2018年09月25日

「ラルジャン」と原作

 ロベール・ブレッソンの「ラルジャン」の原作であるトルストイの一般には全集版の翻訳タイトル「にせ利札」として知られている中編小説をまだ読んだことがなかったので探したら全集版の適当なのが見当たらず、また分厚い本が増えるのもいやだったので、最小限の作品で編んだ、北御門二郎訳の『トルストイ短編集』(人吉中央出版社 2016)をみつけたので、その本で「贋造クーポン」という同じ原作の翻訳を読みました。

 予想はしていましたが、映画の「ラルジャン」とは似ても似つかない、トルストイらしい、いい作品でした。映画と小説を比べるのもどうかと思いますが、どっちをとる?と言われたら、わたしの場合は躊躇なくトルストイの小説のほうに軍配を上げます。

 ある人がラルジャンに触れて、トルストイの原作の前半だけ映画化して、後半をカットした、といった趣旨のことを書いているのを読んでいたので、原作を読まずに映画だけ見たときは、ただそういうものかとちょっと誤解していたのです。つまり、「贋造クーポン」が最初に使われたことが悪の連鎖を広げていって、映画で言えば主人公のイヴォンヌによる自らを救済してくれた老婦人の一家を皆殺しするというところまで行きついて、彼が自ら警官にその殺人について自首する、いわば「往路」で映画は終わっていて、トルストイの原作ではそこから回心する主人公の行為が善の連鎖を生み出していくいわば「還路」を描いているのを、ブレッソンは意図して後半の還路をカットして映画化した、というふうに。

 それはある意味でその通りなのですが、原作を読むと、それほど単純じゃないな、と思わざるを得ませんでした。トルストイの話はもちろんロシアの土俗的な世界を背景としていて、悪の連鎖には階級的には様々な階級の人物が参加することになるけれど、殺人や盗みに直接かかわるのは無知無学な貧しい下層民です。トルストイが描く連鎖は悪の方も善のほうもポリフォニックで、その連鎖は単純ではなく、連鎖を形作っていく一つ一つの輪がおそろく多様で、どれ(だれ)が幹でどれ(だれ)が枝などというのもないように、いわば竹の根のように際限なく広がって相互にまた思わぬところでくっついて網目状をなすというふうで、読んでいて、あるエピソードが終わって次の輪に進むとき、前に登場した人物の長ったらしいロシア名がいきなり出てくると、おぼえてなくて、その話がなんでここに置かれたのかよくわからなかったりして、前の方のページを振り返ると、あぁ、ここで登場していたこいつか!と分かってつながっていく、みたいなところがあります。

 建築家アレグザンダーの「都市はツリーではない」で知った、ツリー構造とセミラティス構造の区別で言えば、「ラルジャン」のほうはイヴォンヌを幹とするツリー構造のようにみえ、原作の「贋造クーポン」はセミラティス構造のようにみえます。ドゥルーズやなんかがいう根茎(リゾーム)と言ってもいいのでしょう。もちろん先に書いたような往路、還路の構造があって、ちゃんと連鎖はひとめぐりしてメビウスの輪のようにひとひねりして表裏逆になって元へ戻ってくるようになってはいますが、その中身はとても豊かな印象です。

 それに比べると「ラルジャン」のほうは、或る意味とても洗練されていて、余計な枝をできる限りそぎ落として幹というのか、連鎖をつなぐ芯になる軸としてのイヴォンヌとその行動に的をしぼって、シンプルな物語になっています。

 おまけに先日感想に書いたように、ブレッソンは通常の物語の出来事の発生順に継起的な映像を見せていくことをしないで、意図的な選択をして、むしろその継起的な出来事のピークを形づくる映像をことごとく棄て去って例えば結果を示すような表徴だけ見せて、肝心の登場人物の決定的な場面での行動や表情は観客の想像力に委ね、原因だの理由だの動機だの経緯だのといったものは、もしそうしたければ結果から逆に観客たちが考えなさい、と言わんばかりの「不親切な」映像なので、トルストイの原作ではそれぞれのエピソードに相当する出来事が継起的なつながりをもって自然に納得されるのに、「ラルジャン」では、まるで不条理劇のように唐突に殺人が行われ、また唐突に殺人者の転回が起きる、というふうです。

 いくら正義のとおらない世の理不尽さに鬱屈したものをかかえていたにせよ、また、そのために刑務所でとらわれているあいだに最愛の娘を失い、愛妻に去って行かれてもはや生きる希望をなくして、自殺を試みてたまたま命が助かっただけという状況のイヴォンヌであるとしても、脱獄を手伝うからやらんかという悪いかつての知人で囚人仲間の誘惑にも乗らずに、無事刑期をつとめて出所したにもかかわらず、その足で泊まった宿の夫婦を惨殺し、また自分を寛容に受け容れてくれた老婦人とその家族一家を惨殺するのは、そうした異常な行為に及ぶに至るイヴォンヌの心の動きなり、彼をそういうところまで追いつめる外在的要因なりが示されてはいないので、ふつうは理解しがたいでしょう。だからみずからの殺人を太陽のせいにしたムルソーと重なってみえます。

