2018年09月22日

手当たり次第に ⅩⅤ ~ここ2,3日みた映画

 片手しか使えず、もうすぐ入院とあってしばらくは書けそうもないので、いまのうちに(笑)。

「奇跡の丘」(パオロ・パゾリーニ監督)1964

   この映画には懐かしい思い出があります。”大学は(中途で)出たけれど・・・”drop outしてロンドンで遊んでいた20代の半ばころ、たまたま知り合ったイタリア人の自称作家(実際に書いていて一部を朗読してくれたこともありましたが)Lucianoという同世代の男が、作家ではチェザーレ・パヴェーゼの熱烈なファンで、映画では、このパゾリーニのこれも熱烈なファン。

 小説の方はイタリア語はもちろん英語でも、一冊読もうと思ったら半年はかかりそうな私(笑)に読ませられないとみて、ひたすら私をロンドン中の場末の映画館へ連れて行って、パゾリーニの映画を見せたがったので、どこかでパゾリーニを上映していることがわかると、彼がやってきて、今晩行こう、と引っ張っていかれたものでした。

 メジャーな娯楽映画を映画館でたまぁに見ることしか知らなかった私には、いきなり片っ端から見せられるパゾリーニはまったく退屈で、少しも面白くなく、拙い英語で熱烈にパゾリーニを語って私を啓蒙しようとする彼に対して申し訳なかったけれど、まるで馬の耳に念仏でした。
 でも異国の地で数少ない友人でもあり、たしかに文学や映画にはとても造詣が深くて、ロンドン大学のあるカレッジでやっていた夕方からの映画学校にも引っ張っていってくれて、英語で受ける映画の授業で、彼が英語で論じられるほどの語学力とも思えないのに果敢に教師の見せる映画に、それがいかに下らない映画かを主張したり、ちょっとエキセントリックなところがあるけれども、その言うところには共感するところがあったので、いつもただ素直についていったのでした。
 
 残念ながら文学についても映画についても、言葉の関係もあって彼からちゃんとした影響を受けることができなかったけれど、「奇跡の丘」を見た時のことはまだ覚えています。これも2-3シリング(当時の実感的換算では100円か150円くらい)で小さな汚れた場末の映画館で観ました。なぜこの映画についてはよく覚えているかと言えば、新約聖書については日本で何度も繰り返し読んでいて、エピソードの隅々まで記憶していたから、その記述に忠実なこの作品は一通りの意味では全部内容がわかったということと、それだからこそ、この映像作家が、なぜこんな映画を作ったのだろう?と疑問に思ったからでした。これじゃ聖書に書いてあるとおりなぞって映像にしただけじゃないか、どこに映像作家としての主張があり、アクセントがあり、選択があるのだろう?というのが私にはわからなかったのです。

 それで、イエスがエルサレムに帰るときに飢えていて、道端にいちじくの木があるのを見つけてそれに近づくのですが、実は一つもなくて葉ばかり。それでイエスは怒って(笑)、いちじくの木に向かって、これからのちいつまでも、おまえは実を結ぶことはないだろう、と言うと、たちまちいちじくの木が枯れてしまったので、周囲の人たちがみな驚いたという場面があるのですが、ここで笑ってしまって、隣の席の彼に、シッ!とたしなめられたのです。

 私は日本にいるときから聖書を信仰者として読んでいなかったので、信仰は山をも動かす、というイエスの託宣の前座のように置かれたこのエピソードを、これじゃイソップの「酸っぱいぶどう」とどこが違うねん?(笑)という受け止め方で読んでいて、こういう場面を実際の俳優で大真面目に演じられると笑うしかなかったのです。まぁ、当時の若い私は、聖書の奇跡の記述にはどこででも躓くほかはなかったのですね。

