2025年02月09日

雪の日の思い出

雪降り続く
  きょうも朝から雪が降っていました。昨日も書いたように、毎年このころに雪が降ると、長男が生まれた日に風花が待っていたことを思い出します。朝食のときにパートナーと話していて、彼女は雪の思い出と言えば子供たちが喜びはしゃいで遊んでいた姿を思い出して、楽しいことばかりで、いやな思い出が一つもない、と言います。

  そう言えば、わたしも子供のころは雪が降ると、どんなに寒くても胸がわくわくして雪まみれになって遊びたい気持ちばかりで、楽しかったですね。隣のお兄さんたちと庭で雪合戦したり、大きな雪だるまをつくったり。

  広島にいた小学校の低学年の頃には、母が長期療養生活で不在だったこともあって、父が休みのときにはしばしば私を色んな所へ連れて行ってくれましたが、冬には何度か、三井ノ原と言ったっけな・・むこうではよく知られていたスキー場へ連れて行ってくれたことを覚えています。冠山(かんむりやま)というところのスキー場へ行ったこともありました。

  確か冠山のほうだったと思うけれど、バスを降りても、スキー場までかなりの道のりがあり、吹雪のように横殴りの雪が吹き付ける中を、スキーを履いて滑ってというか、スティックで路面を突きながら、半ば歩いていかなくてはならなくて、それが片方が深い雪の谷になっている断崖、他方はまっすぐそそり立つ崖の道で、とても細い山道だったので、ほんとに怖かった。
  時々振り返りながら前を行く父に必死についていきながら、いつ崖から落ちてしまうかもしれない、という恐怖を抱きながら、たぶん半時間近く、雪が烈しく降る中を進んだことをかすかに記憶しています。
  幼いころはスキーも体が覚えるのが早くて、小学校3年生のころには、そうやってある程度一人で子供用スキーを履いて自由に滑ったり、板をつけて歩いたりすることもできるようにはなってはいたのですが、やっとそれができるようになったばかりでしたから、今考えると父もずいぶん危ないことをさせたものだな、と思います。私なら小二や小三の息子たちに、そんな危険な雪の山道を自分について来い、と言って自力でついてこさせるようなことは、ちょっと怖くてできそうにもありません。

雪降り続く2

 子供たちのことで一番良く覚えているのは、ある年京都市内では珍しく大雪が降ったときのことです。庭にも深い雪が積もり、息子たちは二人ともまだ幼稚園にかよっていたはずですが、大喜びで庭に出て大きな雪だるまを作って機嫌よく遊んでいました。
 ところが次男のほうは、だんだん毛糸の手袋もびしょびしょに濡れて、手が凍えてきて苦痛だったところへ、二つ違いの長男になにかちょっとした意地悪をされたか、自分の思うようにならなかったために、機嫌をそこねて、いつものように大声で泣きだしました。
 一緒にいた私が、じゃぁもうおうちに入っていなさい、と促すと、次男は渋々家の中に入って、母親に衣服を脱がせてもらっておさまったのですが、それはそれでお兄ちゃんのやっていることが羨ましくもあり、気になって仕方がないものだから、庭に面した居間のところへ張り付いて、ずっとこちらを見ていました。
 しばらくして、母親から、そろそろお昼ご飯にするから、お兄ちゃんたちを呼んでね、と言われると、いかにもふてくされたような声で、「ごはんですよ!」とぶっきらぼうに大声で私たちを呼ぶのです。その声やむくれた表情がほんとうに可愛らしくて、パートナーと思わず顔見合わせて笑ったものでした。あの大雪の日のことは、パートナーもよく覚えているようです。

雪の階雪の階

  大雪と言えば、私の大学入試のとき、そう60年も前の(笑)3月3,4,5日のことですが、その初日の3日が大雪になりました。当時は広島から京都へ、同じ大学を受験する数人(確か七人)の同期生らと一緒に出て来て、高校の先輩の下宿へ、家主さんのご厚意で、帰省している先輩たちのかわりに泊めていただきました。

