2017年04月

2017年04月30日

東野圭吾『素敵な日本人』を読む

 『素敵な日本人』、どれも推理小説的なちょっとした仕掛けが、読む者を楽しませてくれる、多彩で「素敵な短編集」でした。

 人生の酸いも甘いも経験してきた仲の良さそうな中高年の夫婦の話、なぜ自分のもとを去って行ったかわからないまま十年会えなかったモトカノとの再会に心ときめかす男の話、娘が玉の輿にのって自分のもとを去っていくに際して亡妻との日々を回想する父親の話、合コンで出逢った実はキャバクラ勤めの女の子に一目ぼれした若い男の話、母親になるためのトレーニング用レンタルロボットベビーに微笑ましい悪戦苦闘を見せる未婚の女の話、身近な身の回りの世界から出て初めて外の世界に触れ、一匹の野良猫に出会って心を通わせる少女の話、反目しあっていた父の死が近いと連絡をうけて帰国する息子の話・・・一見そんな人たちの様々な人生の一コマを描いていくかにみえる舞台装置に、この作者らしい仕掛けがほどこされていて、小品ながら、いずれもある種の「どんでん返し感」が味わえます。

 そこが「推理小説的」なのですが、実はその仕掛けは、オーソドックスな犯罪の謎解きをする類の推理小説のような仕掛けとは違っています。
 ふつうの推理小説は(といっても私はふだんまったく推理小説を読まないので、その多様極まりない広がりの幅は知らないのですが、まあ古典的な感覚でいうところの推理小説は)あくまでもフェアなというのか公正中立な客観描写で事件の推移を描き、その中に手がかりがあって、それを名探偵なり刑事さんなりと読者が一緒になって、隠された秘密というのか真実にたどりつくプロセスだろうと、私は勝手に考えているのですが、東野さんのこの短編たちは、そういう客観的に描かれた客観的な世界に潜んでいる謎ではなくて、作家の語り口の中に読者への仕掛けも謎もあって、それが最後に明かされるのです。

 つまり私たち読者は東野さんという作家に最初からその語り口そのものによって謎を仕掛けられていて、それは作家が描く客観的な世界に手がかりが無いので、読者にはわかりようがなく、もしこれもまた推理小説だと言ってしまうなら、私たち読者は最初から作家の語り口そのものから疑わなくてはならないことになります。

 そういう小説で、ふだんまったく推理小説を読まない私が読んだ優れた唯一の推理小説は、アガサ・クリスティの「アクロイド殺人事件」だけです。あの小説は推理小説として、言ってみれば「ルール違反」だ、と評されるかたもあるようですから、そういう意味では東野さんのこの短編集の多くの作品もそういうオーソドックスな推理小説の書法では描かれていません。でも、そこが東野さんらしく、それでいて面白いのですから、それで十分です。

 例外は、通常の推理小説の書法で描かれた「壊れた時計」と「クリスマスミステリ」だけだと思います。
 でも私などはそれよりも、推理小説的でない「推理小説」のほうが面白かった。とりわけ、この中では一番たぶん地味な、父―娘ー亡妻の家族小説的な装いをもった「今夜は一人で雛祭り」が一番好きです。次いで好きなのは最後の「水晶の数珠」。これ以上はネタバレになるので、ここらでやめておきましょう。

   

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村上春樹vs川上未映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』

 とても面白いインタビュー集で、昨日の車中で一気に読んでしまいました。
 川上未映子の突っ込みが良くて、村上春樹の作家としての生き生きした素の表情がうまく引き出せているような感じです。

 とくに面白いのは、川上が実に細部まで村上の作品を読み込んでいて、こういう場面を書くときにはどういう判断であぁではなくてこういう書き方をするのか、とか、こういうときは色々判断の仕方があるはずだが、なぜこういう選択になったのか、とか、とことん突っ込んでいくところ。
 
 また、過去の色々な折のインタビュー記録なども川上が良く読んで記憶していて、そこから、こう言ってましたよね、と村上の言葉を証拠物件のように引っ張り出して見せると、村上が、え?そんなこと言ってたっけ、とすっかり忘れていたりして、川上が、そんな大事なこと忘れるわけないでしょう、ほんとに忘れたの?というような突っ込み方をしている部分。