 そんなことがあって、この作品をよく覚えていたのですが、それから半世紀近くたって、ようやく再見したわけです。今回何も考えずに、老人になってから、生涯で2度目にビデオで見たこの映画は、なかなかのものに思いました。あれから、カラーでイエスの生涯を描いたほかの映画も見ましたが、それらよりもいい、と思ったのです。

 見たばかりで分析的に言うのは少々難しいけれど、まずモノクロの単純さが聖書の世界をえがくのにすごく生きている感じがしました。そして背景の荒野、砂漠、そして貧しい人々の住まうごつごつした岩の小高い丘などの家々などが、まさにイエスが生い立ち、人々に教えを広めた世界はこういう世界だったんだろうな、と思わせるような風景でした。

 俳優が結構みないいのです。最初に登場するイエスの両親、最初がマリアのアップで始まるのですが、夫となるべきはずの許嫁の子でない子をみごもってしまって、憂愁に満ちた表情のマリアが、とてもいい。そして、そのマリアを見つける実直そうな大工ヨセフの表情もまたいい。
 さらに、苦しむヨセフの前に現れて、あれは神の子なんだから気にせずにマリアと結婚しなさい、と受胎告知を演じる天使がすごく素敵な女性で、その後もイエスが磔刑になってから、3日後によみがえりガリラヤへ行けば会えると人々に告げる時も現れますが、もっと登場してほしかったほどです(笑)。

 イエスもジェフリー・ハンターみたいに目が大きく澄んでキラキラとオーラをかんじさせるような、いかにもキリスト顔という役者ではなくて、おでこの広いちょっとかわった顔で、私は今回みて、「千と千尋の神隠し」のカナオシの顔を連想しました(笑)。早口にまくしたてるこの作品のイエスは宗教者というより煽動家にみえます。

 俳優さんもいい存在感を出していたと思いますが、この作品で何よりも強烈なのは、そのイエスのまくしたてる「言葉」です。もちろん一言一句新約聖書の言葉で、そこから一歩もはみ出るものではありませんが、それがこの作品で聴く者、観る者に肉薄してくるような強度で立ち上がってきています。

 ひとつにはあの速射砲のように猛烈なスピードで繰り出される科白まわしのせいでしょう。イエスの声も聴く者を激しく煽動するもので、教え諭す言葉ではありません。よく調べてはいませんが、あれは福音書の中でもマタイを使っているでしょう。あの激しさは素朴なマルコでも優等生のヨハネでも網羅的なルカでもなく、激情の人マタイのものだという気がしました。

 旧約の世界と新約の世界との違いが、民族なり民俗から離脱しない牧歌的な共同体的な倫理の世界と、それらを振り捨ててぐいぐいと個人の内面にぎりぎりの選択を迫ってくる個人的な倫理の世界との違いで、キリスト教がユダヤ教から生い立って世界宗教になった飛躍の根拠がそこにあったとすれば、パゾリーニの描くイエスの言葉は、まさにそのような新約の世界の本質だけを抽出した、物質のような「力」として、観客の心に働きかけてくるようです。

 きっとこの映画の主役は言葉で、マタイの福音書から生命をもって立ちあがってきたものだったのでしょう。


「マルクスの二挺拳銃」(エドワード・バゼル監督) 1940

   
このモノクロ・トーキーの有名な喜劇役者マルクス兄弟の3人が登場するアメリカ西部が舞台の喜劇で、たしかにギャグは古典的で、いま見て素直に腹の底から笑えるものではありません。でもこの映画はいま見ても、もろに感動する、すばらしいシーンが三つあります。

 その第一は酒場でチコがピアノを弾く場面です。マルクス兄弟に何の予備知識も持たずに、ふつうにいまの若い人がこの映画を観ても、この場面の演奏とその楽しい雰囲気満艦飾のこのシーンには心を動かされるに違いないと思います。チコは片手で「連弾」できるピアノの名手なんですね。

