2018年12月10日

手当たり次第に XXⅥ ~ここ二、三日みた映画

 このところ連日出町座に通う感じで、感想も書いてきたので、今回もそれ以外に見たごくわずかな映画についての、例によって、無責任な走り書き的感想です。

ヨーロッパ横断特急(アラン・ロブ=グリエ監督) 1966

   出町座で昨日見てきました。
 なつかしいですね。といってもこの映画を50年前(!)に見たわけではありません。ロブ=グリエは私にとっては何よりもヌーヴォーロマン(アンチ・ロマン)の作家で、映画はたまに娯楽として見るほかさして観ようともしなかったので、映画監督ロブ=グリエについては何も知りません。

 「消しゴム」や「嫉妬」などいくつかの代表的な作品を読み、「新しい小説のために」というエッセイ集をかなり熱心に読んだことはおぼえていますが、自分がそこから何を学べたかは定かではありません(笑)。要は判らなかったということでしょう。

 あのころ、ロブ=グリエだけではなく、サルトルやカミュのような作家の次に来た新しい世代の文学、という感じで、ナタリー=サロート、ミシェル・ビュートル、クロード・シモン、マルグリット・デュラスなどの新しい小説が次々に翻訳出版されて、けっこう付き合ったのを覚えてています。たまたまその少しあとで国外へ出たので、邦訳のなかったものは英語のペーパーバックで、というのはフランス語が読めないものだから仕方なく英訳で読んだりしたのを覚えています。

 そういえばフランス語のできない私がはじめてフランス語で全文を読んだ小説というのはロブ=グリエの短編La Plage (浜辺)でした。なぜかといえば、その数年前に出たペンギンブックの「French Short Stories」という対訳本をたまたま本屋でみつけて、これなら英訳付きだし、ロブグリエのその短編はほんの数ページの短いものでしたからこれなら読めそうだ、というので買ってきて、ロンドンの英語学校の同級生だったフランス語のよくできるスペイン人の可愛いお嬢さんに、休み時間に毎日繰り返し呼んでもらって復唱し、うまく読めるとほめられるのがうれしくて、なんとか全部読んで、意味のほうは英訳を参考にして理解できたのです。それがたぶん私が原文で読んだ最初で最後のフランスの小説でしょう(笑)。私が彼女の前では優等生だったので、ご褒美に彼女は、私が日本語で主著をほとんど読んでいたバルザックが面白いと言っていたのを覚えていて、なんとフランス語のペーパーバックで「ゴリオ爺さん」をプレゼントしてくれたのですが、さすがにこれは私の語学力ならぬ語学無力と根気では歯が立ちませんでした。彼女がずっとそばで付き添っていてくれたら、私もフランス語が読めるようになったと思うけど(笑)、彼女とはわずか数カ月のおつきあいでしたから・・・

 そのときのテキストはいまも思い出に持っているのですが、頁がバラバラになって、ロブ=グリエの「浜辺」の冒頭がある最初のほうのページが紛失してしまっています。あの最初のページは繰り返し読んでもらった(し、読んだ)ので、ほとんど丸暗記していて、簡単な単語さえ忘れてしまったいまでも調子だけはおぼえていて、カタカナフランス語(笑)でなら声に出して言えるほどです。むかし有村ナントカって数カ国語ペラペラみたいな出鱈目「言語」を喋るお笑い芸人さんがいましたが、あれと変わらないですね(笑)。それじゃあんまりだから、ちょっと調べて懐かしい原文の冒頭だけ記しておきます。

 Trois enfants marchent le long d'une grève. Ils s'avancent, côte à côte, se tenant par la main. Ils ont sensiblement la mème taille, et sans doute aussi le mème âge; une douzaine d'années. Celui du millieu, cependant, est un peu plus petit que les deux autres. ・・・

 3人の子供が浜辺を歩いている。並んで手に手をとって進んでいく。3人は同じくらいの背丈で、おそらく歳も同じ、12歳くらいだ。しかし真ん中の子はほかの二人よりもすこし小さい。・・・

 何でもない情景の描写です。はじまりだからではなくて、大体しまいまでこういう淡々としたシンプルな描写がつづきます。ははぁ、こういうのがヌーヴォーロマンなのか、とそれでも当時はなにか特別な文体のような感じで読んでいたように思います。

 邦訳でいろいろ読むと、ひとくくりにできない多様さがあるけれど、古典的な小説のような物語性や心理描写がないとか、客観的で透明な描写のようでいて、実はその全体がある人物の主観の歪んだレンズをとおして見られた光景なんだとか、その種の仕掛けについては、様々な評論と併せて読むことで、その実験的な試みらしきものは一応理解できた気にはなりました。