 それに対して村上は、たいていほんとに覚えてないんだ、と いう答え方をします。川上は半信半疑で、ほんとかなぁ?とさらにまた別の箇所で別の突っ込みを入れる。でも同じなのですね。

 これは村上の資質と小説を書くという行為の村上にとっての意味、その行為のありようそのものと一体の答えで、決してとぼけているわけでも、気取っているわけでもないというのは、これまで彼の作品やエッセイになじんできた川上にも本当はわかっているはずですが・・・

 私は川上と違って記憶力がお粗末なので、どの作品についての話だったか忘れたけれど、或るインタビューで、彼が或る長編を書いたときの始め方を語っていて、最初は机の下をウサギがトコトコと走っていく姿が思い浮かんだ、それだけがきっかけで書き始めた。最初はまったく先がどうなるなんて自分にも分からなかった、というような、今回のインタビューで繰り返し語っているのと同様のことを語っていました。
 
 それを読んだ時に、もうずいぶん以前のことですが、この人はほんものの作家だな、小説ってものがどういうものか、作品の核心と言うのが何であるのか、本能的に分かっている人だな、と思いました。

 親しい友人と広島の山の中の小屋みたいな鄙びた宿屋で、下の谷川から蛍が孵化してはゆらゆら窓の所へ上がってくるような夏の一夜、色んなことを話し合ったとき、彼が最近、村上春樹の「羊をめぐる冒険」と或るもう一人の作家の作品を読んだ、と。
 どちらも最近評価が高いようだけど、彼はいいと思えなかった、というので、私は後者の作家はほとんど読んでいなかったけれど、村上春樹は読んできたし、羊ももちろん読んでいたので、あれはとてもいい作品だと思う、とすぐに反論したことがありました。
 
 それは作品そのものを評価していたこともあるけれど、彼のそういう書き方への信頼というのか、それまでまだ村上春樹が村上春樹としての全体像を表わさずに村上春樹の中に埋もれているような時期から一貫して変わらず、しかも少しずつ村上春樹が姿を現してくるような非常に堅実で、自己制御の効いた歩みをしてきていることへの信頼があったから、ことこの作品のどこがどう、と言われて論理的に分析して骨と身をほぐして、ほらこんなに綺麗な身がついているでしょ、と言えたわけではないけれども、水の中を生きて泳いでいる魚の「身」の躍動感だけは、ちゃんと直観できたのだと思います。

 批評に対する根深い不信も、昔の反発から、いまはまあそういうことをメシの種にしなきゃいけない事情もあるだろうし、人がどう受け止めようと仕方ないよね、というふうに変わってきているとはいえ、一貫してこの作家に変わらないこともよくわかります。

 ”その意味は分析の中にあるのではなく、行為そのものの中にあるんです。もちろん分析もある程度大事なんだろうけど、少なくともそれは僕の役目ではない。僕にとっては、行為総体が分析を含んでいなくてはならないんです。行為総体から切り離された分析は、根を引っこ抜かれた植物のようなものです。固定された分析には、必ずどこかに誤差が含まれています。それは場合によっては許容できる誤差であるかもしれないけれど、ある場合にはとても危険な誤差であるかもしれない。少なくとも僕はそう感じています。”

 昔生物の進化に興味をもっていたころ、例えば生物の姿かたちその細部まで、実によく環境世界に適応していることを、一般には、例えば水の中で前に進むのに都合がよいように、尾ひれがこういう形をしている、とか、キリンは高い枝の葉や芽を食べるために首が長くなってきたとか、目的論的な説明をして、それが分かりやすくもあったけれど、もちろん神様でもいない限り、文字通りの目的論は成り立たないので、これは自然発生的な遺伝子の変異のうち、環境により適応したものが残ってきたという確率的な遺伝子の置き換えの問題として現代では語られるのではないかと思いますが、研究者的なそういう言い方に変えたからといって、進化そのものが分かりやすくなったかというと疑問です。

 むしろ晩年の今西錦司がよく言っていたように「生物は変わるべくして変わってきたんだ」というほうが進化そのもののありようを言うにはあたりのような気がします。わけがわからん言い方だ、ともいえるけれど(笑)。「創造的進化」のベルグソンは、そいつを「エラン・ヴィタル」と呼んだんじゃないんでしょうかね。

