2016年05月

2016年05月16日

葵祭



2016-5-15 葵祭 2

 京都で「まつり」と言えばいまでは葵祭と呼ばれるこの賀茂の祭。天武天皇以来、官祭として行われてきたといいますから大変なものですね。それでも応仁の乱で200年間前後中絶して再興されたのは元禄七年といいますから、応仁の乱というのがいかに凄まじいものだったか逆に伺えるような気がします。京都の人が「この前の戦」といえば応仁の乱のことだ、という冗談がありますが、たしかに京都全土がそこまで焦土になるようなことはそれ以降なかったのでしょう。

2016-5-15 葵祭 傘

 賀茂の祭、平安時代から華美になりがちだったようで、たびたび「過差」をいましめる指示がだされていたようです。

 右衛門督が来て云ったことには、「天皇の仰せ言に云われたことには、『賀茂祭の際に祭使が調達する童や雑色人など、供奉の者を数多く随身することを制止せよ』ということです。」と。天皇は「早く検非違使を召して命じなさい」とおっしゃった。「また、見物の者の中に、車を新調した者が有った。同じく制止すべきである」とおっしゃった。(「御堂関白記」寛弘元年四月~倉本一宏訳)

2031

 大切なイベントですから、道長も毎年、この日のことや前日の貴族たちの賀茂詣のことはこまめに記録していたようです。

 翌年も書いています。今と同じように桟敷に座って見物したのですね。

 枇杷殿の西対から、賀茂祭使雅通を出立させた。公卿八人が来られた。出立の儀が終わって、帥が来られた。同車して、公卿と同じく桟敷に到って祭列を見物した。(同前寛弘二年四月二十日)

2016-5-15 葵祭 傘

 以前に見物したときは、昼ころ下鴨神社へ行ったら、行列の人たちが昼食でのんびり休憩している光景がみられましたが、きょうは神社の中は予約なのか桟敷がいっぱいで入れません、と神社の入口でシャットアウト。朝車をいれた人も出せなくて困っていました。

2016-5-15 葵祭3

 一度家に帰って私も昼食をとり、2時過ぎにまた下鴨本通りへ戻って、歩道から見物することにしました。目の前を行列が通るまで半時間ほども前にパトカーがゆるゆると行き、車道に出るな、歩道の縁石からはみ出すな、とアナウンス。
 さらに何人もの警官や行列の主催者側の係員がうるさくフラッシュをたくな(牛馬が驚くから)、歩道の縁石から足がはみ出さないようにせよ、と耳タコになるくらい言って回ります。まことにご苦労様です。でも、さっさと行ってくれない?撮影の邪魔なんですけど(笑)

2016-5-15 牛車

 各山鉾町がそれぞれ工夫をこらしたお宝や大小の山鉾を見せ、祇園囃子も聞ける祇園祭や、様々な時代風俗で著名な歴史上の人物のコスプレを見せてくれる時代祭りの派手なパフォーマンスもなく、ただただ平安朝のコスプレで舞も音曲もなく歩いていくだけの地味といえばこれほど地味なイベントもないような祭礼ですから、私の近くにいたよそから来られたらしいおばさまが、「え?これで終わり?」(笑)

2016-5-15 葵祭4

 あっけなく終わってしまった「平安絵巻」に、なんだか肩透かしをくらったような表情で腰を上げていらっしゃったのが印象的でした。
 でもこれは庶民がワイワイはしゃぐ類のお祭りではないのでご容赦を。おそらく水を司る賀茂の神様を崇める厳粛な祭礼なのでしょうから。

 以前にテレビで大学の研究者が京都の地下に硬い岩盤とその上に堆積している分厚い砂利層には琵琶湖の水量ほどの水が蓄えられていることを実証的に確かめたというのをやっていて、感心して見たことがあります。別のあるとき、市内の発掘現場の写真をみたら、もういたるところ穴だらけの写真で、何だといえばそれがみな井戸を掘った跡で、考古学をやっている人の話では、市内はもうどこを掘ってもいたるところ井戸跡の穴ぼこだらけなのだと聴いて、京都盆地水瓶論の映像と結びついて、ははぁと納得できました。