 けれども、すくなくとも私が読んだそれらの作品の中に、ほんとうに惹かれるものはひとつもありませんでした。端的に面白くなくて、読んでいてつまらなかったのです。はじめのうちはそれでも、いや自分にはまだ新しい小説がわからないだけかもしれない、と思って、同じ作家でも別の作品を、また別の作家をと手に取って読んでみましたが、どんなに多様性があっても、つまらない、という意味では共通していました(笑)。なんだか、これが新しい小説だからこれが分からなきゃいまの文学はわからんぞ、とまるで教師に宿題で読むことを強いられるように、面白くもないテキストを読まされているような感じになってきたので、きれいさっぱり全部売り払って(さきほどの仏英対訳本だけ例外)、それから半世紀、結局文学の世界では、すくなくとも今の日本の文学には何の痕跡も残していないのではないでしょうか。

 古い世代の作家には影響を受けた、と言う人もあるでしょうし、実験小説的なことの好きで「方法」ばかりが先立つような頭でっかちな作家がまだいるとすれば、いやいや深甚な影響を受けた、あれは小説を一変したんだ、とおっしゃるかもしれないし、日本の文芸批評家は昔からおフランスびいきなのでとんでもない、と目を剥くかもしれませんが、事実を見れば、いつもと同様、「おフランス」の流行にとびついて、これがなければ夜も日も明けない大騒ぎをして、あとはたださぁーっと潮が引くように引いて、何も残らなかった、というのが本当のところではないでしょうか。まぁ、その流行の間にいちはやく翻訳を量産したりときには翻訳より先に「紹介」したりして、ちゃっかり儲けは出ているかもしれませんが(笑)。

 さて閑話休題。感想を書くはずだった(笑)映画「ヨーロッパ横断特急」をいまみると、とても古めかしく感じられます。小説でも実験小説、なんて言われて新しがられたものほど、時がたつと読めたものじゃなくなるものでしょうけれど、映画も同じなのかもしれません。頭でっかちにあれこれ不自然な操作をしてこの仕掛けが分かるか?みたいな小説というのは、文字で書かれた小説の場合、まったとりえがないけれど、映像の場合はそれ自体が感性的に直接訴えてくるものだから、抽象的な言語とは違って、また意外な出会いがある場合だってあるのでは?と思って観ていましたが、なんだかつまらない楽屋裏を見せられて、しらけてしまうところがあります。

 ヨーロッパ横断鉄道に乗り込んだ、映画監督らしい中年男ともう一人の男、それに中年の女性の3人が、この映画と同じ「ヨーロッパ横断鉄道」という映画を制作しようと企画していて、彼らがストーリーを考えそこに配置しようとする登場人物が実際に列車に乗り込んできて事件が起き、その進行を話し合う中でストーリー自体に変更を加えていくと、この映画の中で起きる現実も変わっていきます。3人がこの映画の中で現在進行形でこの映画自体を制作しており、その映画がただちにこの映画の中の現実として進行もするけれど、またその進行自体が3人の構想にフィードバックされて、彼らがつくりつつある映画自体が変えられていく、という仕掛けです。

 それは入れ子構造として語れることがあるけれど、マトリョーシカや入れ子のだるまさんみたいな、より大なる要素がより小なる要素を完全に含むようなツリー構造ではなくて、言ってみれば同時に逆に小が大を含みもするリゾーム構造になっていて、古い言葉で言えばフィクションと現実とが相互浸透するような状態で進行する映画です。

 彼ら3人がつくっている映画、「現実に」この映画の中で進行するドラマというのは、007のパロディみたいなスパイものかギャングもの、あるいはもちろん列車ですからオリエント急行殺人事件のパロディみたいな推理劇で、そこに語られる物語の断片や登場する人物は浴場のペンキ絵、芝居の書き割りみたいな、或る意味で典型をなぞった、うすっぺらでいかがわしいものばかりですから、観る者は誰もそんな物語をまじめにたどったり、「推理」したりはしません。むしろそういう生真面目な見方をからかい、嗤って、現実とフィクションの間を往還しながら、どんなところへ連れて行かれるか分からないぞ、というプロセスを楽しむことができるなら、それは「面白い」という方もあるでしょう。

 こういう仕掛けをあれこれ詮索したり、また仕掛けたりすることが知的な行為だと考えておられる方々は、こういう映画を知的でおしゃれで面白い、と思われるのでしょうが、私には全然そうは思えないので、なんてつまらない映画だろう、と思いました。私は相手がいて知恵をしぼって戦術を考え、ああでもないこうでもない、と駒を置いて競ったり戦ったりするゲームは好きだけれど、コンピュータ・ゲームおたくがはまっているような、空想的な物語りをベースに、その主人公を自分が生きて冒険して怪物をやっつけてお姫さまや宝物をゲットするみたいな、オタクの人たちがはまる暇つぶしゲームのようなのには全く興味がなくて、面白いとも思わないので、あれと同じじゃないかな、と思いました。

 今はやっているようなそんなコンピュータゲームも、これまで一世を風靡してはあっという間に消えてしまったゲームソフトのように、じきに視界から消えてしまうことでしょう。手を変え品を変えてまた新たなゲームが流行はするでしょうが、基本的にそういうものは「古い」ものだと思います。「宗方姉妹」の姉が言っていたように、「古びないものが新しいもの」なのではないでしょうか。


