2012年07月

2012年07月22日

西村賢太「苦役列車」、鹿島田真希「冥途めぐり」、辻村深月「鍵のない夢を見る」

  電車の中での読書が目が衰えてきつくなってきて居眠りばかりしているので、なかなか小説が読めなかったけれど、授業も終盤になって、少しゆとりができ、電車内だけでなしに読めるので、久しぶりに小説を立て続けに読んだ。


西村賢太については、だいぶ前に、次男に、「最近なにか面白い小説あるかい?」と訊いた折に、「おれらの間では西村賢太がわりといいと言ってるんだけど・・・」みたいなことを言ったので記憶に残っていて、いくつか単行本を買って読んだけれど、う~ん、という感じでもうひとつ読み進めようという意欲が湧かなかった。


今回、山下敦弘監督の手で映画化される(た?)とあって、もう一遍読んでみたくなって、「苦役列車」を読んだ。もちろん力のある作家で、なんというかしっかり書かれた作品という印象だけれど、これは私たちが生きている「いま」という時の底に届くような物語なのか、といえば、率直に言って疑問を感じざるを得なかった。


なにかこう人の置く札を全部つまんで裏返してみて、鼻にもっていって臭いをかいで、これはああじゃないか、こうじゃないか、と疑ってみるような、ひねこびた底意地の悪さが主人公の貫多にはあって、それが特異と言えば特異なので、この特異点を通して、いまの世の中の見かけの豊かさや自由さや平穏さ、人々の生真面目さや優しさや善意を全部裏返してみせ、異臭をかぎつけ、そこに正反対の貧しさ、不自由さ、争い、いいかげんさ、冷酷さ、悪意等々を見出してしまう。


宿命的にそういう世の中の受け止め方しかできないかのような貫多に読者は違和感をおぼえ、反発もし、腹立たしくも思うだろうが、彼の感じ方がいかに歪んでおり、彼の言うことが誇張であったり、自分勝手な言い草であったとしても、現実にそう感じ、そう考えてしまうひねこびた人間が存在し、そこに生きている、そのことはどうすることもできないし、それもまたこの現在の一部、現実の一部であって、彼が裏返してみせる苛烈な日常には彼と接する何でもないありふれた人々の心に、行動にひそむ嫉妬や自己満足や底意地の悪さやいわれのない優越感等々が潜んでいることを、「炙りだし」文字のように火にかざして炙りだしてしまう。


こういうのは太宰治とか嘉村礒多とかがあの時代にすでにやったことじゃないか、それも太宰などはもっとずっと洗練された形で、というふうな気がしないでもないけれど、40年以上前に読んだ本といまのこの作品をきちんと比較もせずにあまりうかつなことは言えそうもない。ただ、この作家が藤澤清造を師と仰ぎ、三人称で書いても伝統的な私小説の「私」に置き換えて支障のない文体で書いているとすれば、あながちその印象も的外れとは言えないだろう。そこはもう少しほかの作品を読んでみないと確言できないけれど。


ただ、こういう作品がいま若い人の間で評価されるのは面白いと思うし、分からなくはない。これはガラパゴス諸島かどこかに生きるオオトカゲみたいに、もはや滅びてしまった恐竜時代の生き残りかもしれない。つまり反時代的な作品であることは間違いない。それが進化の本流にある種のインパクトを与える性質のものかどうかは、私には疑問に思えるけれど。



 次いで読んだのは鹿島田真希の「冥土めぐり」。以前からいつか芥川賞かなにか貰うんだろうな、と思って読んだことがあるので、もう少し抽象的な文体をもった読みにくい作家のような印象を持っていて、どこか敬遠していた作家だけれど、この作品は読みやすかった。


ありふれた小説のように登場人物の性格がうまく描き分けられていて、主役の奈津子と太一、とくに太一のほうはなかなか面白い。そしてその太一を夫にもつ奈津子のものの考え方、割り切り方が面白い。頭のいい女性にとっての日常の耐え方というのはこういうものなのかな、と変な感想をもった。


