2010年01月

2010年01月20日

『ほかならぬ人へ』(白石一文)

 つい先ごろ、直木賞を受賞した作品なので、書店に積み上げてあったのを一冊買って、今日の車中で読みました。表題作と、もう一つ、「かけがえのない人へ」というそれより少し短い作品の二つが収められています。

 どちらも面白かったけれど、「ほかならぬ人へ」のほうが作品としてよくできているだけでなく、後味も良くて、内容的にも私の近くにいるお嬢さん方にはこちらのほうがお薦めです。その意味は両方読み比べてみればおわかりになるでしょう(笑)。

 芥川賞小説の多くにあるようなサービス精神に乏しい作品とは違い、文章は読みやすく、登場人物は私たちの周りにもいるいる、と思わせるような人物像がよく描き分けられ、展開にも読者をひっぱっていって意外性も感じさせるような仕掛けがある。

 明生という主人公のいいうちのぼんらしい人のよさも、そのモノの考え方や言動に的確に描かれているし、美人でほかの男が忘れられない妻のなずなもクリアに描かれている。はじめはその妻とのやりとりがストーリーの軸かと思って読んでいくと、次第にそうでないことが明らかになってくる。このあたりは非常に巧みな筆運び。

 そしてその「東海さん」は実に魅力的なキャラに仕上がっていて感心させられる。これが男勝りの、自他ともに認める「ブス」の、できる上司、という設定がそもそもうまい。

 おっとりした明生と、この頼りがいのある「東海さん」のやりとりがとてもいい。その上司と部下の、男女の色気ぬきのやりとりが、あとでとてもよく効いてくる。

 明生となずなと真一のグー・チョキ・パーみたいな三竦みの関係を、明生の長兄の妻と次兄と渚との同型の三竦みの関係でなぞってみせることで、この構造が私たちの免れがたい人生の構図であるかのように浮き彫りにされる。

 そして、この煩悩の源泉でもある袋小路からどう抜け出るかに、この作品のドラマががあり、またそれはこの作品の隠されたテーマだといってもいいし、それを帯の宣伝文句のように、恋の物語、愛の物語と言ってもいい。

 昨日は「ボーダー&レス」で車中笑いをこらえるのに困ったが、今日は「ほかならぬ人へ」で涙をこらえるのに困った。

 もう一つの「かけがえのない人へ」の黒木は、ひでぇやつだなぁ、と思いながら読んでいくうちに、非常に魅力的な男に見えてきた。こういう人物像をクリアに描けるのは作者の心憎いたくらみのせいだろう。 

 

saysei at 00:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年01月19日

『ボーダー&レス』(藤代 泉)

 この人の作品を読むのは初めてだったが、とても面白かった。
 
 なにより会話が面白い。語り手は北海道から東京の大学へ進学して就職した新入社員の「僕」で、これが同期入社で友人になった「在日」の趙成佑(チョ・ソンウ)といまの若者言葉でやりとりする、その会話が傍で聞く読者にとって、ユーモラスで楽しめる。私はきょうの車中の往復で読んだのだけれど、電車の中で何度も噴出しそうになって困った。

 二人の丁々発止の軽い言葉のキャッチボールを楽しんだり、傍から見ると滑稽な過剰だったり過少だったりするその振る舞いを見ているぶんには、明るい青春小説の趣だが、その軽みの向こうに、ソンウの「在日」が滓のように澱んでいて、これがラスト近くなると全面に浮かび上がってくる。

 この作品のいいところは、在日の問題を、アプリオリな在日問題として「問題小説」を書くのではなく、どこにでもいそうな、それでいて結構鋭敏でしなやかな「僕」の目と心を通して、非常に微妙な形で描ききっているところだと思った。

 もちろん、作者は解決など与えていないし、一篇の小説で解決の与えられるような「問題」として扱っていない。その困難さを困難さとして非常に繊細に、鮮やかに描き出している。

 在日の問題が、はじめてまっとうに描かれるようになったんだな、と思ったのは李恢成という昔わりあいよく読んだ作家の作品に出会ったときで、在日に対して妙に気を遣って腰がひけてしまう日本人のおどおどした様子を、同じ団地に住む隣人である在日の視点からうまく描いているような作品を読んだ記憶がある。あれがあの頃の日本人と在日との出会いかた、触れ合いかたの水準だったんだろうな、と思う。

