2009年12月

2009年12月08日

「ガマズミ航海」(村田沙耶香 著)

 これも『ダブル・ファンタジー』や『オン・エア』と同様、周囲が女子大生ばかりの車中で読むのが辛い小説だったけれど、同時にそれらとは違って、既存の性に依拠して、あるいはその延長上に、性愛に溺れあるいは性愛を突き抜けていこうとする女性、あるいは性を利用し、性に傷つきといった女性を描こうという作品ではなくて、性そのものの概念を変容させてしまうような、文字通りラディカルな作品だ。

 その意味で、この作品のハイライトである美紀子との行為で結真が「漆黒の闇」に触れる瞬間は、これまで無数の作家が性を描いても描かれたことのなかった新しい世界がここに拓かれていくような予感をおぼえる圧巻のシーンだ。

 でも、その世界の変容は一瞬の幻であったかのように、結真の身体は女性がアダムとイヴの時代から繰り返してきた性的な反応を示して、消えてしまう。その名残のような藍色の空に手を伸ばし、指先が闇に紛れる末尾まで、凝縮した作品を読めた満足感に浸る。

 それにしても、この性の変容を促す背景となっている、結真の日常的な既存の性のありよう、彼女の感じ方、ものの考え方、男性観等々は、この作品のハイライトが予言のように指し示す根源的な性の変容にまで至らない風俗的な次元でさえも、私などの世代にとってはまことに恐るべきもので(笑)、まったく異星人のごとき存在に思える。

 いや、それはあながち私が過去の価値観に縛られた老人であるから、というわけではなくて、おそらくは現代の若い男性にとってさえも、多かれ少なかれそうなのではないか、と思えてくる。それは理屈の問題ではなくて、分かるとか分からないといった感覚や理解を担う一方の心身そのものがまるごと別の次元へ変容していくときに、もはや他方の感覚や理解の届きようが無いといった意味で、ほとんど絶望的なことのように思える。

 私たち男性が「狩られ」ながら「狩った」つもりになってやに下がっている間に、女性はわれわれの想像を絶するほどにまで進化して、もはや男性の想像力をもっては到達できないところまで行ってしまったのではないか。

 いやいや、この歳で、女性について、実に多くのことを啓蒙していただきました!あな恐ろしや・・・

saysei at 01:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

『掏摸(スリ)』(中村文則 著)

 これは面白くて一気に読んだ。ここ一週間ほど、休日もなく超多忙で3~4時間の睡眠で頑張っていたから、車中は眠くてたまらなかったけれど、この本は置くことができなかった。

 もしこれを楽しみのための読書として読めるなら、ぐいぐい引っ張っていく小説だし、エンターテインメント的要素を強く持った作品だけれど、抑えた調子の文章のテンションが最初から最後まで高くて、こちらも一種の緊張感を持って最後まで目が離せない。

 この小説には、人間の持ちうる究極の「悪」というのは、こういうものなのだろうな、と思えるような悪が描かれている。いわゆる純文学で暗示されるだけの、姿を現さない思わせぶりな陰の権力者のようなものが、もし具体的な姿かたちをとれば、こんな人物になるのかもしれない、と思う。

 というより、そういうまだ見ぬほんものの「悪」への私たちの恐怖心を煮詰めるとこういう形象になる、というような存在を描いて見せてくれたようにも思う。

 でも、このような形象化は、いわゆる陰謀史観のようなものを前提にしている。世の中で起きる様々な重大な出来事の陰に、特定の個人かグループかネットワークかは知らず、何らかの利害を持ち意図をもった者たちの作為や誘導があるというふうな考え方だ。

 原因の多様さ、複雑さ、曖昧さと、それが私たちに引き起こす不安や恐れが、そういう幻想を強固な実体のように形象化し、ある程度のそれらしい現実と相俟ってリアリティを獲得するのだろう。

 その前提だけは仮設として認めたうえに物語を展開している、という意味で、この作品は不安定な「純文学」ではなくて、確固としたエンターテインメントに属するということになるのだろう。

 実際、ここで木崎として形象化された「悪」は、本当は特定の意図や作為を持たない無数の人々の無意識の集合かもしれないし、ぶつかり合う利害集団の様々な力のベクトルの合成にすぎないかもしれない。また愚かな政治家たちの数え切れない過ちの足し算引き算の結果かもしれない。

 絡んだ糸をほぐして源まで手繰ってみても、悪意の不在にたどり着くだけなのかもしれない。むしろ現実にはその可能性のほうが高いような気がする。

 けれども、私はエンターテインメントしては、そこに究極の悪を体現する人物に立っていてほしいし、彼がすごみのある言葉で悪を語る現場まで主人公とともに連れて行ってほしい。

 この作品はそういう願望を実に完璧なほど満たして、楽しませてくれた。

saysei at 01:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2009年12月06日

『SOSの猿』(伊坂幸太郎 著)

