2008年10月

2008年10月26日

『ジョーカー・ゲーム』(柳広司)

 いま旬の作家伊坂幸太郎が帯で褒めている、という単純な理由で読んでみたのだけれど、結構面白かった。

 古い映画で「陸軍中野学校」というのを何十年も前に見たことがあって、それは後に見た007のような万能のヒーローが活躍する冒険活劇なんかと違って、ずいぶん人間臭い、暗いドラマだったような記憶がある。きっとそのほうが実態に近いのだろうし、見るときも実際のスパイというのがどういうものかという興味で見ていたと思う。

 『ジョーカー・ゲーム』はまったくのフィクションだが、中野学校を連想させる、戦中の日本の陸軍スパイ学校D機関を創設した結城中佐を軸に、その卒業生であるスパイたちが活躍する物語で、一つ一つのエピソードが独立した物語ながら相互に連環する構成。

 舞台が私の生まれた、当時「魔都」と呼ばれた上海で、たまに父から話を聞いたり、本を読んでおぼろげにイメージしている都市の光景に似通っているので、自分が直接体験したり記憶しているわけでもないのに、妙に懐かしい光景のような既視感をおぼえながら読んだ。

 作中人物が語る、日本人と中国人の顔の洗い方が違う、という話は、完璧に現地語を話して融け込んでいた日本人スパイが、それでバレて捕まった、という話を父が噂話として話してくれたことがあって、眉唾だけれど、いかにも分かりやすい話だから、当時からそういう噂話がもっともらしく流されていたのだろうと思った。

 スパイ小説はもともと隠然たる情報戦、頭脳と頭脳の戦いに面白さがあるので、その仕掛けやどんでん返しの意外性が勝負。
 そういう意味では一つ一つのエピソードが短編なので、読者であるこちらの感情移入をきめこまかに誘導してすっかりはまってしまった上でひっくり返されるような爽快感には至らないけれど、逆にこれだけの短篇の中で、結構楽しませてくれたと感心する。

 一時期、スパイ小説は「寒い国から帰ってきたスパイ」とか「ベルリンの葬送」とか、わりと続けて読んだことがあった。映画も「コンドル」や「エスピオナージ」のような知的なのや「荒鷲の要塞」のような活劇と内部の裏切り者がからむサスペンスもはいった二重スパイもの(もう一つ抜群に面白いのがあったがいまどうしてもタイトルが出てこない)は大いに楽しんできた。

 この作品集を読んだら、またヒマなときがあれば、それらの懐かしい娯楽映画を見たくなった。

 
 

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2008年10月21日

『モダンタイムス』(伊坂幸太郎)

 1200枚という長編を一回読んだばかりのところで、すぐ感想を書くというのもどうかと思うけれど(笑)、まぁこちとら、評論家でもなんでもない、無責任な一読者にすぎないので、勘弁してもらいましょう。

 長いわりに風邪でダウンしていたこの2?3日のダラダラ時間と通勤車中で居眠りもせずに読んじゃえた、ってことは、退屈せずに読めたってことで、まずエンターテインメント性は合格点。

 ただ、優良可でいうと可、甲乙丙種の兵隊でいうと丙、松竹梅の幕の内弁当でいうと梅。下駄をはかせた60点ではないにせよ、70点には達しない感じ。

 どうも点が辛くなるのは、この作品を読んでいる間じゅうつきまとった既視感のせいかもしれません。いや既視感を与えるような作品ってすごいリアリティがあるってことじゃない?と誤解されるといけないので、あわてて平たく言い直すと、これ、どっかで読んだぜ、この手の小説けっこう最近多いよね、というふうな印象なのですね、これが。

 「ゴールデンスランバー」でも多少は感じたけれど、それほどじゃなかったし、ましてや「アヒルと鴨のコインロッカー」や「オーデュボンの祈り」では全然そういうことを感じなかったので、なんだろうこの感じは?と不審に思いながら読んでいました。

 だれもが自分の意志によってではなく、自分もその一部を形作っている「システム」によって動かされている。「モダンタイムス」の工員チャップリンが機械に使われて右往左往するようにね。