 今回藤代の作品を読んで、この作品の中に、あれ以降の日本人と在日の関わりの水準、いま現在のかかわり方があるんだろうな、と思った。

 傷口がむき出しになって、赤くただれて痛々しい、というようなのが、昔の「在日」小説。

 若いころよく読んだ李恢成あたりの小説では、傷口に薄皮が張って、それに触ると痛いし、触れるのもこわごわ、という状態をうまく描いていた。
 本当には直っていないから、膿を出そうとして消毒した針でつつくと、プチッと薄皮が破れて、中から膿が出てくる。

 でも、藤代の作品では、ちゃんとした皮膚が張って、ほかと変わらない。ところがうんと底の方では変わらず膿んでいる。表面を針でつついても、痛いだけで何も出てこない。根っこが深いから針でつついても届かない。ただの膿の袋が、「癰(よう)」にまで進化(?)してしまっている。(余談ながら、私の父は抗生物質も無い戦争中、鼻の奥に癰ができて死にかけ、難しい手術で九死に一生を得たことがあります。)

 たぶん、そういう比喩で言えるような状況というのが、「在日」をめぐるいまの私たちの社会心理学的な病像なのだろうし、そういう状態がこの作品にうまく描けている。

 ただ、これは「在日問題群小説」などではなく、どんなレッテルも要らないまっとうな小説なので、若い人も楽しんで読めると思います。

saysei at 00:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年01月17日

『ごはんのことばかり100話とちょっと』(吉本ばなな)

 パートナーが読みたいというので、アマゾンに注文していたけれど、新聞の書評欄でも好意的な評が出たりしたこともあって、人気があるのだろう。一時的に品切れだったのか、何でもすぐ届くアマゾンにしては手元に届くまで異常に時間がかかった。

 で、パートナーは一気に読んでしまった。面白いし、読みやすいし、というので、私にも薦める。彼女の推薦の辞は、「『あぁ、いまの若い人は食について、料理について、こういうふうに考えるんだろうなぁ』というふうに、いまどきの若い人の考え方が分かる」のだそうだ。

 もっともパートナーにとっての「若い人」なので、ばななさんの世代も含むわけだろうけれど。

 私は昔から食べ物にも食べるという行為にも関心が薄くて、忍者のように丸薬で済ませられればいいのに、と思っていたくらいだから、ましてや料理など全くできないので、この種の本は手に取ったことがない。

 だから私の関心は「吉本家の日々」のほうにある。作家吉本ばななのいい読者ではないけれど、お父さんのほうの膨大な著書は普通の読者に手に入る限りは全部読んでいるはずだし、それ以外にも若いときは一般の書店では大きなところでも扱わないような雑誌に載ったのまで、出る端から読んでいた時期もある。

 その吉本パパには結構「食」について書いた文章があり、パパの視点での吉本家の「食」の一端や、食についての彼の考え方は知っていたけれど、娘さんの側からの視点でそれがどんなふうに描かれるのかには興味があった。

 そういう意味ではやっぱり吉本パパが出てくるところを探して読むような感じの読み方になってしまうけれど、読んで、あぁ、やっぱりか、と思ったのは、吉本パパが娘のために作っていた弁当のことだ。

 一番「やっぱり」と思ったのは、ごはんが三分の一、あとの三分の二がいちご(!)で、ほかは何も入っていないという弁当だ。これは料理が下手だとか、男の料理だとかいうものではない。たぶん吉本パパのような人しか作らないチョー観念的な弁当だと思う。

 私の知る限り、弁当をもし無理にでも作らなければならなくなったとすれば、こういう弁当を作るだろうと思うのは、若い頃失業中の私を一時的にアルバイト仕事で使ってくれた、故・八木俊樹ただ一人だ。(知らない人のためにいうと、八木さんは書家石川九楊の三部作のひとつ『中國書史』の跋文を書いている人で、京都大学学術出版会の産みの親です。)

 思想家の作る弁当、とでも言うしかないか・・・。

 吉本パパのところを拾い読みするように読んだ私だけれど、ばななさんの夫の父親が押し付けるように若夫婦に持たせた腐った桃の話のように、パートナーの言葉を借りれば「いい掌編小説になりそうな」話もあって、料理音痴の私にも楽しめる一冊だった。 

 

 

saysei at 15:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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