 第二は見た人には言うまでもなく、インディアン部落で、酋長の笛に合わせてハーボが奏でるハープです。これはもうただお上手、というのを超越した天才の技です!すばらしい!ハーボは天才的なハ―プ奏者なんですね。ここで本当に心ゆくまでその技を堪能させてくれます。いまの若い観客だって、これに痺れない人はないでしょう。

 第三はそれらに比べれば、すでに新しい映画で類似のシーンが作られているから、今見て新しいとは思わないでしょうが、ラストの列車の暴走場面です。そこで繰り広げられる喜劇もこういう猛スピードで暴走する舞台で演じられるからここはとても面白いし、楽しめますが、それよりもあの列車が線路を外れて暴走し、家を突き抜け、貨車の車両の壁面もぶっ飛んで、なおも猛スピードで疾走する、あの姿に感動します!背景もすばらしい。


ラルジャン(ロベール・ブレッソン監督) 1983

 トルストイの中編小説が原作(原案?)の作品のようですが、私はその小説は読んでいません。裕福そうな家庭の少年が友人に借金していて、返すために親のすねをあてにしたのが断られて、言い訳にその友人のところへいくと、友人はニセ札を渡して、それを使って釣りをもらうよう唆し、二人で写真店へ行って小さな額を買って、少し怪しまれながらも首尾よく店の奥さんから釣りをせしめます。 
 騙されたその店の奥さんとご亭主は、今度はその札を燃料屋への支払いに使い、結局燃料屋の従業員イヴォンヌが貧乏くじをひかされ、知らずに食堂でそのニセ札を使って告発されます。彼は写真店を告発しますが、写真店の店員ルシアンの偽証によって裁判では敗北して、刑務所には入らずに済んだけれど、保釈されるだけで、失職します。
 それでニセ札に端を発した連鎖は断たれず、イヴォンヌは知り合いの強盗の手助けで逃走用の車を用意していて未然に逮捕され、3年の実刑を受けて今度はほんとに刑務所に入れられます。
 妻も娘もいて平穏だった彼の生活はそのことで一変し、服役中に娘が病死し、妻の気持ちも離れてしまいます。妻の離反のことをからかった同僚に集団での食事の最中に怒りをぶつけ、その男をか止めにはいろうとした職員かを通りかかった食堂の台車にあった金属製の杓子みたいなので殴ろうとして思いとどまり、彼の手から落ちた金属製の大きな杓子がコンクリートの床を音立てて滑って柱にぶつかります(このシーンは印象的)。
 イヴォンヌは夜ごとコップを独房の床にこすり付けて不快な音を立て、神経を病んで眠れないことを訴え、睡眠薬を手に入れては呑んだ振りをして貯めこんで、それで自殺を図りますが、一命をとりとめます。
 他方、写真屋の夫婦に言いくるめられて偽証したルシアンも店の金をくすねているのを知られて解雇されますが、ちゃっかり店の合鍵を盗んできていて、あとで泥棒に入るのですが、結局彼も刑務所に入ることになり、イヴォンヌとそこで再会し、偽証の件を謝罪して、脱獄を勧め、その手助けをすると提案します。でもイヴォンヌはその誘いには乗らずに、服役して刑期を終え、出所します。 
 そして現代ホテルという安宿に泊まり、そこで宿の主人夫妻を殺してわずかな金をとって逃走します。この殺しそのものは描かれず、血のついた手を洗うシーンでそれが暗示されるだけです
 次に彼はたまたま出会った老婦人が金融機関で金を引き出すのをみていて、彼女のあとをつけ、キリスト教的博愛主義らしいこの老婦人に寛容に受け容れてもらって、老婦人の家に泊まり、そのことを激しく難じて老婦人をひっぱたく老父や彼女と同じ家に暮らしながら無関係無関心に生きる妹夫婦のことも知ったイヴォンヌは、ひたすら家事にいそしんでこの家を支えている老婦人に、あんただけが犠牲になっているじゃないか、と言いながらその働く姿を傍で眺め、ときに洗濯物をほしたりするのを手伝って言葉を交わしたりしています。
 ところが、ある夜、突如惨劇は起きます。彼が納屋でたまたま見つけた手斧で、老父や妹夫妻を斬殺。その足で老婦人の寝室にも行き、起き上がってベッドで向き合った老婦人に手斧をふるって殺すのです血が壁に散るけれども、殺される夫人の姿などは一切映像化されません。

