2018年03月22日

「勝手にふるえてろ」~小説と映画

 昨日出町座で、映画「勝手にふるえてろ」を観てきました。その前に綿矢りさの同名の原作を読んで「予習」してから(笑)

 率直に言って、どちらも、もうひとつピンときませんでした。綿矢りさは「蹴りたい背中」なんかは良かったような印象が残っていたので、今回も期待して読みましたが、読みやすくわかりやすくなった分、率直に言って少しテンションが下がったような気がしました。
 
 とはいえ、おはなしはうまいので、それなりに楽しんで読みました。二股かけている彼氏を「イチ」と「二」と呼んで使い分けて語って行くところ、この二人の彼氏それぞれの対照的なキャラ、ところどころ登場する絶滅危惧種の話、etc.

   彼氏の言葉やふるまいでも、同僚やクラスメイトの姿でも、語り手ヨシカの感受性が切り取ってくる切り取り方、ちょっと人と違った考え方やふるまいをしてみたい、でもごく普通の純情な女の子が、日々接する世界を受容するその受け止め方には、私などの世代からみて面白いところがあります。

 でも、綿矢りさの作品の本当の面白さは独特の意味喩の展開にあったような記憶があって、今回もそういう文体に出会うことを期待していたので、そこは或る意味でとんがったところが削られて読みやすくはなったけれど、どうなんだろう、という疑問がありました。

 ”同僚の来留美は、サニーレタスとかやわらかい仔牛肉とか星のかけらしか食べてこなかったみたいな、色白で細くしなやかな身体つきで、・・・”

 ”私はつめたい大理石のうえに寝そべり、石の表面に自分の体温がほんのりと移っていくようにニのことを好きになるかもしれない。”

 ”処女とは私にとって、新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついている持ち手のビニールの覆いみたいなもので、引っ剥がしたくてしょうがないけど、なんか必要な気がしてまだつけたままにしてある。”

 ”五感の膜が一枚はがれたように、いつも見ている電線ごしの青空が急にみずみずしく見え・・・”

 ”ニが私のその点に関して興味をそそられたのかと思うと、ブラジャーつけていないときのTシャツの胸ぽちを凝視されたときみたいに気が狂いそうなほど恥ずかしくなって、”

 ”小学校の自由研究みたいに朝顔の鉢でも買って育てて観察日誌でもつけようかと思うくらい気分が高揚した。”

 こういう意味喩にこの作家の特徴があらわれるので、面白いと思って読んできたのですが、この作品では比較的そこがおとなしいのが少し物足りませんでした。

 映画のほうは、こういう原作の文体のとんがったところは別の映像的表現をとるはずのところですが、それがみつけられませんでした。実は主演女優の松岡茉優を一昨年あたりまで知らなくて、週刊誌のグラビアにとても目の強さが生きた写真が載ったことがあって、それがそのときのゼミ生の一人にとてもよく似ていると思って、本人や友人のいるところでつい口にしたら、「似ていません!」ときっぱり言われてしまったことがありました。

 だいたい女性が誰かに似ていると言われて嬉しいなんてことはなさそうだし、無神経であったと反省していますが、親しい学生さんだったけれど、あ、機嫌を損ねたかな、と。わが家にも何度か友達と一緒に来ていたので、その話をパートナーにしたら、「そら怒るわ。彼女のほうがずっと綺麗だもん」(笑)・・・そうか・・・「松岡茉優は平面的な顔立ちでしょ。Yちゃんはそうじゃないもん。もっとずっと生き生きしてるよ」・・・はい、そうでした。(反省)

 この作品の主演女優さん、熱演しているけれど、表情も泣いたり叫んだりするわりには実は変化に乏しいし、それ以上に背中を撮っているとよくわかりますが、身体が演技していないな、と何度か思いました。それはカメラが悪いのか、監督がもひとつなのか分からないけれど、肝心のシーンでも背中を撮っているとき、ただそこにドーンと背中のかたまりがある感じで。可愛らしい女優さんだと思うし、気っと主役に抜擢されるくらい人気がある人なのでしょうけれど、演技はこれから変化して伸びていく人なのかもしれません。

 それよりも、今回、原作を読み、映画を見て私が思っていたことは、映画の感想でも小説の感想でもなく、もう10年ほど前に卒業したゼミ生だった別の学生さんのこと。それは顔ではなくて、彼氏が2人いるというシチュエーションが似ていたから(笑)。