共喰い(青山真治監督)2013

 これはレンタルビデオ屋のDVDを借りてきて観たのですが、今回観た中では一番いい、心に残る作品でした。
 原作を読んでいなかったので、映画をみたときは、これって中上健次の世界じゃないか、と思いました。「枯木灘」や「地の果て 至上の時」・・・主人公である高校生遠馬(菅田将暉)は秋幸よりも幼く、ずいぶんやわだし、おやじ・円(まどか=光石研)も秋幸のおやじほど迫力はなく、軽くてむしろお人よしにさえ見えるけれども、遠馬がおやじも買っている女を買って帰ったあと、怒りもせず、どんどんやったらええ、とけしかけ、「わしとお前でどんどこどんどこやっちゃったら、親子二人分の子ども、産むかもしれんぞ」なんて言うのですが、あの場面など、秋幸が兄妹相姦みたいなこと(だったと思う、もう何十年も前に一度読んだきりなので忘れてしまったけれど)を告白して、おそらくはそのことで倒すか倒されるか、いわば父親殺しをしなければ自分が生きられない息子の立場から、親父を倒すか自分が倒される(罰せられる)か、いずれかを望むように語ったときに、父親は、衝撃を受けもせず、怒りもせず、構わん構わんと言うように平然と受け容れ、秋幸を許容してしまう印象的な場面がありました。

 たしか四方田犬彦があの作品を論じて、その場面をとりあげ、「脱構築」みたいなことを言って、なんだか中上の小説が当時流行?のデリダ理論のおあつらえむきのサンプルみたいに論じられるのを見て、そんな理論に還元されるようなものなら中上が小説書く意味ないよな、と感じたのを記憶していますが、この映画のあの場面も、中上の小説のあの場面を連想させました。まぁ荒ぶる父と息子の関係では、多かれ少なかれこういうことになるのではあるでしょうけれど・・・

 また、そんな父親に強いアンビバレントな感情をもっている遠馬の姿を見ていると、「千年の愉楽」の路地の青年である主人公を連想します。さらに、彼の母親「仁子さん」(田中裕子)を見ていると、中上の小説中の路地の世界の主のような「オリュウノオバ」だったか、ああいう母系社会の根源に居座っているグレートマザー(太母)みたいな存在を連想します。そして、全般に主人公やその父親のような男性陣よりも、仁子さんにせよ、仁子さんが別居したあと家に入って円や遠馬と暮らす「琴子さん」(篠原友)、さらには遠馬の恋人である千種(木下美咲)でさえも、これら女性陣のほうが実は強く、したたかに、しっかりと生きているという存在感を与えるのですが、そういう女性の姿は、中上が母を描いた「鳳仙花」を連想させます。

 あまりにも中上健次の世界の雰囲気に似ているものだから、思わず原作を再確認しましたが、もちろんこの映画の原作になったのは、中上ではなく、田中慎弥の「共喰い」でした。私はほかの2,3の田中の作品を読んでこのブログに感想を書いたことがあって、「共喰い」も読んだとばかり錯覚していたのですが、実は読んでいなかったようだったので、映画をみたあとで文庫で出ていたのを読みました。

 最後の方の重要な部分で映画は原作とは違うところがありますが、それまでの、つまり同じところは、こまごましたエピソードもそこでの登場人物たちのセリフも、この映画は細部まで原作に忠実で、ほとんどそのままです。遠馬が覗き見る父親と琴子さんとのセックスの場面のあと、立ち上がった円のペニスがまだ突っ立っているのまで生真面目に再現しているのには、おぉーっ!と感心?してしまいました(笑)。

 原作にない部分で私が気付いた最も重要な点は二つ。一つはもちろん、円を見捨てて出て行った琴子さんを遠馬が見つけ出して訪ねていくシーンで、琴子さんは、遠馬に私とやりたかったんでしょ、と遠馬を抱くという場面ですが、遠馬が彼女を抱くことを躊躇するので、どうしたんね?と琴子さんが訊くと、遠馬は、琴子さんのおなかの中にいる赤ん坊のことで、おなかんなかにおる自分の弟か妹をつっつくと思うて・・・と言うのです。これを聴いた琴子さん、いかにも可笑しそうに笑って、「そんなこと心配せんでもええがね。おなかん中の子はあの人の子じゃないけぇ」(笑)。これには遠馬だけではなく、私も一本やられたぁ!という感じでしたね。逞しい女性!円という男はセックスの際に女性に暴力をふるわないと快感が得られないDV男で、仁子さんから、腹の中に赤ん坊がおる間だけは殴らない、と聴いていた琴子さんは、防衛のために赤ん坊を宿していたというのでした。女は強し・・・^^; 

   もう一つ私が気づいた違いは、この話が現在進行形で(遠馬を語り手として)語られるメインの部分は昭和63年後半から64年つまり平成に切り替わった年のできごとなのです。小説では冒頭にその年月が明記されていますが、映画の中でもラジオの放送などでそのことがはっきりとわかります。そして、たしか原作にはなかったけれど、映画では仁子さんのセリフの中に、「あの人、血ぃ吐いたてね」という場面があります。
 
