたり、荒んだ日常に身を浸してみたり、といった若い世代の風俗が、ある程度定着されているところが、「時代の気分」に合うところがあって、一定の注目を集めたのだろうな、と納得できるような作品です。
映画専門学校や大学の映画学科の卒業制作にみる学生さんの自主製作作品は、懐が寂しいせいもあって、もっとずっと短いのがほとんどだと思いますが、これはそうしたマイナーな自主製作映画に似た雰囲気の映画にしてはやたらと長くて(119分だそうですが)、ずいぶん長いなぁ、とやや閉口しながら見ていました。監督の35m/mのデビュー作品だそうですから、まだ若かったのでしょうが、経済的には恵まれていたのかもしれません。
なにしろ撮影がジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を撮った人だそうだし、出演者もずっとのちに名作『告白』を書くミュージシャンで作家の町田康、こと当時の芸名・町田町蔵や、利重剛、田口トモロヲと私でも知っているような名前が並び、このころはまだ著名ではなかったのでしょうが、平山秀幸、諏訪敦彦といった、のちに自身が高い評価を受ける監督作品を制作するようになる人たちが重要なスタッフとして参加していて、この作品以前にこの若い監督が優れた才能の持ち主だということを、同じようにすぐれた才能を持つスタッフや俳優たちが認めていて、よほど評価されていたのだろうな、と推測させます。
実際、この作品も世界各国の映画祭などで高い評価を受けて、様々な賞を受賞しているようです。
大雑把に若い世代の時代的な雰囲気の推移を区切るとすれば、60年代の左翼的な運動から、高度成長を遂げた社会をよりどころにした、いわゆる学園紛争のような、いずれにせよ生真面目に秩序に抗うといった個々人の「内面」の存在を前提とした理念を掲げて、とにもかくにも組織らしきものを構成しえた時代が、私などがとにもかくにも理念的なものにかかわりをもつようになった最初の時代。
次に来たのが、そうした「内面」も「組織」も完膚なきまで粉砕され、解体され、散り散りばらばらの個人に還って、「豊かな」社会の隅々へ潜り込んで、シラケほうだいシラケていた70年代が惰性的な世界のようにつづいていました。
それから日本全体がバブルに呆けているとき、その上げ潮に乗っかって、「内面」を失った形ばかりの根無し草の仇花を咲かせるアートだのカルチャーだの風俗を身にまとい、サーフィンのようなカッコよさを気取って浮かれたと思えば波間深く沈んで消えて行ったりする若い世代の姿がみられた時代がやってきます。
そのバブル日本の情景のひとつとして、そういう時代の波に乗ってスイスイ滑っていくことに、かろうじて残された皮膚感覚によって生理的な違和感を覚え、なにかそういう「いま、ここ」とは異なる「いつか、どこか」を求めて、緑豊かというか、木も草も放置されてただ生い茂っている場所に残る古い大きな家に移り住んで、現代のロビンソン・クルーソーよろしく畑づくりなど始めるひとりの女性が、この作品の主人公です。
彼女のところを訪れる男たちや彼女につきまとう女の子を配して、一方では80年代のハチャメチャに身をひたしながら、他方では妙に生真面目に古い井戸で汲む水を、撒いて畑の野菜を育てる、まったくちぐはぐな彼女のありようが、「ロビンソン・クルーソー」の理念像であるかのように大真面目に描かれています。
そして最後にはそんな彼女の死と引き換えに、一粒の麦から無数の豊かな命がはぐくまれるように、おそらくは彼女の夢みた世界、一面に様々な花が咲き乱れ、緑が生き生きと輝く豊饒な世界が実現するまでの顛末を描いています。
