2020年10月

2020年10月30日

「鬼滅の刃」を見る

 「鬼滅の刃」という漫画のアニメ映画化したものが興行収入の歴代最高を超え、海外でも評判になっているというので、アニメで宮崎駿の作品を超えるなんてすごいな、と思い、どんな作品かと思っていたら、アマゾンのプライムビデオで無料で見られるテレビアニメの時の作品らしいのがあったので、たぶんこれがシーズンⅠというのでしょうが、最初からエピソード十数回目の、ちょっと上級の敵が出てくる森へ入ってDVのケのある蜘蛛さん一家(笑)の化け物と戦うあたりまで、きょう一気に見てみました。

 ひとことで言えば、デジタルなゲーム版の桃太郎の鬼退治の話ですね。それほど人気があるというのだから、エンターテインメントの領域ではあっても、ストーリーなりプロットなり、ヴィジュアルなり、登場人物の掘り下げや描き方なり、技術的な面なり、どこかに視聴者を惹きつける新しい表現価値があるに違いない、と思って一所懸命見ましたが(笑)、残念ながら私には、何一つ新しい要素をみつけることができませんでした。

 もちろんエピソードをつらねて視聴者が興味をつないでいくストーリーがあり、それを構成する沢山の要素があるわけですが、それはロシアの魔法物語を研究したウラジーミル・プロップが昔話を構成する要素を抽出して以来、世界中でゲームや大衆小説のプロットを作るのに活用されてきた周知のパターンにのっとったもので、いまのAIなら比較的簡単に作れる程度のありきたりの物語にすぎず、その要素にも構成にも展開にも一つも新たに付け加えられたものはないと私には思えました。

 もちろん、だからと言って面白くないとか、つまらない、というのではなくて、逆に、そういう創造性のかけらもない型通りの物語だからこそ、広範な支持を得ることができたのではないかという気がします。それは歌謡曲が、雨だとか涙だとか別れだとか、決まりきった要素だけを巧みに組み合わせて、決まりきった詞を作り、どこかで聞いたようなメロディーをつけることで、クラシック音楽のような少数の愛好者ではなく、広範な人々の心をつかむのと同じことでしょう。

 同じ化け物の話(マンガ、およびその動画化としてのアニメ)なら、私は自分が若い来路、つまり半世紀も前に人気のあった永井豪の「デビルマン」のような作品のほうが、はるかに壮大で思想性があり、ストーリーとしても、絵としても、新しい世界を見せてくれる創造的な仕事だったな、と思います。

 しかし、これだけの読者なり視聴者なりを獲得するということには、きっと表現としての価値の観点からではとうてい見えない、社会学的、集団心理学的、或いは風俗学的な理由が考えられるはずなので、そのへんをきちんと解き明かしてくれる人があれば面白いだろうな、と思っています。

 きょうは歯医者さんへ先日入れた奥歯の入れ歯が少し痛いので調整してもらいにいって、ちょっと絵の具を買いにカナートへ。ほかには散歩せずに「鬼滅の刃」を見ていました(笑)。

 パートナーはせっせと大量の庫裏の皮を剥いておりました。毎年サッカーおばさん友達が四国の田舎へ帰って大量の栗を持ってきてくれるので、それでブランデーに浸した甘煮(マロングラッセの一歩手前の砂糖をまぶさないやつですね)を作って、毎月会っていたサッカーおばさん仲間と食べたりあげたりするので、期待されていたのですが、今年はコロナのせいでお友達が帰省しなかったので、大量の栗が手にはいりませんでした。でも彼女たちがそれを楽しみにしていたので、とても残念がっているので、たまたま同じ四国産の栗が売られていたからといって、買ってきて作ろうとしているようです。
 先日は山椒の実で細かい作業をして、手の指先があかぎれみたいに深く切れてしまって、水洗いを渡しに任せている状態なのに、またせっせと栗をむいています。懲りない彼女です(笑)。


 今日の夕餉。
★鶏の手羽先の甘辛和えと、砂肝のから揚げ
 鶏の手羽先の甘辛和えと、砂肝のから揚げ。

★伏見唐辛子のジャコ煮
 伏見唐辛子のジャコ煮。

★ホウレンソウと茸のおひたし
 ほうれん草と茸のおひたし。

★チンゲンサイ、カブ、キノコのクリームスープ
 チンゲンサイ、カブ、キノコのクリームスープ。

★モズク酢
 モズク酢。

★イカと人参のメンタイいため
 イカと人参のメンタイ炒め。

★グリーンサラダ
 グリーンサラダ。

★昨日ののこり
 昨日の残り。以上でした。
 これから夕食後、録画しておいた今日放映の「TIN STAR」を見ながら、自家製ケーキをいただきます。











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2020年10月26日

朝陽を浴びる貴船菊、鹿たちのこと

貴船菊1

 朝起きて寝室のカーテンを開くと窓越しに見える貴船菊です。白い花弁が朝陽を浴びて透き通るように美しい。

貴船菊2

 ちょうど真向かいに低く朝の太陽があって、逆光の中で朝もやに霞むように見えます。

貴船菊3

 みんな朝日の方を向いていて、これは花の裏側。


 今年の花壇は紫蘇や大葉に占領されて、貴船菊はほんの23本残っているだけだったので、今年はあまり花をみることができないかもしれない、と思っていたのですが、花壇をはみ出したところでちゃんと伸びてきて、この季節にたくさん咲いてくれました。

貴船菊5

 まだ当分の間は楽しめそうです。

貴船菊6

 お隣のキンモクセイはすっかり散ってしまいましたが、疎水べりの角のおうちのは、まだ花をつけていました。
貴船菊7

 でもその真下の地面は散った橙色の花が敷き詰められていました。キンモクセイの秋は一瞬の秋。

貴船菊8

きょうの比叡。終日快晴と言っていい、上天気でした。

ネットでなにか鹿のことがわかるような文章はないかと探してみたら二、三みつかりました。やはり私が毎日の散歩の時見ていたように、群れをつくって川に下りてきているのはメスとその子供だけで、子がらし、オスはディズニーのバンビにあったとおり、群れを出て、牡鹿だけで群れをつくるんだとか。
 繁殖期だけ発情する牝鹿をめぐって牡鹿どうしが闘い、勝者が10-15頭の牝鹿独占で、一夫多妻のハーレムをつくるんだそうです。その繁殖期がちょうどいま、9月から11月にかけてらしい。妊娠期間は7カ月半から8カ月で5月くらいには仔鹿を生む。約4カ月の授乳期間を必要とすると言いますから、私が見た仔鹿が乳離れぎりぎりのところだったのでしょうね。だいたい母と子が一緒に行動し、縄張りがないので、仲良し母系集団のようです。

 たった1年もたてばもう発情期を迎えて妊娠できるらしいし、野生鹿の寿命が4年くらいらしいので、1頭あたり3頭から4頭くらいの仔を生むことになるでしょう。ネットを見ると鹿が増えすぎて農作物や植林に被害がたくさん出ているといった話ばかり沢山出ています。それは人間の被害ですね。鹿の被害の方は載っていない(笑)。奈良公園の鹿は天然記念物だとどこかに書いてありましたが、京都府では保護獣でさえなくて、殺されてジビエとして売られても文句が言える立場ではないようです。

 鹿は言うまでもなく草食動物で、一頭あたり1日に3~5kg以上も食べるんだそうで、鉱物はケヤキの枝葉だそうで、地域によっては個体が年間に採食する量の約70%をケヤキが占めるんだという記事もあります。地域が北上するにつれて笹の葉を食べる傾向にあるのだとか。でも、青草からイネ科の雑草類、広葉樹の枝葉、木の実、キノコや芋類まで、1000種以上の餌を食べるんだそうです。そりゃ3~5kgも食べるなら、あまり選んではいられないでしょうね。

 活動は薄明薄暮、朝早くと夕暮れ時で、私が夕方散歩するころに盛んに草を食べていたのがちょうど日の暮れ直前でしたから、なるほどな、と思いました。胃袋が4つあるそうで、やっぱり笹の葉なんてのを食べて栄養にしようとしたら、4つくらい胃袋をとおしてゆっくり消化しないとだめなんでしょうね。

 鹿は人間の数千倍の嗅覚をもち、1キロ先の音も聞き分けることができ、2m以上もジャンプができ、最高60km/hで走れるんだそうです。臆病だけれど好奇心が強いので、異変を感じてもすぐ逃げずに最初は嗅覚や聴覚でもって何だろうと探って、敵だと認知すれば逃げ足は速い、と。聴覚と嗅覚がそんなにすごいというのは初めて知りましたが、ジャンプ力や疾走速度が速いのは目撃しているので納得です。

 いまは山で仔づくりに励んでいるようで、また6月になれば河原で仔鹿連れの姿を見ることができるのではないでしょうか。できれば私もまた見たいので、それまで頑張って生き延びよう(笑)。



saysei at 21:48|PermalinkComments(0)

