2020年03月

2020年03月30日

手当たり次第に~「バース・オブ・ネイション」ほか

「バース・オブ・ネイション」2016年米国 ★★★

 ネイト・パーカーが脚本、製作、監督、主演を全部やってのけた作品です。グリフィスの人種差別的な映画「國民の創生」に対抗して作られたそうで、タイトルも"The Birth of a Nation"で同じですから、それなら邦題も「國民の創生」にすべきでした。「君の名は」みたいに全然異なる映画でも、同じタイトルつけていいのなら、ましてや因縁のある映画ですから。

 この作品に描かれた、黒人奴隷の反乱は、1831年8月21日、バージニア州サウサンプトン郡で実際に起きた史実で、私は学生時代に同じ事件を描いたウイリアム・スタイロンの『ナット・ターナーの告白』という小説を読んだことがあります。フォークナーばりの重厚な作品で、読みごたえがありました。史実としての反乱は、黒人奴隷たちが57人の白人を殺して蹶起したけれど、48時間で鎮圧され、蜂起に関わったとされる容疑者55名の黒人が処刑され、その後200名近い黒人が、多くは反乱と無関係だったにもかかわらず、怒った白人暴徒に殴られ、拷問され、殺されたそうです。

 また、ナットの遺骸は体皮を剥がれ、頸を刎ねられ、八つ裂きにされて、いくつかの体の部分は白人が持ち帰ったそうです。遺体が残って英雄視されるのを恐れたためだとか。とにかくアメリカの人種差別の凄まじさは私たちの想像を絶するところがあるし、いまもつい1,2年前でしたから、武器も持たない黒人を捕らえた白人警官が黒人を射殺するショッキングな映像がニュースで流れましたね。さすがに今の米国では問題にはなったようですが、根強い人種差別がまだまだ一皮むいた社会の地盤に根を張ったまま残っているのでしょう。

 この作品の辿った運命にも、そのことが象徴されているような気がします。アカデミー賞にもと評判になった作品だったようですが、1999年に、つまり作品の作られる17年も前のことですが、この作品の監督パーカーと、共同脚本執筆者であるジーン・セレスティンという男性が強姦のかどで訴えられ、裁判では無罪判決が出て決着していたのですが、2012年に告訴した女性が自殺していたことが、改めて取沙汰され、何年も前に無罪で決着がついていたはずのこの件で、作品自体をその観点から批判する者も出てきて、いわば作品は泥まみれにされ、早々に忘れられたようです。

 不幸なことですが、ただ、私自身はそうした現実の様々な作品外的なあれこれを抜きにしてみたとき、この作品は、映画としてはそれほど良くできた映画だとは思いませんでした。小説では強く訴えかけて来た、ナット・ターナーのカリスマ性が、うまく伝わってこなかったのです。それがないと、この作品は、というより、ああいう反乱自体が起きなかっただろうと思うのです。

 小説では最初からターナーが神との内的な対話を繰り返し、なんでもない自然描写も、単に客観的な自然描写ではなく、すべてがターナーの目を通し、神の被造物としての自然を見る目で、木の葉一枚が陽光に輝くさまも、また風の気配にも、神の息遣いが宿っているような含みを持った文体で、とてもよかったのです。

 この作品でも、幼い時白人女性から文字を教わったターナーは、農場労働だけでなく、白人農園主たちが黒人奴隷を大人しくさせるために利用する黒人牧師として色んな白人農園主たちのもとで黒人に説教させられているわけですが、彼にはカリスマ的な魅力があって、ひどい目に遭っている黒人奴隷たちが、その運命におとなしく耐えよという彼の説教を聞いて心を鎮めていたわけです。しかし、彼が蜂起したときには、逆に彼のカリスマ性が同調して蹶起する奴隷たちをひきつけ、鼓舞したに違いないわけで、そこが主演したネイト・パーカーでは表現できなかったと言わざるを得ません。

 そして、当時のターナー以外の奴隷たちが文字も読めず、ただただ生まれたときから奴隷の子は奴隷の子で苛酷な労働に朝から晩までこき使われ、家畜扱いされてきたのですから、反乱と言っても、ほとんど暴発のような、何の用意もない無謀な蹶起に終わってしまったことも史実ではあるのでしょうが、映画として見ていると、生きるか死ぬかなのだから、もうちょっと何とかならんのか、と思ってしまいます。

 軍の武器庫で銃や大砲まで備えて待ち構えている白人たちに、鍬や鎌で白兵戦を挑むなど、いくら軍事など何も知らない奴隷たちでも、もう少し何とかしろよ、と思ってしまう。スパルタカスの反乱などは、さすがに普段生きるか死ぬかばかり考え、生き残るために心身を極限まで鍛えていた剣闘士たちで、多くはもともと出身国での兵士でしょうから、最後は全滅させられるにしても、最強のローマ重装歩兵軍団を脅かすくらいのことはやったわけですが・・・