私がいいな、と思ったのはその最後の彼女の死とひきかえに生じる生きとし生けるものたちの再生する世界の、ほんの一瞬の映像の転換や、主人公たる彼女につきまとう、なかなか面白い生意気な女の子がリモコン操縦のおもちゃの飛行機を青空に旋回させるのを、葉がいっぱい茂った大きな樹を一緒にとらえる構図で撮った映像のあたり。
ただ、豊かな緑というよりは、放置され、荒れ果てた緑の中で、ちっぽけな畑をつくる主人公の姿は、ロビンソン・クルーソーというよりは、全共闘時代にごく一部の毛沢東主義者が回帰した空想的な農村共同体的理念のまねごとのようにしか見えませんでした。
他の者と一緒に自然を切り開き、土を掘り起こすでもなく、ひ弱なあの身体ひとつで、自分が仕切った小さな円の中でしょぼしょぼ土を掘り、種を撒き、水をやって野菜なんかを育てているだけのことですから、リアリティなどは最初からまったく考えられてもいないので、あくまでも理念としての「ロビンソン的」な、原子化され、何も持たないちっぽけな個人にまで微分化された人間が、一から自分と世界を作り出していく、あるいは徹底的に異和でしかなかった世界と和解し、再生するための一歩を踏み出す、という表象を映像にしただけのものです。
そんなところからは、いくら一粒の麦が地に落ちても、無数の芽が吹き出し、色とりどりの花が咲き乱れる、この作品のラストのような豊饒な世界が生まれてくるはずはありません。
そこには決定的にリアリティが欠如しているので、もしそこに現実的な可能性を求めるとすれば、主人公の久美子だったか、彼女が子供を産むことしかなかったのではないかと思います。せっかく繰り返し頑張ってセックスしていたのだし(笑)。
あのままだと、彼女は体だけ大きくなった幼女みたいな存在にすぎません。
感覚的に世界を受け止めて、イヤイヤをし、自分だけのママゴトの世界をつくりだしているにすぎません。
もし彼女が赤ん坊を産んでいたら、いやおうなく彼女はその無力な存在を守り、最大限のエネルギーを注ぎ込んで育てざるを得ず、あんなママごとのミニ農園づくりなどではなくて、ほんとうにわが子と自分が食っていけるだけの、結構広大な畑を拓いて、日々夜明けから日暮れまで鍬をふるわなくてはならなかったでしょう。
単に自分の生理的感覚を発散するように叫んだり踊ったり走ってみたりするだけでは済まず、そんな拗ねたお嬢さんみたいなことをする暇があれば必死で鍬を振るい、雑草を抜き、大量の水を撒いて自分の生産物を管理し、育てることに全精力を注がざるを得なかったでしょう。
そして、この映画で彼女につきまとう女の子などと違って、自分の産んだ子であれば、単に一定の距離を前提とした優しさやからかいや適度のやりとりでやりすごすことはできず、目に見えない母子の縁で結ばれていながら、ときに赤の他人、独立した他者としてのわが子に向き合い、ぶつかりながら、そのつど自分自身が変貌を遂げることで乗り越えていくしかなかったでしょう。
それでもこの作品のラストのような幻想の世界が実現するかどうかは保証の限りではないものの、万が一そういう豊饒な実りの世界が実現するとすれば、彼女自身が変貌していく、そうした現実的なプロセスの果てにであって、この作品で示された再生の日は、作り手の理念的な願望を外挿してみせたものにすぎません。
あとは映像が汚かった(笑)。作品にとって、一定の必然性はあるのでしょうが、私はこういう汚い映像があまり好みじゃないので、長い長いこの作品をみているのは少々閉口でした。
主人公を演じた女優さんは太田久美子という人らしいけれど、全速力で走るような場面とか自転車を突っ走らせるシーンとか、絶叫したりセックス場面があったり、一人で何役もこなすほどの大忙しで、全身泥だらけだったりしながら、とにかく汚いメイクをされながら、ほんとに熱演していました。ご苦労さまでした!