2020年10月17日

宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読む

 (お)しが燃えた。ファンを殴ったらしい。

 
こんな言葉で作品が始まります。<推し>は、よくラジオのDJなどが自分のお勧めの曲を「わたしの一押し」などと推薦している、あの<推し>で、推されている特定のアーティストなりタレントなりを指す言葉に転じているらしい。読んでいけば自然に分かるけれど、後期高齢者にはちょっと(笑)最初は何のこっちゃ?と戸惑う現在の高校生言葉がちらほらと出てきます。

 この作品の語り手である女子高生の「あたし」こと「あかり」の<推し>は、「まざま座」の上野真幸君というアイドル。「あたし」が4歳のとき、緑色の姿でピーターパンを演じていた12歳の彼がワイヤーに吊るされて頭の上を飛ぶのを見上げた瞬間が、運命的な出会いで、いまのようにSNSで<推し>始めたのは高校に入ったばかりのころのこと。

 体育祭の予行演習を休んで毛布にくるまったまま、ほこりにまみれたDVDで子供の頃に観たピーターパンの舞台を見返した時、一瞬「めり込むような痛み」を覚え、「その一点の痛覚からぱっと放散するように肉体が感覚を取り戻して」行くような感覚を体験したとき、「あたしは彼と一体化しようとしている自分に気づ」くのです。

 「ピーターパンは劇中何度も、大人になんかなりたくない、と言う。」これが彼に同化するあかりのいまの立ち位置でもあるのでしょう。

 あかりの<推し>ぶりは徹底しています。「CDやDVDや写真集は保存用と鑑賞用と貸出用に常に三つ買う。放送された番組はダビングして何度も観返す。」すべては「推しという人を解釈するため」にあり、その解釈を記録し、ブログとして公開するのです。やがて閲覧が増え、お気に入りやコメントが増えてファンもつく。彼らとのやり取りも日常的な活動になっていきます。

 「推し始めてから一年が経つ」ので、もう<推し>の気持ちも読めるようで、「ファンミーティングの質問コーナーでの返答は大方予測がつくほど」です。
 そんなあかりにとっても、今回の<推し>が女性ファンを殴ったというニュースは想定外だったようです。<推し>は決して穏やかな人ではないけれど、感情を押さえられない人ではなく、実際に見苦しい真似をするような人ではないはずだからです。

 SNS上では様々な声が入り乱れています。もちろん批難する人も沢山ある。けれども、もちろんわがあかりちゃんの推しは不動です。

 あかりは自分自身と家族に多少問題を抱えているようです。両親と姉、祖母がいるのですが、父は海外転勤で滅多に帰れないようです。転勤の時、家族で移住する話があったのに、祖母が強硬に反対して、家族はとどまることになったようです。あかりの母とその生みの親である祖母とは昔から折り合いが悪いようです。
 またあかり自身は学校についていくのが困難なようで、それはやる気の問題というわけでもなさそうで、母親に言われて姉が学習の面倒を見ていたようですが、その姉と母親が、あかりがいないと思って二人だけでかわす言葉をあかりが聞いてしまう場面でそのことが示唆されています。

 「ごめんね、あかりのこと。負担かけて」
 足の爪が伸びている。親指から、剃ったはずの毛が飛び出している。どうして、切っても、抜いても、伸びてくるのだろう。鬱陶しかった。
 「仕方ないよ」姉はぽつりと言った。
 「あかりは何にも、できないんだから」


 あかりは高校二年生の三月に、学校から原級留置を言い渡されます。
 学校だけでなく、アルバイト先でもどうもうまくやっていけないようです。

 祖母が亡くなり、帰国した父があかりに、就職活動はやっているか、と訊きます。母親が代わりに、全然やっていない、と答えて嫌味を言います。父は、進学も就職もしないなら生活費を出し続けるわけにはいかない、と言ってあかりを追い詰めます。

 「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」

 これが、あかり自身の口から表現され、わたしたち読者がはっきり知らされる、あかり自身の抱え込んでいる問題です。この両親とのやり取りを契機に、あかりは祖母の住んでいた家に引っ越して一人暮らしをするようになります。

 こんなあかりを支えてきたのが「推し」だったんだ、ということを読者のわたしたちは徐々に理解していきます。単に経済的にも愛情面でも恵まれた家庭の親のすねかじり娘が、学校からも仕事からも逃避して逃げ込む場というのとは違うんだな、と。

 彼女は自分自身の問題から、家族から、学校から、仕事場から追いつめられているのに、その追い詰めるものに自分を同化させるかのように、自分自身で自分を追い詰めて来たのでしょう

 あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。

 こういうあかりにとって、<推し>とは何なのか。彼女自身の言葉でそれを聴くとこうなります。

 あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
 勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになっていく。


 あかり自身の「推し」について、これほど見事な語りはないでしょう。

 こういう「推し」について、一般にタレントにお熱を上げるオタクの挙動について、世間が寄せる冷ややかな、あるいは侮りの視線に対しても、あかりは非常にまっとうな「推し」の論理を展開しています。

 世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。お互いがお互いを思う関係性を推しと結びつけたいわけじゃない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそういうふうに思ってないからなんだろう。

 私が偶々ネット上で見た、この作品について書かれた文章を見ると、おそらくはこういう部分を読んで考えられたのでしょうが、あかりと作者をじかに重ね、あかりのような「推し」の少女の心理に寄り添って、その種のありようを冷笑したり軽侮の目で見る世間のありようを批判し、逆にそうした「一方的な関係性」を肯定し、それを象徴するような少女の、いまふうの新しい感性を描き出そうとしたところにこの作品の価値があるというような理解をする向きがあるようです。
 でもそれは少しはやとちりで、最後までよく読まれなかったんじゃないか(笑)という気がします。もちろん、「推し」や「おたく」について、ここであかりが述べているようなことに、作者は共感するでしょうけれど、それはこの作品が書かれた意図とは別のことであるはずです。この小説は主人公に作者の意図を代弁させるような単純なメッセージ小説ではありません。

 SNS上では、<推し>のファン殴打事件が意外な展開を見せます。<推し>こと上野真幸が突然、「まざま座」脱退、いやその解散を宣言し、その後公式にアイドルからの引退を表明したのです。彼が殴打した女性ファンは、実は恋人だったのではないか、その女性と一緒に暮らそうということらしい、といった噂がきこえてきます。

 あかりは「最後の瞬間を見届ける」ために<推し>のラストライブに行き、「今あたしが持つすべてをささげよう」と会場でファンたちと共に<推し>の名を叫び、追うだけの存在と化します。そして「最後の瞬間を見届けて手許に何もなくなってしまったら、この先どうやって過ごしていけばいいかのかわからない。推しを推さないあたしはあたしじゃかった。推しのいない人生は余生だった。」と思うのです。

 SNSの世界では、<推し>がアイドルをやめて一市井人となって暮らしているマンションがつきとめられていました。あかりはそれを頼りに訪ねていきます。しかし、彼の住まいらしい部屋の窓が開いて、洗濯物を抱えた女性がベランダへ出てくるのを目撃したとき、あかりを傷つけたのは、女が抱えていた洗濯物でした。
 あかりが大量に集めて来た<推し>のファイル、写真、CD等々よりも、その洗濯物のシャツ一枚、靴下一足のほうが、「一人の人間の現在をかんじさせる」ものだったからです。引退した彼の現在をこれからも近くで見続ける人がいる、という現実を思い知らされて、あかりはもう彼を追えない、と思います。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない、と。

 推しは人になった。

 この言葉を読んだとき、敗戦の年に生まれた私は、滑稽なことに、なぜか、自分が直接そのときに聞いたわけでもない昭和天皇のいわゆる人間宣言のことを思い出しました。

 実際、戦中の天皇がそうであったように、<推し>はあかりにとって神様だったのです。あかりの部屋には、新曲が出るたびにそのCDが飾られる、オタクのいわゆる「祭壇」がありました。

 「この部屋は立ち入っただけでどこが中心なのかがわかる。たとえば教会の十字架とか、お寺のご本尊のあるところとかみたいに棚のいちばん高いところに推しのサイン入りの大きな写真が飾られて」いたのです。

 でも、その彼女の神様だった<推し>は、人になってしまった。
 そのとき、あかりは<推し>がなぜ人を殴ったのだろう、と最初の問いに帰っていきます。彼女はその問いをずっと避け続けてきたのですが、避けながらそのことが引っ掛かっていたのです。もちろん真相は分からない。未来永劫わからないだろう。

 しかし、このときあかりには、「もっとずっと深いところで、そのこととあたしが繋がっている」ような気がしたのです。「彼がその眼に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が、二年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う」のです。