「ハプーシャの黒い瞳」2013年ポーランド。★★★+

 これも完全なフィクションではなくて、現実に存在したジプシー初の女性詩人として名高いプロニスワヴァ・ヴァイス、愛称「パブ―シャ」の生涯をたどる伝記的作品です。監督はヨアンナ・コス=クラウゼ、クシシュトワ・クラウゼという夫婦の共同監督だそうです。

 時間の順にたどる展開ではなくて、最初は1910年の誕生で始まるけれど、いきなり1971年、盗みの常習犯とかで監獄に収容されている老いて廃人のようなパプーシャに、大臣から呼び出しがあって、演奏会か何かをやる劇場にひっぱりだされるけれども、パプーシャは着替えるように催促されても従わずに座っているというような場面、そこからまた1949年、第二次世界大戦後のポーランドの地方の、ジプシーが宿営するところへ、ハープを積んだ楽器修理屋の小舟が着いて、そこに乗ってきたイェジ・フィツォフスキという作家・詩人で、秘密警察をぶんなぐって追われている青年を預かってくれ、と言ってジプシーの中へ置いていく場面。ジプシーはよそ者を嫌う閉鎖的な社会を形成して定住せずに各地を放浪しているのですが、置いて行った修理屋が「いい連中だから」と言ったように、ダメだ、と拒否しながらも結局彼を受け入れ、一緒に(結局2年間)生活することを黙認していくわけです。
 
 その後もパプーシャが14歳の思春期を過ごす1924年に戻り、このときパプーシャは木の洞から出て北紙に書かれた文字に興味を持ち、母親は悪い呪文だから捨てろというのに、その後飴屋の女に頼んで文字を教わるようになります。この年にはまた、差別されるジプシーたちの住まいである幌馬車が焼き討ちされる事件も起きます。

 差別される彼らは警察も敵視していますが、その警察に留置場へ入れられても、そこで歌とダンスが始まる、といった具合に底抜けに明るいところもあるジプシーたち。こういうシーンは素敵です。

ちまた戦後の年に飛んで、焚火の前で子供に膝枕させながら、彼女の口から自然に詩が沸き出てきます。「緑の草は風にそよぎ 樫の若木は老木にお辞儀する・・・」その詩を聞いたイェジは彼女の天賦の詩才に気づき、詩を書くように勧めます。

  当時の社会主義政権はジプシーの定住政策を進め、住まいを与えて定住させ、大人を職につかせ、子供は学校へやるように強制してきて、ジプシーの生活も変化を余儀なくされます。しかし一方でジプシーたちは閉鎖的な社会を開こうとせず、よそ者(「ガジョ」)を排除し、文字・知識を毛嫌いし、秘密主義を頑なに固守しようとして、イェジや詩を書くパプーシャに反発します。

もう一度場面は1925年に戻り、パプーシャはまだ15歳なのに、叔父に結婚を望まれ、父親は金銭づくで娘を弟に売り渡すようにして結婚させられます。花嫁衣裳を着せられながら涙するパプーシャ。

1952年、子供が病気だけれど、パプーシャの夫は飲んだくれでなんの役にも立ちません。イェジの勧めで詩を書いたパプーシャは、イェジが出版社に持ち込んで成功し、詩人として名をなすようになります。また、イェジは同時にジプシーの生活を描く自身の著書を書いて出版しようとしてます。パプーシャのジプシー仲間たちはみな、パプーシャがよそ者イェジにそそのかされて仲間の秘密を売った、裏切ったと非難します。

1939年、第二次世界大戦がはじまります。ナチはユダヤ人に次いで、ジプシー虐殺をはじめ、パプーシャたちの集落も襲われてほとんどが殺されてしまいます。パプーシャは危うく難を逃れ、虐殺現場で泣いていた赤ん坊を抱いて育てると言います。これが実は息子だと言っていた子だったわけですが、詩を書いて成功し、仲間のジプシーたちからつまはじきされるパプーシャのことを、この子は、あいつは母親なんかじゃない、ぼくは拾われたんだ!というのです。

子供にも背かれ、ジプシー仲間たちからは裏切り者扱いされるパプーシャは、詩人として成功しても、詩など書かなければよかった、と自らの原稿を焼き捨てます。詩が金になることを知った夫はあわてて祖の火を消して原稿を救おうとしますが、もう灰になってしまっています。その夫も死に、棺桶におさまり、雪の林に運ばれていきます。イェジはパプーシャに、彼が住むワルシャワへ来ないか、と誘いますが、彼女は応じません。まだ詩は生まれてくるかと問われて、彼女は答えます。「詩を書いたことはない、一度も」と。そしてイェジは去っていき、パプーシャは家の中から見送り、彼が背を向けていくその後ろ姿に片手を少しあげて別れを告げるのです。