 彼女が言っていたことは、私はいま生涯でたぶん一番生き生きとして、美しく、チャーミングなときだけれど、おなじ歳の若いどちらかと言えば好きな彼(ヨシカさんなら「イチ」の彼氏ね)とつきあっていても、彼のふところが寂しくて、美味しいものを食べにも行けないし、たまにどこかへ行っても私が払わなきゃいけなかったり、せいぜい割り勘だったり、行きたいところもいっぱいあるのに旅行だってできない。でも、もう一人の年上の彼氏は美味しいものが食べられるお店にも連れてってくれるし、私のほうが甘えられてそれを受け入れてくれる。

 それは私が若い彼氏のほうだったら、やっぱりいやだよ、と私は応じていたけれど、それは勿論彼女もわかっているのですが、それでもやっぱり割り切れない。一人を選ぶという割り切り方も、ドライに二股かけるありようにも割り切れない。ぜいたくな悩みだな(笑)と思いましたが、彼女はとても正直だったと思います。

 彼女たちの世代に比べて、私の世代は若いときも「合コン」じゃなくて「合ハイ」で、お酒を夜一緒に呑むんじゃなくて、昼間一緒に集団で山歩きをしたり(笑)、まことに健全この上ない手も触れあわないような「彼」と「彼女」だったりしていたけれど、それでもヨシカさんと同じようなパターンの付き合い方も、それに伴うそれなりの悩みもあったわけで、別にいまの世代に特徴的な関係のあり方でもなんでもありません。

 若いころ海外へ行く前に読んだ本で、当時北欧の若い男女が日本とは違ってずいぶん進んでいるようなことが言われているけれども、実際はそういうことではなくて、成人になる前にはさんざん色んな異性とつきあっているけれども、20歳になったら自分でちゃんと選べるようになって、ステディを一人にしぼって、それからは互いに誠実な夫であり妻であるケースが多いので、決して日本の一部の人が思っているような乱脈な関係ではないんだよ、というようなことを書いた、向こうの国で暮らす人が書いたものがあって、はぁ、そういう文化の違いなんだな、たしかにかの国のやり方のほうが合理的で、若い未熟なうちに試行錯誤で多少のリスクはあっても、異性を互いに体験的によく理解しておくことで、のちの結婚生活がうまくいくのかもしれないな、と思ったことがありました。

 自分で北欧に行ったときに、そのことは部分的には体験的に理解できたので、もちろん「北欧は」、なんてひとくくりに言えるようなことはないけれど、男女間の関係についての文化のありようとして、そういうむこうの国と日本との間に考え方の違いがあることは、そう外れてはいないんじゃないかと思いました。

 いまの若い世代ではどうでしょうか。もし10年ほど前の状況がいまも続いているとすれば、若い男性は気の毒だな、という気がします。人生100年時代なんてことになってきて、年寄りがみな将来の生活に大きな不安があるために若い世代への資産移動が起きにくくなっていて、若い人はお金を持たず、低賃金でフルタイムこき使われるような社会になっていて、時間的にも金銭的にもゆとりがもてなくなっている。ということは若い男性にとっては、昔のように家族を養っていく自信がいつまでも持ちにくいような状況がますますひどくなっているんじゃないかと思います。

 それならそれで女性の側が男性と対等の仕事をして対等の賃金をもらって、補い合えばよさそうだけれど、女性を差別しない労働環境の形成にかけては日本はひどく遅れているから、その条件も一般的にはまったく整わないでしょう。

 そういうことを思いながら、この「勝手にふるえてろ」のシチュエーションを考えると、ヨシカさんの二股かけている彼氏は年齢的にはそう違わないから、ここで私が言っているようなことと直接かさなってはこないので、単に彼女が一方的に惚れていた「イチ」のほうは彼女の名前さえおぼえていない彼氏ですから、袖にされても一途に彼女を思い、それなりの甲斐性もある「ニ」のほうを選ぶのは当然で、あとはヨシカさん自身が自分の過去の少女チックな初恋を現実のオトナの恋と錯覚せずにちゃんと思い出のほうへ返してやることでカタがつくような問題であって、どうせ小説を書いたり映画をつくったりするなら、むしろ10年ほど前の私のゼミ生のようなシチュエーションでリアルに詰めてみたら、一層テンションの高い作品になったのではないか、と思ったりしたのでした。

saysei at 01:39│Comments(0)

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