 女性を殴打した<推し>に自分を重ねるかのように、あかりはテーブルの上の綿棒のケースをわしづかみにして振り上げ、「今までの自分自身への怒りを、かなしみを、叩きつけるように振り下ろ」します。それまでの自分を否定し、脱皮するあかりが鮮やかにとらえられたシーンです。

 あかりは自分がぶちまけた綿棒を拾っていきます。

 膝をつき、頭を垂れて、お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラもペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。

 けれども、それがようやく自分自身を見出したあかりの姿であり、彼女は、這いつくばりながら、「これが自分の生きる姿勢だ」と思うのです。

 自分自身の問題から家族の問題、学校、職場と自分を追い詰めるものを自分のうちに取り込むことで自分自身を追い詰め、あらゆるものを削ぎ落として、というよりも実際にはギリギリまで心身を縮め、凝縮してしまって、最後に残された<背骨>としての<推し>にすべてを集約して自分のすべてを注ぎ込んできたあかりが、<推し>が「人になった」ことで、殴打事件の意味を覚り、自らもまた綿棒をぶちまけて凝縮した自己を爆発させ、神を棄て、<推し>から自立し、これから自分の脚で立って長い道のりを歩いて行くべき、ただの「人になった」等身大の自分自身をそこに見出す、そのスタートラインに立つという素敵な物語です。

 
       引用はすべて、『文藝』2020年秋号掲載の宇佐見りん「推し、燃ゆ」(pp8-54)によります。


 

 

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2020年10月16日

宇佐見りん『かか』を読む

 そいはするんとうーちゃんの白いゆびのあいだを抜けてゆきました。やっとすくったと思った先から逃げ出して、手のなかにはもう何も残らん、その繰り返し。
 幼少の時分、うーちゃんは湯船に一疋の金魚を飼っていたことがあるんです。

 
こんなさりげない言葉で始まる冒頭の「金魚」の話は、その語り口も含めて秀逸で、私のような女性のとりわけこの手の事情に若いころから今にいたるまで疎い男には強烈な印象を与え、たちまちこの「うーちゃん」こと<うさぎ>ちゃんの語り口に引き込まれていきます。

 うーちゃんの家では、うーちゃんが「かか」と呼ぶ母親とその配偶者でうーちゃんの「とと」、「かか」の姉の死で引き取られた、うーちゃんの六つ年上の従姉明子と、その弟つまりうーちゃんの従弟「みっくん」がいて、その祖父母である「ジジ」「ババ」がいたのですが、「とと」は浮気をして家を出て行ったようで、それと入れ替わりのように犬の「ホロ」が家の中に入り込んできます。明子は自分ほど不幸な者はいない、という思い込みで生きていて、自分たちがひとつ屋根の下で暮らすうーちゃんの家族に何が起きようと冷淡で、男をとっかえひっかえしては出ていきます。「かか」はそもそも生まれたときから、姉の夕子のお下がり、おまけに過ぎなかったと言われつづけ、いまにいたるまで「ババ」から、夕子と比較されて貶められる存在です。そして、次には「ババ」がどうやら認知症でおかしくなったようです。この家庭でこうした人間関係の要としてすべてを背負ってきた「かか」の心身は次第に蝕まれ、心を病むようになっていきます。

 うーちゃんはこんな状況がいやでいやでたまらず、この世界から脱出してしまいたい、と強く思っていますが、同時にそこを離脱することができずにいて、SNSの世界に一抹の救いを求めているような若い女性です。この小説全体が、そのうーちゃんの目で見られた世界であって、彼女がその世界を従弟の「みっくん」に向けて語るその語り口そのままに呈示された世界なのです。

 うーちゃんは「かか」の手術の日に旅に出ます。それは幾分か逃避行的な意味合いもあったかもしれないけれど、行く先は熊野で、祈りの旅であり、うーちゃん自身の思いを確認するための旅であったように思えます

 うーちゃんがこの世界を脱出できないのは、彼女が或る時突然こんなことを覚ったことと関係がありそうです。

 かかをととと結ばせたのはうーちゃんなのだと唐突に思いました。うまれるということは、ひとりの血に濡れた女の股からうまれおちるということは、ひとりの処女を傷つけるということなのでした。かかを後戻りできんくさしたのは、ととでも、いるかどうかも知らんととより前の男たちでもなくて、ほんとうは自分なのだ。かかをおかしくしたのは、そのいっとうはじめにうまれた娘であるうーちゃんだったのです。

 いわば彼女は自分の原罪を引き受けることで、母親のそばを離れられないのです。だから彼女は「うーちゃんはね、かかを産みたかった。かかをにんしんしたかったんよ。」という奇妙な願望にとりつかれているのです。それは自分の原罪を無化して、かかにそれ自身の人生をもう一度最初からやり直させてあげたい、という切実な思いです。彼女は他の誰よりも「かか」を自分が愛していることを深く自覚するのです。

 自分が発狂したかどうか知りたかったら、満員電車に坐ってみればいい、ほかがぎゅうぎゅうなのにお隣がぽっかり空いていたら、それが自分の発狂しているしるしなんだ、と彼女は言い、「かかには両隣をうめる人間はいないかん、うーちゃんは必ずかかを端っこに座らせて自分がしっかと詰めて隣に座ります。」と心に決めています。

 小林秀雄が横光利一の『機械』を評した言葉に倣って言えば、この作品は作者の「倫理の書」だと思います。21歳の若い素晴らしい才能をもった作家の誕生を心から喜びたい。

 

 


 

saysei at 21:42|PermalinkComments(0)

2020年10月08日

スナップショット 27 河内厚郎さん

 河内厚郎さんに結構長い期間おつきあいいただくことになったのは、彼が大阪市教育委員会の「大阪文学館(仮称)」建設計画を推進する上で、事実上のディレクターの役割をつとめていたからだ。

 

 市教委では作家の難波利三さんを委員長とする構想委員会を設けて、検討を進めていたが、そのもとで実質的に基本的な調査と具体的な計画の中身を立案する作業は、河内さんを中心とする若手の文学関係の専門家で担い、そのメンバーの選定も含めて計画づくりを統括していたのは河内さんだった。私はその事務局のお手伝いとして、調査や構想案の立案、関連イベントの裏方の役を引き受けた勤務先の担当者として河内さんと頻繁に接触することになった。

 

 とはいうものの、最初にお目にかかったのが、いつどこでだったか、実はすでに記憶の彼方だ。ひょっとすると、文学館構想以前にお会いしていたかもしれないが、いずれにしても河内さんが東京から関西へもどってきて数年後くらいのことだと思う。

 

河内さんの紹介でこの事業に協力してもらった人たちの中には、有栖川有栖、多田容子、本間祐といった当時まだ本当に若かった作家たち、出原隆俊、尾上圭介、佐伯順子と言ったやはり新進気鋭の研究者がいて、有識者を集めた委員会やパネルディスカッションと言えば中高年の功成り名遂げたおじ(い)さまがたがほとんどだった当時、みな若々しく、溌剌としていて、おつきあいしていて気持ちが良かった。

 

 いま手元には平成4年3月の私の勤務先の名で市教委に提出した「(仮称)大阪文学館基本構想調査報告書」のコピー1冊しかないので、正確なことは記憶にないが、平成2年ないし3年ころから基礎的な調査をしたり、全国の文学館の視察や関係者のヒアリングをしたり、作業チームで会議を開いて検討し、基本構想案を作成していたのだろう。プレ事業としてのシンポジウムは平成6年から12年にかけて実施していたようだ。

 

 先に言っておけば、残念ながらこの文学館構想は陽の目を見なかった。もともといわゆるハコモノ事業の中で、文学館計画の優先順位がかなり下位であることは、教育委員会の担当者もよくわかっていたと思う。
 同時期に私が関わっていた同じ大阪市の舞台芸術総合センター計画は大規模な計画だったが、市長も乗り気で自らヨーロッパの視察に行って、大阪にオペラハウスをつくる、と正月早々ぶちあげたこともある。このほかにも色々とハコモノの計画は目白押しで、教育委員会マターとしては近代美術館建設構想が先行していた。そちらのほうは既に作品収集を始めており、佐伯祐三の良く知られた作品や、モディリアニの絵画を市が購入した、と時折り新聞を賑わせたりしていた。

 

大阪出身の作家は少なくないし、現に大阪に住む活躍中の著名な作家もあることから、そうした作家たちや文学ファンから文学館建設の要望は出ていただろうし、教育委員会としては近い将来ぜひつくりたいと考えていただろう。そして、そのためにはきちんとした計画を作り、すぐには建設できなくても、市の中で手だけは挙げておきたい、という気持ちがあったのだろう。まずは計画を作り、市在住の作家や文芸批評家、さらに広い範囲の文化人や一般の市民の中の文学ファンの間で理解と共感を得て、文学館建設の機運を盛り上げることが先決だ、という考えだったと思う。

 