 京都の美味い酒、とうふ、菓子、それに友禅染など繊維産業等々、みなこの巨大な水瓶に蓄えられた水のおかげなのでしょう。下鴨神社、御所、神泉苑と一直線につながる水脈や、空海の雨乞い勝負の話など、みんなつながってきます。そうすると今昔物語の世界が古臭い古典の世界から目の前の光景のように蘇ってくるような気がしてきます。あの安倍晴明や神泉苑の大蛇までが。
 

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2016年05月14日

宮下奈都『羊と鋼の森』(読後感)

羊と鋼の森

 

 「森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。」

 

 冒頭の1行で作品がわかる、と豪語する人がいますが、この小説はまんざらその言葉が嘘ではないかも、と思わせるほど、この正確には2行の出だしが作品全体の雰囲気を伝えてくれます。この印象は最後まで読んでも変わりません。

 

 森の匂いや葉ずれの音、どこからともなく聞こえてくる不思議な響き、湿った空気の肌触り、木の葉をきらめかせる陽光、踏みしめるやわらかな土の感触等々、自然に育まれた青年があるとき偶然耳にした調律師の弾くピアノの音に「森の匂い」を感じて弟子入りし、ピアノ調律師としての天賦の資質を育てていく物語。

 

 とても美しい物語で、私たちの知らない調律師の世界が知識としては私たちと同様に何も知らないままその世界へ入っていこうとする青年の目を通して開かれていきます。私たちも子供や孫のピアノのメンテナンスで調律師には何度も接していますが、よけいなことは言わずにただ調律して帰っていくこれらプロの職人たちの胸にどんな思いが去来しているのか、その日々の研鑽がどのようなものであるのか、まるで知らぬままです。

 

この作品を読む楽しみの一つは、そのよく見慣れている職業人なのに、まったく私たちにとって未知の世界に、主人公である類稀れな資質を持ちながら調律師としてはまったく入門したての青年と共に足を踏み入れる楽しみであることは疑いありません。

 

そして、彼のまっすぐで柔らかな心と澄んだ目でとらえられる調律師たちやその顧客ひとりひとりの個性と置かれた状況が繊細に描き分けられ、そこでくっきりと立ち上がってくる調律師たちひとりひとりの個性と個性の、また和音・由仁の姉妹の間の美しく調和しているようにみえた思いやりと思いやりとのあいだに生じる微妙なズレとそれが修練を積んだ調律師の手にかかったピアノのように調律されていく物語がこの作品の柱になっています。

 

或いはその物語にあまりにできすぎた予定調和的なものを感じてしまう読者があるかもしれません。また冒頭の2行でも知られるように、その文体がいかにも古典的な意味で「文学的」な匂いのすることにかえって閉口する読者もあるかもしれません。この作品が必ずしもいわゆる純文学の分野で社会的に確立した名高い文学賞を受賞したり、プロの文芸評論家が称揚するようにも見えず、いわば一般の本好きの読者による読者賞の代表のような本屋大賞を受賞しているのも頷けるような気がします。

 

音の響きを言葉で表現するのがいかに難しいか、ということも、この作品を読んでよくわかります。作者はそれを「森の匂い」に象徴されるような、主人公の田舎育ちの青年の自然との交歓で育まれた感性にもたらされる五感を総動員して描き出そうと苦心し、チャレンジしてよく健闘しています。

 

それでも私という読者の「耳」がよくないせいか、板鳥さんの神業のような、或いは「ピアノを食べて生きる」というまでに自立した和音(かずね)の精妙な音の響きが、私に「森の匂い」を体感させるまでには至らず、とりわけ最後に近づくにつれて、いくらか誇張された修辞としての言葉が反復されればされるほど、逆にそれまで五感を浸すように思えた匂いや音が褪せていくように思えてしまうのは私だけでしょうか。

 

私がこの作品で一番好きなところは、主人公の青年外村が北川さんに言われて「少々問題あり」の新規の依頼人である二十代の男性の家を訪れるエピソードです。

「ねずみ色のスウェットの上下で、髪は起き抜けのぼさぼさ」の「笑みも交わす視線も、言葉もない」青年、その部屋に置かれていた似ても似つかないように見える彼の少年のころの明るい笑顔の写真。なにかの事情で15年間も調律されず、内部は埃だらけで音も狂いっぱなし、でも弾かれた形跡のあるピアノを外村が調律して、青年が弾き始めると、その顔に驚きがあらわれる。青年は大きな身体を丸めたまま、ショパンの子犬のワルツを弾く。その姿が外村の目にはしゃぐ「大きくて不器用な」子犬のように見える・・・