  その下宿が千本今出川にあったので、そこからバスで百万遍まで今出川通りをまっすぐ東へいくバスに乗ればよかったのですが、大雪の中、バスが時間どおり来るわけもなく、早めにいかないと、と家主さんが私たちを急かしてバス停まで送って出てくれて、運行時刻など関係なくやってきた満員のバスに、正しい路線であることを確認すると無理やり押し込み、「百万遍で降りるんえ!」と大声で言って見送ってくれたのでした。

 その大家さんは手相を見る人で、みんなの手相を見てくれました。激励に訪れた私の一つ上の先輩の手相を見るなり「あんたはものすご、ええ手相してはるわ」と感嘆したように言って、当時彼を畏敬というかほとんど崇拝のまなざしで見ていた私は内心、やっぱり・・・などと得心したことを覚えています。
 彼はその後大学も途中退学して、広島へ帰ったのかどうか、私にとっては行方知れずになってしまいました。私の彼に対する思いも、それ以前に冷めてしまっていたので、消息を訪ねることもしませんでした。でも、どんな素敵な運に恵まれた人生を送ったのか、ちょっと興味がなくもありませんが(笑)。

 私については、感情線が豊かであることと、小指側の手のひらと手の甲の境の辺りの線をしきりに調べては、「あんたはえらい浮気な人やなぁ」(笑)と言い、「そやけど28くらいでええ人にめぐりあうわ」と言っていました。現実の私はどうやら28でめぐりあったかもしれない人は逃してしまったようで(笑)、結婚したのは30になってからでしたが・・・

雪の欄干雪の欄干

 私にとって最も厳しい冬の寒さの経験というのは、二十代半ばにヨーロッパを放浪していたころ訪れたベルリンでの体験です。
 他のことは全部忘れてしまいましたが、ある日の午後、なにか用があってか、いつものようにただ街歩きに出たのか、あるいはどこか美術館のようなところへ行こうとしていたのか、それも記憶にはないのですが、真冬で大雪のベルリンの街路を一人で歩いていたのです。長靴の足が雪に埋もれがちで歩きにくかったけれど、それほど足が深く沈むような柔らかいふんわりした雪ではなく、靴底で氷の結晶をシャリシャリと踏みかためては次の一歩を踏み出すような感覚だったと思います。

 ところが、ほんの数十メートルも歩くと、こめかみのあたりが痛くなってきて、そのまま歩き続けると意識を失って倒れてしまうか、皮膚も肉も骨も貫いて刺し通すような鋭い寒気のために、脳を直接やられてしまうのではないか、というほどの恐怖感に襲われて、歩き続けることもできないのです。
 
 どこか退避できるところはないか、と見回すのですが、広い道路のいずれの側にもそうした場所はなくて、ただ雪に包まれた硬い石づくり、コンクリート造りの建物が並ぶばかり。店などまったく開いてもいません。

 我慢して歩き続け、ようやく地下道の入り口のように道路脇に空いた四角い穴のような、少し引っ込んでいて、何段かの階段で降りられるところを見つけると、そこへ降りてしばらくの間避難し、凍り付いたこめかみのあたりのジンジンと脈打つような痛みが多少とも緩むのを待ってから、またそこを出て歩き出す、ということを繰り返して、ようやくもとのホテルへ戻ったのだったか、交通機関に乗れたのだったか、とにかく助かった記憶があります。

 その引っ込んだ穴のような場所が何だっかの記憶もないのですが、今思えば地下鉄駅の入り口のようにも思えるけれど、そんな標識があったような記憶もないし、階段を下りてもそこには鉄製のシャッターが閉まっていて、それ以上は入っていけず、ただ入り口で休憩できただけでした。それでも、地下鉄駅のように相互に離れてもいず、わりあい近い距離にまたみつかったりしたので、大いに助かったのを覚えています。

