2011年02月25日

京都市はロームとの京都会館の命名権契約を破棄せよ

  一昨日(2月23日)、「2020年の京都の舞台芸術環境を考える会」(http://2020kyoto.blog.fc2.com/ )の主催で、京都会館再整備について話しあう集まりが開かれることはウェブで知っていましたが、仕事の関係でどうしても参加できず残念に思っていたところ、このブログを読んでくださった方が、会の模様を動画で見られるサイトを教えてくださいました。

ユーストリームのアーカイブ
その1
http://www.ustream.tv/recorded/12884419
その2
http://www.ustream.tv/recorded/12885284
その3
http://www.ustream.tv/recorded/12884752


ライブのtwitterのツイート
http://togetter.com/li/104722

 京都会館の改修に関心をお持ちの方は是非ごらんになってください。必見だと思います。

 とくに、私にとって衝撃だったのは、市が委嘱して再整備の方向性についての意見書をとりまとめた検討委員会のメンバーでもある建築史がご専門の松隈先生ご自身が発言され、委員であるにもかかわらず、あの委員会以降の経緯をまったく知ることができず、市が今回パブリックコメントを求める際のリーフレットに記されたようなことを決めてしまってから、この4月には基本設計を発注するという直前のこの時期になって「こうなりました」と報告に来ただけだ、とおっしゃったことでした。

 そして、松隈先生によれば、基本設計を発注するということは、すでに舞台空間をどうするか、舞台機構や設備をどうするかなど、どのような仕様になるか、スペックが全部決まっていないと発注できないから、市の内部ではそれを既に決めているはずだ、ということで、ここ(23日の会合)で話し合っているようなことは既に市は全部決めてしまっているはずで、ほとんど絶望的な状況だという意味のことをおっしゃっていました。

 いったい、誰がどのようにしてどこで、市民の税金を垂れ流すことになりかねないこんな重大ななことを決めてしまったのでしょう?そのプロセスは、再整備検討委員会の委員である松隈先生にさえ知らされていないのです!われわれ一般市民に分かるはずがありません。

 いま京都市役所内部では、この京都会館について、とんでもないことが生じているようです。舞台芸術関係者の、いい上演環境で活動がしたい、という切なる願いを逆手にとって、とんでもない企てが極秘裏に進められているようです。

 検討委員会の委員さえ知らないような計画を、いったい誰がどんな権限で立案したのでしょう?そして、市の誰がそんないかがわしいものを採用したのでしょう? 

 そういう秘密主義で物事を進め、膨大な税金を使って得をするのは誰か。推理小説の犯人探しではありませんが、そのことで得をするのは誰か、と私たち素人が考えるのは自然ではないでしょうか。この件で利害関係を持っているのは誰か?

 2020年の京都の舞台芸術環境を考える会に集った舞台芸術関係者は、むしろ大ホールよりも自分たちが実際に創造活動に使いやすい小ホールのほうに関心があるようで、どちらかといえば大ホールについては棚上げするようなニュアンスだったように思います。つまり、彼らのほとんどは、大ホールが「世界的に著名なオペラやバレエの劇団の巡回公演」に使えるものになったからといって、別にそれで大きな恩恵を受けるわけでもなく、特別嬉しいわけでもないようです。

 だとすれば、一体誰が「得をする」のでしょう?

 第一に考えられるのは、巨大な改修費で市民の税金がその懐に流れ込んでくる建設業者、そして設備業者でしょう。上記会議の一部の方から出ていたPFI方式が事実なら事業をトータルに請け負う企業はこれで単なる機能不全を手当てするのとは桁違いの利益を得るでしょう。
 今回の秘密裏の計画策定が業者主導で行われているとすれば、これは市民を置き去りにした行政と業者の癒着以外のなにものでもないでしょう。

 第二に考えられるのは、オペラ対応のような過大な空間と過剰設備をもつような外見は「立派な」施設をつくることで、全国のそのときの首長はみずからの政治的「勲章」としてきたので、それはきっと彼らにとって政治的価値があるのでしょう。非政治的な私には思い測ることもできませんが・・・

 この第二の推測があたっていて市長の個人的意向が反映しているのだとすれば、市民を置き去りにした市長の独断専行ということになり、これを阻止できない議会は何のための議会なのか、ということになります。