 たしかにいまでは、まったく自分と縁もゆかりもない人たちを殺しておいて「ただ殺したかっただけ」、相手は「誰でもよかった」という殺人者は珍しくないので、そういうもののハシリなんだ、と思えば、別に理由だの動機だの原因なんて無くていいわけでしょうし、世の中は不条理なものだし、人間の行動というのは原因があって結果があり理由があって行動があるなんて合理的なものじゃなく、もともと不合理なものなんだ、ということが言いたいなら、そういう作品があってもいいでしょう。

 でもわざわざトルストイを原作に選んで、そんな映画をつくるだろうか?(笑)と考えると、私はこの映画監督のことは何も知りませんが、ちょっと違うんじゃないか、という気がします。仮に不条理劇に類するものであったとしても、そこには逆にトルストイの原作を強く意識したカウンターウエイトみたいなものを置いたようなものなんじゃないか、という気がするのです。そうでなければ、わざわざ原作の物語の枠組みを借りる必要はないでしょう。

 トルストイの物語の枠組みを使いながら、後半の還路をカットしてしまったのはもちろん意図的で、トルストイ流の宗教的回心を契機とする善の連鎖を、「金」(贋造クーポン)を契機とする悪の連鎖からなる往路のようには信じられないのは、おそらく私たちも監督も同じで、後半をカットしてしまうのはわかるような気はしますが、では自分が二件の惨殺事件をひきおこしたことを淡々と平然とした顔で警官に申し出るイヴォンヌの心のうちはどういうものなのか。

 そこだけはトルストイの描くような、自分を受け入れてくれて殺される前でさえも自分はいいけれどもあなたは人を殺す前に自分を殺してしまって・・・それでいいの?と言った老婦人の幻影に悩まされて回心を遂げるステパンと同じ種類のものだと言っていいのでしょうか?イヴォンヌの殺人の場での姿もこの事件が彼に及ぼした作用も最後のシーン以外には何も描かれていないので、それは分からない、というより、この映画はそれはわからなくていいんだ、というスタンスで作られているわけでしょう。そこがやっぱりよくわからない。じゃ彼の行為というのは何なんだ?と。

 そうするとそれは意味なんかない、何なんだ?という問いかたそのものが間違っているので、彼はただ金がほしかったから、あるいは殺したかったから、でもいい、彼のほうの事情でやったわけで、私たちは老婦人に寄り添って、あるいはそれに近い眼で見るから、そんな理不尽な!と思うけれど、彼の立場に立ったら、そんなことは関係ない。俺は殺したいから殺したんだし、金がほしいからとっただけだ、ということになるでしょう。

 濱口監督のPassionの女教師の暴力の話ではないけれど、外部からやってくる暴力というのはそういうものなのかもしれません。暴力を受けるほうは、ただ赦すことしかできないのだ、と。

 トルストイの世界には神があったし、登場人物にもそれが何らかの契機によって神があることが信じられた。では神が死んだと言われてからの私たちの世界で、トルストイの登場人物たちが経験するような転回、回心というのは可能なのか。可能だとすればいかなる契機で可能なのでしょうか。

 その意味では「ラルジャン」のラストのイヴォンヌの、殺人を告白して連行されるときの、悪びれる様子もなくむしろ平穏な表情がどのようにして可能なのか、あれはどういう契機でもたらされたものなのか。どうみても彼が老婦人を斧で惨殺する場面にそれが示されていたようにはみえないのですが、どうでしょうか。

 警官に連行されていくイヴォンヌの姿を目で追わずに、レストランの客たちがみんなイヴォンヌらが去ったあとの隣の部屋を覗き込んでいるのはいったいなぜなのか。そこにはなにもない(血の跡も抵抗の後もない)はずなので、空っぽのありきたりのレストランの一室を見ているはずです。そこにはトルストイの登場人物たちが見るような神の世界はない。小さな善が広がっていく連鎖の往路なんか見えないはず。じゃ何が見えるのか。現代はそういうものがすべて消え失せた空っぽの部屋のように空虚だと言いたいのか。希望を空虚な部屋で示そうというのか。あるいはそこに私たちが埋めるべき善の連鎖の糸口を見よというのか。そうでなければイヴォンヌのあの居直りでもないのに平然とした表情は何なのか・・・

 

saysei at 14:39│Comments(0)

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
記事検索
月別アーカイブ