もともと前衛的というのか実験的な作品をめざしたせいか、古典的な筋書きのような一貫した分かりやすいストーリーのようなものはほとんどなくて、それぞれの場面には思いつきで撮られたというのか、感覚的に面白かろうから入れとこうよ、という感じで撮られたようなシーンを切り貼りして、ある種の理念でつなぎ合わせ、無理やり長編を作り上げたという印象を受けました。しかし、個々のエピソードや映像、あるいは登場人物たちの存在感やセリフの鋭利さといったものに、特段の印象を残すものがなかったのは残念。
やや辛口のことばかり書いてきましたが、いまになってこういう昔の映画を見てあれこれ言うのはフェアじゃないかもしれませんね。こういう作品が注目された時代もあった、という或る時代の気分をたしかに指し示すような要素のある作品として、作品としての良し悪しとか、芸術としてどうの、なんてことよりも、映画史と時代史の中に置いて客観的かつ冷静に見るべきものなのかもしれません。
きょうの夕餉
トウガン、シメジ、水菜、手羽元のスープ煮
豚肉の味噌漬け焼き
ほうれん草のおひたし
大根とニンジンの膾
鯵の南蛮づけ
(以上でした)
デザートに、きょう長男が持ってきてくれた、アッサンブルエイジという店のケーキを中国茶でいただきました。
モカの香りと味がするケーキ
ウエブサイトに「ローストしたピスタチオの香ばしさとフランボワーズのみずみずしさ」といったキャッチフレーズが見えました。のっかっているのはフランボワーズ、英語でいえばラズベリーですね。「ピスターシュ」と呼ばれるケーキだとか。ちっとも甘くなかった。
分け合って食べた切り口。
前によく長男が買ってきてくれていたアングレディアンのケーキは複雑な味で、どんな材料が使われているのかさっぱりわからないことが多かったけれど、今回のカキモトさんのケーキはやはり色々複雑な味が入っているけれど、だいたいわかる、とパートナー。
ケーキとしての味も私たちはアングレディアンに軍配を上げました。いや、カキモトさんのケーキもとっても美味しかったですよ(笑)
好きなコヴェントガーデン(紅茶)にしようと思ったのですが、はじめてのところのケーキでもあり、ケーキの味ととくに香りが紅茶のそれに負けてしまわないように、紅茶はやめておいて、あっさりした味と香りの中国茶にしましたが、正解でした。おかげさまで贅沢なデザートをいただくことができました。
それでも何とか裏の木戸から半径2mくらいの半円を描ける程度の範囲の目立つ草を抜き、落ち葉と草を掃いて、なんとか最小限の義務を果たして、今度は玄関の方へ廻って、玄関先のさつきや卯の花を植えてある並びに生えている目立った草を抜いて、同様に竹箒で掃き集めて今日の清掃は終了。それでもトロトロとやっていたら、9時ちょうどから初めて1時間はかかりました。
中腰などの中途半端な恰好では体の負担が大きくて無理なので、必ずしゃがむときは膝をついて体の重みを支えて作業するので、長ズボンも靴下もドロドロ。蚊がすごいのと、枝などでちょっとした怪我をしてもステロイドのせいで傷がいつまでも治らないので、必ず長袖で出ます。だいぶ涼しくなったとはいえ、きょうも作業していると全身汗まみれ。すぐにシャワーを浴び、梅干しをひとつ入れてもらったお茶を飲んで休憩。
きょうは午後の時間、疲れていたので、椅子に寝そべったまま見られるビデオを見ることにして、これも例によって処分前一見というやつで、確認もかねて、ずいぶん古い映画ですが、「ロビンソンの庭」という山本政志監督・脚本のVHSを見ました。昔入手した折に一度は見ているはずですが、何も覚えていなかったので、初見と同じように新鮮な目でみることができました。記憶力の極端に乏しい私にはいつものことですが(笑)。
この作品は、ケース裏のキャッチコピーに「緑と廃墟を神秘と幻想で描いた衝撃のスーパー・カルトフィルム!」とあって、なるほどいわゆる前衛映画というのか実験的な映画というのか、映画を志す映画学校の生徒さんなどが自主制作で作りそうなタイプの、まさしくカルト映画といった類の作品でした。
いまみるとなんとなくちょっと懐かしいような古臭さが感じられて、80年代のバブルの世の中で、そのバブルの恩恵を受けながら、それに抗ったり背をむけたり拗ねてみせたり、わざとバカ騒ぎして浮かれてみせたり、荒んだ日常に身を浸してみたり、といった若い世代の風俗が、ある程度定着されているところが、「時代の気分」に合うところがあって、一定の注目を集めたのだろうな、と納得できるような作品です。