 

物語のメインストリームの脇に置かれた小さな素敵な挿話です。青年の事情については一言の説明もありません。でも、いやだからこそ、素晴らしい。その少しあとに外村なりの「解釈」が1~2ページ続く。それは私好みではなくて、このエピソードだけでいい、あとは読者に任せて、と思うけれど、まぁ新米の調律師外村のビルドゥングス・ロマン、成長物語としての性格の物語なのですから、大目に見てください。

 

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

 

外村が崇拝に近い感情を抱く板鳥が「目指す音」を尋ねられて答えるこの言葉は、原民喜の文章の一節で、この作品の中で何度も登場します。読者はごく自然にこれは作者の「目指す文体」でもあるのだろうと重ねて読むでしょう。

 

この作品は、この言葉のような理想を達成することができたでしょうか。「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体」・・・私はここまではこの作品が達成したと一読者として感じながら読みました。その先を語るのは、いつか同じ作者の作品を次に読むときの楽しみに残しておきましょう。



saysei at 18:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年05月13日

スナップショット(6)梅棹忠夫

  梅棹さんの著作で最初に読んだのは「文明の生態史観」だったと思います。西欧社会と日本社会のパラレルな発展を捉えてみせたその著作は、単線的な歴史の発展段階説のような図式に慣れていた目に新鮮ではあったけれど、惹かれはしませんでした。

 

社会の内蔵矛盾による内的な発展という時間軸に沿った発展段階説的な考え方には、それなりの魅力があって、世界地図を広げて俯瞰するような梅棹さんの空間的思考には目新しさは感じたけれど魅力は感じなかったのです。

 

私はかねがねモノを考える上での資質に、時間軸に依るタイプと、地図で空間的な一覧をするような思考が得意なタイプとがあると思っていて、それは空間認知の能力と関係があるのではないかと何の学問的根拠もなく考えているところがあります。

 

私自身は空間認知が全然ダメで、小学校のころから展開図を見てどんな立体が組み立てられるのかを考えるような問題が一番苦手でした。

地理も大の不得意で、いまでも忘れられないのは中学一年の最初の定期試験で、東海道線に乗って大阪から東京へ旅をした。車窓から右手には○○がみえ、ほどなく左手には△△が見え、というふうに巧みに地形や地域の特徴、知っておかなくてはならないランドマークなどを配して、それがどのへんで右手に見ええるのか左手に見えるのかを考えさせるような問題でしたが、ほとんど0点でした()

 

のちに次男が中学生のとき、同じ年の友人3人とわが家で雑談しているときに、次男が横浜だったかどこだったかは名古屋の向こうにあるのかこっちにあるのか分からないようで、それを友人のよくできる子が呆れて、そんなんも知らんのか!と哂うのに対して、次男が平然と、おまえ横浜て行ったことあるの?と訊き、友人が「行ったことはないけど・・」と答えると、「行ったこともないのに、そんなこと知ってるのが何になるのん?」と反問?するのを聴いて、思わず吹きだしてしまったことがありました。彼もまさに私の血をひいていたようです。

 

梅棹さん流の西欧と日本の並行進化説を知った時も、ちょうどヴェーゲナーの大陸移動説を知ったときのように、目から鱗みたいな驚きはあったけれど、その十分に根拠を提示して論述された論文の中身は脇へ置いておいて、どこかでほんまかいなと半信半疑で、まるで世界地図を眺めていて「ふと思いついた」ものででもあるかのような受け止めかたをしていたような気がします。

 

『知的生産の技術』がベストセラーになり、ちょうど学生だった私は、そこで紹介されていた「京大式カード」を愛用した時期もありました。使いこなせなくてじきにやめてしまったのは多くの方々と同じだと思いますが()、パソコンが普及する以前の情報整理の仕方としては、よく考えられた合理的な工夫でした。

 

