2016年06月

2016年06月30日

柄谷行人『憲法の無意識』を読んで

 20代のころロンドンからそろそろ帰国しようと考えて、イタリア人の友人に話したところ、、そんな遠いところへ行ってしまったら、もう君は終わりだ、と世界の辺境へ去ってしまうような言い方で引き止められた。向こうにいるあいだに、そういう彼らの感覚はなんとなく理解できる感じになっていた。そうなんだろうな、彼らから見ればまったくそのとおりだろうな、と。

 それはこれだけ交通が発達して世界がほとんど1つになったとか、情報通信が発達した情報化社会で地球はひとつだ、などという脳天気な認識とはまったくちがう実感だった。けれども私自身はそのころ異国をさまよいながら、日本のほうばかり見ていたような気がする。ナショナルな心情に冒されていたわけでもないし、懐郷の念にとらわれていたわけでもなく、洋より和が好きなんて感覚もなかった。それにもかかわらず、なぜか自分は日本語と、日本的な空気の中でしか生きられないような気がしていた。 コスモポリタンな生き方に魅力を感じず、あこがれもなかった。

 ロンドンを出て半年ほど放浪した末に帰国し、彼に云わせれば私は「終わってしまった」わけだ。日本に帰ってきていろんな人の本を読んだ。就職して日本ではよく名の知れた知識人たちとも身近に接した。ある学者は自分の著作の仏訳がパリの書店に出たことを、「日本の思想家の著作がレヴィ=ストロース の著作と並んでいるんですよ」と誇らしげに言った。私はこの人はある分野の専門家として優れているのかもしれないけれど、まったく思想音痴なんだな、と思わずにいられなかった。

 日本の思想家の本を翻訳して欧米へ逆輸出すればいい、という人がいた。自分で外国語にできなければ翻訳家に頼めばいい、と。もちろんそれはそれほど難しいことではないだろう。でもそれが何だろう?と思った。そういう人たちにとっては思想もなにか電化製品や車と変わらない文明の利器で、こちらにこんないいものがありますよ、さあ使ってみて、とPRすれば、おぉ、ワンダフル、とたちまち普遍的な意味をもつようなものであるようだ。

 こういう目で眺めていて、ずっとちぐはぐな印象、うまく論理的な言葉にできないけれど、馬鹿馬鹿しい、と思い違和感を持ってそんな人達の書物を読み、接してきた。その中で、そんな違和感なしに読める人は吉本隆明という思想家だけだということにあらためて気づいた。あとはただ自然過程にすぎない知的上昇を、ちょうど社内での出世が自慢の鼻持ちならないエリート社員のような連中にすぎなかった。吉本という思想家だけが、世界へ足を運んだことも(私の知る限り)ないのに、なぜか外国かぶれの語彙を武器にしているような知識人たちがまるで脳天気に気づかない、その目もくらむような落差に気づいているたった一人の「考える人」だ、ということが若くて未熟な自分にも直観的にわかった。

 イタリア人の友人からみて「終わってしまった」自分の立ち位置を正確に測ることができたのは、この人の言葉だけだな、と感じた。
                     *

 いま憲法論議がようやく喧しくかわされるようになってきた。憲法を改定して本音のところ自分の国を自分で守ることのできる国防軍を持ち、 またもちろん集団的自衛権をしっかり明記して国防に不可欠な軍事同盟を結んで相互の安全保障をゆるぎなくする、おそらくはその路線でわが国の国際的なプレゼンスを高めるために、北朝鮮と同じだけれども核武装にも踏み込む、たぶん保守派の最右翼はそのへんまでの長期展望をひそかに胸のうちには持っているのだろうし、そのために邪魔っけな9条だけでなく、憲法前文や各条に染み込んでいる理想主義的な平和志向や個人主義的な人権思想の匂いを全部とっぱらって、パワー・ポリティックスに立つ国家主義的な骨格や共同体へのロイヤリティを強調した文言で染め上げたい、というのが本音だろう。