 この作品で何が良かったと言って、ポーランドの美しい自然をとらえるカメラです。ラストも、雪原を左手前から画面の上の方へあがっていく一列のジプシーの幌馬車隊の姿をとらえ、ナレーションの雩読み上げるパプーシャの詩が流れるあいだに、隊列は直角に左へ折れ、そこから画面左手前に向けてまた一列にゆっくりと降りてきます。この場面も素敵です。

 私は若いころにスペインのジプシーたちに出合ったことがあるけれど、ポーランドのジプシーの姿を捕らえた映像は始めてみました。文字をおぼえ、知的に上昇することが、彼女にとっては出自のジプシーの共同体の人々を裏切ることであり、幸せから見放されることに帰着するしかなかった、それは見ていてつらい人生です。詩人としてワルシャワの知識人の間で成功しても、それはまったく彼女の救いにはなりません。文字など覚えなければよかった、という彼女の述懐は重いのです。

監督が語っているように、この作品はジプシーの目線で描かれたものではありません。しかし、だからこそ、ジプシーの秘密を漏らして仲間を裏切ったとか、ジプシーの閉鎖性だとか、そんなレベルの話ではなく、識字にはじまる知的上昇なるものが、果たして幸せにつながる道であるのか、それは人間にとって何を意味するのか、そしてまた人間にとって詩とは何なのか、それが救い出ないとすれば、一体何であるのか、詩はどうあればパプーシャにとってかつてそうであったように自然に口を突いて出るような輝きに満ちた言葉でありえるのか、どうあれば何の値打ちもない死んだ言葉になってしまうのか…そんなことを考えさせる余韻を持つ作品でした。

「フロントランナー」 ジェイソン・ライトマン監督 ★★★

 これも実在の大統領候補だったゲイリー・ハート上院議員が、1988年のアメリカ大統領選挙で、民主党の最有力候補だったのが、不倫疑惑の報道で失墜するまでを描く、ドキュメンタリータッチの作品です。最初は散漫な情景ばかりに見えるけれど、これはハート陣営の内幕を、誰も他社の入れない自宅や選挙事務所の参謀たちの部屋にカメラを据えて撮ったかのように、あるがままの、あけすけな会話を交わす彼らをとらえた、というスタイルをとっているためで、ハートがこの不倫疑惑の追及を軽視して、選挙参謀の助言を無視し、的確な対応をとらないために、どんどん追い込まれていくにつれて、場面も緊迫感を高めていきます。この手法はかなり成功していると思います。

 それにしても、もう少し賢明というか、小ずるい人物だったら、うまく対応して切り抜けられただろうに、陣営のためばかりでなく、ブッシュなんか選ばされることになったアメリカ国民のために残念です。

「赤い雪」甲斐さやか監督、脚本。2019年  ★★++

  雪の日に友達の家に忘れ物をして取りに行くと言って雪の降る外へ出て行った弟を、母親の指示で追った兄の一希は、激しく降る雪の中で弟の姿を見失います。そしてそのまま弟は帰ってこなかった。
 容疑者とされた女早奈江は、ほかに男を何人も殺した容疑を過去に持っていて、当時住んでいて少年を連れ込んだとみられる自宅に放火した疑いがもたれ、少年の骨も焼け跡から出たのに、本人は完全黙秘で無罪となって行方知れず。

 30年たって、早奈江の一人娘早百合をみつけた記者がこの事件をほじくり返しに、一希のところへやってくるところから、このドラマは始まります。長瀬正敏演じる一希は漆職人をしていますが、、当時のことがトラウマになっていて暗い人相の青年になっています。

 記者省吾は早百合に真相を語るように迫るけれど、早百合は拒否し、初めは省吾がけしかけるも戸惑っていた一希も早百合のところへ出かけて問い詰め、いったんそうなると長年の鬱屈が爆発したようになって、雪の林で彼女を追い詰め、拒否する彼女の首を絞めて、自分では殺してしまったと思うところまでやってしまいます。しかし早百合は死なずに助かります。

 そうこうするうちに、一希の記憶がだんだんはっきりしてきます。30年前、実は一希自身が弟よりも以前に容疑者早奈江のアパートの部屋にあがって、チョコボールみたいな甘いものを食べさせられていて、弟がいるなら今度は弟もつれておいで、と言われていたことを思い出します。

 弟がアパートの前で消えたとき、本当はどこへとも知れず見失ったのではなく、一希は自分が前に行ったことのある女のアパートの2階の部屋の前まで上がっていき、弟が女に抱きしめられるのを見た記憶がよみがえるのです。