 村上春樹の作品を或る意味で暗号文のように解読して「正解」を競い合うような、あるいは新しい「解」を発明・発見することを競い合うような本が文芸評論家から大学の文学研究者まで幅広くわんさと居るのは川上が指摘するとおりですが、死んだキリンの首を解剖して、或いはその化石を辿って、進化を目的論で語るようなことと大差はないのかもしれませんね。生きている作家村上とその作品は、その死体は私ではない、と言うでしょう。

 それにしても、村上春樹がデビュー当時から文壇の主流から外れていて、不当な扱いを受けてきて、正統な評価が受けられないという感じで海外へ居を移す動機づけになったように以前から、そして今回も繰り返し語っている点は、川上と共に、不思議な気がします。私など村上よりいくぶん上の世代からみても、彼はたしかに中上健次なんかとは全然タイプの違う作家だけれど、ほとんどデビューして間もなく日本の現代文学を背負って立つ作家、少なくともほんの数人を数える作家のうちの一人とみなされてきたような印象を持っているからです。

 たしかにまだ当時は主題主義的な傾向が文壇に無かったとは言えないけれど、まともな批評家は吉本隆明でも江藤淳でも当初から村上春樹は高く評価していたと思います。まあ彼らのような批評家自身が反文壇的な批評家であったと言えばそのとおりではありますが、そんなことを言えば村上が当時の文壇の主流のように感じていたらしい中上健次なんかもむしろ文壇の異端児とみられていたのではないか。

 まあそんなことはどうでもいいけれど、川上が描いて見せた2階建てで地下2階まである家のポンチ絵を示して、村上自身が作品をこの図の比喩で語っていくところなんかもとっても面白かった。私がこのあいだ「騎士団長殺し」の感想を書いたとき、最初に、今回の作品は一通り読む分には分かりやすい、寝取られ男が、いたく傷ついて旅の空に逃げ、やがて隠れ家をみつけて絵に没頭して時をかせいで自己回復を遂げていく話だよね、というようなことを書いたのなどは、まさに1階とせいぜい地下1階の話として浅く物語を掬っただけ、というのがよくわかる(笑)。

 もうひとつ、川上はフェミニストだそうだけど、ここでその観点から、村上さんの作品での女性の立ち位置についてこういうふうに言う人もいるんですよ、という形で深惚れしたファンらしく遠慮がちではあるけれど、突っ込んで見せている部分も面白かった。おやおや、そんなふうに俺の作品を読むかね、思ってもみなかったぜ、というちょっとした戸惑いというほどでもない意外感と余裕の反応で村上は応えているけれども、あぁなるほどな、或る意味でそういう女性の登場人物の「使い方」みたいな観点で切ってみれば、そんな見方もできるんだな、というのは私なども思ってもみなかった点だったから面白かった。でもそれは仮にある種の作品についてそういう見方が出来たとしても、それが作品の価値になにか過不足をもたらすかと言えば、まったく関わりのないことだと思います。でも村上の反応は面白かった。

 ほんとうに村上ファンには楽しい本でした。川上さん、ありがとう!(笑)

 

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2017年04月20日

恩田陸『蜜蜂と遠雷』を読む

 直木賞の上に本屋大賞も受賞して書店で山積みになっているのを眺めながら手にとらなかったのは、テーマがクラシック音楽の演奏コンクールで競い合う若者たちの話と聞いていたので、領域としては「不得意分野」(笑)で、それほど関心がなく、また不遜ながら大体こういう話になるんだろうな、と想像して、少なくとも自分にとっては、あまり面白い読書にはなりそうもないという、まことに偏見と独断に満ちた先入観があったからです。

 ある意味で中身は予想どおりだったので(笑)、この作品を絶賛するファンの方たちと同じような読後感を記すことはできそうもありません。でもクラシックファンだろうとなかろうと、またクラシックに詳しい知識や経験を持っていようといまいと、退屈しないで、次はどんな風に一人一人の演奏が描かれるのだろうと興味をもって読んでいくことのできる、上質のエンターテインメントとして読むことができました。