 伊坂幸太郎の主な小説作品は読んで、これまでもこのブログ(ライブドアへ引っ越す前のドリコムのほう)で取り上げてきたように、結構楽しんできました。
 
 作品ごとに工夫があって、読者サービス満点の、純文学にしてエンターテインメント、奇想天外な設定や、推理小説のような謎に導かれ、サスペンスにはらはらしながら読み進む面白さ。力量のある作家であることは明らかでした。

 ただ、その作品の仕掛けが、ときにわずらわしく、なぜこういう書き方をしなければならないかな、と疑問に思うところが無きにしも非ず。彼の作品は大体一回さっと電車の中で読んだだけではよく呑み込めない(笑)。

 まったく関係の無い人物やシチュエーションが交互に書かれて、それがどういう関係をもつのか、ほとんど最後のほうまで分からなくて、最後の最後にそれが遭遇し、接合され、逆にたどっていくと、運命の糸(作者の意図)が初めて浮かび上がってきて、鮮やかなフィナーレの感動シーンにくる、というふうな感じ・・・成功したときの伊坂作品にはそういうところがあります。

 オーデュボンも重力ピエロもいいけれど、映画化されて評判になった『アヒルと鴨のコインロッカー』もそういう作品だったけれど、これも枝葉を整理した映画のほうが分かりよくて、劇的な効果、従って感動も私の場合は映画のほうが大きいように思いました。まぁそれは人それぞれだと思いますが・・

 今回の『SOSの猿』は、いままで読んだ伊坂作品の中で、一番しんどかった(笑)。これまでさんざん楽しませてもらって、人気も力量も当代指折りの作家の作品ですから、淡いファンの一読者としては「面白くなかった」なんて畏れ多くて言い辛いけど、言っちゃいましょう(笑)。

 荒唐無稽な登場「人物」?や設定はいつものことだし、喋る案山子に驚くどころか感動したくらいだから、孫悟空が出てくるくらいで驚きはしませんが、こうご都合主義的に出てこられると、ちょっと引っ込んでほしくなります。

 伊坂さんの作品では、荒唐無稽な何かが出てくるとき、それに後追いであわてて屁理屈をつけて、その荒唐無稽を正当化するかのような「説明」がついたりして、そこに何とも言えないユーモラスな雰囲気が漂って面白い。

 作者の空想癖が当初の計画やいま書き進めている筋書きだの設定だのをはみ出して、まったくとんでもないものを思いついてしまって、筆先からそれこそ孫悟空の分身がぴょんと飛び出してきたみたいに、言葉になってしまい、おやおや、こんなとんでもないものが出てきちゃったよ、どうしよう!と作者があわてて、その破れ目を取り繕うように、ありあわせの布切れでパッチワーク。

 ところがその飛び出したやつが、けっこう一人歩きして、既存の物語の中へ闖入して、影響力を持ってしまって、それはそれで面白くなってきて・・・みたいなね。

 もちろん作家伊坂幸太郎は緻密に計算しているのでしょうけれど、作品がそんなふうに生成していくようなところがあって、そこに彼の作品の面白さもあったような気がしています。

 そうやってあっちこっちパッチワークでつぎはぎして縫いつくろっていったら、一つ一つはご都合主義の取り繕いでつぎはぎされたようにみえた全体が、最後にパズルが完成するように、ピタッとおさまって、奇抜ではあるが、新しいファッション感覚の衣服が出来上がっている、というふうで。

 別の或る女流作家が、昔、自らの作品の書き方として、「最初は普通の書き方をして、あとでそれをバラバラにして再構成する」というようなことを書いているのを読んだことがあって、彼女は前衛的な作品を書く人と考えられていたけれど、私は彼女の作品を一つも面白いと思っていたので、それを読んで、理由がわかったような気がしました。

 彼女の「前衛性」なんてものは、別に「普通に」分かりよく書けば書けてしまうものを、深読みしたい「純文学」ファンを煙に巻いて、何かありげにみせかけるために切り刻んでシャッフルするだけの、空虚なみせかけの技法が生み出したものに過ぎなかったわけです。

 伊坂幸太郎の作品は、それとは違う部分がある、と一読者としては感じてきました。それは、筆先から作者にとっても困ったことに、孫悟空の分身のようなのが飛び出してしまう無意識の表出のうちに、伊坂幸太郎という作家の核心があることが読んでいて信じられたからです。

 むろん、彼も推敲の過程で厳密に意識的に構成しようとするに違いないし、そのときに先の女流「前衛」作家のように、いったん「普通の書き方」で書いたものに鋏を入れてつぎはぎする、ということだってあるに違いない。ただ、そのときの鋏の入れ方には失敗する場合もあるでしょう。

 私には、今回の作品は筆先から飛び出てしまった孫悟空(の分身)がオーデュボンの案山子のような魅力を備えているように思えませんでした。きれいにカットされて再構成された「私の話」と「猿の話」のどちらも、あまり魅力的ではなかった。そして、それが一つになっていくラストシーンもごたごたして、これまでの作品のようにシンプルに美しくも感動的でもなかった。

 以上、たった一回車中で細切れの時間を使って読んだだけで僭越な感想ですが、浅い浅い印象批評としてメモ代わりに控えておく次第。
 

saysei at 12:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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