 それでまずその突破口としての9条のところで、前哨戦が起きている。潜在的には第二次大戦後、朝鮮戦争と冷戦時代の米国による対日政策の転換からあと、ずっとそれは継続されてきた。それで、この柄谷の本にも引用してあるが(私も昔読んだことのあるエピソードだ)、敗戦直後には、共産党が自衛の軍隊まで失くしてはダメだと主張し、吉田茂が首相答弁で、いかなる国も自衛の名のもとに戦争をはじめなかった国はないので、自衛のためと称して軍隊を持つこと自体を禁じなければダメだと言い、いまそれがちょうど180度回転してそれぞれ正反対のことを言っている、というところまで来た。

 私はもちろん、保守派が本音のところでそう思っているかもしれないように日本が核武装したところで、別に国が守れるとは思っていない。そのことによってかえって日本は孤立するだけだろうし、無力な極東の島国であることを思い知るだけだろう。また、中国などはとうに長期的には日本の核武装は前提で考えているだろう。 

 けれども、こういうパワー・ポリティックス的なカウンター論理としてではなく、柄谷のこの本の言うところは、フロイトを援用しながら、日本人の集合的な「無意識」がこの9条の反戦条項を含む憲法を支えているので、「意識」として顕在化していたらとうに取っ払うことができただろうけれども、いくら保守政党が多数を占めたところで憲法を改定することができっこないのだ、ということらしい。憲法改定には国民投票が必要だから、それをやれば必ず改定は拒否される、という。

 はたしてそうだろうか。いますぐ9条を改定する、とっぱらう、という選択肢を掲げて国民投票をやれば、自民党は負けるだろう。けれども、国を外国の無法な侵攻から守るための緊急事態にも対応できない憲法ではだめだから、あるいはもう少し個人主義的色彩を弱めて共同体に奉仕する義務も入れましょうよ、というソフトな構えで、まず憲法を改正していいかどうか、ということだけを争点としてやりましょう、あとこまかい条文の検討はゆっくり審査会で検討して決めていきましょう、そこは専門家に任せるから国民投票は要りません、という具合に進むことはできない?いくらなんでもさあ9条の非戦条項を撤廃するか否か、という争点で選択を問いはしないでしょう。

 超自我は絶対的であるかどうか。超自我が外れるのはどんなときなのか。

 そもそもフロイトが個人の、いや吉本さん流にいえば対幻想の問題として定式化した自我とかエスとか超自我の話を、無造作に共同体の、つまりは共同幻想の話にぽんともってきていいものかどうか、とは思うけれども、私のように観念的な人間には、こういう「論理」というより、ある種の妄想的な喩のように感じられる見解というのはとても面白いし、なぜ第二次大戦後しばらくしてから米国も保守派も50年も60年も 武装日本を作りあげて共産主義への防波堤にしようとしてきたのに、なぜできなかったのか、ということへの納得できる答えがなかったことに対して、直観的にぴったりはまるような喩だと感じる。

 戦争は二度といやだ、という体験したものの思いが風化していくはずなのに、なぜこういう桁外れ、オクターブが一段も二段も高いような「理想主義的な」憲法を改定できないのか。保守派はそれは米国の軍事力の傘に守られて平和を無自覚に享受してきたからだ、というような答え方をするだろうけれど、そういう既得権に慣れて平和ボケしている、という保守派の言い分もそれほど説得力をもたない。

 では米国がトランプ大統領になって今よりずっと内向きになり、 日本が費用負担しない基地を引き払っていって、尖閣諸島に中国が侵攻してきたら、私たち日本人はたちまち憲法改定に傾き、9条を撤廃し、防衛軍を組織し、核武装を、と言うようになるだろうか。それしか道はないだろうか。

 パワー・ポリティックスの考え方からはそれが「現実的」な道行になるのかもしれない。しかし、それはそれで、多少時間的な猶予を私たちに与えるかもしれないけれども、確実に滅びに至る道だろう。また、あの友人の目のように、諸国の目には、辺境の島国が「終わってしまう」だけのことだろう。

 私は学生時代にいわゆる「反戦デモ」に類するような意思表示を、ベトナム戦争たけなわのころだから、したことがある。そのころから、この憲法の問題は、つねに保守派の攻撃にさらされ、いわゆる革新政党の側は平和を守るということと、保守派を保守反動と罵ることについては別にどうということはなかったけれども、じゃお隣さんが攻めてきたらどうするんだ?というパワー・ポリティックス的な問いに対して、まともに同じ次元で答えられないという弱みがあることに、直観的にはずっと気づいていた。それは誰だってそうだったろうと思う。