 エンターテインメント小説にはよくある、人間の卑小さ、妬みや怨恨や侮蔑や驕慢、差別感や劣等感等々、暗く、屈折した心あるいは、しばしばそれらの遠因として描かれる苛酷な生い立ちや悲惨な体験など、普通は人が目をそむけたくなるようなところへ無理に連れて行こうとする安易な手練手管がこの作品には無く、それぞれに音楽を愛し、ミューズに導かれて至高の高みを目指す若いピアニスト、国際コンクールに応募したコンテスタントたちの、コンテスト予選、本選の間の演奏とそれぞれの胸のうちを辿っていく作品で、何といえばいいのか、こちらも心が浄化されていくような気持のよい小説です。

 むろん技術的な観点から最大の興味は、音楽というまるで紙の上に書きつけられる文芸などとは異なる芸術ジャンルの表現を、どう文字に映し、読者の心の聴覚に第一級の音楽を響かせるか、という至難の業に、この熟練の作家がどう挑んだか、という点にあるでしょう。

 おそらくすぐれた作家である著者にとっても、それは並大抵の仕事ではなかったので、初出が2009年から16年まで足掛け8年間、さらに大幅な加筆・修正を経て 完成された作品らしいところにも作者の労苦の一端が窺えます。

 言葉が喚起するイメージで、どれだけ音楽の演奏を表現できるか、それはとても興味深いテーマで、この作品をクラシックずれしたひねくれた音楽オタクではない、むしろ何もクラシック音楽など知らない素直な一人の読者として 読むときに、それが良く分かるだろうと思いますし、そういう意味では私は資格がある(笑)ど素人ですが、そこは本当に恩田さん、すごいなぁ、と思いながら読ませてもらいました。

 そういう種類の本をあまり読んで来ていないせいもありますが、これほど一つ一つの曲の演奏に豊かなイメージを与える言葉を発明し、巧みに紡いできた小説というのは 無いのではないかと言う気がしました。もちろんクールに言えば、言葉でど素人の心に音を聴かせることができるはずはないので、あくまでも言葉が描いて見せる音楽、演奏にすぎないので、それはオノマトペのように言葉そのものの聴覚的な響き、リズムなどによるものではありません。

 あくまでも言語表現独自の意味と価値の複合体を通じて、読者である私たちの脳裡に喚起される音であり演奏なので、この「音楽」「演奏」は、音楽家・演奏家が表現することは逆に不可能な種類の「音楽」であり、「演奏」なのです。

 ”ピアニシモからフォルテシモまでの加速が、なにしろ半端ではない。それも、こけおどしではなく、自然に、あっというまに大きくなってしまうのだ。
 レーシングカーが、音もなくいきなりトップスピードまで加速したみたいに。”
 
 こんなふうに音楽用語を使い、比喩で演奏を語っていくあいだは、言葉が演奏に従い、それをなぞろうとしているので、あぁ、そういうものか、と外の目ならぬ外の耳でその演奏を聴く=読むだけだけれど、この作品を読んでいくうち、いつか私たちに内側から演奏の語る言葉が聞こえ始めます。

 ”彼は舞台の一点にとどまり、ピアノを鳴らしているのに、亜夜には彼が凄まじいスピードで駆けているように感じた。
 置いていかれるーいや、違うー飲み込まれる。あたしたちは、風間塵に飲み込まれようとしているのだ。彼の宇宙ーブラックホールというのではなく、真っ白な、彼の宇宙に吸い込まれる。
 さっきいた、明るく厳しい荒野とは異なる、光の大地である。
 きらびやかなメロディが、リズムが、眩いばかりの光に包まれ、きらきら天から降ってくる。
 踊れ。踊れ。
 亜夜は手を広げ、降り注ぐ光を手に受けとめようと子供のようにはしゃぎ回る。
 目的はない。ただ、光を手に受けたいから、気持ちがいいからそうしているだけなのだ。
 ただ、本能のままに。魂が求める快感のままに。
 もっと、もっと、光が、色彩が、音が欲しい。
 亜夜は笑っていた。
 両手をいっぱいに、天の高いところに伸ばし、背伸びをする。
 風間塵。あたし、あなたが誰なのか分かったような気がする。
 亜夜は、色彩のうねりと光のシャワーに身を委ねた。”

 第三次予選の前にマサルが読むリストのピアノ・ソナタロ単調の譜面から「聴こえて」くる物語はまだ小説本来の物語の形をしているけれど、やはり演奏家の聴く音楽の一つの形にほかならないでしょう。
 そして第三次予選の風間塵のドビュッシー、たとえば「版画」の三曲目「雨の庭」の演奏の描写。 
 