どこにも肩ひじ張った抽象画のような小難しい観念小説のようなところはない。あくまでも奈津子の目線によりそい、彼女が関わる太一や母親との日常の淡々としたできごとと、その中を潜り抜けていく登場人物の視点から見える光景、そのときどきの思いに描写は費やされていく。

 その乾いた描写から、目に見えない抽象的ななにかが、つまりその日常の中でひとつひとつ確かめられていく諦念やわずかな希望や反発や違和感が、この世界に置かれた人間が多かれ少なかれ強いられる、或いはその中で生きざるを得ない目に見えないフレームのようなものを炙りだす。


それはある意味で救いのない世界だけれど、終始ちぐはぐにみえる奈津子と太一のあいだに作者は希望の補助線を引いている。


“視線を上げると遠くの方には太一がいた。太一は、たくさんの人々の中で、誰よりも、切るようにまっすぐ進んでいた。”(ラストの文章の引用)


この作品のタイトルと同じタイトルの単行本に、もう一篇「99の接吻」という作品が収められている。作品としての完成度は「冥途めぐり」のほうがいいのだろうけれど、私には「99の接吻」のほうが面白かった。
 
 4人姉妹の話を末娘の目で描いたもので、これはもう女性にしか書けない面白い作品だと思った。

とくに姉妹があけっぴろげな一種のエロ話をする場面などは秀逸だ。語り口も軽快で、テンポがよくて快い。



 最後に辻村深月の「鍵のない夢を見る」。彼女の作品は、この作家に入れ込んだ学生さんが学科のメールマガジンに投稿した感想文で、作家と作品を絶賛していることだけはわかるのだが、あとは何度読んでも意味不明ということがあって、ほかの人が手を触れようとしないので、仕方なく「冷たい校舎の時は止まる」を皮切りに文庫本で出ていた彼女の主要な長編をひととおり全部読んで、それから再度その学生さんの文を読んで、それでもやっぱり意味不明。これは少し書き直すようアドバイスした方がいいと考えてそう他の委員に提案したことがあった。


 そのときにかなり読んでいたので、見当はついていたけれど、今回は最後に読んでからかなり時間がたっていたのと、この短編集について新聞での好意的な評を読んでいたので、少し違った印象が持てるかな、と思って手にとった。


 しかし、残念ながら私にとって新鮮な発見のようなものは無かった。ひとつひとつのストーリーの工夫や、それをつなぐ意識された構成は作者らしい工夫だと思ったし、どれも今の世の中でいかにも「ありそうな話」で、そういう材料をとりあげてそれなりに面白く読ませるストーリーを作ってしまう作家の才能には感心するけれども、やっぱり私には苦手なタイプの作家なのだろう。


 読んだはしから何が書いてあったか忘れてしまうし、昨日読んだばかりなのに、もう今日はもう一度開いてみないと分からない。読んだ一節でも、ひとつのエピソードでも覚えていないかと思うのだけれど、みごとにきれいさっぱり忘れている。


 ページをぱらぱらめくってみて、あ、そうだった、友達の母親が泥棒癖のある人で、それを子供の目を通して、それを知った衝撃や微妙な友人関係の変化を描いていたんだっけ、とか、私に惚れた男が私の関心をひくために放火事件を起こしたのじゃないかと思った若い女性が、そうじゃないことが分かってプライドを傷つけられる話だっけ、とか、ようやく思い出す。


 ひとつひとつ取り上げてみると、それは自分の身の回りにも似たようなことがあったな、というようないまの世の中でありふれたエピソードに材をとり、そこに人間関係、登場人物の思いを絡ませてひとつの読み物として読ませる小品を作り上げる、その手腕はさすがにプロの物書きだな、と感心する。


 これ以上はあまり書きたいことがない()。辻村ファンの数はものすごく多いそうだ。この新作をかの学生さんも待ち焦がれて買い求め、むさぼり読んでいるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



saysei at 16:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

キム・ギドク「悪い男」、「春夏秋冬そして春」

 韓国がここ10年ほどの間にエンターテインメントとしての韓流ドラマで日本のNHKの大河ドラマをはじめ様々なテレビドラマを圧倒するクオリティを見せて、断然面白いのはパートナーのおかげで歴史劇から現代ものまで一通りつきあったおかげでよく実感できた。