 ラストはイヴォンヌが食事をするレストラン(居酒屋?)で、警官たちが入っていくと、イヴォンヌはみずから立ち上がって近寄り、ごく冷静に、自分が宿の主人たちと老婦人たちを殺した、と告げ、警官たちが彼を連行していきます。それをワヤワヤと立ち上がった店の大勢の客たちが見送るわけですが不思議なことに、連行されるイヴォンヌを目でおっかけるのではなく、警官たちとイヴォンヌの一行が立ち去ったあとの部屋のほうをみんなが覗き込むように見ています。別にそこで殺しがあったわけでも、抵抗して争ったわけでもないのに、です。

 この映画、そういえばかなり以前にも一度見たことがあって、なんだか狐につままれたような気分で細部はよくおぼえていませんでした。今度あらためてみて、やっぱりずいぶんとんがった映画だな、と思いました。つまり、ふつう私のようなごく平凡な映画を娯楽として楽しむ観客が見て、物語を追って行って、すっと受け容れられるような作品ではなさそうだということです。少し皮肉なことを言えば、シネアストを気取る人種が、映画の分からんやつにはこの映画はわからんだろう、わからん奴は近づくな、と言いそうな(笑)映画です。とんがった、という意味は。

 幸か不幸かそんな人種でなくても、いまはビデオでいくばくかの対価を払えば、この程度有名な作品は誰でも見ることができるので、そういう連中が何と言おうと、わたしたちはわたしたちなりの観方で楽しむなりくさすなりして話のネタにすることができますから、好きにやってみましょう。

 私たちはふつう、いくばくかでも物語性のある小説なり映画なりを読んだり観たりすれば、つまり、なにか現実の出来事に似たことが継起的に起こるようなドラマを読むなり見るなりすれば、これが語られる順に、その時間を追って継起する出来事を追って行くでしょう。そして、次に何が起きるのかという好奇心で先へ先へ導かれていきます。それはどんな物語でも基本で、ごく自然なことです。

 ところが、どうもそういう物語の提示の仕方が繰り返されることで、どんどん新鮮味が失せ、あらたな物語をつくるにもパターン化され、陳腐化していって、同じパターンを繰り返しているだけで、どんどん現実から乖離していくと感じられるようになったのでしょう。
 内容的に色んなヴァリエ―ションを作って見ても、もうその物語の枠組み自体が嘘くさく感じられる。なんとかその枠組みを壊したい、はみ出したい、そういう潜在的な欲求が書き手、つくり手のほうに強くなって、物語の定型としての物事の継起する順序をひっくり返してみたり、一部を省いてみたり、途中でぶった切ってみたり、もう物事の継起自体を失くしてしまおうとしたり、枠組そのものを無化しようとするそれこそ四苦八苦の工夫を作り手たちが試みてきたのが、現代の小説だの映画なのかもしれません。

 この「ラルジャン」も物語そのものはたぶんトルストイの小説がごく自然な継起的なものであったように、タイトル通りの「おかね」、この場合はニセ札ですが、それがきっかけになって、人と人の間にわたっていくことで引き起こされる「悪」の連鎖というのか、意図的な悪が宿命のように訪れる不運になってイヴォンヌの人生を狂わせ、当初の姿からはるかに遠く隔たった地点まで彼を連れて行ってしまうまでに、まるで悪魔の意志が深くひそかに浸透していくように広がり、波及していく、そういうありさまを描いているといえるでしょう。