 第三に考えられるのは、そのような市民にとって負担ばかり大きくて利用価値の乏しい巨大施設、過剰設備の会館を作って、結果的に得をするのは、舞台芸術の創造に励む人たちではなくて、よそから出来合いの商品である公演を呼んでくることをビジネスとしているプロモーターなどの業者さんです。

 上記の会合に集まったような人々(舞台芸術の創造にエネルギーを注いでいる舞台芸術関係者)にとっては、2000席のホールや、オペラハウスのような巨大空間、過剰設備はほとんど無用です。
 むしろ自分たちの創造活動の間尺に合うコンパクトで柔軟な、使いやすい劇場こそが彼らの望むものです。
 プロモーターたちがどの程度政治力を持っているかは知りませんが、何らかの形で今回の秘密裏に進行したらしい計画策定に影響力を振るった可能性がないとは言えないでしょう。

 通常考えられるこうしたパターンのほかに、例えば他の府県市で例がみられたように、首長などと親しい大物の実演芸術関係者が、個人的な考え方をいわば耳打ちのような形で首長に吹き込み、その権力を利用して自らの野望いや失礼、「夢」を実現しようとする場合があります。

 そりゃ巨大なオペラハウスや、大都市の「文化的殿堂」ともなる巨大文化複合施設の「芸術監督」とか「総合プロデューサー」ともなれば、名誉でもあり、大きな権限を関係業界で振るうことにもなるのでしょう。

 しかし、こうした個人のアーティストが個人としてどんなに優れた実績があり、才能があるとしても、このような個人の政治家への私的影響力の行使で、市民にとってあるいはその都市全体にとって無意味な、重厚長大施設・設備を作って税金を垂れ流すことは、決して許されることではないでしょう。

 そこで、今回の京都会館のケースについて、こうしたパターンの可能性がなかったかを考えてみると、やはり先日の会合で話が出ていた「ロームが命名権を50億円出して買う」という話に思い当たります。

 これが第4の可能性です。

 ロームに命名権を売る、と言う話は、いくつもウェブ上の新聞報道記事で出ていましたから知っていましたが、上記会合の出席者が読み上げられた京都新聞の記事を聞いて愕然としました。

 「市は昨夏、音楽支援活動に励む熱心なロームに命名権購入を働きかけ、ロームは世界的なオペラやクラシックの公演ができるようホール機能の拡充を条件に協議。1年間に1億円の計52億5千万円(2億5千万円は消費税)で合意した。」(京都新聞平成23年2月25日)

 以下、このウェブ上でも読める京都新聞の報道が事実を正確に伝えているとして続けます。

 私はこの前のブログで、お人よしにも、「命名権」という名目の事実上の「寄付」だろうというようなことを書いて、「まさかロームさんだって、どんな会館にするかに口を出すような馬鹿な真似はしないだろう」、という意味のことを(ちらっと危惧はしながらも)書いたのですが、事実は危惧のほうが当たっていたわけです。

 「世界的なオペラやクラシックの公演ができるようホール機能の拡充を条件に」!!!!

 ひもつきだったのです!

 市から命名権を買わぬかと持ちかけたうえ、こんな条件をつけられて協議に入り、命名権売買契約を結んだとすれば、もはやこの「条件」を無視して計画を作れるはずがないではありませんか!

 これが、市のパブリックコメント用リーフレットで、検討委員会の意見書にも全く登場してなかった「世界的に著名なオペラやバレエの劇団の巡回公演」というようなとんでもない文言が挿入された原因だったのではないでしょうか!

 一部のオペラを専門とする方やオペラファン、あるいは大規模ホールで儲ける呼び屋さんなどを除けば、大部分の市民が、さらに舞台芸術関係者でさえも「要望」などしていないこんな条件が、一民間企業(のおそらくトップ)の意向で決められてしまったとすれば、そんなことが許されるものではありません。

 ロームさんは、そういう施設をお作りになりたいなら、別途自分の土地に自分でお作りになればよろしい。自分が半分金を出すからといって、まるで市役所の職員の頬を札束でひっぱたくような形で条件を飲ませて、市民の税金を垂れ流させるような計画を強いるべきではありません。

 文化に金を出すなら一切の条件を付さず、口を出さないのが、文化支援をおこなう企業の矜持というものです。条件をつけて、などという「支援」なら、市民の側からお断りです。そんな企業に文化を「支援」してほしいとは思いません。