 「冬のソナタ」のようなメロドラマに始まり、「チャングム」、「薯童謡」、「朱蒙」、「世宗」、「イ・サン」、「トンイ」等々の歴史ドラマ、そして、「アイリス」、「美男ですね」、「明日に向かってハイキック」のような現代ドラマ、どれをとっても面白かった。

 映画も同様であることは幾つかの作品で感じてはいた。少し以前のものだと、「八月のクリスマス」、比較的新しいものでは、「息もできない」、いい映画かどうかは分からないけれど、「彼とわたしの漂流日記」なんてのは抜群に面白かったし、「青い塩」なんかは何しろシン・セギョンが愛らしくて他はどうでもいい()というようなのもある。


 でも今回
DVDで見たキム・ギドク監督の「悪い男」は本当に素晴らしかった。めちゃくちゃ暴力的で、エロで、凄惨な話だけれど、それでいて人間の愛憎の井戸の底まで深く届くような作品で、もうこの監督はこの作品だけでいい、とさえ思った。


 最初から最後まで目が離せない。
 
 ハンギを演じたチョ・ジェヒョン、この迫力はどうだ。こんな男優は日本には見当たらない。
 強いて言えば健さんかもしれないけど、彼は生真面目、一本気だけれど粘着質じゃなくて、どこか人の良さそうなとぼけたところが持ち味。ワルモンとイイモンがいたら絶対イイモンしかできなさそう。

 でもこのチョ・ジェヒョンって男優は体の中に真っ黒な悪の塊みたいなものがあって、ワルモンとイイモンがいたらぜったいワルモンだが単純なワルモンじゃない。両性具有じゃないけどワルモンもイイモンも全部そのドロドロの'人間的なあまりに人間的な'情念の塊、深い深い闇の底に呑みこんでいるような、なにしろ桁違いのスケールの迫力を備えていて圧倒される。


 この悪の権化というのかキリスト教風に言うと悪魔と神のアマルガムみたいなダークサイドの男によって、ヒロイン、ソナは徹底的に汚され、いわば心身ともに完璧に男の闇の色に染められ、そしてその果てに浄化される。

 体当たりの演技でそのソナを演じきっているのでがソ・ウォンという若い女優さんで、これまた、ここまでやれる人を日本の女優で思いつけない。


 ラストに近く、ハンギがぼろぼろの彼女を、最初に出逢った場所のベンチに座らせて去るところでは、これで終わったらいっぺんにこの映画は少女の夢のような甘いメロドラマになっちまうな、と思いながら、それでも純情な私
()は涙がとまらない。でももちろんキム・ギドクは期待にたがわず、あるべきラストまでちゃんと引っ張って行ってくれる。


 韓国でも女性蔑視だというような一部の批判があったそうだから、若い人に表立って薦めるのは誤解を招くかもしれないけれど、でも作品として良いものは良い。韓国映画の実力を思い知るには良い一作だと思う。映画が好きな人でまだ見ていない人がいたらぜひ見てください。

 

 この監督はウェブでちょっと調べたところ、映画製作について芸大みたいなところで教育を受けた人ではないらしい。だからこそ既存のお行儀の良い映画を突き破るような作品が作れたのかもしれない。

 

 実はこの作品を見る前に、いろいろ賞をもらって評価の高い、同じ監督の「春夏秋冬そして春」という作品を見た。これはまた打って変わって静謐な、ドラマが進行する舞台である山間の湖の美しい自然が主人公であるかのような作品で、仏教的な寓意に満ちた作品だけれど、私としてはそう感心しなかった。

 