 そして、それはもともと「そういうもの」なので、倫理的に善悪、良し悪しを言ってみても本当は意味がない。

 システムに生じた異和や逸脱をシステム自体が排除し、自己修復するのは至極当たり前で、その異和や逸脱をいわば擬人化し、感情移入し、倫理的な意味を与えれば、部分がそれ自らの構成する全体を透視できないために、見えないシステムに振り回されて右往左往する現代人のメタファのような劇画チックな推理小説風サスペンスドラマができる、・・・んじゃないでしょうか。少なくとも伊坂さんのような筆力があれば、ですが。

 何年か前に「マトリックス」というテレビのCM的予告編のシーンだけが、おっすごいジャン、と思わせて、全編見ると実にしょうもない映画が流行ったことがありますが、あの単純きわまりないSF恋愛活劇も、もともと人間の話じゃなくて、コンピュータの中で起きている平凡きわまりないプロセスを擬人化してドラマ仕立てにしてみたら、現代社会のクールなメタファみたいになりました、というふうな見方ができなくはない。
 この種の事例は、映画にもテレビにも小説にも最近いやというほどお目にかかるので、既視感をおぼえるのも当然といえば当然なのかもしれません。

 ただ、村上春樹の「羊」のように、背後に見えない権力であるボスのような存在を感じさせるのかというと、別にそういうものは何もなくて、最後は謎に包まれた秘密結社のようにもみえた発注元「ゴッシュ」だって、行ってみれば「ふつーの会社」にすぎませんでした。

 また、平野啓一郎の「決壊」に描かれた、ウェブ上に遍在して拡散したり収斂したりして作用する見えない悪意といったものも見当たりません。

 もつれた糸がほぐれはじめて、あたかも「これが真実!」みたいな絵解きが行なわれるかという錯覚を読者に与えて作者が楽しむあたりに、超能力集団が出てまいります。
 
 オッ、超能力集団かぁ!いよいよ「幻魔大戦」の世界へ踏み込んでいくんかなぁ、とワクワクしていると、作中に登場する「超能力」は語り手自身の解説によって、ご丁寧に一つ一つ化けの皮をはがされていきます。「超能力でなくても可能なのよね。超能力と信じたい人は信じればいいけど・・」というわけで、たちまちそれらの超能力も本来の輝きを奪われてしまうのです。
 
 推理小説的結構をとっているから導かれる道なりに辿っていくと、期待した犯人には行き着かず、「犯人が居ようと居まいとどうでもいいんです、あなたがこうやって犯人を追っかけてきた、そのプロセス自体がいい運動になったでしょう?」というのが、用意された結末のない結末ですから、もとよりこういう肩透かしは作者の意図したところ。

 じゃ出だしはどうかというと、わけがわからないうちにまずは殺人が起きるところから始まる推理小説とこれまた同じで、われらが主人公は、わけがわからないままに拷問のプロに捕捉されるところから始まるのでした。

 終わってみると、犯人や合理的な動機や原因を求めるまっとうな推理小説ファンからみれば、なんとなくわかったような分からんような欲求不満が残り、これが不条理劇ってなもんかいな、などと見当違いの感想を抱いたりするのです。

 私が面白いと思ったところは、作者が超能力でなくてもそういうことが起こりえる、という科学的な代替物を無理やり持ってくるような几帳面なところでした。それは言い訳がましく、こじつけがましくて、作品としてちっともいいところではありませんが、作品を書き続けているときの作者の手の内やクセのようなものが、ちょこちょこさらけ出され、ご開帳になっているところで、それはそれで作品の良し悪しとは別の意味で面白いのです。

 それと、次々に何が起こるだろう、という物語的魅力を支えているのは、私の場合、過激な拷問ないし、拷問についての想像力が生み出す恐怖を描いた部分です。

 むろんマンガチックな誇張に満ちていますが、あれが嫉妬に狂った妻が依頼したチンピラに殴られる程度だと何の魅力もないでしょう。

 指の爪を手から足へと一枚一枚万力ではがされるとか、ボールペンを耳の穴に突き刺すような拷問についての言及が私たち読者の想像力を刺激し、マンガだと思いながらも、その想像力の中に他人の苦痛を楽しむような不謹慎な興味本位が潜んでいることも事実であって、主人公に同化してマゾ的に苦痛を感じつつ、先へ先へページを繰って次の苦悶の表情を見る快楽を追うのです。

 

at 22:36|Permalink
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