2006年09月

2006年09月24日

「中村久子の生涯」

 彼岸で、父母と義父の墓参。嵯峨野のお寺で法要があり、出かける。

 ここの住職は昔はふつうの企業に勤めていた人で、生まれたときから悟りを開いた坊主みたいな顔した似非坊主と違って、若いけれど社会常識もあり、考え方が柔軟で、しかも最近よくある堕落した俗坊主と違って、まじめな人で、本来の宗教者、求道者としての姿勢があって、好感が持てる。

 少し前までは本山の青年部のリーダーとして、教団のあり方にも積極的な提案をしてきた。そのころから若い人にも見てもらえるようなビデオを制作して、毎年の行事ごとに新作を見せてくれていた。

 これまでのビデオは、一方的なお説教に終わるような従来の教学ビデオとは確かに違って、高校生のなまの声を登場させるなど、いろいろ工夫はあったが、それでも私のような無信仰な人間の目から見れば、まだまだとても普通の若い人が観てくれるようなものではなく、どこか抹香くさかった。

 ところが、今日見せてくれたビデオは、すごい迫力だった。「中村久子の生涯」というので、出産間近な女性が、医者から、身体障害者が生まれる確率が高い、と言われて悩む中で、「心の手足」という本を手にとり、中村久子のことを知って、その出身地である岐阜の高山を訪ね、久子の両親を知る寺の坊主や久子の娘の話をきき、久子の生涯を辿るという設定だ。

 その設定自体は幼稚でなんだか嘘っぽいところがあったが、取り上げた対象自体が重量級だったので、圧倒的な迫力があり、見ている年寄りたちも食い入るように見入り、ほうぼうで泣いていた。私自身も涙があふれてきて困ったうちの一人。

 中村久子は両親が待ちに待って11年目にして授かった子で、その愛を一身に受けてすくすく育つが、4歳のときに四肢の骨が腐って落ちる病気に冒される。医者からも早く四肢を切断しないと命も危ないと言われるが、わが子の四肢を切断する決断はできなかった。ある日、久子が激しく泣き続けるので、部屋へ行くと、そばに包帯を巻いた手首から先の腕がもげて、そばに転がっていたという。

 四肢を切断しても、冬になれば傷口はアカギレで割れてひどく痛み、白い骨が見えたそうだ。自分では何もできない久子を両親は必死で支える。痛みのあまり泣きつづける久子に近所から苦情が出て、母親は久子を抱いて夜中に街を歩き、また何度も転居する。

 明治時代のことゆえ、身体障害者への差別もあからさまで、多くは家族が人の目から隠すように育てたが、久子の父は祭のように大勢の人々が集まる場所にも堂々と久子を連れて行く。
 弟が生まれたため、かかりきりの母にかわって、貧しい畳職人の父は、仕事をする自分のそばに久子をいつも置いた。久子が「わたしの手や足はまた生えてくる?」と訊くと、父は「きっと生えてくるよ。泣くと生えてこないから、泣かずにいるんだよ。」と答えた。

 当時、両手両足のない身体障害者が生きていくには、見世物に出るくらいしか方法がなかった。父のところには何人もの興行主が久子を売ってくれ、と訪ねてきた。貧乏のどん底にあった父は、しかし、久子はモノではない、と激しく拒否して、彼らを追い返した。

 その父が、久子7歳のある夜、久子に添い寝していて、突然大声で言う。「お父さんはこれからも、決しておまえを放さないからな。」・・その翌日、父は37歳の若さで急死してしまう。貧しさのどん底で久子を守り、一家を支えてきた過労の果てだった。

 夫を亡くした母親は貧困と久子をかかえ、死ねば楽になると思い、久子を背にして急流に飛び込む瀬戸際までいくが、久子の身体のぬくもりを感じて踏みとどまる。それから自分が死んでも久子が自立して生きられるように、きびしいしつけを始める。