 あのときに、大陸の内陸部の寒さというのは、日本のような海洋性の気候のもとでの広島のような穏やかな瀬戸内海気候だの、せいぜい京都盆地の底冷えだのといったものとはまるで異なる、恐ろしく厳しいものだ、ということを身に染みて実感させられました。それはもうどんなに厚着していようと、頭の芯がじかに襲われるような寒さで、そういう空間にただ居るだけで、10分、15分以上は無理、というふうな恐ろしい寒さなのです。
 きっと戦前、戦中の中国やロシアの内陸部での戦争に行った日本の兵士は、そんな内陸の寒さと戦うだけで、その力の大部分を削がれただろうな、と思わずにはいられません。日本で瀬戸内海沿岸だの京都市内で味わう程度の寒さなどほんとうに優しいものだと思います。歳をとってみるとそれはとてもありがたいことですね。

雪の廂雪の廂

 最後に、少し甘酸っぱい雪の日の思い出。

 やはりヨーロッパの放浪に出かけてとりあえずロンドンに腰を落ち着けた初めての冬でした。わたしは何の目的もなくヨーロッパへ出かけていたので、日々町を歩き、幾分か関心のあった美術館や博物館を訪れていれば、他に何かしなければならないこともない日常だったので、とりあえず誰でもわずかな授業料を払って登録すれば学生証がもらえる、大学傘下のカレッジが開講していた初歩の語学コースに籍を置いていました。
 観光目的ではたしか当時3カ月しか英国に滞在できなかったのですが、学生という身分があれば、滞在期間を随時更新して延長できたからです。
 学校は、当時ホルボーン近くにあって、ロンドン大学傘下のプリンストン・カレッジという学校でした。わたしが通ったのは、その一講座として開講されていた初歩の英語コースでした。週五日、毎日英国人教師が教える授業は、あいだに15分か20分の少し長めの休憩をはさんで、合計2時間くらいの授業だったのではないかと思います。

 最初の授業のしょっぱなに、教壇に腰かけた教師がいきなり手元の紙にライターで火をつけ、驚く教室の生徒たちに、燃え上がる炎を指さして、" burn ! ” (バーン=燃える)と言い、続けて、" My name is Byrne(バーン)." と言って自己紹介する、というふうな、初めて経験する英国の語学教育のやり方も、日本の英語教育とは全然違っていて面白かったけれど、何より毎日通学する楽しみだったのは、授業の前後や休憩時間に接触する、様々な国や地域から来ているほぼ同世代の若者たちとのやりとりでした。

 スペイン、イタリア、トルコ、ギリシャ、イラン、イラク、アルジェリア、イスラエル、台湾等々、それこそ国際紛争の敵味方で将来命のやりとりをすることになるかもしれないような国や地域からも来ている子弟が同居する生徒たちで、たしかに授業は一緒に受けても、口もきかない、という間柄の生徒たちもありましたが、遠い極東の島国から来た私にとってそんなことは何の障害にもなりません。
 相当図々しく鼻っ柱が強くて皆の嫌われ者だった二人のイスラエル人であれ、目立ちたがり屋のイランの派手な女性であれ、非社交的だけれど自尊心の高いトルコやギリシャの男性であれ、おしゃべりで幾分騒々しいイタリアの女性たちであれ、分け隔てなく付き合うことができたので、だれとでも学校にいる間は友達のようにおしゃべりを交わすことができ、ときに誘われて彼らの部屋を訪れたりすることもありました。

 ひとつには、私は日本人ならほとんどの人と同様に、中学以来10年以上も英語にはそれなりに、つまり日本的な英語ではあっても馴染んできたのに対して、彼らは文字通りabcからこの学校で始めた初歩の学習者だったので、こちらが少し親切心を出して、助け舟を出しながら会話を促すことは、彼らにとっても喜ばしいことだったでしょうから、比較的好意的につきあってくれたのです。

 そんな中で数か月が過ぎてクラスの生徒たちともバスの小旅行に出かけたり、裁判所や劇場へ見学に出かけて裁判を傍聴したり、演劇を鑑賞したりして仲良くなっていき、私はスペインからバレエの修行にロンドンへ来ていた、一人のまだたしか19歳だったと思いますが、本当にバレリーナにふさわしい華奢な体つきをした黒髪の女性に心惹かれて、なにかといえばよく話しかけ、ちょっとした会話を楽しんでいました。