 報道が事実なら、京都市は札束に目がくらんで市民の魂を売り渡したといわれても仕方がありません。京都会館は市民の浄財も入って作られた市民の公共財産です。その改修の仕方、今後の運営の仕方にかかわる基本方針を、たかだか50億円程度の札束の幻影に左右されて、一企業、一個人の私的趣味に迎合して変えるようなことは、決して市民が許さないでしょう。

 もう基本設計を発注するから間にあわない、というなら、市民全員でそれぞれの地域の市議会議員に働きかけましょう。反対の署名運動でも何でも始めましょう。私は真っ先にこの計画の中止ないし、せめて「中断」を呼びかける署名簿に署名します。

 「市でもロームさんでも作ってくださるならありがたいです」、などと揉み手をして擦り寄っていくような「再整備」の修正案を出したところで、いま情報を隠したまま事業を拙速に進めようとする京都市の土俵に乗るだけで、私はもはや実際的な効果はないと思います。

 ただ、上記の会合で、情報公開を市に求める決議、署名がなされたようなので、それについては大賛成です。この「再整備」にまつわるあらゆる情報を、とりわけ4月から基本設計を発注するというなら、その前提として業者に示す下案がスペックまで全部できていなければならないという松隈先生のお話どおりであるなら、当然その下案を公開すべきです。

 このような市民に知らせない、情報隠蔽の状態のままで、市民合意も得ずに行ったロームさんとの命名権契約は無効だし、破棄すべきです。また、拙速な、業者への基本設計の発注は即時中止して、時間をかけて市民の広範な議論をよびかけ、市民の合意にもとづく本当に京都のためになる「再整備」計画に生まれ変わらせるべきです。

 上記の、「2020年の京都の舞台芸術環境を考える会」には、若い舞台芸術関係の方がたくさんおられるようだし、建築家その他たくさんの知恵のある方が揃って参加しておられるようなので、ぜひこの杜撰な再整備計画を阻止する運動の要になってほしいと思います。私も微力ながら一人の市民としてそのような阻止運動に参加したいと思います。

 京都市の職員の方の中にも、行政組織の一員としての難しさを抱えながらも、こういう市の秘密主義に嫌気がさし、本当に市民のための仕事をしたいという良心的な方も少なくは無いと思います。
 良心的な職員の方は、どうか市民のために情報をもたらしていただきたい。行政が情報を隠蔽すれば、私たち市民はフェアな判断ができません。違法な情報隠しや、市民のためにならない情報隠しに対しては、どうか一人の市民として、人間としての良心に従って行動していただきたい、と切にお願いしたいと思います。 

                 *

 昨日投稿した記事の中で、検討委員会の「市民公募委員」について、私が市の委員選定のあり方について、これらは「市民代表」あるいは「平均的な市民」と言えるのだろうか、と疑問を呈した件について、当該記事にコメントを寄せてくださった方から、「市民公募委員」は選定のときから「市民代表」でも「平均的市民」でもない、ということをご教示いただきました。

 該当記事のところのコメント欄にそのまま、その方のコメントを掲載していますので、関心のあるかたはご確認ください。

 その方の指摘してくださった市がウェブ上で公開している文書の中で、「市民公募委員には、『市民の代表』として、あるいは『市民感覚の代表者』としての役割が求められているわけではありません。」と明記されています。

 その意味では、少なくとも形式的には「市民公募委員」についての市の理解に関する私の理解、認識は誤っていました。その点について、記事を読んでくださった読者に訂正し、おわびします。

 ただ、その方のコメントへのコメントにも書きましたが、そう言って訂正したとき、私の中になお微妙な違和感、わだかまりのようなものが残るのはなぜかと考えてみますと、ことはそう単純ではないように思います。

 というのは、上に引用した市の文書で、しきりに述べられているのは、"「平均的な市民」や「市民の代表者」ではなく、一人の市民としての普段の暮らしやそれまでの経験、感性から、紡がれる意見を"求めているんだ、ということなのですが、私があの文章を書いたときも、それは百も承知しているわけです。

 つまり、たとえ「市民の代表者」として選ばれたとしても、一人の特定の市民が多様な意見をもつ全市民の「意見を」代表できるわけはありません。そんなことが不可能なことは誰でもわかります。