 そういういいかげんさを自分たちに許していたのは、まだ「革命」を経てきたソ連や中国の歴史的進歩性というものに日本の進歩的知識人たちの多くにも、学生だった私達にも幻想が残っていたからだと思う。

 保守派のほうがどうみても論理的には現実的にみえ、それに反論する進歩派の非武装中立論は理念的で非現実的 にみえた。それは保守派を嫌う立場からは、いつか正面から見据えて現実的な反論ができなければおかしいのではないか、しかし「現実的」な議論の地平に引きずり込まれると負けてしまう、というジレンマを抱えていたと思う。

 そういう長い時間の中での経緯を振り返るとき、柄谷の仮説は直観的な根拠を与えてくれるようにみえる。

 私は別に国士的キャラの人間ではないから、これからの日本、なんて考える柄ではないけれども、イタリアの友人の目に「遠い辺境に去って終わってしまう」人間とうつる自分にとって、何ができるのか、どんな存在でありえるのか、と考えてみれば、いまではこのあらゆる戦争を放棄する、という世界に類のない条項をもち、1オクターブ高い「理想主義的な」平和主義と人権主義で染め上げた憲法の言葉を世界へ差し出す以外にない、という柄谷のこの本の、こんどは贈与論を武器にした独特の論理から導かれた結論に賛意を表したいと思う。

 柄谷は別途進めてきた人類史にみられる交換様式についての巨視的な考察をベースに、日本国憲法を差し出すことが国際社会に対する贈与であり、その純粋贈与はいわばどんな権力、武力よりも強い呪力のような力を持つのだと言っている。実に面白い。彼の交換様式論をまともにたどる用意はないけれども、この「理想主義的な」日本国憲法が、逆にそれゆえに現在の世界にあっては現実的な力を持つのであって、保守派が考えるようなパワー・ポリティックスに立脚した憲法などは逆に非現実的なものにすぎない、という鮮やかな逆転が、目から鱗が落ちるように、直観的に真実だと思わせるだけの魅力を持っている。

 現在の日本を30年代の再来のようにみなすのは誤りで、日清戦争、日露戦争前夜の光景の再来なんだ、という60年ごとの「平和」な時代と「帝国主義」の時代が交代するという120年サイクル論をもっとはるかな昔にまで遡って展開するくだりなども、ちょうど大学に入った頃英語の授業で読まされたトインビーの歴史の研究のエッセンスのように気宇壮大な話で、こちらにその当否をあげつらう知識も見識もないから、ほんまかいや、と眉に唾つけながら読みはしても、これまた大層面白い読み物だった。

 柄谷のほかの著作は論理的な厳密さを数学基礎論のように追い詰めるかのような反復的な、迷路を堂々巡りするかのような文体でまことにたどるのが一苦労だけれども、今回の新書は、いくつかの講演を編集してつくられたようで、その分口頭で一般の人にわかりやすく伝える配慮があるせいか、珍しくわかりやすく、楽しんで読めた。
 カント、フロイト、マルクス、ウォーラーステイン等々と歴史的な思想家に寄り添いながら、それらを特定の分野の専門家としてではなく、連想結合的に思考の通底する部分で自在に引っぱってきて展開する叙述や柄谷自身の展開してきた交換様式論などをベースにした展開は、こういう抽象的な思考に慣れない人にはわかりにくいかもしれないけれど、少し慣れれば、先に述べたような妄想的喩のような観念の網で従来の考え方や史実を捉え返すことで、目から鱗のように、非現実的に見えた憲法がとてもリアルな存在感を持つものに見えてくるかもしれない面白さがあるので、若い人にはおすすめ。

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2016年06月29日

いまおかしんじ監督「つぐない~新宿ゴールデン街の女~」

 新宿ゴールデン街で小さな飲み屋「罪ほろぼし」を営む年増の女、霞(かすみ)の店。常連が他愛無いやりとりをして騒いでいる中、このへんではみかけない女が店の周囲にそぐわない、いかにも訳ありの女といった感じで座っている。

 