 口を使い、また辛うじて残っているひじから上の上腕に包帯を巻き、そこに箸を括りつけて食事をとり、口で筆をくわえて絵を描き、文字を書いた。のちに生まれる久子の娘のインタビューで話すことによれば、久子は裁縫の針に糸を通すのが五体満足の娘よりも早かったという。

 久子はその針と糸をつかって、裁縫もこなし、見事な刺繍や、彼女の作った人形の着物などを残していて、その映像を見ると私たち観客はその見事さに思わず声をあげたのだった。

 そうした技の一つを習熟するだけでも5年、10年の歳月を要したと思われるのに、彼女はそのような苦労話を娘にもしなかったという。

 やがて母は子供たちを育てるために再婚する。新しい父親は、久子を恥じ、2階にとじこめて世間の目から隠した。久子その部屋で終日、隙間から前の街路を眺め、そこを走り回る子供を羨望の目で見ていた。用足しにいけないのが何よりつらかったという。

 弟は孤児院のような施設へ、久子は祖母のもとに預けられる。その直前、母と久子と弟の家族3人で、別れの前にと母は祭りに連れて行く。ところが祭りを見ているうちに、久子の目が光を失う。四肢の病の転移で、失明し、医者にも不治の病と見放される。(のちに奇跡的に視力を回復する。)

 祖母は立派な人で、愛情を持って久子の自立を助けるよう、色々な知識を与え、技を身につけさせる。
 しかし、運命は容赦しない。父に次いで、母も40代の若さで死ぬ。成人した久子は、自立のためにかつては父が拒否した見世物で身をたてる決意をし、旅芸人の一座に赴く。だるま娘という看板に久子は傷つくが、彼女の芸は評判になる。口にくわえた筆で巧みに文字を書く彼女のところへ、のちに書道家として名をなす書家が訪れ、泥の中の蓮の花のように生きよと励ましの言葉を残す。

 戦争の時代、彼女の属する一座は朝鮮半島へ、満州へと活動の場を広げていく。旅芸人一座の男と結婚し、女児を産む。五体満足なわが子をみて、彼女の喜びはふつうの人では味わえないほど激しいものであった。と同時に、自分がこのような身であるがゆえに、ほかの人々よりも大きな喜びを得ることができるという事実に気づいて、人生を肯定的に受け止めていく。それはのちに義足ができて、はじめて大地を踏みしめて立ち、歩いたときの感動についても同様だった。

 よき夫と可愛いわが子を手に、幸せを得た彼女だったが、運命は過酷だった。関東大震災のとき、最愛の夫と、育ててくれた祖母を失う。

 絶望のどん底に突き落とされる久子だが、祖母の縁につながるきっかけで、歎異抄に出会い、精神的に立ち直っていく。子供が運動会でほかの子供たちと一緒に楽しく走るのを見て、自分が両親にこのような楽しみをついて与えてあげることができなかったことを思い知る。子供を生み育てて、はじめて自分の両親の想いを、その悲しみを共有し、生かされてある自分の命の尊さを深く自覚していく。

 そのころには有名になった久子は全国から講演の依頼が舞い込むようになり、見世物とは手を切り、多くの地域へ出かけて講演をこなすようになる。自分が傲慢になって苦しむ時期もあるが、それを乗り越えて、久子は自分が生かされているという境地にいたる。

 ヘレン・ケラーが来日したとき、久子が作った人形を贈られたヘレンは、久子を抱きしめて涙を流し、私よりも不幸であった人、そして私よりも偉大な人・・・と言う。

 久子が残した晩年の詩片のような言葉に、私には○○がある、○○がある、何でもある、というのがある。私たちは五体満足でも、いつも××がない、××がない、とぼやきながら生きている。しかし、久子は過酷な現実を、大きく強く肯定的に受け止めている。