 早百合もまた、一部始終を見ていたが、何も語らずに沈黙を守ってきたのですが、一希に対して、母親の早奈江が一希の弟の死骸を袋に入れて、放火する際にまっさきにその袋に火をつけたんだよね、というようなことを言うのです。

 結局、主人公はこの兄の一希で、弟が容疑者の女のところにいたことまで見ていながら、そのことをおそらくは記憶喪失のようにして記憶から消してしまって、誰にも告げずに、というのか告げられないまま、無意識の井戸の底に秘めたまま30年過ごして来て、記者がその井戸の底に沈んだものを引き上げるきっかけとなって、記憶がよみがえり、子供だった自分が弟を死なせてしまったことから無意識を抑圧して忘却してきた事件の真相に気づく、という話なんだろうと思います。

 この作品の映像を見る限り、この話は「藪の中」(あるいは黒澤の「羅生門」)のような、真実は闇の中、という話ではありません。たしかに記憶の曖昧さといったものと、雪にかすむ暗い世界との相性が良くて雰囲気はつくっているのですが、記憶の曖昧さが証言(者)どうしの矛盾とか、先鋭な対立を生じているわけでもないので、「記憶の曖昧さを描く」というキャッチコピーみたいなのは信用できません。むしろ、上記のように、これはいわばフロイト的な物語だという印象でしかないのです。

 それならそれでいいし、雪の風景や何かは悪くないし、テンションも一定の強度を保っていいところがあるけれど、何が描きたかったのかな、と考えると、どちらかと言えばテレビドラマ風で、人間の心の闇に深く切り込んだというには、古典的なフロイト風の物語ではしんどいのではないか、という気がしてしまいます。

 それに、ラストで雪の降りしきる中、小舟に乗った一希と早百合が湖だか沼だか川だか、沖へ消えていくシーンなど意味不明。無意味にカッコウをつけすぎでは?・・・と。

「インビジブルー暗殺の旋律をひく女」 アンソニー・バーン監督 2018年米国 ★

 ボスニアの虐殺の因縁がらみの話で、盲目の女性ピアニストで仇を討とうと虐殺を指揮したリーダーの男に近づく・・・というと何か面白いエンタメのようですが、ほんとにつまらない、うっとうしい話でした。とにかくもったいぶった作りがどうしようもなかった。

saysei at 23:09|PermalinkComments(0)

2020年03月19日

レーニン「テイラーシステム―機械による人間の奴隷化」

 石田英敬×東浩紀『新記号論~脳とメディアが出会うとき』で紹介されていた、レーニンのテイラーシステムについての批判、指示されていた英文のサイトを見たらごく短い文章だったので、お勉強のつもりで粗訳してみました。
 確かに石田さんの指摘のとおり、テーラーシステムが労働を合理化し、強化して生産性を高めると同時に、労働者搾取を一層強化するものであったことを見抜いて批判していることは彼の立場からは当然としても、その場合にモーションピクチャーの手法で、映画が利用されたことを指摘している点は、この時代でさすがだなと思いました。赤軍兵士を運ぶ列車でのプロパガンダ映画上映などにもつながる、この種の新しいメディアへの彼の感度、関心はきっと相当高かったのでしょう。
 いいな、と思うのは、このテーラーシステムが将来労働者の手に渡った時には、逆に労働の合理的な分配をたすける武器になるんだ、という認識を忘れずに記しているところです。ラッダイト運動のような発想ではなくて、歴史の達成を引き継ぎながらそのありようを揚棄していくのが自分たちの運動なんだ、というのがちゃんと腹の中に入った革命家だったのでしょう。
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「テイラーシステム―機械による人間の奴隷化」

 資本主義はほんの一瞬も立ち止まってはいられない。それは永遠に前へ前へと動いていなくてはならない。現在のような危機の時代に最も先鋭化する競争が、生産コストを削減するための新たな工夫を増やすような発明を要求するのだ。しかし、資本の支配はこれらすべての工夫を労働者たちの一層の搾取のための道具へに変えてしまう。

 テイラーシステムは、こうした工夫の一つである。

 このシステムの支持者たちは、最近アメリカで次のような技術を使った。

 労働者の腕に電球がつけられ、労働者の動きが撮影され、電球の動きが研究された。ある種の動作が「余計な」ものであることが見いだされ、労働者はそうした動作を回避させられ、つまり休憩のために1秒たりとも失うことなく、より集中的に働かされた。

 新しい工場の設計は工場への資材の搬送、店舗から店舗への資材の配送、完成品の発送に一瞬も失われないように計画されている。最高の工員たちの仕事ぶりを研究し、労働の強度を増す、つまり労働者たちを「スピードアップ」するために、映画が組織的に導入される。