 ちょっと唐突だったからか、遠馬が、え?というようにいぶかると、「新聞に毎日載っとろうが」というように答えて、それと名指すことなく、あぁ・・・とすぐその場で何が言われているのかが分かるような場面になっています。
 「あの人」をめぐる会話は、ラスト近くで、円に義手でとどめをさして殺し、刑務所に入っている仁子さんを遠馬が面会に行った面会室で交わされます。仁子さんは続いて「判決まで生きとってほしいと思うとるんじゃが」というようなことを言います。

 なして?と訊く遠馬に、仁子さんは、「あの人」が亡くなったら恩赦で減刑があるかもしれんというようなことを言い、続けて「あの人が始めた戦争でこうなったんじゃけぇ、それくらいはしてもろうてもええじゃろう・・・」と言います。戦災で右手を焼かれて切断し、手首から先がなくなったことを言っているわけです。「あの人より先には死にとうない、と思うてきたんよ。あの人より先には逝かんぞ、と思うてきた・・・」と繰り返しつぶやくのです。

 私は昔、吉本さんの本を愛読していたころ、彼の誰かとの対談記録の中だったかと思いますが、「あの人より先には死にたくない、ってのはあるでしょ」みたいなことを言っていたのを記憶しています。それを読んだときは、あぁ、そういうものなのかな、と思ったのですが、正直のところ純戦後生まれ(といっても敗戦日から幾日かしか隔たっていないのですが・・・笑)の自分としては、実感的にはよく分からなかった。でも、戦争で身内を失ったり、自分が傷ついたりして戦後を生き延びて来たごくふつうの人たち、ひとたび戦争となれば何の特権もなく一兵卒として駆り出され、あるいは銃後を守れとすべてをお国のために差し出し、犠牲にし、何もかも奪われ、心身ともに深く傷を負いながら命ながらえた、圧倒的多数の私たちの親や祖父母の世代の心情の中にはそういうものがあったのかもしれないな、と思います。

 以上の二つが私にも見つけられた原作になくてこの映画にだけある重要な部分です。二つとも、付け加えられて決して蛇足にならず、むしろいっそう原作の世界を深め、強めた変更だと思います。

 父と息子の血のつながりをベースにした葛藤とその二人に関わる女たちとのできごとを思春期の男子高校生の側から彼を語り手に描いているので、原作もその兆候はあったけれど、さらに一層、性的なものがエピソードの隅々まで溢れています。小説でも映画でも冒頭に彼らの住む地域(その名も「川辺」)を流れる川、円に言わせれば女の「割れ目」のような川が置かれ、ラストにもその川が水を湛え、高速度でとらえられる映像は大きな幅での時の流れを感じさせ、いまにもその「割れ目」からあふれ出そうな、水面の震える川の表情がとらえられています。それは円の言う通り、そこにすべてが宿り、そこからすべてが生まれ流れ出してくる性の根源のようにみえます。これはまさに性を描いた作品です。

 近視眼的にみれば目に見える男女の交合やそれに近い男女のくっついたり、離れたりという意味での狭い「性」だし、それは四六時中やりたいやりたいと「そのことばかり考えちょる」と自分でも口にするほど自分の肉体の欲望を持て余し気味の遠馬の目線でこの作品が男女の直接の肉体的な交わりやそうした性的渇望の色合いに埋め尽くされているようにさえ感じられます。しかし、この作品はそういう目に見える性だけではなく、父と子、母と子の時間軸上の性を正面から描いていて、一対の夫婦の性がどう次世代に引き継がれていくか、いかないか、そこにどういう葛藤があり、どういう親和があり、どんな不協和音を奏でるか、そこのところが丹念に描かれる大きな器になっています。
 
 仁子さんを演じた田中裕子の演技が光る作品でした。


浮草(小津安二郎監督) 1959

    旅まわりの芸人一座が船に乗って、どうも伊勢湾の小さな漁村みたいなところへやってくる。以前にも立ち寄っているところらしく、座長の駒十郎(二代目中村鴈治郎)以下古い団員にはなじみの村のようだけれど、実は駒十郎にはいま女房として一緒に旅をしているすみ子(京マチ子)の知らない古い愛人で一膳飯屋で生計を立てているお芳(杉村春子)がいて、彼をまだ父親だとは知らずに、おじさんと呼んでいる息子までもうけていたのだ。

 この村へ長いブランクの後に帰ってきて興行を打つのだが、客が集まらず、団員の士気も上がらない。しかし駒十郎は公演の傍ら、いそいそとお芳のところへ出掛け、いまは成長して郵便局に勤める爽やかな青年になった息子清(川口浩)と釣りに出かけたり将棋をしたりしてくつろぐのを何よりの楽しみにしていた。清は郵便局員をしているが、勉強を続けて上の学校をめざしたいと考えて努力する青年だった。