 たしかに四季の自然を映す映像はすばらしく美しい。刑事に連れて行かれる前に、妻を殺して以前に妻と出会った寺に逃げ帰っていた主人公の青年が、師匠に言われて、妻を殺したナイフで桟橋の床板に師匠が書いた般若経の文字を彫りつけるシーンなどは好きだ。

 しかし、寓話なら寓話としての描き方があり、映像があるだろうし、それが徹底されているかというと、妙にリアルな人間くさいドラマや俳優の演技、自然描写との間で違和感がある。寓話的なものが時に滑稽に思えて、たぶん監督自身が意図しない観客の軽い失笑を誘うようなところがある。

 

 そして、監督も主人公の重要な時期を演じている(各季節~時期~によって主人公を演じる男優が変わる)のだが、彼も含めて俳優たちの演技があまりよくない。思うに、俳優たちにとってもこれは寓話なのかリアルに演じて良い人間ドラマなのか、演技の核心の方向づけに逡巡があったのではないか、という気がする。

 

 リアルな人間ドラマを演じるなら、しつらえられたストーリーを否応なくはみ出してしまう俳優たちの生の身体や声や表情が、においが、こちらに伝わってくるはずだ。でもどこかこの俳優たちは遠慮している。演じられるべき寓話的なストーリーに対して。

 

 だからときおり、なにか日本の昔話の一休さんの頓智話かなにかを下手な俳優が実写映画で演じているような錯覚をおぼえた。ちょっと酷いことを言うようだけれど。

 

 寓話なら寓話で韓国ならもっと深みのある寓話的映像が創れたはずだと思う。
 蛇や蛙に糸をつけて苦しめた小坊主が情欲に負け、世俗にまみれて犯罪を犯し、人里離れた寺にもどって改心し、刑期を務めて師匠のいなくなった元の寺に戻り、重石を体に括りつけてかつて自分が苦しめた生き物の苦痛を背に負って山を巡る。
 
 その彼に自分がそうであったように母親に捨てられる子供が預けられる。因果応報、輪廻の世界ということになるのだろうけれど、この宗教的人間ドラマのほうはあまりに浅薄でマンガ的に思えて、とび切り美しい自然の映像とつり合いがとれない。

 

 



saysei at 14:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年07月15日

チェブラーシカ展

チェブラーシカblog

 滋賀県立近代美術館で開催中のチェブラーシカとロシアのアニメ作家展に孫をつれて行ってきました。チェブラーシカのアニメは彼女のお気に入りの一つだからです。

 しかし今回の特別展は、中途半端でした。つまり大人向けなのか、子供向けなのか、両方含めた家族向けなのか、何をどう訴えたいのか、美術館側の姿勢がよくわかりませんでした。

 チェブラーシカが幼稚園児でも楽しめるアニメであることを考えれば、この種の展覧会は大人も子供も家族で楽しめるものであるのが自然だと思います。

 しかし、原画の壁面展示の位置を見ればあきらかなように、背の低い幼い子には非常に見にくい高い位置に展示されていて、会場で彼らが気軽に楽しむのを結果的に拒んでいるかのようです。車いすの人にも見にくいでしょう。下からガラスで光る原画を見上げる感じになります。
 
 たぶん計画した学芸員は一度も自分で車いすで会場をまわってみるなり、子どもの視点から眺めてみないまま、展示配置を決定したのではないでしょうか。

 私には楽しみであったロシアの新しいアニメーションがいくつか原画展示会場を出たところで上映されています。驚いたことに、これには字幕がついていません。セリフのないアニメーションはまだいい(タイトルなどそれでも字幕をつけたり解説したりする必要はあるでしょうが)のですが、英語でいっぱい字幕が出てくるアニメにも邦訳はついていません。

 あわてて概要を6歳の孫に伝えようとしたけれど、アニメの展開が早くて英語の字幕もかなりの速度で消えてしまうので、私の語学力では十分についていくことができません。孫はノルシュテインの「霧につつまれたはりねずみ」も、加藤久仁生の「つみきのいえ」や「或る旅人の日記」も、山村浩二の「頭山」も、そしてかつてソ連の撮影所で作られた名作「イワンと仔馬」や「雪の女王」も楽しんでいますが、さすがにわからない外国語で登場人物が喋りまくるアニメには退屈して、席を立ちました。