 トルストイの場合は、イヴォンヌの老婦人との出会いあたりでの転回によって、今度は逆過程、つまり悪ではなくて善がそうした連鎖を創り出していく帰り道も描かれているようですが、ブレッソンの映画では往路だけで還路は描かれていません。
 黒沢清監督はこの映画のラストに「希望」を見たそうで、そのことが二、三のネット上の映画ファンの記事で話題になっていましたが、それが私の違和感を覚えたあのラストのシーンです。レストランの客たちの視線が向かっているのがイヴォンヌや警官の一行ではなくて、彼らが立ち去ったあとの空虚な部屋のほうで、その空虚な部屋に辛うじて、すでに過ぎ去った「希望」を見る、というか、現代における希望というのは、そういうものとしてしか実現されない(描けない)んだ、というブレッソンの意志をみるといった解釈をしている人がありました。

 なかなかうがった解釈だけれど、そこまでこの作品が明示的か、誰もが肯ずることができるような物的証拠があるか(笑)と言えば、とてもそうは言えそうにありません。わかるやつにはわかる、ってことでしょうかね、ここんところも。

 不自然と言えばこのラストほど不自然な光景はありませんよね。誰だってその場にいたら、連れて行かれるイヴォンヌを目で追うでしょう。なんで殺しがあったわけでもなければイヴォンヌが抵抗して暴れたわけでもない、空っぽの部屋のほうを揃いも揃って観てる?(笑)

 ホテルの惨劇も、古典的なふつうの映画なら、イヴォンヌがなぜここでいきなり殺人を犯そうとしたのか、その行動と心理を納得させる根拠を何らかの形で明示した上で、彼がどんな武器を使って、どんなふうに、どんなタイミングで宿屋の夫婦を殺したのか、彼らがどんなふうに断末魔を迎えたのか、そのときイヴォンヌはどんな表情をし、どんな精神状態だったのか、そのあとどんな行動をとったかを見せるでしょうし、観客は見たいと思ったでしょうね。でもブレッソンが見せるのは、洗面台で手についた血を洗い流す、その洗う手と流れて吸い込まれていく血の色をした水だけです。

 老婦人の家での惨劇についても同じです。たしかに老婦人以外の死体は見せられて殺したことは示されるけれど、みな惨劇のあとです。
 普通の物語では、殺人は現実と同じで登場人物にとって重い行為ですから、自然にそれは物語の流れの中でひとつの山場になり、ぐっと密度が濃くなる部分で、それまでの色んなことがそのシーンに集約されて現れ、その後のできごとにまた波及していく、結節点のようなものになるのが自然です。
 でもブレッソンの物語の語り方は、その結節点だけを慎重に全部外していくんですね。言って見れば山場だけ見せないで外していく。ただ、結果としての血液だけ見せたりするから、観客はいやおうなくそれぞれの仕方で殺人の場面を想像することはするでしょう。そういうやりかたで、全部結節点をはずして、それを観客の想像で埋めさせるやり方ですね。

 それはベタに殺人のような山場を描いてみせて、想像力をその絵柄のうちに固定させるやり方が陳腐に思えるようになった時代には、そういう定型はずしの一つの工夫であるのかもしれません。だから起伏の「起」の部分を全部はずしていくと、平らになってしまうけれども、それは観客の想像力が欠けているからで、映像の作り手はその想像力を挑発する映像を提示しているのだから、生き生きした想像力でもってその結節点になるハイライトシーンを思い描いてくれなくちゃ、というのがブレッソンって人の意図なのかな、と思ってみたりもしました。

 ついでに実は書店に『シネマトグラフ覚書~映画監督のノート』というブレッソンの著書があったので買ってきて、このアフォリズムのような著書を最初から最後まで読んでみました。映画と違って(笑)ここに書かれていることは全部よくわかるし、どこにも変なことは書かれていなくて、ごくまっとうな人じゃないか、と思いました。
 シネマという言葉を従来の映画、彼の嫌う演劇的映画にあてて否定的に使い、彼が思うような映画というのはシネマトグラフというふうに区別して使い、またモデル、と言う言葉にも独特の使い方をするなど彼独自の言葉遣いはあるけれども、その説明を読めばみな納得のできるものだったように思います。