映画専門学校や大学の映画学科の卒業制作にみる学生さんの自主製作作品は、懐が寂しいせいもあって、もっとずっと短いのがほとんどだと思いますが、これはそうしたマイナーな自主製作映画に似た雰囲気の映画にしてはやたらと長くて(119分だそうですが)、ずいぶん長いなぁ、とやや閉口しながら見ていました。監督の35m/mのデビュー作品だそうですから、まだ若かったのでしょうが、経済的には恵まれていたのかもしれません。
なにしろ撮影がジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を撮った人だそうだし、出演者もずっとのちに名作『告白』を書くミュージシャンで作家の町田康、こと当時の芸名・町田町蔵や、利重剛、田口トモロヲと私でも知っているような名前が並び、このころはまだ著名ではなかったのでしょうが、平山秀幸、諏訪敦彦といった、のちに自身が高い評価を受ける監督作品を制作するようになる人たちが重要なスタッフとして参加していて、この作品以前にこの若い監督が優れた才能の持ち主だということを、同じようにすぐれた才能を持つスタッフや俳優たちが認めていて、よほど評価されていたのだろうな、と推測させます。
実際、この作品も世界各国の映画祭などで高い評価を受けて、様々な賞を受賞しているようです。
大雑把に若い世代の時代的な雰囲気の推移を区切るとすれば、60年代の左翼的な運動から、高度成長を遂げた社会をよりどころにした、いわゆる学園紛争のような、いずれにせよ生真面目に秩序に抗うといった個々人の「内面」の存在を前提とした理念を掲げて、とにもかくにも組織らしきものを構成しえた時代が、私などがとにもかくにも理念的なものにかかわりをもつようになった最初の時代。
次に来たのが、そうした「内面」も「組織」も完膚なきまで粉砕され、解体され、散り散りばらばらの個人に還って、「豊かな」社会の隅々へ潜り込んで、シラケほうだいシラケていた70年代が惰性的な世界のようにつづいていました。
それから日本全体がバブルに呆けているとき、その上げ潮に乗っかって、「内面」を失った形ばかりの根無し草の仇花を咲かせるアートだのカルチャーだの風俗を身にまとい、サーフィンのようなカッコよさを気取って浮かれたと思えば波間深く沈んで消えて行ったりする若い世代の姿がみられた時代がやってきます。
そのバブル日本の情景のひとつとして、そういう時代の波に乗ってスイスイ滑っていくことに、かろうじて残された皮膚感覚によって生理的な違和感を覚え、なにかそういう「いま、ここ」とは異なる「いつか、どこか」を求めて、緑豊かというか、木も草も放置されてただ生い茂っている場所に残る古い大きな家に移り住んで、現代のロビンソン・クルーソーよろしく畑づくりなど始めるひとりの女性が、この作品の主人公です。
彼女のところを訪れる男たちや彼女につきまとう女の子を配して、一方では80年代のハチャメチャに身をひたしながら、他方では妙に生真面目に古い井戸で汲む水を、撒いて畑の野菜を育てる、まったくちぐはぐな彼女のありようが、「ロビンソン・クルーソー」の理念像であるかのように大真面目に描かれています。
そして最後にはそんな彼女の死と引き換えに、一粒の麦から無数の豊かな命がはぐくまれるように、おそらくは彼女の夢みた世界、一面に様々な花が咲き乱れ、緑が生き生きと輝く豊饒な世界が実現するまでの顛末を描いています。
私がいいな、と思ったのはその最後の彼女の死とひきかえに生じる生きとし生けるものたちの再生する世界の、ほんの一瞬の映像の転換や、主人公たる彼女につきまとう、なかなか面白い生意気な女の子がリモコン操縦のおもちゃの飛行機を青空に旋回させるのを、葉がいっぱい茂った大きな樹を一緒にとらえる構図で撮った映像のあたり。
ただ、豊かな緑というよりは、放置され、荒れ果てた緑の中で、ちっぽけな畑をつくる主人公の姿は、ロビンソン・クルーソーというよりは、全共闘時代にごく一部の毛沢東主義者が回帰した空想的な農村共同体的理念のまねごとのようにしか見えませんでした。
他の者と一緒に自然を切り開き、土を掘り起こすでもなく、ひ弱なあの身体ひとつで、自分が仕切った小さな円の中でしょぼしょぼ土を掘り、種を撒き、水をやって野菜なんかを育てているだけのことですから、リアリティなどは最初からまったく考えられてもいないので、あくまでも理念としての「ロビンソン的」な、原子化され、何も持たないちっぽけな個人にまで微分化された人間が、一から自分と世界を作り出していく、あるいは徹底的に異和でしかなかった世界と和解し、再生するための一歩を踏み出す、という表象を映像にしただけのものです。
そんなところからは、いくら一粒の麦が地に落ちても、無数の芽が吹き出し、色とりどりの花が咲き乱れる、この作品のラストのような豊饒な世界が生まれてくるはずはありません。
そこには決定的にリアリティが欠如しているので、もしそこに現実的な可能性を求めるとすれば、主人公の久美子だったか、彼女が子供を産むことしかなかったのではないかと思います。せっかく繰り返し頑張ってセックスしていたのだし(笑)。