 なぜちょっと字幕をつけることくらいしないのでしょう?予算がなかった?それは言い訳にはならないでしょう。優先順位の問題ではないでしょうか。結局は展覧会を企画する主体の姿勢の問題かと思います。ロシア語のままを日本語にするには外部の人材にいくらか高めのお金を払って依頼する必要があったかもしれないけれど、英語の字幕がついているアニメだけに、たとえビデオに通常の字幕をつけることが(著作権の関係で?)できなかったとしても、来場者に対する礼儀として、ささやかでも工夫の余地があったのではないかと思います。

 ずいぶん厳しいことを書いたようですが、前に孫を連れて行った兵庫県立美術館のアリエッティ展で孫がとても楽しんだことと比較すると、あまりにも落差が大きくて、わざわざ出かけたことでよけいに失望が大きかったので一言苦言を呈したくなりました。

 この美術館も、はるか昔のことですが、デュシャン展をみたときは、感心したおぼえがあり、いい印象を持っていました。あのときは、前後して万博公園から中之島の地下に移転したばかりの国立現代美術館が開館記念展として開いたデュシャン展がたしかにモノは国の権威をバックに豊富に集めていたけれど、展示企画では完全に滋賀県立近代美術館に負けていて、どうしようもない事大主義的な美術史観や展示思想をうかがわせる代物だっただけに、滋賀県にはいい学芸員が居るのだな、という印象をもっていました。

 それだけに今回はちょっと残念。

 ミュージアムショップのほうも、それに見合うように、冴えなかった。せっかくチェブラーシカやロシアンアニメをテーマにした企画展をやっているのに、私の気づいた限りでは、たとえばそれらのアニメ一本さえ置いていなかったかと思います。少なくとも何本かは日本でも販売されているのだから、それらを集めるだけでもよかった。保守的だったヨーロッパの美術館でも、もう何十年も前からその程度の観客向けのサービスはしていたように思います。

 京都の国立近代美術館のミュージアムショップなどは、早くからいい書籍やビデオを置いていて、展覧会のたびにそのコーナーを覗くのが楽しみでした。ほんとうに狭い小さなコーナーでしかないのだけれど、仕入れる人の目がよければ、こちらが欲しくなるようなもの、ほかではよほどいつも注意している人でない限り目に触れない魅力的な書籍やビデオ等々を置くことができます。

 もうかつてのようなテナント店まかせの、きまりきった絵葉書やミニアチュアの類しか売っていないようなミュージアムショップなどやっていては、現代の美術館としては失格になってしまうでしょう。

 なにより残念なことは、私たち大人は何か次にいい企画が来たらまた来よう、と思えるけれど、幼い子をつれていった場合、一度つまらない、退屈だった、という経験をすると、次の少し面白そうな企画があって誘っても、う~ん、あんまり行きたくない、となってしまいかねないことです。孫の場合どうかわからないけれど、アリエッティ展をやった美術館と、チェブラーシカ展をやった美術館と、どっちへ行きたい?と訊いたら、たぶんアリエッティ展をやったところ!と答えそうな気がします。

 とまぁ、辛口ばかりになりましたが、わたし自身にとって、今回の収穫は、ノルシュテインの「霧につつまれたはりねずみ」の原画を数枚(たしか3枚でしたか)直接見ることができた、ということでした。これは思わず孫を抱きかかえて彼女にはよく見えない高さの原画をしばらく見せてやったほど、感動しました。


 この絵はミュージアムショップで売る絵葉書にないのはむろんのこと、たしか図録(私は「立ち読み」しただけで、購入しませんでしたから確かだとは言えませんが)にも載っていませんでした。


 肝心のものは記憶のよすがになるものも提供してくれないので(むろん著作権の問題などがあるのでしょうが)直接目に焼き付けて、そのときの感動を心に刻むしかないのです。


 



saysei at 21:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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