 彼は繰り返し繰り返し演劇の比喩で語られるような映画、ないし映画のつくりかたというのを嫌悪し、否定しています。

 シネマトグラフとは、運動状態にある映像と音響を用いたエクリチュールである。

 フランス人はこういうオシャレな言い方をするから、日本のインテリの中にもすぐにイカレテしまって、横文字を振り回すような人が出てくるんでしょうね(笑)。でもきっと映画の本質をこれ以上端的にズバッと言い切るのは難しいでしょう。

 二種類の映画ー演劇の諸手段(俳優、演出、等々)を用い、再現するためにキャメラを使う映画と、シネマトグラフの諸手段を用い、創造するためにキャメラを使う映画。(翻訳では下線部が傍点)

 演劇的な映画を映画と認めない彼の立場を鮮明に表現した言葉。あとはもうひたすらこれの解説みたいなものです。

 音に関しても素晴らしいセリフをつぶやいています。

 伴奏の、支えの、補強の音楽はいらない。音楽はまったく必要ない
 
 雑音が音楽と化さねばならぬ。

 トーキー映画は沈黙を発明した。


 彼が思い描くような運動状態にある映像、不意打ちとしての映像を理解するヒントは次のような言葉にあるのかもしれません。

 原因は結果の後に来るべきであり、それに伴行したりそれに先んじたりするべきではない。

 先ほど述べたような「不自然な」血だけ見せたり、・・・というこの映画は、こんな彼の考え方の忠実な実践なのでしょう。

 この本を読んでいると、自分の方法についてブレッソンはすごくストレートで職人的に正直な人だな、という気がしました。それは例えば「断片化について」、というような一節で、です。

 もし表象に陥りたくなければ、断片化は不可欠だ。
 存在や事物をその分離可能な諸部分において見ること。それら諸部分を一つ一つ切り離すこと。それらの間に新たな依存関係を樹立するために、まずそれらを相互に独立したものとすること。

 私が先に書いたような「ふつうの」物語のように継起的にものごとを映像化していくような映画に対する嫌悪はこんな感じ。映像ではパンやトラヴェリングという撮影技法に置き換えられるわけですね。

 Xの映画。文学病に感染している。次々に継起する事象による描写(パンやトラヴェリング)

 「訓練」という一節を読んだら、なんだか「ハッピーアワー」や「寝ても覚めても」で濱口監督が俳優にセリフの読みをさせるときに本番まではずっと棒読みさせるらしい、というのを雑誌かなにかで読んだのを思い出しました。

 音節を均等化し、故意の個人的効果はすべて除去することをめざす読書訓練を、君のモデルたちに課せ。

 ついでに、もうひとつ私がこの本で一番気に入った一節。

 自分が何を捕まえようとしているかについては無知であれ、ちょうど釣竿の先に何がかかってくるか自分でも見当もつかない釣り人と同様に。(どこでもない場所から出現する魚。)
 

 でも、これらの言葉どおり彼自身の作品が作られているかどうかはまた別問題のはずだし、彼の言葉を使って彼の作品を解釈したからといって、正解とは限らないでしょう。

 先に書いたような物語の山場を外してしまって、結果だけ表現して、原因はそのあとで観客の想像力で埋める、みたいなやり方(実に乱暴なまとめ方ですが・・・笑)は、決して「運動状態にある映像」ではありません。モデルも別のところで述べている「俳優の自信に対立するものとして、自分が何者なのかわからないモデルの魅力の方を取れ」と言っているような理想のモデルではない。
 監督は何が起きたかを継起的な出来事として全部把握しているし、その上でその中から彼は彼の美学にのっとって、或るシーンを選択し、再構成しているのであって、俳優もまた、セリフを棒読みして訓練してようがいまいが、何をなすべきかをすべて頭に入れて、「自信」に満ちて演技しているはずです。