 たとえば、ある機械の操作がまる一日中撮影された。機械の動きを研究した後、労働者がかがむことで時間を無駄にしないよう、効率の専門家が高さを調節したベンチを提供した。労働者には助手の少年がつき、この少年がその機械の各部分を確かで最も効率的なやり方で手渡さなければならなかった。二、三日うちにその機械工は以前の四分の一の時間で指示されたタイプの機械を組み立てる作業を行った。

 なんと巨大な労働生産性の利得だろう!しかし労働者の賃金は4倍に増えるのではなく、せいぜい利得の半分でしかなく、しかもそのときほんの短期間だけのことだ。労働者たちが新しいシステムに慣れるやいなや、彼らの賃金は以前の水準に引き下げられる。資本家は莫大な利益を得るが、労働者たちは以前の4倍きつい労働をして以前の4倍の速さでその神経と筋肉をすり減らすのだ。

 新たに雇用される労働者は工場の映画館へ連れてこられ、その仕事の「モデル」パフォーマンスを見せられ、そのパフォーマンスに「キャッチアップ(追いつく)」させられるわけだ。一週間後に新人は再び映画館へ連れて行かれ、彼自身のパフォーマンスの映像を見せられ、そこでかの「モデル」と比較される。

 これらすべての大規模な改善が、労働者たちの不利益につながる。というのも、それらは労働者たちのなお一層の抑圧と搾取につながっているからだ。さらに、この合理的で効率的な労働の分配は各工場に限定されている。

 自然に疑問が沸き起こる:社会全体における労働の分配はどうなのか?資本主義生産の無秩序で混乱した性格の為に、現在、膨大な量の労働が無駄になっているではないか!原料が工場へ渡されるのに何百という買い手、仲介業者の手を介し、市場の要件は知られずに、どれだけの時間が無駄に費やされていることだろう!時間だけではなく、実際の生産物が無駄になり、損傷を受けている。そしてまた、顧客に完成品を届ける、多くの小さな仲介業者たちの時間と労働の無駄はどうか。彼らは顧客の要件を知ることもできず、多くの無駄な動きをするばかりでなく、そこに多くの無駄な購買、旅行、その他の無駄を作り出しているのだ。

 資本は労働者たちの搾取を増やし、利潤を増やす目的で、工場内で労働を組織し、合理化する。しかし社会的生産全体としては、混乱が支配し、成長しつづけ、蓄積された富が購入者を見出せず、何百万人もの労働者が雇用を見出せずに飢える危機へと導く。

 テイラーシステムは、その導入者たちが知りもせず望みもしなかっただろうが、プロレタリアートが全社会的生産を引き継ぎ、全社会的労働を適切に分配し、合理化するためのそれ自身の労働者委員会を指名する時を準備している。大規模生産、機械、鉄道、電話などは全て、組織された労働者たちの労働時間を4分の3短縮する何千もの機会を提供し、それらを今日あるよりも4倍良いものにするだろう。
 
 そして労働組合に支援されたこれらの労働者の委員会は、社会的労働が資本への隷属から解放されるとき、その合理的な分配の原則を適用することができるだろう。

V.I.Lenin : The Taylor System-Man's Enslavement by the Machine
出典; Marxists Internet Archive
(https:www.marxists.org/archive/lenin/works/1914/mar/13.htm)

Published: 'Put Pravdy' No.35 1914年3月13日
Lenin Collected Works,1972, Moscow,Vol.20, pages152-154
Translated:Bernard Isaacs and The Late Joe Fineberg
Transcription/Markup: R.Cymbala
Public Domain: Lenin Internet Archiv(2004).

saysei at 15:57|PermalinkComments(0)

2020年03月11日

手当たり次第に~(映画の感想)2020-3-11

スポットライト(トーマス・マッカーシー監督 2015 米国)★★★

 ボストン・グローブ紙の調査報道班「スポットライト」チームによる、ボストンとその周辺地域で蔓延していた、カトリック教会司祭による(少年たちに対する)性的虐待事件の報道の顛末を描いた衝撃的な実話にもとづく作品です。

 最後に辞任した隠蔽工作の首謀者である枢機卿が、ローマの格上の教会に栄転した、というテロップが流れて、さらに慄然とします。こういうことはもちろん背後にヴァチカンがいないとかなうわけがないので、世界中のカトリック信者から崇拝されている法王以下ヴァチカン全体がその芯のところで腐蝕していることが示唆されていると言えるでしょう。

 決して社会の悪に敢然と立ち向かうかっこいい正義の味方などには見えず、他社を出し抜くスクープを追いたいだけにも見える、カジュアルさが粗野な印象も与える、どこかいい加減なところもありそうな記者たちの姿が生き生きとしてリアルで、すっぱ抜きの記事を出すまで粘り粘って事実をさぐりあてていくい過程が迫力を持って描かれていて、結果としてカトリック教会全体の腐りきった本質が鮮やかに浮き彫りにされています。