 彼女は、最初の授業で、中年男性であるByrne先生が彼女の席のところへやってきて、意味ありげに "What's your telephone number ?” などと訊いて、彼女が分からずに戸惑っていると、少し英語の初歩を知るイタリア人女性などが、「もう先生ったら!」といった調子で笑いながら<非難>していたように、教室の中ではみんなの影に隠れるようにおとなしくしていても、すぐに目立ってしまうほど可愛らしい、目のきらきら輝く女性でした。

 けれども私たちのいたクラスはまだ初心者のクラスだったので、彼女を英語で口説けるような男性は(わたしのほかには・・・笑)いなかったし、彼女も英語で応じるのは難しかったでしょうから、ただ受講生仲間の一人にすぎませんでした。
 とはいえ、ほかの上級クラスには彼女にぞっこんらしく、彼女の帰りを待ち伏せて声をかけたり、しつこくつきまとうような男性もいたことはいました(御多聞分に漏れず、そういう男性はイタリア人ですが・・・笑)。
 けれども、そういう男は彼女の好みの男性ではないようで、彼女が彼を嫌っていることは私にもすぐに分かりました。それで、私は好意はいだいていたけれど、きわめて慎重にふるまっていたのです。

 いよいよ冬休みに入ろうという直前だったと思いますが、しばらく会えなくなるので、私は思い切って彼女を食事に誘いました。意外にも彼女はすぐにOKしてくれて、明日の朝11時に自分のフラット(アパート)へ来てくれ、と言いました。私は内心狂喜乱舞して(笑)、そのころの私にとっては結構高級な料理店に昼食を予約し、彼女と一緒に行こうと考えていた文化施設などをあれこれ計画して翌日に臨みました。

 ところが思いもかけず、その翌日はロンドンでもめったにないほどの大雪になり、交通機関も乱れて大変な日になりました。それでも私は早めに下宿を出て、彼女に教えられた郊外の住所を少し時刻に遅れたものの、なんとか訪ねあてて行き、フラットのベルを押したのでした。

 すると・・・玄関に出てきたのは、大柄な、まん丸眼鏡に髯を生やした体格の良いあんちゃんでした。以前に二度くらい、学校へ彼女を迎えに来て、ごく親し気に簡潔な話し方をし、腕を組んで歩いて行ったのを見たことがあって、恋人の雰囲気ではなかったので、兄妹だというのはすぐに察しがつきました。
 彼は、当時長髪にしていた私をちょっと観察するように見て、「私はイザベル(彼女の名)の兄だ。君のことは聞いているが、実は彼女はいま家にいない。スペインから突然彼女の叔母が出て来て、きょうは叔母と一緒に一日外出しているんだ・・・」と、少し笑みを浮かべるような表情と穏やかな口調で言いました。あぁ、君が妹に気のある坊やかね、気の毒だが、ちょっと無理みたいだぜ、というかのように(笑)

 その瞬間に、あぁ、ふられたんだな、と悟って、なにをどう言っていいもわからず、ただ戸惑い、気恥ずかしさに襲われていました。
 ” OK?"
   そんな私を見て、自分の言ったことがわかるかな、というように彼は戸惑う私の目を見て言い、続けて "Sorry." と軽い調子で付け加えました。私はうなずいて、ただ、”I see.” とだけ言って退出したのでした。

 帰り道に彼女の気持ちを色々と考えました。彼女はまだそれほど英語ができなかったので、私がいろいろ助け舟を出しながら、なんとか意思疎通してきたけれど、仮に私に対して、そう感じは悪くないなくらいの気持ちをもってくれていたとしても、二人きりで長時間一緒にすごして、おしゃべりして楽しいとまではなかなかいかなかっただろうな、と。
 
 そして、いったんは私のいささか唐突で強引な誘いにOKしたものの、あとで翌日のことを考えれば考えるほど、ほとんど言葉も通じない異国の男性と一日二人きりで付き合うのはおっくうだな、という気持ちで、気が重くなったのだろうな、と。

 あれこれ他愛ない会話はかわしてきたけれど、私は彼女のことを、彼女は私のことを、ほとんど何の知らなかったし、何か月か授業で一緒に学んでいても、それ以前にはお茶に誘ったこともなかったので、私の食事の誘いはいささか唐突でもあったのです。