その意味では、間近なゴールに向けて急かされがちな計画づくりとは違って、時間的にもあせることなく、色々な関係者の意見を聞きながら、じっくりと調査を進め、この構想について市民に広く知ってもらうためのシンポジウムなどを毎年開催して徐々に機運を盛り上げていく、というゆとりのある事業で、構想内容についても自由に絵の描ける、初期段階の楽しい作業だった。

 

河内さんを中心に構想案を練った、この大阪文学館は、狭い意味の「文芸」だけではなく、大衆文学や、漫才・落語などの話芸、新聞や広告のキャッチコピーなども含む、「言葉による表現」を広く対象として扱おうと考えていた。

首都圏で文学館を構想するなら、こういう発想にはならなかったかもしれないが、かつては近松の浄瑠璃の言葉が標準的な日本語であったと言われるように、大阪から日本の言語文化を考える限り、現在の日本語のありようを根底的に相対化して考え、とりわけ「関西弁」や「大阪弁」として語られる言葉を徹底的に相対化して大阪の文学の根としての「大阪の言葉」を掴みなおす必要がある、というのが私たちの考え方だった。

 

そのような意味ではまた、大阪文学館は首都圏以外の地方で作られるローカルな郷土の文芸を顕彰し、郷土の人々に広く伝承するための文学館のような意味合いでのローカリティを軸にしたものではありえず、普遍性を目指すことが自明の前提だと考えられた。当然、従来の文学史、とりわけ東京中心の近代日本文学史は根本的に書き換えられなくてはならなかった。

 

この基本的な考え方を軸に、具体的な文学館の運営のためには、プロデューサー的な人材を確保して魅力的な事業を展開すること、とりわけ新たにこの施設で文学雑誌を発行し、生きた活動を生み出していく文学館とすることなどを構想の柱としていた。

 

しかし、文学館よりは市長自身が乗り気で、優先順位も高かった舞台芸術総合センターも、バブル崩壊であっけなく頓挫し、それ以降ハコモノ事業はご法度の雰囲気が市全体を覆って、この文学館構想もあえなく構想倒れに終わってしまった。

 

少し先走ってしまったけれど、私が最も密接に河内さんと接触していたのは、この文学館構想を進めている間のことだった。消えた文学館構想を紹介する場ではないので、これ以上その内容には触れないが、河内さんにこの計画の事実上の推進役が委ねられたのは、彼が当時の大阪市のリストアップできる文化関連の有識者の中で、他に思い当たる人がいないほど最適な人材だったからに違いない。

 

文学の専門家というのは、関西の各大学の文学部で教鞭をとっているような人たちの中にも大勢いるし、著名な現役作家も批評家も大阪市内に住み、或いは大阪を拠点に活動している。しかし、その道の専門家が必ずしもこの種の現実的な事業を統括していくのにふさわしい能力を持っているとは限らない。いや、むしろ専門家、学者の殆どがその点では失格と言っていい。

21世紀の大阪文学館となれば、単に文学研究者や文芸オタクが喜ぶだけの施設では困る。大阪という都市の中で、その都市文化再興の一翼を担う大きな責務を担うものであろうし、それを言葉という根源的な視角から構想できるような人材でなければこれを担うことはできないだろう。

 

文学全般、日本文学、ことに関西、大阪の古今の文学に造詣が深く、経験豊かな作家ともわたりあえる文学的センスに加え、都市全体をその視野におさめ、日本語の将来を見据える透徹した洞察力、まったく新たな発想を展開できる創造力・企画力、人格的な魅力と専門的な見識による強い求心力、組織を統率していくリーダーシップ、市民や行政を動かすことのできる優れた対話力、他者に限りなく開かれた姿勢と柔軟性、それらによって培ってきたネットワーク、そして何よりもそれら諸力を使い、最大限に発揮して、最後までやり遂げることのできる若さ。

こうした条件に当てはまる人と言えば、私が知る限り河内厚郎さん以外に当時思いつく人がいなかった。もちろんこの時の人選は市教委がやったことで、わたしたち作業の受託企業の方で推薦したのではなかったと思うが、その点も含めて記憶の彼方になってしまった。

 

当時河内さんは30代の終わりころだったと思う。私よりも7つ若くて、ちょうど私が大学卒業のころに面倒を見ていた塾の生徒でのちのち40年ばかり親しい友人として付き合ってきた2人の元塾生と同じ年齢だった。うち一人は一橋大学へいったのも、後で考えると河内さんと同じで、奇妙な偶然だ。

西宮生まれの河内さんは、一橋大学で学び、卒業後は短期間企業勤めをしたり、シャンソン歌手を目指したりして東京にいたようだが、30歳で西宮に帰って来たそうだ。この時は、関西の文化を再興するために力を尽くす、という相当な覚悟を決めて帰って来た、というふうなことを一度直接に彼の口から聞いた覚えがある。私が河内さんに出会ったのは、彼がそんな想いを胸に秘めて関西へ戻ってから数年後のことだったわけだ。私の記憶では、私が彼に出会ったころ彼は全国に知られた関西の文芸同人誌『関西文学』の編集長をしていたのはないかと思う。

 

わたしは同人誌に参加したことはないが、文芸には学生時代から関心があって、創作のまねごとをしていたこともあったので、同人誌「関西文学」は学生の頃から時々買って読んでもいたし、同人誌の老舗として知っていたが、河内さんがいつから編集長をしていたのかは知らない。

 

私が一対一で直接彼に会うときは、たいてい先に電話をして、彼の事務所を訪ねるのが普通だったから、最初に会ったのも彼の事務所だったかもしれない。そのころはまだサントリー・アネックスのビルの新しい事務所ではなくて、その前に彼が借りていたマンションの一室を事務所とした部屋だったような、おぼろげな記憶がある。

 

最初の頃の彼の印象は、容姿端麗な好青年。スリムで、イケメンで、知的でシャープなところを持ちながら、あたりがソフトで品の良さを感じさせた。

それまで付き合ってきた大阪の有識者がざっくばらんであけっぴろげな印象だったのとは異なり、関西人というより、東京の人のようなだな、と思った。カジュアルな雰囲気でこちらのふところに直接飛び込んでくるような、人懐こい庶民的なところのある大阪人とは対照的な、パリッとした高級スーツが似合う、ソフトではあるが、ちょっとこちらも背伸びして上品な人間のふりして向き合いたくなるような紳士の雰囲気があった。

 

しかしそういう関西人、東京人という比較はいささかありきたりな固定観念によるものであって、関西というとどうしても大阪を中心に考えてしまうからそうなりがちだが、阪神地域だ、西宮だ、芦屋だということになるとまた全然違ってくるし、河内さんはまさにその西宮の出身なのだった。

後に私も河内さんから色々教えられて、何も西宮や芦屋だけではなく、そもそも大阪も今の兵庫・大阪にまたがる摂津の国という単位でみれば、文化圏としてはむしろ一体で、非常に豊かな文化的土壌と伝統を持つ地域なのだ、ということを学んだのだが、河内さんはまさにそういう地域に生い立った若き文化人としての色なり匂いなりを身にまとった人だった。

 

その点は同じ西宮、および芦屋で生まれ育った3つ上の作家村上春樹と共通するところがあるかもしれない。彼の小説は愛読しているけれど、エッセイに見る村上春樹は少々偏屈・頑固で人を寄せ付けないところがありそうだから、生身の彼がそばにいても近寄りたいとは思わないが(笑)、河内さんにはそういう人を拒んで自分の世界にこもる頑なさのような印象は無かったので、私はあまり過剰な気遣いをせずに仕事を口実によく彼の事務所を訪ねた。

 

彼はいつも快く迎えてくれて、本やプリントアウトされた紙が周囲に山をなす中で、椅子に座り、コーヒーなど戴きながら、よくお喋りさせてもらった。

 

河内さんの話は多岐にわたり、しかも彼独特の脚色の手が入っている(たぶん・・笑)ので、とても面白かった。もともと独創的なアイディアがどんどん出てくる人なので、こちらがとうに知っていることや、どこかで聞いたような陳腐な話で退屈させるようなことがない。「これ知ってますか?」と行くたびに何か新しいネタが出てくる。私がたいていは知らないので、知りません、というと、すごく嬉しそうに話してくれる。それは文芸や歌舞伎・文楽の伝統芸能、文化一般の高尚な話から、身近な有名人のゴシップまで(笑)、それはもう古今東西、上から下まで、本当に飽きさせない話題の豊富さだった。

 

彼は行政向けなどに「文化プロデューサー」と称していたと思うが、まさにそういう役割に適任だったのは、彼にはほかの有識者などにはない、それだけの強みがあったからだ。卓抜な発想力があり、組織力があり、ネットワークをもち、口が達者(笑)という人はほかにもあるけれども、ベースになる専門的な知識、経験で彼の場合は、文芸全般についての深い知識と、自らプロフェッショナルな文章が書ける、という強み、さらに文芸だけではなく、西洋のオペラ、シャンソンをはじめ東西の現代演劇や音楽から歌舞伎・文楽にいたる古典芸能にも強い、というところが、まだ30代の若い文化人としては出色だった。