 ところがある時お芳のところへ行くのをすみ子がみとがめ、事情を知る古参の団員に問い詰めたすみ子はお芳の店へ押しかけて駒十郎を連れ帰ろうとしてお芳とぶつかり、また清にも遭遇し、自分が長年裏切られてきたことを想い知らされ、怒りが収まらない。

 激しい雨の中の帰り道、駒十郎とすみ子は路地を隔てて向かい合い、互いに激しく非難しあう。 この場面はだいたい静謐な画面に終始する小津の作品の中では珍しく、非常に激しい、劇的な場面で、古風な男尊女卑的な立場の駒十郎が男の身勝手を地でいくように、上から目線で怒鳴りたて、叱責して押さえつけようとするのに対して、すみ子が堂々と対等に駒十郎とわたりあう強い姿が、とても美しく、カッコイイ。

 何十年もの間、裏切られていたことを想い知らされ、腹の虫がおさまらないすみ子は、可愛がっている若くて女ざかりの魅力芬々たる団員加代(若尾文子)に、理由を告げずに、清を誘惑してくれと頼む。はじめはいやがっていた加代だが、ちょっと面白いと思ったか引き受け、清に近づいて誘惑する。

 清はすみ子が予想したとおり、たちまち加代の魅力の虜になり、逢う瀬を重ね、もう上の学校へいって勉強を続ける夢も捨てて、加代と一緒になることしか考えられなくなっていく。
 ところがここで、もともとはすみ子の企みの手伝いで清の気をひいてみればよかったはずの加代が、事情も知らず純情一途に気持ちをぶつけてくる清にほだされ、自分も清に想いを寄せるようになる。それで学業を捨てて一緒になりたいと迫る清に本当のことを告げて学業を続けるよう、自分とはもうつきあわないように言うが、清は事情などもうどうでもよく、聴く耳を持たない。
 
 加代が清に近づいたことを知った駒十郎は怒り狂って加代を責め、それがすみ子の差し金であったと聞くやすみ子を呼びつけ、自分のことは棚に上げて激しく殴打し、出ていけと罵る。また加代にももう清に会うことを禁じる。すみ子は最後には詫びて仲直りしようと言うが、駒十郎は怒りがおさまらず、答えようともしないで飛び出していく。

 ところがこの駒十郎と清が、加代のことで激しく対立する。駒十郎は清に、加代とは会うな、と言うが、清は聴く耳を持たない。お芳は駒十郎が実の父親だと清に告げるが、清はそんな事だろうと思っていたよ、と態度を変えず、駒十郎を拒否して出ていく。

 そのころ一座は客の入りも減って興行が成り立たなくなり、借金をかかえて解散するしかなくなってしまう。一座の団員にわずかなものを渡して解散し、みなバラバラになっていく。駒十郎はお芳のところで清と3人で楽しく余生を送ることを夢見ていたが、清に厳しく拒否されてそれも叶わず、一座も解散となって途方に暮れるが、加代に清を託して、自分はこれまでどおり旅に出る、と言って一人駅に向かう。

 駒十郎が駅へいくと、そこには列車の到着を待つすみ子が一人で待っている。離れていたところにいたすみ子が駒十郎のそばへきて、駒十郎のくわえたばこに火をつけてやり、自分も一本もらって吸う。ふたりはともに車中の人となり、4人掛けの隣同士の席に座って旅の人となる。

 古い映画だし、行って見れば古臭い人情噺だけれど、これが見せるからやっぱり小津はすごい。といっても「東京物語」や「麦秋」なんかの小津とはずいぶん違うようです。それらのいわゆる名作の評価が高い、小津らしい作品とされているものが、静かな緊張感に満ちた映像なのに対して、この作品はずいぶん動的な要素にあふれていて、もし人々が小津らしい作品というのに小津の映画作りの文法みたいなものがあるのだとすれば、それを破ってかなり自由奔放に撮った映画のように感じられるところがあります。もちろん映画史的な知識も小津の作品の前後関係とかもいちいち調べたこともないので、このカラー作品が小津の作品史のどこにどう位置づけられるかとか、それが例外なのかそうでないのかとか、そんなことは一向に知りませんし、関心もありませんが・・・

 とにかく京マチ子と若尾文子がほんとに綺麗でチャーミングでした(笑)。私の感想としては、それを言えばもういいようなものですが、作品としてはやっぱり中村鴈治郎の駒十郎が要で、あの細いもともとツリ目の目をめいっぱいつり上げて「このアホ!」と怒鳴り散らすあの石頭の旧弊な女性差別的DVおやじ(笑)の強烈な存在感がこの映画の中心です。ほかの役者はみなこの中心のまわりをぐるぐる回っていて、時折軸に触れては跳ね返されたりおさえつけられたり反発して場外へ飛んで行ったり、という具合。なかなかうまくこの中心軸に寄り添って一緒に回っていくなんてできないのですが、結局のところ古女房の京マチ子が寄り添ってまた一座の再起を夢見て旅回りに出ていくわけです。