彼の著作や彼が語る情報整理の自己流のやり方には、読む者、聴く者に、自分も真似してやってみようかな、と思わせるこの種のハウツーもの的な著作が結構あったように思います。それは家の中の片付けや、情報の整理の仕方にも及んでいたはずです。

 

一般に研究者は狭い専門の研究における方法論以外のこの種のハウツーをそこまで自分なりに追い詰めて普遍化してみようなどとは思わないでしょうから、彼はそういう点では珍しいひとでした。いまでは珍しくもなんともなく、本職よりそっちで売り出す有識者のほうが多いんじゃないかと思うほどですが() 。

 

彼にはじめて直接会ったのは、前職のシンクタンクに勤務するようになってからのことです。彼は文化専門のそのシンクタンクの「隠れ取締役」でした。国立の機関の長をしているから公式には民間の企業の取締役にはなれないけれど、こちらのシンクタンクの長も学者で親しい間柄でしたから、知恵出しのようなときは、実質的な協力をしてくださいね、というような関係だったようです。

 

そして、彼は単に一シンクタンクにとってそういうお知恵拝借の有識者の一人にとどまらず、関西を中心に活動しているいわゆる関西文化人の一種の知的共同体的なものの中で、ボス的な、といって悪ければある種のカリスマ性をもったひとだったのだろうと思います。

 

私が最初に彼の姿を間近にみたのは、入社早々に関わったNIRA(総合開発研究機構)の主催する「21世紀プロジェクト」というので、私たちのシンクタンクはNIRAとの共同研究の形で、21世紀日本の文化状況の動向、といったテーマで委託研究をしていました。

 

そのために万博で知り合い、未来学などというのをやり始めていた関西の文化人、学者の何人かをコアとする委員会をつくって、何度か委員会を開いて彼らの自由闊達な議論を聞く機会がありました。

 

いずれも専門分野では40代くらいで主要な仕事をしてすでに著名人となった優秀な人たちばかりですから、議論を聞いているだけでも面白いところがありましたが、それ以上に相互の人間関係はそうやって間近に接してみないと分からないところがあって、一層興味深いものがありました。

 

関西文化人は東京の個々バラバラの人たちが委員会のときだけ開催場所に集まって、生真面目にテーマについて議論してはすぐに散っていくというのと違って、だいたい酒がはいって、うまいものが食べられるところで、ゆったりと自由に言いたいことを言い、ときに無礼講的に放言もしあうような形をとることが多い。

 

「ええ知恵というのはそういう場で出るもんや」と言いたげな面々であり、そういう振る舞いですね。でもそれはきっと、関西では市場が圧倒的に小さく、文化人の看板で商売のできる売り手の数も少ないので、どこへ行ってもそういう学者の余技でやっている優秀な人たちの同じ顔ぶれに出会う。この種の行政がからむような社会的なテーマを考えようというときには、どの委員会、研究会も金太郎飴みたいに同じ顔が出てくる、だから関東とは違った濃い関わりになりがちだということなのだろうと思います。

 

いずれにせよ、顔見知りの文化人たちの丁々発止の議論の中で、梅棹さんはとても冴えていて、最後は彼が「それはこうや」と断定口調で言うと、だいたいそれで決着してしまう、そんな印象でした。

メンバーの中にはSF作家小松左京のように言うことはさっぱり分からないけれど(私にはまったく波長が合わないので)、感覚的にはシャープな物言いをするメンバーも居るのですが、梅棹さんはそういうのは論理的に全部論破してしまう。というより、ことばの使い方が論理的であるかのようなたたずまいで、その言い方に迫力があって、あんまり論理的ではない小松さんのような人はたいてい「論破」されてしまいます。

 

だからこういう会議をはたで聞いている同僚やNIRAのメンバーは、梅棹さんはなんて頭がいいんだろう!こういう人たちの中ではダントツだなぁ、と感嘆してしまいます。いや、実際頭のいい方だったのでしょうが。

 

のちに仕事の関係でそんなことに関わりを持たざるを得なくて文化行政をめぐる彼の名高い議論を再三読み返すことになったとき、彼の言葉が論理的というより、非常に戦略的なことばの使い方をしていることに気づきましたが、それはだいぶ後のことで、私も実は私が目の当たりにしてきた多くの関西文化人の中で、頭一つ抜けて冴えた人だな、とそのときは思っていました。