 

私が印象に残っているのは高級文化の話ではなくて(笑)、ふつうこの種の文化人から聴くことが稀な話題だ。その典型が血液型による性格判断の話(笑)。彼はその後、病膏肓に入るがごとく『血液型恋愛術』という本まで書いている。私に話してくれたのはそのエッセンスだったのだと思う。あるとき彼を訪ねたのは何の相談だったか忘れてしまったが、その時間1時間だったか2時間だったか、まるごと血液型による性格判断の話に終始したことだけは覚えている。

 

私は血液型による性格判断といったものは、まったく信じていない。

幼いころはまだトランジスタが出始めたばかりの時代にラジオを作ったり壊したり、アマチュア無線の資格をとったりもし、大学では理学部の生物系学科の末席に籍を置いて学んだ「ら・ら・ら・科学の子」だ。非科学的な言説は誰が言おうと信じない。

ある時学生時代の同じ学科を出た(はずの)友人が、才あって文化人の仲間入りをし、或る心理学か何かの研究者と対談したおり、植物にも意識があって、枝を剪定鋏でちょん切ると、拒絶反応を起こし、その人が近寄ると嫌がってなにやら目に見えない化学物質を分泌しているんだ、というような話をして意気投合しているのを読んだ時には、アホかと思い、あいつもアブナイところに来たな、と思った。彼はその後、そんな神がかりの状態からは覚めてこちら側へ戻って来たが(笑)。

 

だから河内さんの血液型性格判断みたいな話をきいたときは、ムキになって反論はしないで、笑いながらお相手させてもらったものの、まるで信じてはいなかった。そして、無知な人でもなく、なにか得体のしれない信仰にこりかたまった人でもない彼のような知的な人が、こういうことを話題にするというのは、どういうことなのだろう?と不思議な思いで聞いていた。

 

ただ、河内さんの話し方には、ひたすら大真面目に主張するというふうでもなく、こんなバカなことを言ってるやつがいるんだけどね、と信じていない人の話しぶりでもなく、その判断がつきかねるような、ちょっと微妙なところがあった。

とても本気で信じているなんて思えなかったのだが、それでもまるで本気で信じているように熱心に語る。けれども、その目は笑っている(笑)。半分冗談で話しているのだとは思うが、あまりにも熱意を込めて語るので、こちらは困惑する。

私も多くの人たちが日常的に血液型で、あの人はA型だから、とか、B型だからこうなんだ、と決めつけるのを何度も経験し、知っている。それは必ずしも科学的にそれを信じているわけではないけれども、半ば本気、半ば冗談みたいな曖昧な形で流通させている便宜的な人間類型の判別法なのだろう。

 

そういう現象を面白いと思って、人びとがなぜそんな非科学的なことを信じるのか、あるいは少なくとも信じているかの如く語るのか、社会学的にか集団心理学的にかそれを解明しよう、というのならわかる。そうならば私も関心がなくはない。

しかしどうやら河内さんのはそういう社会学的、集団心理学的な客観的な研究対象として見ているわけでもなさそうだった。

 

帰りがけに玄関まで送ってくれた河内さんは、「こういう話は全然信じていないんでしょう?」と訊く。「ええ、この手の話は苦手ですね。」わたしは正直に応じた。すると河内さんはすかさず言った。「でも、当たるでしょう?」

これには私も苦笑しながら退出するしかなかった。このひと、どこまで本気なんだろう?と煙に巻かれたままだった。

 

後日『血液型恋愛術』が出版されたとき、訪れた私に彼はそれをプレゼントしてくれた。それを読んで思ったのは、私のような幼いころから戦後の科学信仰が蔓延する中で育った科学に関する<原理主義者>とは違って、彼は科学に対してとても自由なんだな、ということだ。

科学もまた人間の多種多様な認識の仕方のひとつにすぎず、特別扱いしなければならないものでも何でもない。実証だとか他者による再現だとか、そんな堅苦しい壁など軽々と超えて、科学者を自称する人たちが顰め面をする擬似科学だろうが何だろうが、それを仮に信じてみたら、こんなに面白いことが言えそうじゃないか、と言わんばかりの軽やかなフットワーク、自在にとり得る仮設的な立ち位置、そこから想像の翼を思いきり広げて愉快な世界を垣間見せてくれる。

真か偽かを問わず、それを世界の唯一の価値ある判断規準だなんて考えない、より豊かな人間の創造的な認識の世界へのいざない…そんな趣きなのだ。

 

私のようなコチコチ頭の<原理主義者>には、そう軽々と舞い楽しむことのできる世界ではないけれど、きっと若い世代の頭の柔らかい人たち、後に私が接してきたような女子大の素敵な学生さんたちなら、きっとその世界に遊び、心から楽しむことができただろう。

 

私がたった一度、河内さんにひどく叱られたことがある。ある日彼から電話がかかってきた。河内です、と名乗られたあと、いきなり「〇〇さんはどういう人なんですか?」と詰問調の鋭い問いかけで始まった。何のことか分からずに戸惑っていると、どうやら私が各種のプロジェクトで右腕として協力してもらっていた研究員の女性のことらしい。それなら彼ももうよく知っているはずだし、彼女の高い能力は彼も評価してくれていたはずだ。

話を聞くうちに事情が分かってきた。ちょうどそのとき、彼女は私の指示で東京在住の或る人にヒアリングするために出張してもらっていた。その相手というのは、舞台芸術関係の勉強をしている人で、東京で現場とも関わりをもっていたのだったか、向こうの劇場や舞台関係者の状況を訊きたいなら彼に訊くといいよ、というふうなことで、河内さんが紹介してくれた人だった。

 

 記憶に曖昧なところがあるが、それはたぶん文学館関係ではなくて、同じ大阪市の舞台芸術総合センター計画に関する調査の一環でそんなことをしている中で、色々な舞台芸術関係者にヒアリングしている基礎調査の一環として行ったものだったと思う。

調査に派遣した研究員は長期のアルバイトとして私のもとで仕事をしてくれていたのだが、彼女自身が舞台芸術に詳しく、とくにダンスのプロデュースなどを実際のプロの舞台で行うような経験も持っている人だったし、英語は通訳ができるほど堪能だったから、その関連の調査にはうってつけの人材だった。それで東京でのヒアリングにも行ってもらったのだけれど、河内さんの言うには、彼女は相手にヒアリングするというより、相手の話す機会を奪うほど一方的に自分の意見をしゃべりまくっていたらしい、と。

 

 私の研究員は多少勝気なところはあるが、礼儀を知らない人ではない。時々社会性のない研究員が入ってくることもあるが、彼女は社会性も十分に備えたまっとうで有能な研究員だったので、これはインタビューの相手が相当デフォルメして河内さんに伝えたな、とすぐに察しがついた。

ただ、思い当たるところがないかと言えば、実はなくはなかった。彼女は実力相応に自信がある。とりわけ舞台芸術に関しては知識も経験も、そこらの駆け出しとは違う、という自負もあるだろう。そして、彼女は多少そういう自信のある領域に関しては自分を強く前へ押し出し、雄弁になり、その言い方がひどく決めつけたような言い方になるような傾向がなくはない。頭の回転の速い人だから、論理的な議論をして、相手が間違っていると思えば、幾分相手を論理でねじ伏せてギュウと言わせるところまで追いつめかねないところがなきにしもあらず。

 

 というのも、それまでの経験で、舞台芸術総合センターのプロジェクトでは、わが社の内部で私の下に4,5人のチームを組んで仕事をしていたのだが、いつも議論になるといま一人の柱になっていた人物を彼女が下手をするとコテンパに叩いてしまう。相手にも至らないところや欠点が山ほどあるけれども、彼女の舌鋒が鋭すぎて、相手のプライドを傷つけてしまう。もちろん彼女の意見が常に正しいわけではなく、どちらかと言えば独断的で、バランスを欠くことも多く、相手の意見にも耳を傾けたほうがよいケースでもそれを感情的に潰してしまうようなところがあった。

 

 彼女自身がそういう自分の欠点については自覚している節もあって、以前に勤めていたところをやめたのも人間関係で、私がこういう性格だから・・・と親しい人に語っていたというのも耳にしたことがあった。

 

 だから、河内さんの言葉を聴いたときに、あ、やっちゃったな、と思わなくはなかった。おそらく彼女としては普通にヒアリングしてきたつもりだったと思うけれど、相手はどこかで彼女の言葉か態度かで自身のプライドを傷つけられたのだろう。

 