迫りくる嵐(ドン・イェ監督 2017、中国)★★★

 国営工場の保安部の警備員としては窃盗犯を何度も捕まえて表彰されてきた優秀な男がが、何を思ったか近隣で起きた美しい若い女性の連続殺人事件にクビを突っ込み、本職の刑事たちからユイ刑事殿とからかわれるほどこの件に固執し、犯人をあと一歩で捕まえる所まで行くのですが、その過程で行動を共にして連れ歩いていた後輩工員を死なせてしまい、自分が犯人をおびき寄せるおとりに使おうと近づきになっていた散髪屋の女が自分に本気で心を寄せるようになったのにも気づかず、気づいて自分もまた女に惹かれていたことを悟った瞬間に、彼の意図に気づいた女が歩道橋から車道へ飛び降り自殺をしてしまったばかりか、そのことに動転した彼自身も、犯人だと思い込んだ罪のない男を問い詰めて殴り殺してしまい、犯人は不明ながら、現場に残されたDNAから別人だとだけは分かりますが、そのまま連続殺人は犯人不明で未解決のまま、彼は服役します。

 出所した彼は、いまは認知症で施設に入っている、連続犯を追っていた時知り合った刑事を尋ね、残された彼宛の手紙を読みます。それによれば、雨が激しく降る或る日、交通事故で死んだ男が、DNA鑑定の結果連続殺人犯だったことがわかった、と。

 ものすごく暗い映画で、画面も暗ければ話も暗い、最後まで見ても犯人があげられてめでたしめでたしというカタルシスもない、主人公が全身全霊追い詰めてやってきたことは何だったのか、仲間を死なせ、恋人を死に追いやり、自ら殺人を犯してしまい、服役して、彼は何を得たのか。人生って、こういう虚しいもんだぜ、と言いたいのか、と言いたくなるような、嘆息するしかない作品です。

 でも中国の貧しいが模範的な「工員」(警備員ですが)の唯一の生きがいになったのが、この身近なところで起きた連続殺人事件の犯人を追い、できればつかまえるということだったわけです。そういう心境の背景になっている、中国の何でもない一人の貧しい生活者の、どうしようもなく平板で単調で、生きがいらしいものもない日常の像と、それを生きる人々の絶望が、暗い雨ばかりの光景のうちにじわっと伝わってきて、非常にテンションの高い作品をつくっています。

殺人の記憶(ポン・ジュノ監督 2003年 韓国)★★★++

  韓国で1991年におきた実際の未解決事件をもとにしたフィクションだそうで、おなじみのソン・ガンホが刑事役で主演し、好演しています。

 映画は田んぼの水路のコンクリート板の下の土管みたいなところで、強姦の上殺された若い女の死体を検分する刑事の姿からはじまります。そして、ラストはそれから数年後、もう警察を退職して会社づとめをしている彼が仕事でこの村を通りかかり、ひろがる稲穂の光景にふと、あの水路にかかるコンクリート板のところへやってきて、下をのぞき込んでいると、一人の少女が、おじさん何してるの?と訊く場面です。

 何があるのか覗いていたんだよ、という風な答え方をすると、少女は、ふ~ん、さっきもほかのおじさんが覗いていたよ、と言うのです。え?と彼は数年前のことを思い出して心が騒ぎ、その男が何か言っていたかと訊くと、少女は、「何年か前にここで自分がしたことを思い出していたんだよ、と言っていた」というふうに答えます。

 内心愕然としただろう、元刑事のソン・ガンホ。今はもう刑事ではない彼は、自分がついにとらえることのできなかった犯人が、いまもまだこの村のどこかで何気ない顔をして暮らしていることを知るわけです。田んぼの脇に立ったまま、村の方を遠く眺めやるソン・ガンホの表情が、すばらしい余韻を残して映画は終わります。

インサイダー(マイケル・マン監督 1999 米国)★★★++

   ラッセル・クロウが、たばこ業界の経営トップたちの、ニコチンの身体に与える影響をめぐる議会証言の虚偽をあばく、もと幹部の一人である内部告発者を演じ、これをジャーナリストの立場から助け、特種記事をものにしようとする、元左翼のベテラン記者をアル・パチーノが演じています。

 健康を傷める商品に関する情報を隠蔽しようとするタバコ業界のトップは、内部告発を許さず、本人はおろか家族の生命をも脅かす脅迫で追い詰め、家族を離反させ、告発者を孤立させていきます。敵は搦め手から攻めて新聞社にも手をまわしてくるので、いくら末端の記者が反骨精神で頑張ってみてもどうにもならないところまで追い詰められていきます。その汚いやり口は本当にありそうなリアルなものなので、これが実話に基づく話だと聞かされると、見ている観客は恐怖心を覚えるほどです。