それでも彼に惹かれたことがないのは、それ以前に彼が昔、日本語ローマ字論者のようなことを主張していたことがあって、言葉についてそういう考え方しかできない人を基本的に信用できない、という気持ちがどこかにあったからかもしれません。

 

個人的に梅棹さんと間近に接したわずかな機会で強く印象に残っているときが2度だけあります。

 

一度は、神戸のポートアイランドで博覧会を開くというので、そのテーマを検討する委員会を神戸市の主催で開催することになり、われわれのシンクタンクがその裏方の仕事を受け、テーマを表現するキャッチフレーズの下案を考えることになったときです。

 

米山俊直さんにつきあってもらって、私を含む主任研究員2人と、神戸市の職員2人で京都ホテルに泊まり込み、徹夜で男ばかり5人で額を寄せ合って案を考えました。米山さんが、少し面白くやろうじゃないか、と提案して、それぞれがこれは、というキャッチフレーズをいくつも考え、短冊に匿名で書く。これを読みあって、互いに投票する。こうして得票の多いのを順に読み上げて最終的に残す案を決めていこう、という「句会方式」ですね。

 

その結果、いまでも覚えているのは、その場にいたみんなが一番多く投票したのが「ヴィーナス 混沌(カオス)からの創造」という私が思いついた案でした。私もその場にいてこれを選んだ人も、ポートアイランド≒海、博覧会≒多様な物産を集めた場、その混沌から何かが生まれてくる(誕生)という連想で、この言葉からパッとボッティチェリのヴィーナスの誕生の絵を思い浮かべたですね。海を背景にして二枚貝から誕生した裸身のヴィーナスの像を描いた世界中の人が知っているあの美しい絵です。

 

もちろんそれ以下に50点ほどアイディアがあって、それらを全部得票順にワープロ打ちし、5位ごとに線を引いて区別して、私たちの下案作業を終えました。

 

翌日が委員会で、ほかに用があって出席できない梅棹さんには、米山さんと私が駅へ向かう梅棹さんの車に同乗させてもらって、束の間、下案のコピーを見せて、相談したのです。ひととおり目を通した梅棹さんがどう言うだろう、と固唾を呑んでいたら、一言「ひとつもええのがあらへん」()

 

そして、この区切りの線は何ですか?とか、あなた方はどれがいいと思ったの?とか逆に質問されるので、米山さんが応えて、いちおう得票順に並べてある、と言うと、梅棹さん、一番得票の多かった私の案にあらためて目をやって、「女子大の文化祭やあるまいし・・」()

 

言われてみればそうですね、たしかに()。私たちの学生のころは京大でも「あぁ、自然死!」なんてのが文化祭のテーマでしたから、別に恥ずかしいとも思わなかったのですが、ズバッと指摘されると穴があったら入りたい、というちょっと屈辱的な気分になりました。当たっていただけにね。

 

それで米山さんが、「どういうのがよろしいでしょうかね」と訊く。梅棹さん、しばらく沈思黙考。でも駅へ着く前に、ぼそっとひとこと。「海の・・・いや・・新しい海の・・・新しい海の文化都市・・・でどうや?」

 

このとき、梅棹さんという人のある意味での「偉さ」がよくわかった気がしました。彼にはカッコイイ言葉を考えようという気など全然ない。必要なのは名文句じゃない。普通の市民が聞いてよう分かる言葉や、と。いや、たしかに、なんや?そんな平々凡々陳腐な言葉しか思いつかんのかい?と一瞬思ったことは白状します。全然クリエイティブのクの字もないベタな言葉。でもそれがここでは求められているんじゃないか、と。

 

我々は梅棹さんの車から降りて、会議の会場へ向かいました。何も知らない神戸市の担当職員にはもとの下案のリストを配布するように言い、委員たちがその案に手元で目を通すのを尻目に、米山さんいわく。「いま私たち事務局で考えたたくさんの案をお配りしましたが、正直言って、全部ダメだと思います。それで、今朝梅棹先生にご相談してきました。梅棹さんの提案は、『新しい海の文化都市』です。私もこれが一番いいと思います。」云々。