 この中心軸が反発を買おうがめちゃくちゃ身勝手なオヤジであろうが、あれだけの存在感をもつからこそ、激雨の中、路地を挟んで対峙しながら思いっきり怒鳴り合う京マチ子の強い女っぷりがあんなに美しく、カッコ良くも見えるのでしょう。また彼に抑えこまれる果敢無い存在だからこそ加代の思わぬ展開による清への想いが一層可憐に思われ、清を誘惑する彼女も、本気で清を愛するようになる彼女も、ともに素晴らしく魅力的な女性にみせてくれるのでしょう。

 昔の愛人お芳の杉村春子の芯の通った堂々たる姿勢も、純情一途の青年を演じた若い川口浩も、おもな古手の団員たちを演じた役者たちも、みな実に味のある役者でこの作品の世界を支えています。カメラは宮川一夫。よく言われる小津のローアングルとか、対話する二人を交互にとらえる切り替えの特色だとか、そういうのはこの作品では見られないように思います。そのかわり?といっては変ですが、雨の中の激しい口論の場面とか、駒十郎と清がまだ親子と明かさないときに、お芳の家で将棋をしたり、一緒に釣りにいったりして見せる幸せな親子の情景とか、京マチ子と若尾文子が並んで化粧などしながらくつろいで話しているときのような、ぞくぞくするように美しい2人の女性の姿とか、列車に二人並んで腰かけ、またいっちょやるか、と語り合う二人の表情とか、そういうところに名カメラマンぶりが発揮されていたんじゃないかと思います。技術的なことはわからなくても、見ていてぐっと引き込まれたり、しみじみと胸にしみこんでくるものがあったり、感情が激しくゆさぶられる映像というのは誰にでもわかるものですから。


舟を編む(石井裕也監督)2013

 比較的新しい作品で、三浦しをんの原作から評判になった作品ではなかったかと思います。
 辞書編纂の話で、よくこういう地味な世界から、一般の人にも面白いと思えるような、あんな多様なエピソードを拾ってこれたものだな、とまず(原作にか映画にかわからないけど)感心しました。

 辞書づくりを指導してきた中心人物の松本教授(加藤剛)は、たしかにそういう学者らしいキャラだけれど、その片腕だった荒木(小林薫)の跡を継いで辞書編集部へ配属された主人公馬締光也(松田龍平)は常人離れした対人関係不適応症みたいな青年で、原作でもこんなふうに誇張されたキャラなんでしょうけれど、マンガが原作?と思ったほどでした。いや「三浦しをん」って作家を知らない(スミマセン)ので、ひょっとしたらマンガ家かな・・^^; 

   ここまでマンガ的にする必要があるの?と思うけれど、そういえば同じ監督の「川の底からこんにちは」でも、そういうところがありましたね。こういうマンガ的に誇張されたキャラを楽しむのがいまふうなのかもしれません。主人公の名やその彼女の名前もマンガ的だし、馬締くんが書くラブレターも毛筆で達筆らしいし・・・すべてはマンガベースなんですね。いまは小説も映画もマンガが原作か、そうでなくてもマンガベースの作品世界が描けないと売れないのかもしれません。

 馬締(マジメ)くんと対照的なキャラに設定された営業向きの西岡にオダギリジョー、彼らの先輩の辞書編集部員で馬締くんに「大渡海」編纂作業を委ねて去る荒木に小林薫など芸達者な支柱を立て、そのきわめつけは、馬締くんがひとめぼれする下宿のおばさんの姪・林香具矢(宮崎あおい)で、彼女はほんとうに素晴らしかった。その「ふつう」の女の子の卓抜な演技が、確実に馬締くんの誇張された演技を対照的に引き立たせて、その組み合わせを面白いものにしていました。たしかにどちらかが中途半端だとあの面白さはなかったかもしれませんね。

 マンガ的な誇張された世界ではありましたが、辞書編纂という仕事の世界がどういうものか、一冊の辞書をつくるのにどれだけの苦労があるものなのか、そういうのを通して、なにか目的を共有して一緒に一歩一歩進んでいくみたいな感覚、それこそ松本先生言うように、大海に乗り出す一層の舟に乗り合わせた運命共同体みたいな人間のいとなみの感動的な姿やある種のせつなさをちゃんと伝えてくれるような映画でした。


新・平家物語(溝口健二監督) 1955

    貴族の支配する世で、権力あらそいに明け暮れる貴族たちのいいように使われる番犬にすぎなかった武士階級が、次第に実力を蓄え、やがて来る武士の時代の主役として躍り出る、その境目の時代に現れて新しい時代の礎となった平清盛の若き日を描く作品で、清盛を演じたのが市川雷蔵。貴公子顔の雷蔵が荒々しい田舎侍らしく太い眉をつけて演じているのが可笑しかった。