 まだそのとき彼女は東京から戻っていなかったか、出社しておらず、私は報告を受けていなかったが、いずれにせよ河内さんに紹介してもらった相手にヒアリングをしに行って、相手を怒らせてしまったとすれば、こちらに多かれ少なかれ非があったと考えるほかはないし、上司としての監督責任は私にあるので、河内さんには、彼女から事情を聴いたうえでよく言い聞かせておきます、というようなことを言って勘弁してもらった。

 

 しかし、私は彼女からヒアリングの報告は受けたが、河内さんの結構激烈だった言葉をそのまま伝えはしなかった。ひとつには彼女がどうこうという以前に、私は率直に言って、ヒアリングの相手の男を、本当にくだらない、情けないやつだと思ったからだ。私の女性研究員に何を言われたか知らないけれども、それでプライドを傷つけられて(おそらく)、紹介者である河内さんのところへ泣きついていくなんて、なんと情けない男だろう!と。

 

 相手の態度がでかいとか、失礼があったというなら、その場でどやしつければよろしい。その場で叱責するなり、堂々と議論するなり、それがいやならヒアリングを受けることを中断して拒否すればよろしい。(その代わり謝金は払わないが!・・・笑)

 

そう思っていたから、河内さんの電話を受けても、はなから彼女を叱責する気はなかった。

 

 しかしいちおう事情は聴かなくてはならないので、彼女の報告を受けた。彼女は全然相手がどう感じていたか、なんてことには気づいていないようで、淡々とこういうことをおっしゃっていました、と報告し、その男が作った資料のコピーだと言って、手書きの舞台芸術に関する出来事を時間を追ってまとめたような、学生のお勉強ノートみたいなものを見せた。彼女の報告を聞いても、その資料を見ても、どこにも私たちの仕事の参考になったり、刺激を受けたりするような要素は全くなかった。

 

 彼女は相手の言動にもとくに変わったところがあったとは認識していないようだったが、おそらく内心ではこの出張は無駄足だった、という気持ちを隠せなかったのかもしれない。どこか虚しげな疲れた表情を見せていた。しかし、相手の悪口などまったく彼女の口からは出なかった。男らしい、とは河内さんに泣きついた相手の男にではなく、こちらの研究員に言ってやりたい言葉だと思った。

 

私はこんな風に文学館のプロジェクトや舞台芸術総合センターのプロジェクトが続いている間は、間歇的に河内さんに会い、彼がサントリーのアネックスに事務所を移転してからも、よく訪ねてお喋りさせてもらい、そのたびに新著をいただいて帰ったりした。河内さんの書いたものはどれも面白く、とくに阪神文化に関しては啓発されるところが多かった。どの文章も、借り物のアイディアやすでに誰だって知ってるじゃないというような月並みなアイディアに終始することがなく、つねにどこかに彼の独創的なアイディアが書かれていて、なるほどなぁ、と感心させられることが多かった。

 

あるときたまたま新聞をみていたら、河内さんが西宮周辺の地理と村上春樹の仕事とを結びつけて分析し、なにやらコンパスで円を描くようなことをして、土地の風土と作家の作品の特質とを結びつけ、作家の秘密の一端を解き明かす新鮮な視点を発見したような記事が出ていたことがあった。もう内容を忘れてしまったから、不正確だけれども、その発想の卓抜さに感心し、面白いアイディアだなと思ったことがある。何を読んでも彼の文章にはそういう独創的で鮮新な発想がこちらを刺激してくれるところがあった。

 

現実のプロジェクトを進めるうえで必要な方向付けをし、人をまとめ、抜群の調整能力で事業を推進していくような才能を持った人というのは私の周囲にも何人か居る。

あるいは人を動かし、物事を前に勧めていく上で不可欠な「言葉」(キャッチコピー)を生み出す天才で、ブレスト会議などでは「下手な鉄砲も百撃ちゃ当たる」の諺通り、どんどんアイディアを出せる循環性気質と私が呼んでいるような人もある。

「下手な鉄砲も百撃ちゃ当たる」とはいえ、実際のブレストで百発打てるような人は有識者の中でも稀有な存在なのだが、そういうことのできる人物もまた、私の身近にいる。

しかし、河内さんのように、そうしたこともできるけれど、同時にそれ以上に知的で独創的なアイディアをを生み出せる人、そしてそれを読みやすく説得力のある、感覚的にまことに魅力的な文章で書ける若手有識者と言えばまず河内さんに指を屈する。

私自身がこの歳でまだ雑文を書いているように、書くことが好きで、とくに小説は読むのも人並み以上には読んできたので、おのずから河内さんのそちらの方の才能はすぐに分かった。若手有識者の中でも比較的彼につよい好感を持ち、忙しい彼のところへ何かと口実を設けては訪れたのも、彼のそうした才能に惹かれるところが大きかったのだろうと思う。

 

いまネットで河内厚郎の名で検索してみると、彼のプロフィールというのがあって、そこにはものすごい数の肩書が記されている。それこそ関西、とりわけ阪神地域の文化に関する各自治体などのプロジェクトを一手に引き受け、関連諸団体の代表やら世話役やらをこれでもか、というくらい押し付けられている(笑)。いや、それだけの幅広い文化全般についての見識をもち、何についても独創的なアイディアを発想できる素晴らしい才能の持ち主であるうえ、長年の経験を積んで益々その能力に磨きがかかっているに違いない。

 

しかし、考えてみれば、もともと彼が掲げていた「文化プロデューサー」という名称で生きることの難しさを、いま功成り名遂げて彼に冠せられる無数の肩書を眺めながら思い知らされるような気がしている。

河内さんよりは年長の有識者でもある私の長年の友人が、河内さんの能力の高さを認めた上で、「そやけど、ああやって個人事務所を構えて独立してやっていくのはぜったい大変なんや。キリキリ舞いすることになるやろ」としみじみ言っていたことがある。

 

事務所の家賃だけでも月々大きな金額が確実に消えていくだろう。雑務を片付けるのに秘書なり助手なりを一人でも雇えばその人件費が確実に出ていく。それでいて文化事業のプロデュースだのディレクションだの、委員会の委員だのといった仕事は常時確定的にはいってくるものではないし、行政のそうした仕事などというのは、本当に学生の小遣い程度の謝金しか出ないことが多い。どんなに数多くそういう仕事を抱えても、事務所を長期的に維持していくことはおそろしく大変なことだろう。

 

私のいたような企業であっても、文化事業で食べていくのは、ほとんど霞を食って生きるようなものだ。それでも実績のある企業で、経営が安定しているとみなされるなら、努力とコネと運で受注も期待できよう。しかし個人事務所となると、経営基盤がぜい弱とみなされることもあるし、個人企業に税金を投入することは行政としては基本的にできないだろうから、私が彼と関わっていたときのように、まずうちの組織が元受けになって、さまざまな有識者の協力を得るために謝金を払う、そういう間接的なやり方で、わずかな個人ベースの謝金が支払われるだけであって、事務所単位で受けるような委託費ではない。

よほど大きな企業のトップなどと強いコネクションを持つなり、本人がもともと非常に一般に良く知られて個人ブランドで食っていけるほどの有名人であれば別だが、まだ30代、40代の有識者がいかに才能豊かで、新聞・雑誌などに数多くの記事を書き、一般向け著書を数多く出し、いくつもの自治体から各種委員会にひっぱりだされていても、それだけでは食っていけないだろう。

そもそも日本では情報、とりわけ文化関連の独創的なアイディアといったものに対する対価を払う習慣も乏しく、その経済的評価も低い。従ってまた、そうした情報を駆使して人を動かし、事業を進めていくディレクターとかプロデューサーというものの役割についての理解もされず、そうした仕事に対する評価も低いので、当然経済的な対価も極めて低い水準にとどまる。

 

私の友人は「そやから、わしみたいに大学に籍を置いたら楽やで」と冗談っぽく笑って言ったものだが、たしかに日本では論文を幾つか書いて専門家と称して大学に籍を置いてしまえば生活を安定させることができる。

そのために文化の領域では、たとえばクラシック音楽や現代演劇のように愛好家人口が少ない分野では、大学に籍を置くなり個人レッスンをするなり、教育に力を割くことで何とか生活を安定させて本来のアーチストとしての生活を成り立たせている、という人たちが圧倒的に多いはずだ。現代演劇で、それだけをやって食えているのは蜷川幸雄だけだろう、と聴いた覚えがある。

文芸にしても、いわゆる純文学の作家で小説を書くだけで食えているのは村上春樹だけではないか、と誰か冗談のように言っていたけれど、さもありなん。文化の現状というのは、それくらいお寒い状況であることは間違いない。従って、「文化プロデューサー」という肩書だけで文字通りその仕事で食っていくこと,事務所を構えて維持していくことは、おそらくできなかっただろう。

 