 ” 突然、ふうっと気温が下がった。
   それまで客席を照らし出していた茜色の光は消え、肌寒いフランスへと運ばれたのである。
   雨もよいの庭、木々の生い茂る、午後の庭へと。
   空は俄かに暗くなり、湿った風が吹き始めたと思ったら、ポツポツと雨が降り始めた。
   やがて、風は強くなり、気まぐれに木々を揺らし、雨が木の葉を、花を叩き、何度もうなだれさせお辞儀をさせる。
   子供たちは、雨を避けて走り出す。犬も一緒だ。
   ああ、雨が降っている。
   観客は呆けたように舞台を見上げ、雨が叩きつける庭を眺めている。
   小さな水溜りができる。
   軒下から雫が滴っている。
   街角の石畳の上に小さな流れが出来、灰色の川が坂を駆け下りていく。
   さっきまでグラナダのむっとするような夕暮れの光を浴びていたのに、今はどうだろう。雨の匂い、街角の、いろいろなものが混ざり合った、北フランスの匂いに包まれているのだ。
  奏は、頬に冷たい雨粒を感じたような気がした。”

 彼の演奏を聴きながら、栄伝亜夜が「ステージの上で、ピアノのそばに立って、ピアノを弾いている彼と会話を交わしている。 」幻想に浸る描写。

 ”『僕はピアノ好きだよ』
 『どのくらい?』
  今度は亜夜が聞く。
 『そうだなあ』
  風間塵は、ちらっと宙を見上げた。
 『世界中にたった一人しかいなくても、野原にピアノが転がっていたら、いつまでも弾き続けていたいくらい好きだなあ』
  世界にたった一人。
 『こんな場所?』
  亜夜は周りを見回した。
  どこまでも広がる荒野。
  風が吹き、どこか遠くで鳥の声がする。
  うんと高いところから光が降り注ぐ。
  がらんとして、厳しくて、しかし、なぜか満たされた心地のする場所。
 『そう、こんな場所』
 『誰も聴く人がいなくても?』
 『うん』
 『聴く人がいなくても音楽家と呼べるのかしら』
 『分からない。だけど、音楽は本能だもの。鳥は世界に一羽だけだとしても、歌うでしょう。それと同じじゃない?』
 『そうね。鳥は歌うわね』 

 これもまた、小説の言葉で書かれた音楽、みごとな音楽体験だと思います。 同じような体験が本選の風間塵のバルトークの演奏のシーンでも味わえます。いや、メインキャラクターたち4人の演奏シーンのいたるところで。

 そのメインキャラクターの一人でもあり物語全体の狂言回しをつとめるのは風間塵で、この型破りの天才少年の演奏家としての出自の謎と、彼が何を考え、どんな演奏をするかが、そしてそれを周囲の人々がどう受け止められるかが、この作品のページをめくるのももどかしく先へ先へと読み進ませる誘因であり、彼がこの物語全体の中でどんな意味をもった存在なのか、それは彼の「師」であるユウジ・フォン=ホフマンの謎かけを解くことでもあるのですが~読者を引っ張っていく物語の力の源泉がそこにあることは明らかです。
 
 審査員の一人で、或る場合には物語の語り手の一人ともなる嵯峨三枝子がついにそれに気づくのですが、それはなかなか見事な仕掛けで、種明かしされる頃には、すでにわたしたちは4人のすばらしい「言葉の演奏」とその変容を逐一味わってきているので、実に深く納得できるのです。

 ある意味で影の主役であるホフマンは、ミューズに仕える老執事のような存在かもしれません。狂言まわしの塵少年に触発されて再び自分を見出した亜夜が塵の演奏するバルトークのピアノ協奏曲第三番を聴きながら彼と交わす夢想の会話。 
 
 " 先生と話してたんだよ。今の世界は、いろんな音に溢れているけど、音楽は箱の中に閉じ込められている。本当は、昔は世界中が音楽で満ちていたのにって。
  ああ、分かるわ。自然の中から音楽を聞きとって書きとめていたのに、今は誰も自然の中に音楽を聞かなくなって、自分たちの耳の中に閉じ込めているのね。それが音楽だと思っているのよね。
 そう。だから、閉じ込められた音楽を元いた場所に返そうって話してたの。”
 