 彼は伊勢平氏の棟梁で上皇に忠実な生真面目な武士・平忠盛の嫡子で、その正室となるのが忠盛に肩入れして藤原一門から排斥される貧乏貴族藤原時信の娘時子(久我美子)。清盛の母は、もともと白河上皇の寵愛を受けた白拍子で、比叡山の悪僧とも交わるような女で、妊娠したことを知った上皇が、いったん公家の家に預からせたうえで、忠盛の妻にさせた者で、自ら身分の高い公家の出のごとく武士階級を蔑んで不平不満を言い立ててはやがて実家へ帰ってしまう泰子(木暮実千代)。その折、孕んでいた子というのが清盛で、成人した清盛は自分が後白河法皇の子であるという噂を聞き、自分の誰の子かと苦悩する。

 乱世の世で上皇と天皇が対立し、比叡山の坊主たちは僧兵として武装し、神輿を担いで朝廷に強訴し、武士階級を公家に飼われる番犬として蔑むありさまで。たびたび公家と武士、坊主たちと武士たちの間でトラブルが発生し、そのたびに社会階級として下位に甘んじている武士たちが屈辱を味わう。

 自分の出生の秘密を聴き、上皇の子であると知った清盛は、抑圧された武士の分に従いなおも上皇に忠実な父に疑問をもち、何かトラブルがあれば一身に責めを負う父を助け、その暗殺の企みを防ぐが、父はそんな中で扇に清盛が白河上皇の子だと示唆する言葉を残して自害する。清盛は公家や坊主たちに屈せず敢然と立ち向かい、神輿をかついで朝廷に強訴に及ぶ僧兵らを迎え撃って追い返す。

 強気の清盛に御所の中にも彼の味方をするものが出始めた。清盛は父の墓参を済ませ、帰途、野外で公家たちがの遊びをするのを見る。泰子が白拍子にもどって楽し気に遊んでいる。母は元の水に戻った、と清盛は思う。そんな公家の宴を遠目に見ながら、清盛は思う。「公家たちは踊っていよ。明日は俺たちのものだ」

 武士がまだ公家に頭があがらず、命がけでいいように使われ、徹底的に差別され見下されており、坊主にさえ好き勝手されて頭を下げているような姿、というのが時代劇でもちょっと珍しく、面白かった。
 ただ時代劇としては、鎧甲冑を身に着けても、戦闘場面はなくて、坊主とのちょっとした小競り合い程度なので、物足りないといえば物足りない。焦点は上皇の息子かもしれないし、母が交わっていた比叡山の名も知れぬどこぞの悪僧かもしれず、そんな母から生まれた息子清盛の苦悩にあり、その因縁をひきずった、清盛ら平氏一族と公家や坊主との争いが、そのまま貴族階級や旧勢力を代表するもうひとつの精力である比叡山の坊主どもと清盛らが率いる武士階級の争いを象徴し、その意味を拡張されて描かれているわけで、そこはうまくできています。

 清盛に賭ける商人伴卜(ばんぼく=進藤英太郎)のようにちょっと面白い人物を配したり、当時の市場の賑わいを再現しているところとか、ほんとの比叡山の山道のようなところを松明をもった大勢の僧兵たちが下山していうところとか、シーンとしてなかなか面白いところもありました。久我美子が貧しい武士の家計をやりくりするために糸を染めたり機を織ったりするところも面白く、糸の染め方を清盛に説明するようなシーンもありました。これも撮影は宮川一夫、脚本には依田義賢氏が加わっています。

 比較的近年テレビの大河ドラマでも清盛をやったと思いますが、あのドラマでも清盛始め武士たちはひどく誇りまみれ、泥まみれの低い身分の被支配者、被差別階級という感じを出していました。いつもの小ぎれいな時代劇の小ぎれいな主役たちとはずいぶん違っていたのを記憶しています。この映画は古いけれども、いくぶんかそういう武士のまだ勃興する前の姿をとらえて、垣間見せてくれます。

 だから、そういうまだ権力をもたない力の弱い、公家たちに支配され見下される、薄汚い武士を、市川雷蔵が演じてふさわしいか、というと疑問なのですが・・・


楊貴妃
(溝口健二監督)1955


   京マチ子演じる楊貴妃が森雅之の玄宗皇帝と純愛で結ばれながら、楊貴妃を朝廷に入れることで権力を得た楊一族の好き放題が人心の離反を招き、もともとは台所ですすに汚れていた貴妃を見出して朝廷へ送り込んだ野心家安禄山が、身の処遇に不満を懐き、北方の将軍たちを糾合して君側の奸を除かんと楊一族に反旗を翻し、長安に迫り、皇帝に仕える楊一族の高官たちや後宮を束ねる三姉妹などを処刑し、楊貴妃に迫った。貴妃は靴を脱ぎ、身を飾るアクセサリーの類をはずし、木の枝に吊るされた綱の代わりに白いショールを渡して、処刑される。