 これが、自分を裏切った愛人を殺そうとして、その男の女を殺してしまって刑務所に入り、刑期を終えて出所した女、東子(とうこ)。

実家山梨へ帰ろう帰ろうとしながら、「なんとなく」新宿ゴールデン街で飲み屋を経営する霞(かすみ)の紐になっている男(郡司)のところへ戻ってきてしまったのだ。

 

彼女はいわば現在という時間に突然闖入してきた過去であって、淡々とした日常の淀んだ流れに放り込まれた小石のように波紋を生じる。

すねに傷持ちながらそれを隠し、そのことに互いに触れないことを暗黙のルールに、顔見知りと慣れ合いの笑顔を交わし、言葉をかわし、ともに食べ、ともにセックスをし、退廃的でもあり、どこか逞しくもあるようなこの街の住人たちの日常生活に投げ込まれた異和のように。

 

 かつての愛人郡司は彼女に、何しにきたと冷たく言い放ち、二度と来るなと拒む。しかし東子はすぐに実家へ足を向けることができず、彼女につきまとう女たらしの山科という男にずるずると付いて行き、関係をもったり、かすみの店を再度訪ねたり、ゴールデン街を徘徊する。彼女はこの街でどこにも居場所がない。

 

 ただ受動的に女たらしに連れられ、郡司の過去に引き寄せられて、この街をあてどもなく徘徊するしかない。実家へ帰ろうとしながら帰れず、男を、この街をふっきれないでいる女の気持ちがふっきれるまでの話だ。でも、よくできている。

 

 人間はだれしも多かれ少なかれ、この街の住民に似て、あばかれたくもない、忘れてしまいたい過去をひきずりながら、それを隠し、自分でも見ないようにして生きている存在なのだろう。

 

それでも過去は消し去られてしまうことをいわば生理的に拒む。霞という女はちょうど東子が刺し殺した女とおなじように、腹に刺された深い傷跡があり、それを交わる男にいたぶられると極度の快感か耐え難い苦痛か境が無くなるかのように肉体が激しく反応する。

 

霞を抱く郡司の行為は彼の生きるしたたかな日常性の強い存在感を伝えてくると同時に、その物狂おしい行為のありように、彼自身の引きずる過去が強いる生理のようにも見え、ある種の切なさを感じさせる。

 

私たちこの作品を見る者は、そうやって過去を引きずり、過去にある種の生理的な痛みを強いられながら、そのことを隠し、現在をひっそりと、でもその生理を養うためにめしをくらい、セックスに励んで、或る意味で逞しく生々しく生きている彼らの姿に、小さな「つぐない」を積み重ねながら生きている姿を見て取ることができる。

 

そして、東子が山科の実家へ帰ることを決意して、最後にナイフを握る手の形をつくり、送ってきた郡司にぶつかっていく素晴らしいラストシーンに、東子が男の「つぐない」の日々を納得して自分の思いをふっきったことを、或る愛おしさとともに理解する。

 

 彼らの「今」は、日々一緒に食事をし、一緒にセックスをし、客を相手に愛想笑いしながら他愛無い馬鹿話をして過ごす、バタ臭い日常生活を生きるだけ。私が一番好きな場面は、郡司と霞が狭い部屋の食卓で向き合って、まるで愛しあう平穏な夫婦のように食事をする場面だ。けれど、その二人の間にも、別に揺るぎない安定した愛情とそれに裏打ちされた生活などがあるわけではない。

 

 東子はこういう彼らの表面からは隠されてきた生理を呼び起こし、ささやかな波紋を生じる。なぜいまごろになって、忘れてしまいたい過去をほじくり返す?それが郡司(たち)の戸惑いと拒絶の言葉だろう。それでもうずく生理があり、揺れ動く心があって、波紋が広がる。

 

 過去の生々しい映像があるわけではない。生々しい形で過去が現在に侵入してくるわけでは、もうない。東子の居場所はもうない。女たらしの自堕落な男の相手をするくらいしか、いまの東子の居場所はない。それはただ東子を傷つけるだけだ。(その男も放火をしてそのことを隠してきた過去を引きずっているのだが・・・)

 