 こういうのがほんとにやられるなら、内部告発しようと思っても、みんなしり込みしてしまうだろうな、と思わざるを得ないほど、大企業のもつ力とその汚いやり口は、個人の力などものともしないで押し潰してしまいそうです。

 これに対抗する力は、結局一個人としての記者の、情報提供者との約束を絶対に裏切らない、という身体を張った信念というのか記者としての意地みたいなものだけです。これをアル・パチーノが見事に演じています。みてくれにこだわらない、ちょっとラフで、大丈夫かいなと危惧させるようなところのある、直情的で、KYというのか周囲にあまり配慮しないし、人間関係がいつもぎくしゃくしていそうな、上司にも平気で抗うような、反骨心のかたまりみたいな、いかにも元左翼といった感じの記者を非常に見事に演じ切っています。それが最後にはとてもカッコよく見えてきます。

ヒート(マイケル・マン監督  1995 米国)★★★★

 アル・パチーノとロバート・デ・ニーロの二人の競演です。やっぱり映画は俳優さんだな、と思わせるような出来栄え。

 見ていると、だんだん、悪玉のリーダーニール(デ・ニーロ)に、つかまってほしくなくて、なんとか捕まらず、殺されずに、うまく逃げてくれ、と願うようになります(笑)。まぁ彼を追う刑事のヴィンセント(アル・パチーノ)がひどい目に遭うのも気の毒には思いますが・・・(笑)

 ラストも素晴らしい。まったくの刑事―悪玉の組織犯罪を描くアクション映画なのに、すばらしい人間のドラマを見ているような気にさせられます。


ディバイナー~戦禍に光を求めて(ラッセル・クロウ監督 2014年 オーストラリア、米国合作)★★

 オーストラリアの農夫にして水脈を探し当てる職人(water devinerというらしい)の男が、第一次大戦でオーストラリアやニュージーランドが大英帝国の名残のイギリスに言われて軍を出し、トルコ軍と戦ったガリポリの戦いで、3人の息子が出兵して帰らず、妻も自殺してしまって、息子たちを連れて帰るという妻との約束を果たすために、遺骨探しにイスタンブールへ飛び、そこで出会った少年の手引きでその母親で、ガリポリの戦いで夫を亡くした未亡人の経営する宿に泊まることになります。

 最初は元敵国どうしで、かたや息子を、かたや夫を奪われた敵同士でぎくしゃくするものの、次第に信頼がめばえ、男は息子たちの跡を訪ねてガリポリに出かけます。現地のイギリス軍将校は彼に帰国するように指示しますが、はるばる故国から息子を尋ねてきた彼に共感をおぼえた案内役の元敵国のトルコ人少佐が彼に肩入れし、男の息子の遺骨探しに協力します。(この少佐はトルコでは知られた映画監督で俳優であるイルマズ・アルドアンという人だそうで、なかなか魅力的でした。)

 男は水脈探しの技を応用して(そんなことができるんかい?とは思いましたが・・・笑)2人の息子の遺骨、遺品を見出しますが、長男だけはみあたりません。トルコ人少佐が軍に調べさせたところ、長男は別の場所の捕虜収容所にいる、ということがわかり、男は生きている長男を連れ帰るために少佐に協力を求め、いろいろすったもんだのあげく少佐は彼に同行を許し、現地へ向かいます。

 途中、ギリシャ―トルコ戦争のさなかで、ギリシャ軍に襲われ、辛くも脱して生き残った男と少佐は馬で長男の居る地へ向かい、そこで男の夢に現れた風車を見て長男に出合うことができます。ギリシャ軍が迫る中、男は少佐と別れ、長男とともに脱出、無事にイスタンブールの女と少年の待つ宿に帰ってきます。

 まあこれは、どっちかというとアメリカらしい能天気な、現代の英雄譚というか、マッチョな男の冒険譚というべきでしょう。話の組み立てがご都合主義的で、エンタメとしても安易です。なんでこんなものをラッセル・クロウがわざわざ初監督の作品としてつくったのか、よくわかりません。

 トルコ―ギリシャ戦争を背景に描きながら、トルコ軍のアルメニア人虐殺に全く触れず、あたかもトルコ人たちを被害者のように描いているのはけしからん、とギリシャはもとより、批評家たちの一部からもだいぶ批判の声があった作品のようです。実際の歴史を舞台にした作品作りは、難しいところがありますよね。

 ただ、そういう批判は、言い出せば、アメリカの戦争ものなんて、みんなアメリカ軍は善で、ドイツや日本は悪魔みたいなものでしょう。いやあれはファシズムなんだから仕方ないんだ、というでしょうか。じゃ第二次大戦後の地域紛争、実質的にその土地の人々にとっては何ら世界大戦のような戦争と変わらぬほど生活を破壊し、身近な人間の命を奪う戦争に他ならないと思いますが、そこで主役を演じて来た米国というのは、共産主義の「悪」と戦う善の軍隊でありましょうや。