 一日付き合って、長い時間一緒に二人でいて、なにを話すことが出来るか、話題はいくらでも作れても、果たして拙い英語で互いにどれだけ話したり理解したりし合えるか・・・そう考えれば、むしろ彼女が億劫になってしまうのは当然のようにも思えました。

 だから、きょう突然叔母がスペインからやって来て、一緒に出掛けたというのは、きっと単なる口実で、彼女はきょうのデイトに行きたくなくなったんだろうな、と自分なりに私は納得したのでした。

 彼女にとってはもちろんでしょうが、私にとっても、彼女はチャーミングな同級生という以上のものではなく、好意はもっていたものの、恋におちて今後もひきつづき濃密なお付き合いをしたい、などと現実的に考えていたわけではく、そうやって一度でも一緒に食事をしたり、二人だけでお茶を飲みながらおしゃべりできたりしたら楽しいだろうな、と思って誘っただけだったのですが、振られてみると、自分の気持ちがもう少し深入りしそうになっていたことが分かって、自分でも少々戸惑いました。

 その翌日は学校の生徒たち自身が企画して募集していた、郊外のどこやら(古城か何か史蹟)を訪ねるバスツアーへの参加を申し込んでいた日だったので、重い心のままに参加しました。一人もほかに知り合いがいなかったこともあって、ひとり沈んだ表情をして同行していたとみえて、バスの後部座席にひとりで座っていたら、リーダーの女性が近寄って来て、彼女の指で私の顎を軽く持ち上げ、間近に私の目を覗き込みながら”Cheer up!”と励ましてくれたことを覚えています。

    そのあと冬休みまであと数日しかなかったので、私は学校には行かずに下宿でぼんやり過ごしました。まぁ振られて傷心した若者の典型みたいな状態だったわけですね。
 冬休みに入ってしばらくして、彼女からクリスマスカードが来ました。あの時は御免なさい、と謝りの言葉と、翌日に謝ろうと思って学校へ行ったけれどあなたがいなくて・・・・といったことが書いてありましたが、わたしのほうもそれ以上彼女に積極的に関わってどう、という気持ちがなくて、彼女とはそれっきりになりました。

 雪の日の私の思い出と言えば、そんなところかと思います。

雪の迷路雪の迷路




 

saysei at 11:45|PermalinkComments(0)

2025年02月08日

きょうの新聞から

 先ほど見たばかりの夕刊に、トランプと石破首相の会談の記事が載っていて、それを見ると、どうやら無事にというか、無難に終えたようですね。昨日の新聞だったか、石破首相が党首選で4回敗れて5回目に勝って党首、首相になったという話を聞いて、一度大統領選に落ちて再起した自分に引き寄せてか、関心を持ったらしい、という記事が出ていて、なるほどそういう親近感の持ち方もあるんだ、と思いましたが、ほんとうだとすれば、何が幸いするか分からないものですね。

 どうみても石破さん、社交的な人じゃないし、安部さんのように、トランプみたいな人物の懐にすっと入っていけるような人じゃないし、へたにすり寄れば不器用だから、日本人としてはもうとても見ちゃいられない屈辱的な醜態をさらすんじゃないか、と心配?していたのですが、杞憂だったようで何より。

 トランプもいまは中ソばかりじゃなく、ヨーロッパもカナダもメキシコやパナマも、インドその他いわゆる第三世界をも、みな敵にまわすようなことをもちまえの大言壮語スタイルでやっている最中だから、日本ぐらいは味方につけておかないとまずいと思ったかな。

 さて朝刊からも二つ。

 ひとつは、長野県佐久市で205年3月にとじ中学3年生の和田樹生さんがひき逃げで殺された事件で、当初、犯人はひき逃げではなくて「過失運転致死罪」で執行猶予付き有罪判決(禁固3年、執行猶予5年)を受けて確定していたのですが、遺族が付近の防犯カメラの映像などを粘り強く調査し、犯人の車の速度超過や、ひき逃げの事実を明らかにして告訴状を提出しました。  
 地検は速度超過の罪では起訴したのですが、19年3月、手続き面の不備を理由に控訴棄却となってしまっていたのです。
 ひき逃げの罪については、一度は不起訴とされたのですが、検察審査会が不起訴不当の議決をしたので、公訴時効間近の22年1月になって、ようやく在宅起訴となりました。
 そして22年11月、長野地裁は懲役6月の実刑判決を下したのですが、23年9月には東京高裁が逆転無罪の判決を出したのです。