 一方、霞は、つねづね自分が好きだ、と公言していたなじみ客の若いエリートサラリーマンの気持ちに沿って、彼が一人で住む家に行き、交わるが、彼を拘束もせず、彼に拘束もされず、これまでどおりの距離感をきっちり保とうとする。そこにあるのは愛でも裏切りでもない。いまという時だけを生きる若い男を、今と過去を同時に生きる自分の世界へ引き入れることを潔しとしない、むしろ潔癖なけじめがある。

 

 両方の世界、見に見えない境をまるで目に見える境界線があるかのように、くっきりと区別し、立ち入らず、立ち入らせない。これは郡司が東子を拒むのと同じだ。東子は完全に過去に生きているが、男は過去をひきずりながら現在に生きようとするから、東子を拒んでいる。

 

 郡司も霞も過去を引きずりながら現在を生きるしかない。その現在は彼らの食事の場面やセックスの場面になによりも生々しい存在感をもって表現されている。この日常の強さが、“劇的であること”を拒んでいて、過去の重さと拮抗している。それは同時に、この作品がセミポルノとして作られながら、ポルノで終わることを拒んでいる。 



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2016年06月26日

キム・ギドク「殺されたミンジュ」は・・・

 映画館でみないでDVDで見てあれこれ言うのもどうかと思いますが、あまり大きな画面で見たくない映画というのもある(笑)。

 冒頭に少女が複数の男たちに追われ、残酷な殺され方をするシーンが置かれ、そこまでは犯罪もの、刑事ものの映画でありきたりのシーンのように見ていて、いやだけれども現実には日々起きているような事件ですね、と見ていられるけれども、そこからがこの監督のいつものあらぬ方向へぶっ飛んでしまうような、非現実的な設定と、これでもか、これでもか、というショッキングな暴力シーン。

 少女を殺した男たちをひとりずつ捕まえては、五寸釘みたいなのが突き刺さった棍棒でぶん殴ったり、汚れた便器の水に頭を押さえつけて無理やり入れて溺れさせたり、電流拷問機械にかけたり、金槌で思い切り狂ったように手の甲を叩いて叩き潰したり、足を動けなくして五体を割くほど鎖で上半身をギリギリ 引き上げたり、まぁありとあらゆる拷問をして、それぞれ一枚の紙に、少女を殺した日に自分が何をしたかを書かせる、ということの繰り返し。

 少女を殺した犯人たちはみな「上の指示でやった」という、どうやら一本の線でつながる権力のヒエラルキーの末端から上へたどっていけるような連中らしく、これが最後のやつかと思えば、その彼もまだ「上の指示」と言う。

 他方、彼らをいためつける側は、最初は米軍の進駐軍(なつかしい言葉!・・笑)のような格好をしているから、そんな連中かと思えば、ヤクザの格好をしていたり、韓国軍の情報部の連中であるかのように相手が誤解するような服装であったり、色々「変装」(と作品の中で登場人物が言う)している。要するに全部フェイク。

 だけど、やっていることは相手の肉体の部分を潰すようなあからさまな暴力だから、やるほうの精神にも反作用があるし、見ているこちら(観客)のほうもフェイクとはいえない「痛み」がある。

 だんだんと復讐?するほうの得体のしれない、寄せ集めの連中の間で、中心人物であるチーム長についていけない若者が出てきて、最後は四分五裂、チーム長一人になってしまう。彼は街を見下ろす山の岩の上で座禅を組み、溜め込んだ「痛み」を、絶叫して吐き出しているときに、そこまでの暴力の権化みたいな彼の跡を継いでいくだろう 若者に殺されてしまう。

 必殺仕置人みたいな拷問チームの連中だが、先の少女を殺した連中のようなヒエラルキー的組織を構成せず、一見そう見える(最初は反共武装組織みたいにみえ、そんな掛け声もかけあっていたから)けれども、契約みたいな形でルールを決めて集まってきた(チーム長が集めてきた)寄せ集めの気弱な連中で、昼間の日常生活の中では 強者にいつも暴力を振るわれたり軽んじられて自尊心をずたずたにされたりがんじがらめに拘束されたりしている弱者だ。

 だからチーム長に暴力で支配されているわけではないし、それ以上やったら殺してしまう、殺したら大変だ、などと、やっていることとは裏腹な臆病なぼやきをチーム長の前で言うこともできる。このチームは「民主的」なのだ(笑)。