 だから、”「市民の代表者」ではなく、一人の市民として”意見を言ってくれ、などというのは、言わずもがなの、わざとらしい言い草にすぎないことが分かります。むろん、たった2人の「市民公募委員」として、自分の意見が意見書になって再整備の行方に影響を及ぼすことになるかもしれない立場ですから、「一人の市民として」自由にご発言を、と言われても緊張し、気負いがちなのは普通の市民であれば当然ですから、気持ちを軽くしてご自由な発言を、とほぐす意味ではいい言葉かもしれませんが、当然といえば当然の言葉です。

 私はもちろん、そこを市が誤解して、「市民代表」にこういう人を選んだことはけしからん、などと言っているのではありません。いくら市でも一人二人の市民が「市民代表としての意見」を述べられるわけがないことは分かっているでしょう。ましてや、選ばれた「市民公募委員」が市民代表なのにこういう発言をしたのはけしからんとか、こういう発言をしなかったのはけしからんと言っているのではありません。

 公募で選ばれた市民は一人の市民として自由な発言をなされば、それで十分に役割を果たしたわけで、そこに何も問題が無いことは、すでに昨日のブログで繰り返し述べたとおりです。

 私が問題にしたかったのは、市が市民公募委員を選定する際の枠組み、基準として、それをオープンにしていたかしていなかったかはわからないけれど、最初から芸術文化に関心をもっているかた、造詣の深いかた、あるいは実演芸術の鑑賞者の立場という想定で選んだのではないか、ということでした。

 書いたときの私には結果としての議事「摘録」しか判断材料がなかったので、それを仔細に読むと二人の市民公募委員のご発言のスタンスが、お一人は「一利用者としての」つまり、公演の鑑賞者としての立場からの発言、今一人はむしろ実演芸術関係者、あるいは公演者側のスタンス、というふうに見受けられたので、それはそれぞれの方には何の問題もないのですが、そういうお二人しか市民公募委員として選ばなかった市の側の選び方、土俵の作り方そのものに問題はなかったのか、というのが私の真に問いたかったことです。

 繰り返しになりますが、必ずしも「市民イコール利用者」ではなくて、「市民イコール納税者」であり、「市民イコールお金を出して会館を作り、運営する側」でもある。そういう側面もあるし、そのほうが全市民の母数からみれば数少ない「利用者」や「舞台芸術関係者」よりもずっと全市民という母集団に共通する要素なわけです。その側面は少しも委員会に反映されていません。

 先に引用した市の文書では、”もちろん、市民公募委員は市民です。でも、例えば職員も「職員という市民」であるはず。”という文章があります。こういう言い方というのは、はめ込まれる文脈によっては非常に意図的で、問題をすりかえるものであることに読者はお気づきになりませんか?

 建築家も(京都市に居住しておられるかぎり)市民です。プロモーターも〔京都市にお住まいなら)市民です。歌手のかたも、公演団体のかたも「市民」です。・・・ということになってしまいます。じゃなぜ「市民公募委員」がわざわざ必要なんでしょう?(笑)

 こんなのはペテンですよね。建築家は建築の専門家であるがゆえに選ばれているはずです。でも市民としての立場あるいは一人の人間としての見識でご発言になるのが自由であることは当たり前のことです。「あなたは建築家だから、市が市民の意向に反することをするのを倫理的に追及するのはけしらからん、建築家は建築のことだけ発言すればいいんだ!」などと言ったら、誰も委員になんかなりませんよね。

 ですから委員選定のとき、建築家は建築(史)の専門家としてその見識を評価して委嘱しているはずです。他の専門家や有識者も同様でしょう。では「市民公募委員」は?