 

この転換の見事さ、すばやさには舌を巻きました。最大得票案をいとも簡単に一蹴された身としては内心忸怩たるものがなかったとは言いませんが()

 

で、結局テーマはたしかそのままこれが採用されてしまったと思います。博覧会の呼称(愛称)のほうは、私たちが徹夜で考えた「ポーアイ博」が採用されたかどうかは失念しましたが、私の記憶違いでなければ、職員がもう自分たちはあれを使い始めていますよ、と言っていたとおり、主催者の内輪では実質的に流通したことは事実だと思います。

 

梅棹さんをめぐるもうひとつの印象に残る私的な接触は、東京での会議の帰りの新幹線で、グリーン車に一人で腰掛けていた梅棹さんを見かけて話にいったときのことです。私はグリーン車が空席ばかりなので、車掌が来たら普通車からこちらへ居直ってもいいと思っていたのですが、私が横に座ってしばらく話すうち、梅棹さんは、食堂へ行こうか、と気を使ってくれて、ふたりで食堂車へ行き、ほとんど京都へ着くくらいまで(彼は新大阪までそのまま乗って行きましたが)ずっと食事をしながら喋っていました。

 

そのころちょうど浅田彰の『構造と力』がベストセラーになりかけていて、いちはやく目を通して面白い若いのが出てきたな、と思っていたので、ちょうど読んだばかりのそれを手元にもっていて、これ読まれましたか、というと、いや知らん、とおっしゃるので、なかなか面白いから読んで見られませんか?私はもう読みましたからどうぞ、と差し上げるとじゃ読んでみよう、と受け取られた。実は浅田の伯父にあたるかたがやはり偉い学者さんで、私のいたシンクタンクの株仲間(実際に株主でもあり、必要なときにお知恵を貸してくれる知的共同体の仲間でもある、という意味でそう読んでいました)だったので、梅棹さんも甥っ子は知らなくても伯父さんのことはよく知っておられたので、多少は関心を持たれたのでしょう。

 

ところが後日ある新聞だったかで、浅田彰が梅棹さんのことをぼろくそにけなすような言葉を書いているのをたまたま目にして、あ、そうなの?()と、このときは浅田の本を梅棹さんに渡して悪いことしたなぁ、とちょっと後悔しました。なんで浅田彰はあんなに梅棹さんのことが嫌いなのか、その時はよくわからなかったのです。おまけに彼が何かの雑誌で同じ私のいたシンクタンクの取締役だった梅棹さんとも浅田さん(伯父のほう)とも懇意の加藤秀俊と仲良く対談しているのを読んで2度びっくり()。なんで加藤さんはよくて梅棹さんはいけないの?とさっぱりわからなかった。私からみれば同じようなものだったのですが()、浅田彰から見れば全然別物だったようです。

 

たぶんそれは浅田自身が私が誤読したようにポストモダンなスタンスからの単なる時代の意匠としての「左翼」というのではなくて、けっこう大真面目な「左翼」の(構改派的)思想的体質の人であるらしい(といまではそう思っていますが)というのと関係があるのでしょう。加藤さんも若い時はそうだったようだし、そういう尻尾は進歩的文化人になっても引きずっていたと思っているので、彼らが和気藹々と対談するほど意気投合?するとすれば、そんなことしか共通点も梅棹さんとの違いも見当たりそうにないからです。もっとも、そう真面目に彼らの著作をたどったわけでもないから、私の見当違いかもしれません。

 

それはどうでもいいことですが、梅棹さんと何を喋ったのか、あとはほとんど覚えてはいません。私が聞きたかったことは自分が仕事で関わらざるを得なかった文化行政や文化施設に対する考え方で、当時日本でまともに体系的にそれらのことを考え、展開出来た人は彼しかいなかったので、いろいろ訊きたいことはあったのです。

 

梅棹さんの文化行政論は自分が創設した国立民族学博物館の設立過程で博物館を考え、文化施設一般を考え、文化行政のあり方まで展開して、それなりの必然性をもって徹底的に考えられたもので、おかしいと思うところがあっても簡単に否定できるようなやわなものではありませんでした。

 