 だから、この連中が私たち自身の戯画ということになるのだろう。

 たしかにこの映画で繰り返される残虐なシーンは痛みを感じさせるし、その共有(共感)だけがこの監督の狙いなのかもしれないけれども、まともに見ていれば吹き出してしまうような戯画としての滑稽さを感じてしまう。でもそれは監督が狙ったものとは少し違う種類の滑稽さだという気がする。私たちが滑稽さだと思う部分で監督はむしろ大真面目なのだ。

 映画を専攻する映画学校や芸大の学生がつくる自主制作映画など(ごくごく稀にしか見たことはないが)を見ていて、ひどく残虐なシーンとかあるような大真面目な映画で、つい笑ってしまうようなところがある。普通はプロの映像作家なら決して残さないそういう尻尾が残っていて、作り手のねらいとは無関係にそのへんでにょろにょろとまだ尻尾だけ動いているような滑稽さ。私とは誰か?なんて・・・

 なにはともあれ、この映画は最初から最後までへんに理屈っぽい。社会批判めいたセリフがあったり、制作意図があったからといって、作品にハンディをつけて見てあげることはできませんよ、監督!どんなに苦しんで作ったかも関係ない。

 もちろんリアリズム映画ではなくて、この監督が他の作品でも特徴的な方法として採用している、一種の現代の寓話なのだが、率直に言って、寓話になっていない。 単なるベタな喩え話にしかなっていない。

 今までに見たキム・ギドクの作品の中で唯一、現代の寓話になっている、と思ったのは「悪い男」だけだった。そこにこの映画のような「喩え話」はない。

 あの映画も最初から最後まで暴力満開といった映画だけれど、へんな理屈っぽさも、ベタな喩え話もない。ただ男の狂おしいまでの女への想い、いや欲情と言っていいけれども、彼の肉体や性欲と吊り合わない、それを超越してしまうような、したがって、あくまでリアルでありながら、その極限で超越的な、むしろ聖なる、と言ってもいいような神の如き欲情に転化してしまうような想いが、ほかにどんな表しようもなく直接な暴力となって画面いっぱい炸裂する。

 女はそこでは徹底的に暴力に犯され、屈服させられ、汚され、汚辱の底へ沈んでいく。すべてを奪われ、頽廃と諦念の極限まで堕ちていく。そのときに観客の目にうつる光景に奇跡は起きる。そのとき女はほとんど聖マリアのように感じられる。

 「嘆きのピエタ」を映画館でみた時に、新聞でプロの映画評論家があまりべた褒めばかりするので、あれは褒められすぎ!とこのブログでつぶやいた記憶があるけれども、あれはそれほど悪い映画ではなかった。男優がとてもよかった。同じように現代の寓話だったけれど、中途半端なところが気に入らなかっただけだ。

 「悪い男」にはそんな中途半端なところがなかった。だから、それよりあとで作った「嘆きのピエタ」はもっといい作品を作れたはずじゃないか、という思いがあった。

 今回見た「殺されたミンジュ」はもっと最近の作品ではないだろうか。そうするとますます気に入らない。でも気になる監督なので(笑)次に新作が出たらやっぱり見るだろう。こんな気にさせるなんて、キム・ギドクは悪い男だ。こんどこそ、「悪い男」よりいい作品を作ってくださいね。 

saysei at 19:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年06月24日

ポール・スミス~雑貨的デザイナー

PS近代美術館


 京都国立近代美術館でポール・スミス展を覗いてきました。

 パートナーによれば、二人の息子たちが高校生か大学生になってからか、スーツもなければ革靴もなく、卒業式だったか葬式だったか忘れたけれど、スニーカーで、というわけにもいかないから、黒靴を買っておいで、と言ったら、別々に行ったのに、そろいもそろって、二人ともポール・スミスの同じ靴を買ってきたのだそうです。若者の間で流行っていたんでしょうかね。

 30代になっていまでも、まだふたりとも黒靴はその一足しか持ってないんじゃないか(笑)
    次男などは卒業式も結婚式も葬式も黒のスーツは同じのを着ていたようだし、娘のピアノの発表会にも葬式のとき着ていった黒スーツで来たので、さすがにパートナーが見かねて、スーツもう一着買っときなさいとなにがしか渡したらしいけど、たぶん映画に消えたか楽器に消えたか飲み代に消えたか(笑)、フォーマルな服装にはまるで関心がなく、そういうことにはまるで頓着しないし、高校生くらいから結構オシャレな店に出入りしていたけれど、私服の高校だったので、スーツなんてのはまず着ることがないせいでしょう。