 そう問うとき、市民公募委員が「全市民の意見を代表する」などできるはずがないのは当たり前で、一人の市民として自由な意見を言うのも当然のことですが、選定する側の意図がどうなのか、ということです。
 その選定基準や枠組みが、ただ芸術文化に関心がある、というふうなことであれば、もちろんそういう市民公募委員があってもよいし、必要でもあるでしょうが、そうではない市民の大多数の共通する属性から出てくるはずの意見が、最初から排除されてませんか?ということを問題にしているのです。

 これはここまで丁寧に説明しないと、まるで私が市民公募委員個人を批判しているかのように受け取られるのは心外なので、しつこいようですが、繰り返しご説明しています。

 私にコメントを寄せてくださったかたは、私の言う「市民イコール納税者(つくる側)」という属性から出てくる意見というのは、市議会議員のほうにもっていくべきだ、というご意見のようです。

 もちろん第一義的にはそうでしょう。行政の税金の使い方を監視するのは議会の役割ですから、そのとおりです。

 しかし、私はやはり、この種の委員会、審議会で行政がしつらえた土俵に上がる委員の方にも、まずその土俵自体のありかたを疑っていただけたらな、という気持ちを捨てることができません。

 今回ご紹介した23日の「20年の京都の舞台芸術環境を考える会」においても、集まった方の意見を加えて署名してもらい、その意見書をパブリックコメントとして市に提示しようという趣旨で主催者が紹介した原案をめぐり、小ホールはこういう機能を備えてこういう用途に使えるようにしてほしい、といった要望について色々と発言がある中で、ある方が、「そもそも私たちはこういう議論の土俵に乗っかってしまっていいんでしょうか?」という根本的な疑義を出しておられたのを印象深く拝聴しました。

 舞台芸術関係者であればあるほど、ふだんから施設の機能不全を切実に感じておられ、「こういう点をなおしてもらえたらな」、「こういう施設ができたらな」、と切実な要望をもっておられるに違いありません。ですから、「再整備」というようなことをお上が言ってくれば、「この機会にぜひ・・・」とその土俵に乗りたくなる気持ちは痛いほどわかります。

 しかし、それが実は大きな罠で、松隈委員がおっしゃったように、基本設計を発注するために、すでに各スペックを明確にした仕様が決められ、事実上計画ができあがっていなければならないとすれば、もうどうあがこうと、どんな発言をしようと、市のほうでは業者と闇の中で談合ができていることになります。

 その上で、再整備の構想に盛り込むため、などと称してパブリックコメントを求めたりするのは、単に「舞台芸術関係者や市民の意見も聞いたぞ」というエクスキューズないしオーソライズのためのパフォーマンスに過ぎないでしょう。

 そういう行政の仕掛けた罠でしかない土俵にやすやすと乗って、おそれながらこういう機能を盛り込んでいただけませんか、と「提案」しても、それはただ相手の掌の上で踊るだけで、多少面子が立つように色をつけてくれるとしても、所詮はお上として「聞き置く」だけに終わるだろう、という予感がしなくもありません。

 そのことを会合での発言者は危惧されたのだろうと思います。会合ではすでに遅しと絶望的なニュアンスでおっしゃるかたもあり、こうした根本的な疑義を提起されるかたもあり、そうかと思えば舞台芸術関係者として、お金をくれるというなら「バッシングせずに」擦り寄っていってもらえるものは貰えばいいじゃないか、というニュアンスの発言もあり、まさに多様な議論がかわされていました。

 私はこの議論をウェブで拝見して、先に書いた二つの点で大きな衝撃を受け、再整備についての京都市のやりかたに対して、「疑問形」から完全に「否定形」に変わりました。
 市の個々の案がどうこうというより、市の、市民を無視した独断専行の秘密主義的な進め方そのものが民主主義に反すると判断し、この再整備計画の中断を求めたいと思います。

 今後このかんのいきさつや、自分の考えを、あらゆる知人、友人に広げていきたいと思います。

 私の文章を捻じ曲げない限り、ブログの引用、配布はまったくご自由ですので、どうぞご友人、知人の方々の議論に役立つならお使いください。

 事実誤認があれば、いつでもご指摘ください。誤りが確認できれば、いつでも率直に訂正し、お詫びします。
 ただ、現在のところ公開されている情報が乏しく、さらに私もすべての公開情報を閲覧できるほど暇でもありませんから、普通の市民がウェブを検索して比較的容易に得られる資料や、こうした機会に教えていただいた情報をもとに、推測で判断したり書いたりせざるを得ない部分はあります。その点はどうかそれぞれお読みになるかたで補っていただき、不備があればご教示いただければ幸いです。

 京都市にはかねてからおつきあいのある職員もいらっしゃいます。ぜひそういう方からも御意見をうかがいたいものです。


















saysei at 23:08│Comments(0)TrackBack(0)

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