 そこはウォン・カーウァイの「恋する惑星」(重慶森林)のように、脚本もなく現場でいわば行き当たりばったり(笑)つくり上げた稀に見るような幸運な作品とは違うのではないか。そういうところは、いくら作り手本人が書いたものであっても、その映画がその理屈どおり作られるものだと考える必要はないし、全然別の見方ができるだろうし、すべきものだろうと思います。

 「ラルジャン」という作品自体を或る意味で面白いとんがった作品にしているのは、必ずしも「運動状態にある映像」だから、などではなくて、そのシーンの選択構成の強度に魅力があるのだと私なら考えます。映画の評論家なら繰り返し見て実証してみたいところだけれど、私はそんな能力も気もない(笑)ので、また彼の映画に出会った時に思い出せればそんなこと言ってたことを思い出すことにして、他の映画へ移っていくことにしましょう。
 

「捜索者」(ジョン・フォード監督) 1956

  インディアン(この場合コマンチ)を敵として描けた時代の西部劇で、主人公たるジョン・ウェインは頑固・偏屈で、インディアンに対しても人種的偏見を持っているような人物造型で、いまでは作れない映画でしょう。

 この偏屈な西部男と、彼が昔ひろった赤子が逞しく成長した、チェロキーインディアンの血を本人の弁では8分の1だけ引く熱血青年、ジェフリー・ハンターが、コマンチに攫われた(ジェフリー・ハンターの)妹を救い出すために粘り強くコマンチの男を追いつづけ、捜索して、ついにやっつけて少女、いまでは大きくなって半ばコマンチになりかけていた女性を救い出す、という話。

 ナタリー・ウッドが可愛らしく、ウォード・ボンドがいい味を見せている映画で、背景となる西部の光景が昔の西部劇ファンとしてはとても懐かしい映画でした。


「祇園囃子」(溝口健二監督) 1953

   昔おなじ溝口の「祇園の姉妹」は映画館で観ていましたが、「祇園囃子」のほうは見ていませんでした。「祇園の姉妹」ももう忘れてしまいましたが、色街での自分たちの境遇の理不尽に抗うような、割と強い女性を描いた印象があって、戦前の映画としては珍しいな、と逆に、靴下と女性が強くなった、などと戯言が言われた戦後の作品のような印象を持っていたのですが、それは錯覚で、もろ戦前の映画でした。
 他方こちらの「祇園囃子」はその理不尽な境遇にいわば屈せざるを得ない女性をいわば美的な情緒と切なさの感情でオブラートにくるんでしまうような描き方をした作品なので、こっちのほうがむしろ戦前の映画のような気がしてしまいました。でも、こちらはまぎれもなく戦後の、監督自身がその重要な支え手であった日本映画のひとつのピークをなすような黄金期の映画なのですね。

  文学にも映画にも、昔の作品をとりあげて、いわばポリティカル・コレクトネスの立場みたいなものから、その登場人物や人間関係の描き方のうちに女性差別や様々な差別的な観点やセリフや設定が見られるのを取り上げては批判するという一つのムーブメントがあるようなので、そういう流れからするとこの作品などは問題が多くて、いろいろ批判されそうなところがあるかもしれません。

 ここに登場する木暮三千代演じる祇園の芸妓と彼女を姉さんと慕い、舞妓になりたいと身を寄せる若尾文子演じる少女とが、色街のしきたりと権力関係の中で、姉が妹を想う気持ちから借りた重い借金が足かせとなって、自分の意志に反して、色街を支配する置屋の「お母さん」の仲介する「旦那」の利害を決する権力をもつ役人に身を任せて屈服せざるを得なくなるという話で、本来的には非常に後味の悪い物語です。
 ただそういう境遇の中で世間知らずの妹をかばい、そのために身を犠牲にする姉の愛情やどんな相手であれ人間としての義理を果たすというような或る意味では気っ風のよいところ、そして理不尽さに耐えて色街で支え合いながら生きて行こうとする姉妹のけなげさ、哀れさ、切なさが観客の心を動かすような映画です。