PSアトリエ


 ところで、そのポール・スミス、世界各国の店の写真があってその違いが面白かったし、デザイン工房が再現してあったりして、そういうのは面白かったけれど、一つ一つ見ると、どれも一種の既視感があって、どっかで見たなぁ、という感じです。

 アリがゾロゾロ列をなしているやつなんか、もっとシャープな形でほとんど同じようなアーチストの作品を見た記憶があったし、カラフルな自動車が部屋の真ん中にデンと鎮座ましましていたけれど、あれなんか、ロンドンのテームズ川のほとりにあったときのサチギャラリーの入り口をはいった階段に落ちそうな危うい感じで置いてあったダミアン・ハーストの水玉模様の車を彷彿とさせながら、ダミアン・ハーストの作品の強烈なインパクトに比べるとどうにも陳腐な、すでに市中を走っている変わり者の若者が色を塗りたくっただけの車のように見えてくるのでした。

 でもそれだけどれもこれも、私達の凡庸さに見合って親しげな顔つきをした色形であって、抵抗感はどこにもありません。とんがったところもどこにもないけれど。

 彼の店にいくと、例えば服飾店であっても、そこにいろんな異なる種類の商品があって、「いつも発見がある」というのが今でも変わりません、というようなことが書いてあって、なるほどな、はじめたころはそういうのが珍しかったのかもしれないな、と思いました。

 たとえば、うちの近所に「けいぶん社」という左京区で有名になった書店があるのですが、そこは本や雑誌だけでなく、CDもあるし、両側に隣接してつながっている売り場は雑貨を売っています。小さな地域の書店でしたが、若い女性店員に仕入れや棚のしつらえを任せ、雑貨を置くようになって、どんどん人気が出て、いまでは遠くからわざわざ電車に乗って、おしゃれな格好をした若者がこの書店を訪れ、前で写真をとったりしています。

 あれはまさにポール・スミス的なショップづくりですね(笑)。いまはあぁいうのがどこも流行っています。書店にカフェがあり、雑貨を売っている。逆にカフェに本を置き、アンティーク雑貨の小物を置いて売っていたりする。女子大生に駅の改修で新しい空間をつくるとすれば、どんな機能がほしいかと尋ねれば、まずカフェ、書店、雑貨の店、できればそれが全部融合したようなの、というふうな解答がトップを占めます。これも「ポール・スミス的」現象ですね(笑)

 私はデザインにもポール・スミスにも全然くわしくないので、もともとこういう流行の口火を切ったのが彼なのか、もっと広範な時代的な趨勢の中で起きてきた現象を単に彼が彼流のやりかたでなぞっているのかは知りません。

 でも結果的に、こういう美術展としてながめさせてもらって、今の時点で切ってみれば、このデザイナーは雑貨的というのが何か一番ぴったりくるような人だな、という印象でした。親しみやすいし、実際親しみやすそうなおじさんでしたし(笑)。

PSアトリエ2



  

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2016年06月23日

小澤雅人監督「風切羽」

 きょうゼミのことで気がかりだった疑問が氷解して不安がなくなり、ほっとしたので、前に借りてきて見ていなかったDVDを見ました。なにか新しい日本の作品がないかな、と思って手にとって、キャッチコピーを見て勘で、良さそうだな、と見当をつけて借りてきていたのです。

 当たり、でした。いい作品だと思います。秋月美佳という若い女優さんを私は知らなかったのですが、その良さをこれだけ引き出しているだけで、見応えがありました。

 ほとんど生まれてきたことが災難のように親に捨てられ、「施設」にがんじがらめに縛られ、羽を切られてかごに閉じ込められたインコ(あまりに露わにその映像が出てきてしまうのですが)のように取り巻く世界のすべてから拒まれて心に深手を負う孤独な少女の一日の逃避行と、そのあいだに出遭った同じように傷ついた少年の間に生まれる束の間の交感を描いています。

