2016年03月

2016年03月01日

加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』

 もうずいぶん昔のことになるけれど、岡山の中部高原の小さな温泉小屋みたいなところへ、友人に連れられて泊まったことがあった。土地の婆さんたちが何人も連泊していて、夜ふけになると酒を酌み交わしおしゃべりしている。民俗学者の卵だった友人は一升瓶を下げてその婆さんたちの輪の中に造作もはく入っていって、土地の話などさりげないやりとりの中で聞いている。

 私たちの部屋はその丸太小屋のような粗末な家の2階で、夏のことで窓を開け放していると、そばを流れる谷川の音が聞こえ、夜風が心地良い。電気も消したまま、深夜から明け方まで久しぶりにえんえんと二人でおしゃべりをした。

 そのうちまどからいくつもの光の粒がふらふらと迷いこんできた。見ると下の方から次々に 無数の光の粒が上がってくる。渓流の岩の下の淵のところに鮮やかな青緑に輝く光の塊があって、光の粒はそこから舞い上がってくるのだ。これほどの蛍を見るのは初めてでしばしその美しい光景にみとれた。

 この夜話したことのほとんどは忘れてしまったけれど、彼が読んだ小説の評価のことを切り出したことはよく覚えている。椎名誠と村上春樹の作品を挙げて、最近の小説はどこがいいんだか、さっぱりわからないよ。きみはどう思う?

 そういって否定的に彼が取り上げた作品の一つが、村上春樹の『羊をめぐる冒険』 だった。あんなのどこがいいのかね、あれいいの?と彼はふだんから私がすこし小説好きでわりあい新しい作品を読んでいるのをしっていたものだから、私に評価を確かめるような言い方をした。

 私は即座に、あれはすごくいいよ、いい作品だと思うよ、と言った。たしか出てすぐに読んで、素直にそう思ったのだ。でも、そうかなぁ?どこがいいかなぁ・・・という友人に私はうまく自分がいいと思う理由というのを説明することができなかった。

 はっきりとは覚えていないけれど、彼はたしかなんだか児玉某みたいな右翼の大物みたいな黒幕が思わせぶりに登場したりする仕掛けの俗っぽさや、主人公のありようの寄る辺なさというのか、ある意味でリアリティのある世界に関わろうとする形ではなくて、いわば閉じた人為的に作られた迷路のようなところを彷徨してどこへいくのかもわからない、というよりどこへいこうとするようにも見えず、 しかも何やら意味ありげに見せかけているだけじゃないか、といった感じの批判だったように記憶している。

 それほどはっきりと言葉にしていたかどうかはわからないし、そこにはその当時この作品を肯定的に読みながらも私の中になんとなくそういう友人の受けた印象に共感する部分もあったことが、こういう記憶になっているのだとも思える。

 すなおに作品を読めば、これは『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』ではまだ明確な形ではわからなかった長編の書ける作家としての力量は明らかだったし、ある種の推理小説風の、あるいは週刊誌風の仕掛けはあくまでも物語展開のフレームをそういう定型に借りただけの話だから、問題にならなかった。けれども、作品としての良さを認めながら、私はこの作品にどこか嫌なものを感じて反発していた。

 それは実は『風の歌を聴け』のときからあったもので、私には「鼠」の扱い方が気に入らなかったし、それに対する「ぼく」の立ち位置にも幾分かの反発を感じていた。けれどもそれは作品の良さを認めることとは自分のなかで必ずしも矛盾しなかった。

 大学の荒れた、というか荒らした時代に、こういうやつが身近にいたら、いちばんいやなやつだと思ったろうな、というふうな人物像を勝手に描いていた。 あの時代に屈辱感を覚えながら秩序の中に戻っていった学生たちを横目でみながら、一人でジャズ喫茶などやりながら頑なに自分の世界を守ってジャズとペーパーバックで井戸の底に暮らし、まだ余熱の冷めやらぬ周囲とは距離をとって冷めた目で見ているようなやつ、と。

 だから作品は高く評価しながら、描かれる世界には反発し、作家はもっと嫌いだった。その後彼の書くものはほとんど出版されるとすぐに買って読んできて、どれも失望するものはなく、新作が出れば必ず買って読む現代作家ではほとんど唯一の作家になったけれども、われながら自己矛盾ではあるけれども、好きな作家かと言われれば、挙げたくない(笑)作家だった。

 作家その人への関心が薄いせいで、彼のエッセイや個人的な想いを率直に語ったり書いたりしたもののほうは、ほとんど読んでいなくて、 もっぱら作品のほうを読んできたので、今回加藤典洋のこの本を読んで、村上春樹にとっての中国≒父親の重要性や、私の反発の源だった彼のデタッチメントにあの時代に彼が負った傷の深さを見るべきことについて啓発されるところがいろいろあった。

 しかし、それよりも何よりもいちばんやられたな、と思って、しばらく参ってしまったのは、この本が私の村上春樹の作品への反発について、自分がこれまで否定的に見てきた部分が全部自分に返ってくるような形で解き明かされてしまったように感じた核心的なことを言われてしまったことだ。

 それは簡単に言ってしまえば、村上春樹が最初から、否定の否定とでもいうべき点で、それまでのいかなる作家も持てなかったスタンスを作品的に確立したのだ、という点だった。結局自分の批判的な目というのは、「戦後」的な否定性に依拠したものでしかなかった。 そのあらゆる作家、あらゆる知識人たちが意識するしないとにかかわらず依拠してきた戦後的否定性そのものを、村上春樹は鮮やかに否定してみせた。

 この本はそのプロセスを実に丹念に、説得力ある方法で辿り、その後この作家が否定性を否定する彼の初期の方法(デタッチメント)から、いかにして否定性に依拠する逆戻りをしないで、(しかも能天気な肯定性に向かうのでもなく)しかも否定性を否定するその自分の否定性をいかに否定する新たな場へ踏み出していくかを実証していく。

 まことに目からウロコのような村上春樹論だった。 しかし、読みすすむにつれてこちらの、これまでの否定性がボロボロにやられてしまうのを正直、ひどく屈辱的に感じざるを得なかった。人間ってそうクールでいられるものかよ。ときには、やむにやまれぬことにバカとわかっていて飛び込んでいくことはあるだろう。とめてくれるな、おっかさん、という浪花節をどこかにひきずっていたんだな、自分は、と。

 いまだに自分が「左」のつもりで昔取った杵柄よろしく、古い自分のレコードを引っ張り出して自分の歌声にうっとりしているような老人たちを同じ老いてもああはなりたくねえ、と思っていたけれども、所詮同じ穴の狢であったのだ、自分も。そういうことを思い知らされる、いやな本でもあった。

saysei at 00:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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