 このような変遷を経て、ようやくこの2月になって、この二審判決が破棄され、一審の懲役6月の実刑判決が確定した、というニュースでした。

 なぜひき逃げで人を殺したのに、一審のような無罪判決がなされたりしたのか、といえば、事故を起こした直後、犯人は100mほど先で車を停止して、自分が轢いた和田さんを探したらしいのですが、みつからなかったので、車から約50mほそ離れたコンビニで口臭防止用品を買って飲んでいたらしいのです。そして現場へ戻ったところ、和田さんが通行人に発見されていたため、犯人は駆け寄って和田さんに人工呼吸をした、ということです。この間の犯人の行動が、道路交通法が運転手に課す「救護義務」に違反したと言えるかどうかが争われ、一審はコンビニに立ち寄って1分余り現場を離れた犯人が現場に戻って和田さんに人工呼吸をほどこしたことのほうを重く見て、救護の意志が一貫してあったとし、無罪を言い渡したわけですが、二審はこの現場を離れて無関係な買い物をしていた犯人の行為を、救護義務違反とみて、ひき逃げという判断で逆転有罪判決を下したというわけです。

 しかし、私が不思議に思うのは、1分間現場を離れたことを救護義務違反とみるか、みないか、が争われたらしいけれども、そういう問題じゃないだろう、と思うのです。この犯人は事故を起こした15年3月23日の午後10時過ぎ、友人らと飲酒した上で乗用車を運転して、横断歩道を渡っていた和田さんを轢き殺しているのです。飲酒運転という違法行為がこの事故・殺人という結果を招いたことは火を見るより明らかなことで、この一事をもってしても、このひき逃げを「無罪」とするなど、裁判官の頭がどうかしているのではないか、と疑わざるを得ません。

 しかも、人を轢いておいて、自分が轢いた人が「捜したが見つからなかった」などという供述がまず全く信用するに足りない言い訳だということは誰にでもわかるでしょう。夜の路上のことだから、昼間のように一目では見えないかもしれないけれど、轢いたことがわかっていれば、死体か傷ついた人がどこか近くに飛ばされたとしても、付近に居ることは馬鹿でもわかる。一生懸命探せば必ずみつかることも誰にだってわかる。ではなぜこの犯人は現場を離れてコンビニなんかへ買い物に行ったのか。それは、飲酒運転をごまかすための口臭防止剤を買うためだったのです!この犯人は飲酒運転をして人を轢き、殺してしまったか傷つけたに違いないことを知りながら、その罪を少しでも軽減しようと、飲酒を隠蔽するために現場を離れて証拠隠滅のための買い物をしていたのです。

 こんな一連の行為が「救護義務」に即した救護活動だなどと認められるとすれば、どんな殺人も、すぐあとで救護的ポーズをとれば、ぜんぶ無罪になってしまうでしょう。自分が人を轢き殺したかもしれないのに、その原因となったに違いない飲酒運転の証拠隠滅をはかるための行動のほうを最優先でやっていたわけです!これを「無罪」とするような裁判官って、ほんと、どんなアホ面をしているのか、顔が見たいですね。こういう裁判官は氏名を公表して、第三者委員会みたいな裁判官審判制度でもつくって、罷免できるようにすべきだと思います。

 何の落ち度もない、ただ横断歩道をわたっていただけの、まだ15歳と将来を嘱望される息子を殺されただけでも、どれほど悲しく、苦しく、犯人への怒りに身を焼かずにいられなかっただろうご両親が、こんな理不尽な裁判制度に振り回されて紆余曲折、2015年の3月に起きた事故から十年間もの長期間苦しめられつづける、ということに、無関係な人間ながら、激しい憤りを覚えずにはいられません。