彼のかけがえのない才能に目をつけたサントリーが彼の事務所をアネックスに移転して維持することを支援してくれることになった、というのは河内さんから直接聞き、本当に良かったな、と思ったけれども、それは問題の一部が少し緩和されただけのことで、本質的にこうした才能が安定的に活動していける環境は、当時も今もこの日本にはないと考えた方が現実に近いだろう。あれだけの才能が本当に大きく自由に飛翔できるような環境が与えられていれば・・・と当時も今もそんな思いが脳裏をかすめる。

 

そんな河内さんには、ちょっと人を驚かすような特技(笑)があって、二、三度ひどく驚かされたことがある。かなり長い間、親しく付き合わせてもらううちに、彼も私に気を許してくれたせいか、あるとき雑談していて、突然彼は、私でもその名を知っているような結構一般によく知られた人物について、辛辣な評価を口にした。もう少し正確に言えば、それは「評価」の域をはるかに逸脱して、ちょっと「文春砲」的な(笑)ゴシップネタまで突っ走っていくような、一方的な「口撃」だった。

 

私は冒頭に書いたように、河内さんはたしかに鋭利な一面をもっていたが、それは文芸誌を編集し、文芸批評も書く人には不可欠な批評家的資質の一面だと理解していたので、トータルな印象としては、社交性に富んだ洒脱で都会的なスマートさ、柔軟さ、軽みを備えたシティ・ボーイあるいはきちんとしたスーツの良く似合うオシャレな紳士といったイメージしか持っていなかったので、彼が特定の人物を口を極めて激しく「口撃」するのはそのイメージに合わず、最初はどう受け止めてよいのか分からずに戸惑った。

 

もとより彼の言うことの真偽など私にわかるはずもないし、たとえ知り得たとしても私は自分に関係のないそういった著名人のプライバシーなど知りたいとも思わなかった。おそらく本人の耳に入れば世界が凍り付くだろう、どこか箍が外れたかに見える「口撃」だったけれど、基本的に私には関わりのない事だし、もっと奇妙なことには、河内さんにとってもそんなことは何の関わりもないのではないか、と私には思えた。

 

だから、聞きながら私の胸に沸き起こってきたのは、もっぱら、なぜ彼はこんなことを大真面目に熱をこめて私に語っているのだろう?という奇妙な疑問だった。

私などは別に彼が語る相手について良く知りもしないし、何の感情もないのだけれど、そこまで踏み込んで特定の人物が「口撃」されるのを聴いていると、居心地が悪くなってくる。

 

多少とも彼の利害に関わるような関係性を持つ人物のことであれば、私の彼に対する印象は一変しただろうけれども、それはそれで「口撃」の理由は理解できるに違いない。「口撃」の対象は一般に良く知られた文化人のような人だから、それは一般に権威とされるものを引きずり下ろしたい、という衝動によるものかと思ったこともある。これから売り出そうという文化人なら一回りか二回りか上の権威となりおおせた先行世代をひきずりおろしたいという衝動をもつかもしれないし、まだ正面切って抗う時機が来なければ、気心の知れた同世代と飲む酒の肴にそうした人物をボロクソにこきおろす、ということはよくあることだ。
 しかし、その種の憶測はどうみても河内さんには相応しくなかった。こちらの俗っぽさの度合いに応じてその種の憶測が出てくるだけで、「口撃」の相手をみてもとうていあてはまりそうになかった。

そもそも私などにそんなことを言っても、彼にとって何の益もないので、功利的な意図などというのは全く考えられない。私は名前だけは知っていてもそれ以外にはほとんど何も知らない人物のことなど、何を言われてもこちらの感情は動くことがない。現実的な行為としては、まったく無効な、それゆえある種の風変わりなゲームとしてしか意味を持たない言動なのだ。

そう考えると、これは彼の「血液型性格判定」や「血液型恋愛術」と同種の、擬似的世界を創出してそれを楽しむ類の、彼一流のゲームであり、対他的なサービスなのかもしれないとも考えられた。

 

二度、三度とこういう目に遭うと、これは河内さん独特のゲームであり、気晴らしであり、同時に気を許した相手に対するサービスでもあるのだろう、と思って慣れてしまった。そうめったにあることではないので、そういう話がはじまると、あ、きたきた、と思って、適当に拝聴するだけで、とくに心乱されることもなかった。まぁ一風変わった「癖」のようなものだ、と思うことにしたのだ。

 

こういう経験をして一度激烈な他者への「口撃」に触れると、それが自分への「口撃」でなくても、ひょっとしたら自分のいないところでは、自分もまたこの種の彼の「口撃」にさらされているのではないか、と疑心暗鬼にとらわれ、怖くなる、というのが普通で、私がそう思わなかったのは、お人よしで鈍感だったからだ、と或いは読者の中には考える人があるかもしれない。

しかし、私もそういう俗っぽいことはひとわたり考えてみる俗人なので、そうお人よしなわけではない。ただ、その種のありきたりの人間的な裏表という風な理解は、彼と付き合ってきた範囲で言えば全然問題にならなかった。そもそも私は彼のそんなゲームの素材になるような大物ではなかったし(笑)、どこでどう言われようと気にもならなかっただろう。
 海千山千の多数の有識者と付き合っていれば、その世話をしている人間のことを腹の中でどう思っているかなどは大抵わかってしまう。ただ、彼らは特有の自尊心の為に、こちらがそれ以上に辛辣な目で彼らを見ていることを知らないだけだ。

 

河内さんはそういう意味では人間的に信頼のできる、率直な人柄だった。当時も今も私の彼に対する好感度は全然揺るがない。彼の風変わりな「癖」にもかかわらず、だ(笑)。

 

ただ、たった一度だけ、ゲームが下手をすると逆に現実の中で意味を持ってしまいかねないコンテクストに逸脱しかかったことがあった。それは前日、酒を酌み交わして二人だけでお喋りしたときだったかと思うけれど、そのとき彼が肴にしたのが、私にとっては彼よりは少し親しい間柄の人物であったからだ。

河内さんの人物評は辛辣でも、これを批判とみればまんざら当たっていなくもない、と思っていたので、私は河内さんなかなかよく見ているな、と内心で思いながら、賛意を表することもしないが、否定もせずに笑って聞き流した。

私の方はそれきり忘れていたが、翌日になって河内さんから電話がかかり、昨日の自分の言葉を取り消します、と言う。そんなことはもちろん初めてだったが、例のようにかなり激しい言葉で評したあとで、当の人物と私の関係に思い至って、これはもし私から本人に伝えられれば、自分としては本意ではないのに、現実的にひどく相手の心証を損ねかねない、と考えて、取り消しの電話をされたのだろう。

私の方は本当に何とも思っていなかったし、もちろん当人に告げ口するなど思いもよらないことだったので、笑いながら、「いや昔から彼にはそういうところがあるし、結構当たっていますよ、いつも私だって直接彼に言っていることだから気にしないで」と応じたけれども、彼は自分の過ちとして誠実に取り消そうとして声の調子がいつものソフトな彼に戻らず、「いや取り消します」と繰り返した。それでその場はわかりました、と電話を切ったが、もちろんそれきり、そんなことは忘れてしまった。

 

私は当時の職業柄、彼と同年代、或いは少し上の私とほぼ同世代の有識者とも幅広くつきあっていて、その中には河内さんが活躍する文化事業や都市の文化開発といった領域で、彼と同じようにプロデューサー的な、あるいはディレクター的な役割を充分に果たすことができる優れた才能が、多くはないけれど2,3人はいた。それぞれに個性、資質、得意な領分などに違いはあるけれども、いずれもそうした仕事に適性をもち、関西一円の行政から何かお知恵拝借とか、文化関連の事業を展開する上ではリーダー的な役割を果たしてもらおうとして引っ張りだこだった。自然、私が勤めていた、関西に拠点を置く文化専門のシンクタンクとしては、彼らと関わりながらの仕事が多くなる。

 

彼らどうしも同じプロジェクトで時に一委員として、ときに作業チームのメンバーとして、ときにパネルディスカッションのパネリストとして等々、同席する機会が多くなる。いずれも狭義の専門家ではなく、豊富なにネットワークを持つ社交性に富んだ組織力もリーダーシップも兼ね備えた人たちなので、そうやって同席して意見を交わすのに何の支障もない。

しかし、両雄並び立たずの譬えがあるけれども、そうした人たちどうしの関係には、なかなか傍から窺うことが難しい微妙なところがなくもない。これは一回り上の、私たちが「先生」と呼んでお知恵を拝借してきた梅棹忠夫、小松左京、山崎正和、川添登等々の世代でも同じことで、わたしたち事務局の手伝いをする者が気を遣うことの1つは、これら有識者年の個人的な「相性」のようなものだ。

検討すべき課題に対する考え方の違い、と言うこともあるけれども、それ以上にその考え方の違いにどこまで互いに歩み寄り、妥協すべきところは妥協し、共通の解決法を見出していけるかというところで、それぞれの気質だの相性だのと言った、人間的な要素が案外重要になってくる。