 これはフィクションではなく実話である。いまも身障者をとりまく状況が快適であるとは決して思わないけれど、『五体不満足』を書いた乙武さんが生きた環境とは天地の開きがあっただろう明治、大正、昭和初期の身体障害者の置かれた環境のもとでの人生なのだ。

 そして、ただ四肢が失われたというだけでなく、失明にせよ、肉親の死にせよ、次々にこれでもかこれでもかというかのように襲い掛かる試練。これはもう旧約聖書のヨブ記の世界だ。

 まるで不幸というものは一旦1人に目をつけると、徹底的にその1人に何重にも襲い掛かってくるものであるかのごとく、彼女の人生のいたるところに待ち伏せていて、少しでも幸福の光が見えると、たちまちそれを消しに襲い掛かってくるかのようだ。これほどの試練に耐えられる人間があるとはほとんど信じられないくらいだ。

 しかも、彼女自身はそれを一つ一つ受け入れていくにつれ、逆にどんどん肯定的になっていく。自分がそのような試練に見舞われたがゆえに、人生の喜びがかくも深く、大きい、ということに気づいていく。

 このビデオを見せてくれた住職は、「ちょっと重過ぎるかもしれなかったのですが」と言っていたが、それはただ不幸をこれでもかこれでもか、と描いて救いの無い、重苦しいだけの映像とはまるで違っていた。

 ほんとうに力強く人生を根底からまるごと肯定する久子のたどり着いた境地と、そこにいたる足跡をきちんと描いた、いい映像だった。

 宗教的な脚色をほどこした部分がわずかだがあるので、教育の現場でまるごと見せることはできないけれど、久子の人生そのものを辿るドラマや生前の久子の実写フィルムから成る主要な部分は若い人にみてもらいたいような内容だったし、真宗系の大学などはぜひ1年生の全員に見せるといい映像だと思った。

 

 
 

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2006年09月02日

シャガール展と「A to Z」展

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 青森に新しく県立美術館ができたので見に行った。外壁も内装も真っ白の壁は鮮やかだけれど目に痛い感じ。ギャラリーは絵を生かすために壁面は白で、というのは一般論として結構だけれど、休憩室やトイレ、食堂やショップへの通路まで、こんなまぶしい白を使う必要があるのかと疑問を感じる。

 すぐ背後には三内丸山という縄文の巨大な遺跡が広がって、緑が目にやさしい。そこで一人エエカッコしぃの白亜の殿堂が立っているって感じ。せっかくの新しい時代の美術館なのに、これでは県民に愛され親しまれるような雰囲気を拒絶しているかのよう。

 そういえば建物自体が外部に開かれた部分が目につかず、白い倉庫のように閉じている。広い明るいロビーというものもない。入り口を入ると狭い通路を左手の入館券売り場へ進むように言われる。この入館料が企画展+常設展で1800円。開館記念展は莫大な経費がかかっているだろうから、仕方がないとは思うけれど・・・。

 それにしてもこのシラジラした建築空間にはとても不満。

 でも開館展のシャガールは見ごたえがあった。バレエ「アレコ」の巨大な背景画を4面の壁面に高い天井から下げた専用展示室の光景は圧巻。これが開館展の目玉だろう。1点はフィラデルフィア美術館からの借用だけれど、あとの3点はこの美術館が購入したらしい。空間自体がこれらの作品のためのオーダーメイド、この空間はすばらしい。

 ほかにもシャガールのすばらしい作品がよく集められていた。パステルやモノクロの素描にもとてもいいものがある。

 もう一つのハイライトは、「アレコ」の舞台衣装を立体的に配して展示した部屋。一点一点の衣装も明るくユーモラスで面白いけれど、この天井の高い展示場を巨大な舞台のようにしつらえ、舞台に立つバレエダンサーのように奥行きをたくみに使って衣装を配置し、全体として舞台のワンシーンを
見るように観客に対面させた演出は見事なものだ。