 しかも、よかったよかったではない。たった6カ月の懲役ですよ。勝訴とはいえ、これではほんとうに語弊はあるでしょうが第三者の目でいえば被害者の「殺され損」だなぁと思わずにはいられない結末で、決して勝訴だからといってよかったよかったなんて喜ぶことができません。いまわが国のこの種の交通事故裁判は、ほとんどこんな体たらくで、無茶苦茶なスピード違反や飲酒運転による事実上の殺人も、ほとんど言うに足りないほど軽い刑罰を科するだけで、全く被害者の「殺され損」の様相を呈していると思います。被害者(生きていればの話ですが)もその家族も、一生その事故の重みを心身ともに背負って行かなくてはならない。ことに被害者が轢死させられていたら、家族は生涯その苦しみを背負って生きることになるでしょう。ところがその殺しをやってのけた犯人は、ごく軽い刑罰で、せいぜい数年だとか数か月だとかでケロリとしてまたシャバへ出て来て(ひどい場合には執行猶予付き判決で罪の償いさえしなくて済み)、そんなことは忘れてしまってのうのうと暮らしていくでしょう。こんなことがあっていいものでしょうか。

 割と最近の「事故」でも、一方通行の路地を時速200kmとかのめちゃくちゃなスピードで走って来て、ごく普通の道を正常運転していた乗用車に激突し、乗っていた人を殺した事故がありましたが、あれでさえも検察は当初、ただの事故として「過失運転致死」罪とかで起訴したのを、被害者家族が綿密に調査し、署名を集めて、危険運転でしたっけ、コントロールできないほどのスピードで暴走して起こした事故に該当するものとして起訴するようプレッシャーをかけることで、ようやく検察も起訴のカテゴリーを変えたということがありました。そもそも検察が検察の役割を果たしていないのですね。

 車をぶつければ「事故」だ、つまり故意の障害や殺人ではなくて、予期せず、偶然起きてしまったことなんだ、という変な思い込み的「決めつけ」が司法関係者にもあるようです。法的に時速制限が60kmのところを200kmで、一方通行路を逆走することが、その種の「事故」であるという認識自体が間違っているでしょう。特定の誰かを殺そうとした計画殺人ではないけれども、明らかに「未必の故意による殺人」と言ってよい事態というべきでしょう。そういう殺人を殺人と認めず、「単なる事故」とみなすのが司法の常識だとすれば、司法の常識のほうが間違っているし、世の中の普通の人々の感覚からも大きく外れているでしょう。わたしたち市民がこういうことに声を挙げていかないと、いつまでたってもこの種の専門家を自称する人たちによるいいかげんな「常識」が幅をきかせ、その犠牲になって生涯苦しみ続けなくてはならない人がなくならず、繰り返し生まれてくるだろうと思います。

 長くなりましたが、もうひとつの記事は、先日もとりあげましたが、24年9月にパワハラ疑惑で内部告発された斎藤元彦兵庫県知事の先の知事選における公職選挙法違反容疑に関わり、例のPR会社の代表をつとめる女性が、斎藤知事陣営から「広報全般を任された」とする投稿をインターネット上で公開していた件で、7日にPR会社の関係先に家宅捜査が行われた、というニュースです。

 件のPR会社の代表である女性は24年11月20日づけ投稿で、インターネット上に、告示日(10月31日)までの「種まき」、「育成」、投開票日(11月17日)に向けた「収穫」の三段階からなるSNSの運用方針を紹介し、斎藤本人のX(旧ツイッター)を含む、陣営の4つの公式アカウントを管理・監修し、「#さいとう元知事がんばれ」のハッシュタグをつくったと記述していたそうです。非常に具体的ですね。この女性の投稿は(一部が?)その後削除されたそうです。PR会社や斎藤知事がいうように、選挙法違反でも何でもないのなら、堂々と記者会見でも開いて説明して理解をもとめればいいでしょうに、このPR会社の代表の女性は、その後そうした取材を一切拒絶して口をつぐんでいるようです。うしろぐらいところがなければ、当然出て来て話せるはずですが、おかしなことで、公職選挙法違反容疑の家宅捜索が入るのも当然でしょう。