あのままだと、彼女は体だけ大きくなった幼女みたいな存在にすぎません。
感覚的に世界を受け止めて、イヤイヤをし、自分だけのママゴトの世界をつくりだしているにすぎません。
もし彼女が赤ん坊を産んでいたら、いやおうなく彼女はその無力な存在を守り、最大限のエネルギーを注ぎ込んで育てざるを得ず、あんなママごとのミニ農園づくりなどではなくて、ほんとうにわが子と自分が食っていけるだけの、結構広大な畑を拓いて、日々夜明けから日暮れまで鍬をふるわなくてはならなかったでしょう。
単に自分の生理的感覚を発散するように叫んだり踊ったり走ってみたりするだけでは済まず、そんな拗ねたお嬢さんみたいなことをする暇があれば必死で鍬を振るい、雑草を抜き、大量の水を撒いて自分の生産物を管理し、育てることに全精力を注がざるを得なかったでしょう。
そして、この映画で彼女につきまとう女の子などと違って、自分の産んだ子であれば、単に一定の距離を前提とした優しさやからかいや適度のやりとりでやりすごすことはできず、目に見えない母子の縁で結ばれていながら、ときに赤の他人、独立した他者としてのわが子に向き合い、ぶつかりながら、そのつど自分自身が変貌を遂げることで乗り越えていくしかなかったでしょう。
それでもこの作品のラストのような幻想の世界が実現するかどうかは保証の限りではないものの、万が一そういう豊饒な実りの世界が実現するとすれば、彼女自身が変貌していく、そうした現実的なプロセスの果てにであって、この作品で示された再生の日は、作り手の理念的な願望を外挿してみせたものにすぎません。
あとは映像が汚かった(笑)。作品にとって、一定の必然性はあるのでしょうが、私はこういう汚い映像があまり好みじゃないので、長い長いこの作品をみているのは少々閉口でした。
主人公を演じた女優さんは太田久美子という人らしいけれど、全速力で走るような場面とか自転車を突っ走らせるシーンとか、絶叫したりセックス場面があったり、一人で何役もこなすほどの大忙しで、全身泥だらけだったりしながら、とにかく汚いメイクをされながら、ほんとに熱演していました。ご苦労さまでした!
もともと前衛的というのか実験的な作品をめざしたせいか、古典的な筋書きのような一貫した分かりやすいストーリーのようなものはほとんどなくて、それぞれの場面には思いつきで撮られたというのか、感覚的に面白かろうから入れとこうよ、という感じで撮られたようなシーンを切り貼りして、ある種の理念でつなぎ合わせ、無理やり長編を作り上げたという印象を受けました。しかし、個々のエピソードや映像、あるいは登場人物たちの存在感やセリフの鋭利さといったものに、特段の印象を残すものがなかったのは残念。
やや辛口のことばかり書いてきましたが、いまになってこういう昔の映画を見てあれこれ言うのはフェアじゃないかもしれませんね。こういう作品が注目された時代もあった、という或る時代の気分をたしかに指し示すような要素のある作品として、作品としての良し悪しとか、芸術としてどうの、なんてことよりも、映画史と時代史の中に置いて客観的かつ冷静に見るべきものなのかもしれません。
きょうの夕餉
トウガン、シメジ、水菜、手羽元のスープ煮
豚肉の味噌漬け焼き
ほうれん草のおひたし
大根とニンジンの膾
鯵の南蛮づけ
(以上でした)
デザートに、きょう長男が持ってきてくれた、アッサンブルエイジという店のケーキを中国茶でいただきました。
モカの香りと味がするケーキ
ウエブサイトに「ローストしたピスタチオの香ばしさとフランボワーズのみずみずしさ」といったキャッチフレーズが見えました。のっかっているのはフランボワーズ、英語でいえばラズベリーですね。「ピスターシュ」と呼ばれるケーキだとか。ちっとも甘くなかった。
分け合って食べた切り口。
前によく長男が買ってきてくれていたアングレディアンのケーキは複雑な味で、どんな材料が使われているのかさっぱりわからないことが多かったけれど、今回のカキモトさんのケーキはやはり色々複雑な味が入っているけれど、だいたいわかる、とパートナー。
ケーキとしての味も私たちはアングレディアンに軍配を上げました。いや、カキモトさんのケーキもとっても美味しかったですよ(笑)
好きなコヴェントガーデン(紅茶)にしようと思ったのですが、はじめてのところのケーキでもあり、ケーキの味ととくに香りが紅茶のそれに負けてしまわないように、紅茶はやめておいて、あっさりした味と香りの中国茶にしましたが、正解でした。おかげさまで贅沢なデザートをいただくことができました。
saysei at 22:55|Permalink│Comments(0)│