 なにも公平中立に戦争を描けというのではないけれども、少なくとも文化としての映画を作るなら、そこに描かれる人間に、人間としての人間性の深み、奥行きがなければどうしようもないので、単にどっちを善として描いたからよい、どっちを悪として描いたから悪い、というものではないでしょう。その意味では、この映画はトルコを被害者扱いしてギリシャを悪玉扱いしたからダメなんじゃなくて、作品として基本的にダメです。

 ただ、第一次世界大戦のオーストラリア対トルコ戦が背景になっている、というのは、ちょっと変わっていて、そこだけは私などまったく未知(無知)の領域だったので、ちょっと興味は持ちましたが。

 それと、この男といい仲になる宿屋の未亡人というのが、オルガ・キュリレンコという、元ボンド・ガールで有名にもなったウクライナの出身女優さんで、6か国語に堪能で、英語ベースの映画だけれど、流暢なトルコ語をしゃべっているんだそうです。なかなか魅力的な女優さんでした。
 
デトロイト(キャスリン・ビグロー監督 2017 米国)★★★

 見た後で、この監督は私も見ていた「ハート・ロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」の監督だと知りました。さすがに充実した作品だったと思います。

 1967年、死者43人、負傷1,189人を出したミシガン州デトロイトの(黒人)暴動とその一コマとしてのアルジュ・モーテルで起きた、差別主義者のデトロイト市警の白人警官による黒人らに対する違法で暴力的な取調と殺人事件を描いたハードな社会派の作品です。

 暴動は平生の白人警官らの差別的な黒人の扱いなどが伏線になって、イリーガルな酒場の摘発を契機に暴動が起き、数日にわたって町に放火、破壊と略奪が横行し、市警では押さえられずに州軍兵らが動員されて鎮圧に及んだ事件えすが、映画は前半はそうした暴動の映像を追いますが、後半はその暴動の最中、晴れの舞台で歌う寸前に中止に追い込まれた黒人バンドザ・ドラマシティのメンバーが逃げ出そうと乗ったバスを暴動化した群衆に襲われ、バスを降りて逃げ込んだモーテルでの出来事に集中しています。

 そこで知り合った二人の白人女性とともに訪れた同じモーテルの部屋で出会った男たちがふざけてスターター(玩具のピストル)を撃ったことから、ピリピリしながら警戒に当たっていた街路の州兵たちが狙撃と勘違いして銃撃をはじめ、駆け付けた市警の差別主義者で既に直前に窃盗現場を目撃されて逃走しようとした黒人を背後から銃撃して射殺していた警官クラウスらがモーテルの中へ入り、たまたま逃亡をはかったそのスターターを撃った男をまたまた背後から射殺した上、ナイフを置いて偽装工作をはかり、さらにモーテル内にいたバンドメンバーや女性やもとからいた退役黒人兵らをつかまえて廊下で厳しい尋問をはじめます。

 銃撃されたと思い込んでいる警官らは、隠されたはずの銃のありかを言うように強制し、一人一人部屋に連れ込んでは言わなければ殺す、と言って銃殺したふりをして他のものを脅すようなことをしていて、結果的に最後の一人は仲間の警官がゲームであると思わずに本当にバンドメンバーの一人を射殺してしまいます。

 とにかく無茶苦茶な白人警官の黒人に対する差別とそれによる暴力のオンパレード。その中に、向いの店の警備員をやっていた黒人が取り締まり側で一種の目撃者の役割を果たすのですが、彼も事件後に警察に呼ばれて、モーテルでの最初の殺人の犯人扱いされて取り調べられたりします。とにかくデトロイトに住んでいる黒人は何をされても仕方ないほどの、猛烈な差別状況で、見ていて気分が悪くなるほどです。

 そうして、事件後の陪審員裁判でも、結局差別警官たちの殺人は、自白が強要されたものだとされて証拠扱いされず、暴力、殺人とも無罪になってしまいます。全く罪もないのに殺された黒人、暴力の嵐に見舞われた黒人、女性、みな泣き寝入りで、殺人者たちは無罪放免。この判決のあと裁判所をよろめき出た警備員の黒人が嘔吐していましたが、まさにあの気分です。これがアメリカで本当に起きたことなんですからほんと、気分が悪くなります。きっと今でも州により、地域によっては、これと似たり寄ったりのことがまかり通っているのがアメリカ社会なのでしょう。人種差別主義者のトランプが大統領に選ばれる国ですから不思議ないといえば不思議はないのかもしれませんが。


 




saysei at 15:29|PermalinkComments(0)
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