 愛に飢えて乾いた少女の絶望的な孤独とその胸の底からの叫び、少年とのささやかな交感で一瞬溶けていく少女の心を、この女優さんが体当たりで好演しています。
 もちろん本当に深手を負った現実の少女の多くは、こんなに内側からあふれるような輝き、美しさを持てないだろうし、もっと屈折し、ひねくれ、醜く汚れているでしょう。こんなに健康な生命の輝きに満ちた身体を持つこともできないでしょう。

 でも世界のすべてから拒まれ、傷つき、万引きをし、好きでもない男と交わり、人に裏切られ、裏切り、閉じた世界に目も耳も閉ざして頑なにこもってみても、そこで薄汚れ屈折し醜い存在になるはずの彼女を、この女優さんの健康な身体が、汚れない美しさ、いのちの輝きが、裏切ってしまう。

 そのために、この少女の傷ついた心のさらに向こうにひそんでいる愛への渇望が、非常に純化されて伝わってきます。

 つまりそれは、こういう役にこういう健康美あふれる女優さんを使うのはミスキャストじゃないか、というリアリズムから言えば言えそうな、微妙で危ういところがあるとも言えるかもしれませんが、私はそんなふうに逆にとらえて、そこがいいと思ってみていました。ある意味でこれは現代の愛のfairy tale、おとぎばなしなのですから。

 私の大好きなシーンの1つは、この少女がスリップ姿で鏡に向かう場面で、背中には幼い頃、姉に熱湯をかけられてできた大きなケロイドがみえる。彼女が鏡の前でバレエのような手の仕草をしてひとり楽しむシーンです。すっと伸ばされた腕、手、指がとても美しく、見惚れてしまいます。きっとこの人はバレエの経験があって、それも若いけれどかなり年季がはいっているだろうな、というのが一瞬でわかるようなところがあります。

 こういう場面をしつらえる、ということ自体が、監督がこの少女を堕天使と見紛う境遇に置きながら傷ついても汚れない愛の妖精として描こうとしていることの証だという気がします。

 もう一つは、やたら通りがかりの知らない人をつかまえては「ぼくのことを知りませんか?」と「自分探し」をしている、実はこれも心に深手を負う少年と出遭い、自転車に乗せてもらって街を行くうち、少女がかつて交わった中年男など不都合な連中に次々に出遭い、そのたびに少年の背中をたたいて、はやく行け、と促して逃げだすことを繰り返しているうち、何も言葉もなく、ただ激しく少年の背を後ろから少女が叩き続ける場面。あそこは繰り返し見ても素敵な場面です。

 少年が自転車を放り出すと、歩き去ろうとする少女に立ちはだかって押しとどめ、向き合う、はじめて少女の心が解けて、心が通い合う場面です。ふたりとも無言だけれど、観客には二人の気持ちの高まりと炸裂、そして解けていく少女の気持ちまで、鮮やかに伝わってきます。

 少年の父親がからんで、二人で殺して埋めたと思える場面で、大人なんて全部死んでしまえ、と二人で叫びながら埋めた地面を踏んづける場面も悪くはないし、その絶叫の場面のあとの闇の中で寄り添って座る二人をバックから横顔ととらえて、囁くように少女が、むかしインコを飼っていてね・・と語る場面とその声もいいですね。

 そしてラスト、やっぱり再度母親の家に帰っていって、招き入れられ、そこに籠にはいったインコがいて、よう、久しぶり、と、あの終わり方もいい。

 もちろんロードムービー的なカッタルイところがないかと言えばあるし、ああいう施設に入れられているとか、それでお金の管理がどうとか、そういう設定はいくらなんでももうちっとなんとかならんか、とか、ラスト以外のインコの使い方や、置物のインコだとか、あのへんのいい加減さはなんとかならんか、とか、作品の完成度を求めるような見方をすればイライラするところはいっぱいあります(笑)。

 でも私はこの監督は知らないけれど、きっとまだ比較的若い(この映画をつくったときは)のではないかと思うし、ある意味では自主制作映画みたいな、プロのベテラン監督なら決してやらないような未熟な尻尾を残したようなところがあるような気がしますが、この女優さんをこれだけ美しく輝かせた功績は高く評価したい(笑)。

 
 
  

saysei at 00:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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