 ラストシーン、少年はもう二度と来ることはないかもしれない、夜明けの海辺に佇んでいます。

 ”風はない。恐ろしいくらいに、静かな海だった。
 でも、やっぱり、ほら。
 少年は目を閉じる。
 耳を澄ませば、こんなにも世界は音楽に満ちている。
 ねえ、先生?
 少年は、そう話しかける。
 降り注ぐ光。ゆったりと蠢く雲。
 水平線でチラチラと揺れる三角形のオレンジの群れ。 
 なんだろう。世界に見ている、この濃密な何か。
 少年は目を開き、ゆっくりと周囲を見回す。
 この、命の気配、命の予感。これをひとは音楽と呼んできたのではなかろうか。恐らくこれこそが、音楽というものの真の姿なのではなかろうか。”
 
 聞こえてきた蜜蜂の羽音に、養蜂業を営む父の手伝いをしてきた彼は直感します。

 ”いつも聞いていたあの羽音は、世界を祝福する音なのだ。せっせと命の輝きを集める音。まさに命の営みそのものの音。
 僕もあそこに帰らなくちゃ。あの音が聞こえる場所に。常にパワーを与えてくれる、あの音のある場所に。
 少年はもう一度大きく伸びをしてから、くるりと海に背を向けた。
 パッと駆け出し、一目散に海から離れていく。
 ミュージック。その語源は、神々の技だという。ミューズの豊穣。
 少年はミュージックだ。
 彼自身が、彼の動きのひとつひとつが、音楽なのだ。
 音楽が駆けていく。
 この祝福された世界の中、一人の音楽が、ひとつの音楽が、朝のしじまを切り裂いて、みるみるうちに遠ざかる。”

 美しいラストです。



saysei at 17:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年04月18日

「おとぼけビーバー」と「ベッド・イン」

 ふだんあまりロック系の音楽などなじみがないのですが、「おとぼけビーバー」という聴き齧ったバンド名が面白かったので、YouTubeで聴いてみたら、リズムのノリがよくて、片っ端から聴いてしまいました(笑)。

 そのことを昨夜書いていて、とんでもない勘違いをして二つのまるで違ったグループの曲をまぜこぜに聴いていたことに気付きました。さすが後期高齢者(笑)


 おとぼけビーバーについては、「愛の暴露本~bakuro book~」がノリがよかった。
 これを聴いていて、自分でも奇妙な連想だったけれど、以前に賀茂川の河川敷に舞台を設けて茂山さんのプロデュースで歌舞伎の黎明期を再現してみせたとき、阿国の娘歌舞伎から花街の女郎歌舞伎になっていく歴史を実演してみせた中で、お座敷遊びの謎かけ歌の掛け合いをやってみせてくれたことがあったのですが、あのリズムが甦ってきたのでした。

 ”いでいで謎をかけん、花とかけては何とまた解こよの。鳴海が﨑と解こうよの。なぜに。実のなる先はまた花なれば。謎の踊りをひとおどり。”

 そんな謎かけ歌を歌っては三味線に合わせてひと踊り、「なぁぜにぃ~」は囃し方の芸妓たちが声を揃えて唱和し、それに応えてまたひとおどり、謎解きをしてみせて席へもどる、それを繰り返しお座敷遊び。あの楽しい掛け合いのリズムです。
 
 YouTubeは、ひとつ見るなり聴くなりすると、同じバンドの曲や映像をダーッと並べてくれるので、次々に拾ってみていくと(あるいは一曲終わってそのままにしておくと次に再生される曲で)、連鎖的に同じ歌手の曲が聴ける(と思っていた)ので、「パワフルズ」だとか、映像のない(CDのジャケットの静止画だけの)全部の楽曲のエッセンスを拾ったアルバムやらを聴いていたまではよかったけれど、そのまま別のユニットの音楽になっていたのを知らずに、ろくにタイトルも映像のほうも確かめずに聴いて、そのまま「おとぼけビーバー」だと思っていました(笑)。

 耳が良ければこういうことは無いのでしょうけど、だいぶ調子の違う曲だなぁ、もっと前のかな、なんて・・もともとパンクロックなんて理解の外で、ただ偶然耳にした曲が良かった、というだけだから、こんなことがいつでも起こるんですね。そのうちグループ名の違いに気づいたのだけれど、そうかバンド名を変えたんだ、と納得していました(笑)