 史実にもとづいて長恨歌をはじめ中国でずっと言い伝えられてきた楊貴妃の話を日本の役者で演じた映画だけれど、さて森雅之の玄宗はともかく、楊貴妃が京マチ子というのは・・・。京マチ子はつい先日みた小津の「浮草」など見ると本当に綺麗な女優さんだし、これまでにも着物姿の時代劇で登場するのを何度も見て来て綺麗な人だと思っているけれど、必ずしも日本風でも中華風でもない美人で・・というよりいわゆる美人というのとは違う個性的な顔立ちではないかなという気がして、長恨歌に歌われたような柳腰の美女・楊貴妃のイメージ(なんてものがはっきりあるわけじゃないけれど)とはかけはなれている、という印象をぬぐえませんでした。

 前の妃への想いの強い皇帝が野心家の楊一族や安禄山の勧める女に見向きもせず、最後に送り込んだ楊貴妃にも当初は見向きせずに退けたのを、楊貴妃がとどまって王が昼間の梅林で自ら作曲して演奏した曲を奏でてみせることで対話のきっかけをつかみ、皇帝の淋しい心をとらえて、そばにおるようにと命じ、翌朝の湯浴みの用意をさせます。翌朝湯浴みする楊貴妃の姿があり、バスタオルに身を包んだ楊貴妃が湯を出て向こうへいく後姿をカメラがとらえていますが、そのバスタオルからはみでた脚や肩から首筋にかけてなど、彼女の素肌は楊貴妃なら透き通るように白いと思うけど(笑)小麦色にやけたような健康食そのもので、ふくらはぎは固くしっかり太くて床をしっかり踏みしめて歩く女の脚だし、背も肩も肉付きがよくて逞しく、とても嫋嫋たり、なんてもんじゃありません。美しいけれど、それは近代的な健康そのものの美しさ。顔立ちも近代的な顔立ちの美女ですよね。だからどうしても楊貴妃という感じがしなかった、残念ながら。

 玄宗皇帝が作曲もして自分で楽器を奏で、楊貴妃もそれに応じて奏でる、二人してそういう楽しい時を過ごす、という場の雰囲気は悪くなかったと思います。ただ、長恨歌に歌われたように、玄宗が彼女に入れ込み過ぎて昼間で起きてこなかったり、政務をおろそかにして、国のまつりごとが乱れたため、楊貴妃に憾みが集中した、というのではなくて、あくまでも悪いのは君側の奸たる貴妃以外の、権力がほしいために貴妃を朝廷に送り込んだ楊一族であって、楊貴妃はその巻き添えを食った、という設定です。ここでは玄宗はあまり女色に溺れた皇帝というふうにはなっていなくて、浮世離れした詩人で亡くなった妃への想いが拭い去れないロマンチスト。楊貴妃との新たな関係も、ロマンチストである文人皇帝として楊貴妃に純粋な愛情を注いできたが、別にそれで楊貴妃に政治に口出しさせたわけでもないし、楊一族の登用も楊貴妃に頼まれて縁故採用したわけでもなく、適材適所で自分が判断したんだ、と。なにも楊貴妃のせいで政務をおろそかにしたことなどないぞ、というのですね。そうすると悪いのは自分の栄達のために楊貴妃を利用した楊一族の高官たちであり、また野心を持って反乱をおこした安禄山だ、ということになります。

 そのへんは、ほんとうは玄宗が楊貴妃に文字通り入れ込んでしまって、ずるずると政務をおろそかにしてしまい、楊貴妃に溺れていく、そのさまをちゃんと描いてくれたほうが人間味があって面白かったのにな、と思ったりもしました。

 ほっとするようないいシーンがひとつあって、それは庶民の出であった貴妃が皇帝を誘って祭りの夜の街へお忍びで出かける場面です。宮中の女たちに出会うと隠れて避け、被りものを店の者にかぶせて与え、玄宗が食べたこともなかった串刺しを手にもって食べてうまいといい、酒をいささか強引に勧める男たちにも貴妃が祭りの無礼講だからお叱りにならないで、と皇帝も飲み、人々の輪の中に入って楊貴妃が舞い、皇帝が奏でる、とてもいいシーンです。祭りのあと、場外の地面に楊貴妃の膝枕で横たわった玄宗が、ほんとうに楽しかったと言い、今夜はただの平民の李氏に返った、と言えば、楊貴妃も、私もただの玉関(楊貴妃のもとの名)です、と応じ茶を二人でうまそうに飲みます。

 ラストは楊貴妃が処刑されてから時を経てさらに置いた玄宗が死ぬ前に、楊貴妃に語り掛けるモノローグ。「おまえが死んであとにに何が残った?安禄山もじきに滅んだ。皇帝の位はすでに皇太子に奪われていた。皇太子も安禄山と変わるところはないのだ」と。

 玄宗は倒れ、亡くなります。楊貴妃の声がきこえます。「陛下、お迎えに参りました。二人だけの世界へ・・・二人だけの永劫の世界へ・・・」最後は玄宗と楊貴妃の笑い声。

 なんてロマンチックな作品なのでしょう!ひどい作品だけど(笑)私はこういうの、嫌いじゃありません。
 

saysei at 23:32│Comments(0)

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