 

梅棹さんが座長をするなら、小松さんや川添さん、あるいは米山俊直、加藤秀俊、木村重信といったメンバーなら、おそらく問題なくまとまっていくだろう。このスナップショットの梅原猛さん、山崎正和さんの回で触れたように、この二人だと事情は違ってくる。それぞれ恐らく文化に対する考え方も、都市開発などに対する関わり方についても、梅棹さんとの間にかなり隔たりがあるだろうし、梅棹さんの行政とのかかわり方についても、この二人はたぶん同じではないだろう。そして、一つの課題をめぐっても、それぞれ一家言を持ち、課題次第ではあるけれど、梅棹さんが持って行こうとする方向に、この二人は必ずしも同調はしないだろう。

 

こうした微妙な関係に加えて、多少世代の違いがあって、年長組と年少組のクラスターがあると、両者の間の関係もまた少々微妙になる。年長組にとっては自分たちが差配して、年少組を手足のごとく使いたいかもしれないが、逆に年少組にとって、とりわけ年長組に勝ることはあっても劣ることのない才能をもった年少組の英才にとって、年長組は、露骨な言い方をするなら、さっさと消えてほしい目の上のたんこぶみたいなものかもしれない、といった穿ったものの見方もできなくはないだろう。

 

どこの世界にも表にはあからさまに出てこないし、誰も口にはしないけれど、そんな微妙な親和性と反発しあう磁石同士の関係みたいなものがあるものだ、と。

 

そういう面からみれば、河内さんは当時まだ30代で、年長組は40代だったと思うが、年長組はそれぞれに比較的確固としてネットワークを持ち、一定の親和性によるコネクションを関西で築き上げて安定感があった。

河内さんは東京から関西に帰還してさほど歳月を経ておらず、阪神間を中心にその土地の文化的伝統と特質を梃子に都市文化の再生を図ろうと努力し、若い人たちを組織しようともしていたけれど、まだその試みは始まって間がなかった。

組織力と書いたけれど、本来の彼個人の資質は自立的な知識人、物書きとしてやっていける個人主義的な気質がベースになっているのではないか、と思えるところもある。別段彼の社交性が無理をしているというつもりはないけれども、いきなり他者に出会いに行くタイプの資質ではなく、まず自分という他者と対話し、自立する批評性としての彼があるという気がする。それが彼を文学に引き寄せる一面なのではないか。そして、彼の魅力の核にはそういう柔らかな感性を持った文学青年が潜んでいるような気がすることがある。

 

「文化プロデューサー」の肩書通りに、個人事務所を構え、それで食っていこうとすれば、関西といっても、どうしても最大の市場は大阪になる。だからこそ私も大阪の仕事で彼と知り合ったわけだが、河内さんにとってはそこもなかなか大変だったのではないかと思う。

私も阪神間に立地する大学に勤務して、ちょうど神戸と大阪から半々のゼミ生が集まるような経験を長年してきたので、両者の気質、文化がいかに隔たった異質なものであるかを痛感してきた。阪神間といいつつ、河内さんの本来の立脚点はどちらかといえば、いまの大阪ではなく、神戸に近い「阪神間」のような気がする。本当は「摂津」だと言いたいかもしれないが。

そうすると、より西の気質を引っ提げて大阪を主戦場としなければならない。しかもそこにはほかの結構名だたる武将がすでに君臨していたりする(笑)・・・

 

何十年も前のことだが、大阪市に威勢のいい女性職員がいて、とても有能な人だったが、気取らないあけっぴろげな性格で、人としては気持ちよく付き合える人なのだが、仕事に関しては本人が猛烈職員で率先してどんどんやっていくから、彼女をクライアントとするグウタラの私などタジタジだった。

 

私の当時の上司は下ネタのようなことからは最も縁遠い、そういう領域では石部金吉のようなまじめな人だったが、或る時電車の中で大阪と京都のお役人の気質を比較してお喋りしているとき、京都は気取っていて、表面何も言わないけれども、腹の中で何を考えているか分からないところがある、というようなことだったかと思うけれども、他方大阪はどうかと言えば、実にあけっぴろげで、彼の言葉によれば「パンツまで見せたかてかまへんよ!やからなぁ」(笑)・・・悪いけれど、私はそのときお付き合いさせてもらって、大いに悩まされていた単刀直入居士の職員さんのことをすぐに連想してしまった。

 

こういうざっくばらん、あっけらかんとした開放的性格はいまの大阪人の気質的特徴の最たるものに思えて、河内さんのような紳士が食い込んでいくのはなかなか大変だろうな、と思ったのだ。

けれども、彼は大阪、兵庫を問わず文化的な様々なプロジェクトに関わり、着実に実績を積み重ねて来たようだ。

長い間ご無沙汰して久しぶりにこの雑文を書くためにネットで彼のプロフィールなどが出ているのを見、その八面六臂の超人的な活躍ぶりの一端を垣間見て、彼が持ち前の独創的な発想力、企画力を発揮してあれから休むことなく多方面の文化事業の現場で創造的な仕事をなしとげ、当初の志どおり、阪神間の都市文化の再興に力を尽くして、文字通り「文化プロデューサー」として自立し、大活躍してこられたことを知って安堵した。

 

とりわけ彼は阪神淡路大震災の折には、新築したばかりの自宅が崩壊の憂き目を見るという大変な災難に遭遇している。ふつうなら借金をしてせっかく建てたばかりの新居が崩壊したら立ち直れないほど打撃を受けても無理はないと思えるような災難だ。

 

しかしそれからほどなく聞いた彼の電話の声は、それ以前と少しも変わらず、ちょっと角の電信柱が倒れましてね、とでもいうように、ソフトで軽やかな語り口で淡々と、建てたばかりの家が壊れてしまって・・・と話してくれた。

 

彼と最後に会ったのは、私が大学へ勤めてしばらくしてから、どこかのカフェでのことだったかと思う。

それ以前にも京都で月桂冠が出していた「かつら」という居酒屋で食事を共にしたことがあった。そのときには仕事を離れて個人的なことも少し話し、彼には私が文学に関心があること、村上春樹の作品は好きだが、傍観者の文学と思っていて、本当は当事者の文学というのがあってもいいと思っている、というようなことを話していたのではないかと思う。そういう言い方は吉本隆明がいわゆる日本の戦後文学を評価しながらも、傍観者か転向者の文学だと規定した言い方を真似たもので、大学闘争後の若い作家の文学をそれになぞらえただけのことだったが。

 

大学勤めの中で最後に彼に会った時(記憶が定かではないのであやしいけれど、たしかこのときかと・・・)、河内さんは私に、自分がやっていた『関西文学』の副編集長をやりませんか」と言った。彼が文学畑の活動に私を誘ってくれたのはこれが初めてだったので、気持ちは嬉しかったが、即座に辞退した。私は小説の手習いなども若いころから間歇的に続けていたけれど、同人誌に参加したことは一度もなく、するつもりもなかった。

その前に確か、誘われて一度、『関西文学』の同人会の集まりに出たけれど、やはり自分には同人誌は合わないと再確認しただけだった。

 

河内さんが誘ってくれた時、しかし私は同人誌がどう、というふうな辞退の理由は告げずに、「私はもう終わってしまったので・・」というふうな奇妙な<理由>を言って辞退した。彼は一瞬、え?と分からないという表情で私の目を見た。「・・・あとは女子大生と楽しい時間をすごすだけです。」そんなことを言うと、彼は元の笑顔にもどって、「そうですか」とそのままやり過ごしてくれた。

 

大学に転職して、やっと落ち着いたころだったろうか。転職時、すでに50代半ばを超え、一から研究を始めるには遅すぎ、それまでにやってきた仕事に対する関心も急速に失い、往復4時間半かけて通う新しい職場で、私は最初から大学で過ごす僅かな時間は、義務的な仕事に要する時間以外すべて学生に開放し、研究室も完全に開放してサロンにしてしまおうと考えていた。自分はもう十分に働いてきた。これと思った仕事には自分の乏しい能力を注いで全力でやってきた。それは自分が必ずしも希望した仕事というわけではなかったけれど、十分に注ぐべきものは注いできた。私にとって大学はそこから解放される時空以外のなにものでもなかった。だから、自宅で机に向かうごくわずかな深夜の時間以外を除けば、何かポジティブにやって行こうとするような意味での自分はもう終了した、そう思っていた。

 

だから、同人雑誌に参加して、そこで頑張って編集の仕事をして新しい才能を発掘しようとか、自分自身が何かそこを舞台に書いてみたいとか、そんな新たな門出を夢見ることはなかった。

 

この話はしたがって、これきりで終わった。けれども河内さんがそんなふうに声をかけてくれたことは、とても嬉しかった。



saysei at 18:44|PermalinkComments(0)
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