 開館展で土日には大勢の来館者があるだろうから、スタッフがやたら多いのは仕方がないと思うけれど、尋ねもしない人に言わずもがなの解説をしかけるのは、ちょっと「親切」すぎる。意気込みは理解できなくはないが、「小さな親切よけいなお世話」という、あまり好きではない言い方があるけれど、あれを思い出してしまった。

 レストラン「4匹の猫」では、津軽の郷土料理をアレンジしたお洒落なおいしい料理が食べられる。ここで「津軽鶏と青森産りんごのカレーライス」(1,180円)と有機栽培コーヒー(520円)を食べた。メニューは4匹の猫の物語が画家の絵本のように構成されて、それもまたお洒落。

 空港から1時間に1本だが、シャトルバスが出ている。ただし、20分ほど乗るだけなのに、1000円は高い!たいていは観光バスや自家用車で来館しているらしい。

 すでに10万人を突破!という張り紙がしてあった。しかし、常設展の内容をみると、さて立地もかなり郊外だし、積雪の冬のこともあるし、普通半減するといわれる5年後の来館者数をどこまでもちこたえるか、この産声をあげたばかりの美術館の活動が問われるのはこれからだ。

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 翌日は鈍行に乗って小一時間、弘前へ行き、奈良美智とgrafによる「A to Z」展を訪れました。7月末から10月まで3ヶ月だけ、吉井酒造という酒屋さんのレンガ倉庫の巨大な内部空間に仮設の小屋を建てて、観客は迷路をめぐるように狭い通路を歩き、階段やはしごを上り下りし、AからZまでのさまざまなサブ展示空間に配された絵画やインスタレーションを体験するという趣向です。

 小屋の色々なところに小窓や小さな穴があいていて、同じオブジェを思わぬ視角からみて新鮮な驚きを味わったり、キリンが長い首を出している天井裏へはしごを上って、首を出して周囲の動物たちを見ている自分が、一段高い回廊をゆく人々から、首を出している動物たちと同じオブジェとして見られていることに気づかされる楽しい仕掛け(三沢厚彦"Animals")があったり、遊びごころいっぱい。

 素敵だったのは、室内の花園に数人の子供たちが輪を描いてうつぶせになっている Hulahula Home 。ヤノベケンジのトラやんが登場する「青い森の映画館」も面白かった。

 しかし、このイベントのハイライトは、一人しか通れない最後に急な階段を天井裏まで上がり、長い桟橋を渡って、黒く光るビニールが一面に張られた夜の海のような異次元の空間に入り込む瞬間だ。金色の船の脇を通って細い突堤を島に渡ると、向こうに夜の海に浮かぶ三つの巨大な人の首を平たく圧縮したような異様な漂流物を眺めることになる。
 この人工的な光景はしかし、圧倒的な印象を与える。幼いころにみた引き込まれてしまいそうな夜の海、あるいは死後に自分の漂う海、とうに消えてしまったと思っていた心の闇のように。

 奈良美智の作品は、あの特徴的な目のつり上がった女の子に至るまでに、いかに多くの試行錯誤があったかを見せてくれて、その圧倒的な量に感動する。

 たくさんのアーティストが出品しているけれど、残念ながら写真には心を動かされる作品が一つもなかった。

 けれども、この展覧会全体は本当に現代美術の楽しさを堪能させてくれる十分な量と質を備えている。ここでは、分かるとか分からないという、現代美術のお行儀のよい「鑑賞」につきまとう言葉は誰の口にものぼらないだろう。散歩のようにぶらぶら見てあるくだけで楽しく、笑ったり、微笑んだり、癒されたり、ハッとさせられたり、反芻させられたり、いろんな感覚と感情を体験させてくれる。

 参加しているスタッフが、「仕事」でやっているふつうの美術館の監視員などとは全然ちがって、生き生きとしていい笑顔をしている。みんなこのプロジェクトに参加していることが楽しくて仕方がなく、またみんなに見てもらいたい、愉しんでもらいたい、という気持ちが全員の表情に表れている。

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