私は彼に心酔したことはなく、むしろずっと反発しつづけてきたので、きっといろいろつっかかったと思いますが、いまその経緯が記憶にないのは、きっと梅棹さんが余裕で受け止めて、私がうまく展開できず、首をかしげながらも説得されてしまったに違いありません。

 

従って、私の印象に残っているのは、その話ではなくて、ごく私の個人的なことを何かのついでふっと口にしっときの彼の反応です。

どうしてそういう話になったのかまるで記憶にはないのですが、世代的な話をしていたときに、彼が私の個人的なことをちょっと訊いたときに、ついでのように「私の叔父は軍人でしたが、鉄砲の弾ひとつ打たずに終戦になって朝鮮半島から引き上げてきて、稲毛海岸に戦車を埋めてきた、と言って郷里へ帰り、1年と少し、毎日仏壇に向き合い、畑仕事をしながら遺書を書き続けたあげく、兄二人が帰ってきたのを確かめるようにして自決してしまいました。」という話をしたのです。

 

このことは私自身は青年期にその遺書を繰り返し読み、自分の中でそれなりに熟慮してもう休火山のように胸に収めてしまっていたから、どんな高ぶりも深刻さもなく、さらっと事実を話しただけだったけれども、驚いたことに梅棹さんはしばらく食事の手をとめて無言で、目に涙をためているではありませんか。これには本当にこちらが驚いてしまいました。

 

私は彼の戦争のくぐり方も、身内のことも、当時もいまも何も知らないので、彼個人の背景にどのような思いがあるのかは想像を絶することで、いまだになぜ私のようなペイペイの会社員の身内の話に、過剰と思えるような反応をされたのか理解はできません。けれどもあのときの私の叔父の自決の話が彼の心に何かを呼び起こしたことはたしかに思われます。

 

梅棹さんは「それは・・・ひどいことや・・・」というような(実は正確にはおぼえていないのです、たしかそんな言葉でした)ほとんど聞き取れないような一言をつぶやいたきり、それ以上はこれについて何も言わず、私も食事中に不適切なことを話してしまったな、という思いで慌ててほかの話にもっていったと思います。

 

彼は私の食事をする間に、ウィスキーのスーパーミニボトルを4本あけ、「きょうは気分がいい。1本いつもより多い。医者にはとめられてるんやけどな。」と言っていました。まだ視覚障害まで出てはいなかったはずだし、彼の糖尿病が深刻な状態であることを私はまったく知らなかったので、半ば冗談のような軽口として聞き流していました。のちにまったく視覚を失うほど重症化するとは想像もつかなかったのです。私が一対一で梅棹さんと話すことができたのは、このときが最初で最後になりました。

 

私の親しい友人が師事していた伊谷純一郎さんを偲ぶ会のときに、梅棹さんが「私は伊谷さんからはまったく影響を受けておりません」と明言するのを聞いて、梅棹さんらしいな、と思いました。

 

また、彼がみずから力を尽くして設置し、館長として長年君臨した国立民族学博物館の館長職を辞する時、新聞紙上で、自身が館長としての地位を「追われる」ことを、歴史的な王権の簒奪になぞらえて、王の弑虐というような言い方で檄文のような長文を寄せているのを読んで、これまた梅棹さんらしいな、と思いました。むろん私は桑原さんのような、あるいは伊谷さんのような人生の表舞台からの撤退の仕方のほうがずっと好きだけれど、梅棹さんらしいといえば梅棹さんらしいな、と思って読みました。

 

私が彼の著作で一番感心したのは、自著の著作目録です。物書きでも、自著をあれだけ徹底してきちんと管理し、生前に目録を作り上げる人をほかに知りません。彼は、物書きが自分の著作に責任を持つのは当然のことだ、というので、生前まだ活発に著作を出し続けているころに、自著、共著はむろんのこと、編者であれ監修者であれ、その書物の内容と刊行に責任を持つ者として自分の名が登場する著作や論文、エッセイ、雑文の類まですべて網羅した著作目録を刊行し、私のようなものにまで配ってくれました。優秀な秘書がいたからできたんだ、と言う人もあるでしょうが、彼の意志でつくったことは間違いありません。そこに彼の物書きとしての生活思想の最良の部分があらわれているような気がして、その著作目録だけはいまも大切に持っています。

 



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