 この作品では木暮美千代が素晴らしい。彼女がこんなに魅力的に見えた映画は私の乏しい経験の範囲では初めてで、その演技力にも心を動かされました。また、世間知らず、恐いもの知らずで、無鉄砲をして、結局自分が頼り切っている姉に迷惑をかけることになるアプレゲールの舞妓若尾文子もいい。
 そして、脇を固める置屋のにくたらしい婆を演じる浪花千栄子がすばらしい。あの権柄ずくの物言いと表情は見終わってからも強烈に印象に残ります。若尾文子の父親で、いまは落ちぶれて、保証人のはんこも断ったくせに後に木暮のところへ金の無心に来るどうしようもない父を演じた山形勲もまた、とてもほかの映画で見る悪役のあの山形勲とは思えない演技で、驚きました。

 祇園の風景がまた素晴らしいカメラでとらえられています。宮川一夫のはずだから、やっぱり違うな、と思いました。最初の若尾文子が右手前から姉さんの所を探し探し行って、むこうから大原女のような物売りが手前へ降りてくる、あの冒頭のシーンからしていいですもんね。


「水戸黄門」(荒井良平監督)1934-35

 来国次の巻、密書の巻、血刃の巻と3巻ありましたが、いっぺんに通して観ました。面白かった!(笑)。

 いまみてもそこそこ面白く観られるのは、たぶんこの作品の脚本を書いたらしい山中貞雄の才能によるものでしょう。もちろん二役で大活躍の大河内伝次郎の存在感、脇をつとめる澤村國太郎(先ごろ亡くなった津川雅彦、長門裕之兄弟のパパ)や市川百々之助の助さん、格さんもなかなかいいのですが。

 テレビで連続でやってた水戸黄門はいくつか見ていますが、やっぱり黄門の風格という点ではこの大河内伝次郎をおいてほかにないだろうという気がします。

 私たちがテレビで見て来た黄門は、最後ワハハと笑って明るく終わる話ばかりだったように思いますが、この作品はなかなか筋立てが複雑で、最後は、もちろん悪だくみをしたやつらは、黄門さまにその陰謀をあばかれるのですが、主犯の柳沢親子はただ悪事をあばかれて恐れ入って陰謀が破綻するだけで、切腹させられるわけでも斬られるわけでもない。もちろんそんなことになったら、史実がひっくり返っちゃいますが(笑)。下っ端は正義の味方に斬られたりするわけですが、いまの政府や官僚のトップと同じで、下っ端は切られるが、某アベさんとか某アソウさんとかは切腹どころか辞任さえしない(笑)、あれと同じで、庶民の我々観客としてはすっきりと気分が晴れるというわけにはいきません。

 おまけに作品の中では唯一可愛らしい娘さんの役だった人のお兄さんは悪者に殺されてしまうし、その仇を討とうとしていた妹も、兄を殺したのが実は彼女が見染められて側女になって囲われていた柳沢の息子だと知って、最後の最後に自決してしまう、という実は暗い話なのです。
 こういうのを書くのはやっぱりあの限りなく暗い絶望的な「人情紙風船」を撮った山中貞雄ならではの黄門さまだと思わずにはいられないけど、ほんとのところは知りません。
 大好きな「河内山宗俊」だって、最後は見せずに終わっちゃうけど、悪漢実は少女のために入れ込んじゃう善なる主人公たちみな、たぶんこの世の仕組みでは犯罪人として殺されちゃう運命でしょうからねぇ・・・




 

saysei at 00:24│Comments(0)

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