 しかし、この容疑は当然斎藤知事に向けられたもので、単に証拠集めにPR会社への家宅捜索が行われただけでしょうから、しっかり調査して権力者の違法行為を剔抉してほしいものです。ついでにSNSを悪用し、既存の選挙法の弱点を突いて、このいかがわしい人物を支援し、浮動層的な市民を煽って知事を再び権力の座に返り咲かせた、さらにいかがわしい人物たちの身辺にもぜひ捜査をメスを入れてほしいと思うのですが・・・。



saysei at 23:09|PermalinkComments(0)

雪の日、スキヤキ

今朝の積雪
  今朝は起きてみるとわが家の狭い庭も向こうの共同庭も、すっかり雪景色。テラスの手すりの上の雪でみると数センチは積もっていたようで、まだ降り続いていました。

降り続く雪
 そういえばちょうど長男が生まれたときも、会社の仕事で米英仏伊の主要な美術館へ2週間の慌ただしい調査にいった海外諸国の美術館行政についての報告書を3月末までに文化庁に提出しなくてはならなくて、年の暮れから正月も何もなく、パートナーの実家の空き部屋にこたつをしつらえてもらって、海外から持ち帰った膨大な文献・資料を積み上げ、かたっぱしから目を通しながら、直接レポートを書いていくという離れ業みたいなことを朝から晩まで休みなく続けていて、ちょうどそんなときパートナーは初めての出産を迎えて京都市内のそう大きくない個人経営の産婦人科病院に入院していて、義母が毎日様子を見に出かけていたのですが、ちょうど2月上旬のいまごろ、義母から電話がかかって、もう生まれそうよ、というので外へ出たら風花が舞っていて、底冷えのする日でした。タクシーで病院へ駆けつけ、しばらく廊下で、まだかまだかと待って居ると元気な赤ん坊の泣き声が聞こえて、長男が無事誕生したのでした。
 いつもこのころになると、あの日も寒かったなぁ、とそのことを思い出します。

 きょうの雪は朝のうち積もっていましたが、陽が射してしばらくしてみると、あっけなく融けて、テラスの手すりの雪は全然残っていませんでした。きっと溶けやすいタイプの雪だったのでしょう。やはり北陸や東北の1メートルも2メートルも積み重なる雪とは密度が違い、硬さが違うのでしょうね。

 で、きょうも少しヒポクラテス先生の医学論集を読み進んだだけで、あとはカロナールのせいか、ずっと二つの椅子(片方は両足を上げるのに使う)で寝そべるようにしてうつらうつら、後期高齢者にふさわしい午後を過ごし、さて夕食はたぶんお正月以来のスキヤキ。

すき焼きの具
 ほかにはないので、すき焼きに使ったものを何枚かの写真で・・・

★肉
 このお肉はパートナーがいつも好んでいる銀閣寺の大西さんのだという(生協で買ったのかな)宗谷牛。消費期限の関係か700円で売っていたので即買ってきた、と言っていました。とっても美味しかった。

野菜
 野菜は椎茸以外はみな私が上賀茂まで電動アシスト自転車を走らせ、野菜の自動販売機めぐりをして買ってきた上賀茂野菜

★豆腐と糸蒟蒻
 焼き豆腐に糸蒟蒻

★卵1
 この卵、いつも思うけれど、表面張力がすごくて、いつもこんもりまん丸に盛り上がっていて容易には崩れません。箸を立てて激しくかき混ぜないと、白身に融けて混ざるのも容易でないほど密度の濃い黄身で、味も濃い。

煮ている最中の鍋
 最初に肉だけ入れて食べたあと、野菜を入れて炊き始めた鍋。

 手ごろな量でおいしくいただけました。珍しくあとで八朔を半分っこしていただきました。酸っぱかったけど、八朔らしい味がして、私はもともとみかんはじめ柑橘類は好きだし、八朔も大好き。口がさっぱりして、スキヤキのあとにはちょうどよかった。

 肩に強い凝りと痛みはあったけれど、きょういちにち、また無事にしあわせに過ごすことができました。







saysei at 21:38|PermalinkComments(0)
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