 私が歌手の美貌やスタイルやセクシーぶりに惹かれて映像を見ていたらすぐ別人だと分かったのでしょうが、実はあまり関心がなかった。それはこちらがもうそういう関心が極小化された(笑)老人のせいもあるけれど、見栄を張って言えば相手のせいもある(笑)。で、耳だけで聴いて、いいリズムだな、と思っていたからまったく別の(人数も違う)バンドをごちゃまぜにして同一視(同一聴)していました。

 それに面白かったのは、その別の映像で、「ベッドイン@池袋手刀2014.01.05」というのを聴く(見る)と、その冒頭で、たぶんそのころ世間で話題になったトピックスから「倍返しじゃなくて・・・パイ返し」とか「お・も・て・な・し」などの言葉を拾って、丁々発止の掛け合いを舞台の歌唱とパフォーマンスに取り込んでいたのですが、これが、先のお茶屋の謎かけ歌の光景やリズムと重なって、楽曲を混同しているものだから、同じ歌手たち、作曲家たち、あるいはプロデューサーが意識して取り込んでいるのかな、なんて「深読み」(笑)してしまいました。
 
 でも、意識的にではなくても、こんなパンクロックにも江戸時代(たぶんそれ以前)から連綿とつづく、ユーモラスな掛け合いのリズムが生きているんじゃないか。歌手も楽曲も違うのを同じだと思い違いするようでは、いささか怪しい仮説になってしまいましたが(笑)、あの掛け合いのリズムは色んなところに生きているのかもしれません。

 私がごちゃまぜにした「ベッド・イン」というユニットでは、「男はアイツだけじゃない」のミュージックビデオがとても良かった。セクシーなヴィジュアルを売り物にしているユニットのようですが、自分のせいか相手のせいかは別として(笑)そういうので惹かれたわけではなさそうな私が聴いて、その迫力のある歌唱力、リズム感はなかなかのものじゃないかと思いました。

 同じユニットの、「ベッド・イン/祝!"RICH"発射記念ツアー~そこのけそこのけバブルが通る~ツアーファイナルおギグ映像(2016.12.18東京・赤坂BLITZ)」も迫力がありました。言葉はよくわかんないけど(笑)。
 
 「おとぼけビーバー」は京都出身、立命出身の歌手だとか。「ベッド・イン」と一緒にするなんて!と叱られそうだな(笑)。でも、「おとぼけビーバー」もすごいな。うちの大学ではここまで突き抜けられる子はちょっと出てこれそうにないな、と思って聴いていました(笑)。頑張ってほしいと思います。



saysei at 01:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年04月14日

「哲学の道」2017-4-14

’銀閣寺道5
 きょうは京都「哲学の道」をご案内。北の入り口にあたる銀閣寺道の落花流水。”ワァ綺麗!” 
哲学の道1
 ”ほら、桜の向こうは大文字、疎水は北へゆっくり流れていくんだ・・” 説明しながら思い出していました。”あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川・・・”

哲学の道2
 平日だけどたくさんの人がお花見に来ていました。外国の方が半分くらいの感じ。”どこの国の人やろ・・・” 言葉の響きが聴きなれない異国のことば・・

円山公園3枝垂れ
 岡崎からバスで四条へ。めったに来れないだろうし、と円山公園にも足をのばしました。二代目?枝垂れ桜。

木屋町御池
 帰りは木屋町筋を六の舟入から高瀬川沿いに下がる。”ここは立誠小学校。日本の映画発祥の地と言われて・・ほら、いまも映画の上映会をしているでしょう。玄関前の角倉了以さんの像にもご挨拶。少し歩いて、””坂本龍馬はこの辺りで高瀬川に飛び込んで命からがら刺客の手から逃れたこともあるんだ”なんてお喋りしながら、加賀藩邸跡、壱の舟入まで歩きました。

 土手下の道2
 土手下の道。夕暮れ。

 "付き合わせてしまって、少し迷惑だったかもしれないけれど・・・"

 "迷惑だなんて・・・わたしもとっても楽しかった。おしゃべりするのも聴くのも大好きなので、また誘ってください。"



 これはフィクションです(笑)
 



 

saysei at 22:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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