2006年07月

2006年07月31日

北斎と広重

 昨日は京都文化博物館で「北斎と広重展」を見た。ちょくちょく画集で目にし、また数点ずつならば色々な美術館で目に触れたこともある二人の浮世絵も、これだけシリーズごとにまとまった数を見せられると、インパクトがまるでちがう。

 とりわけ北斎の千変万化の自在な構図の見事さには惚れ惚れした。浮世絵の名所図会などは、いまの観光名所絵葉書に相当して、いかにその地域の魅力を伝えて人寄せをするかというメディアだったのだろう。

 松島はここから、天橋立はここから、宮島はここから見るのが一番、というような日本人の得意な景物をとらえる俳句のような定型的な視点の堅固さを前提に、その強固な定型をさえ打ち破る斬新な視点、というよりほとんど破天荒な試み。

 浮世絵の真髄は構図にある、という圧倒的な印象を受ける。その視点の、従ってそこで定まるフレームと、その中に配される要素の配置の巧みさ、堅固さ、斬新さ。そして、その配置によって生じる遠近の表現技法の多彩さ。幾重にも重なる山々の色合い、明暗、ぼかし、焦点の絞られた前面の人物や着物の柄の細密さと粗い遠景、画面の全体に降る雨にしても、春雨と夏の驟雨をみごとに描きわける繊細さ。

 

at 14:03|Permalink

2006年07月22日

ゆれる(小説)

 監督みずからがnovelizeした作品。これがまたいいから困ってしまう。はじめは、やっぱり映像の人だな、映像作家がポッと小説書いて、いい作品ができるほどこの世界も甘くないよな、などと思って読みすすんでいたら、そのうち、おっ、やるぅ、と思うような箇所に何回も出会って、そのうちすっかりはまって通勤の往復で読んでしまった。

 ストーリーもプロットも映画そのままだけれど、映画は一度観ただけだから、登場人物のさりげない表情や言葉のやりとりや仕草で、また一瞬登場する物で控えめに提示されているもののすべてをとらえることは難しい。

 そうして映像では気づかずにやり過ごしていたものも、文章では明瞭な輪郭をもった像としてつきつけられる。言葉のような抽象的なものより、映像のほうが一目見れば明らかだと私たちはしばしば誤解しているけれど、言葉が喚起する像のほうがずっと鮮明だということを思い知らされるようなところがある。

 映像のほうが両義的で、それが含みとして表現の価値になっているところがあるから、作者は小説化するとき、そこはやりにくかっただろうと思う。主要な複数の登場人物の視点による語りという形を借りているので、その両義性が重要なところで成立しなくなる可能性が大きいからだ。

 そのへんは確かにつらいところはあるけれども、そこもまぁかなりうまく処理できているという印象を受けた。

 しかし、この作品がnovelizationの域を超えて、ひとつの小説作品として自立しているかというと、やっぱりそれなら、基本的に小説の言語として全然違うものになるはずではないか、という疑問を生ずる。

 複数の登場人物の視点による構成は、たしかに、カメラという登場人物に対して第三者的な、小説でいえば客観描写的な映像を小説形式の散文に置き換えるための方法のひとつかもしれないけれど、映像だってその視点をひとつの主観に重ねることはできるから、カメラで撮るからといって小説の客観描写と同一視することはできない。

 そうすると、たとえば事件の決定的なシーンを語る猛の語りが、ただ猛の視線に重ねたカメラのとらえる映像をなぞるのを見るとき、果たしてこの語りは方法的な転換として評価できるものだろうか?あまりにも映像と小説言語との懸隔をやすやすと跳んでいるのでは?と感じてしまう。

 

at 00:14|Permalink

2006年07月20日

ゆれる

 西川美和監督はこれが2作目だそうだ。才能というのは恐ろしいものだと思う。久しぶりにいい映画を観た。

 刑事事件をストーリーのベースにしながら、犯罪や裁判を扱った推理劇でも単なる心理劇でもなく、兄弟というぬきさしならない関係に縦深的に切り込んでいくような本質的な展開で2時間の長尺をここまで高いテンションで引っ張っていけるのは大変な力量だ。

 監督自身のオリジナル脚本らしいシナリオの質。兄弟の心理的な確執などは別にテーマとして目新しくはないが、親の世代の兄弟の確執を重ね合わせることで、時間的に重層化され、奥行きが出る。
 構成、とりわけ映像の転換の巧みさ。そして、これ以上はないと思わせるキャスト。とりわけ香川照之の表情の演技のすばらしいこと。香川がいなければ、この映画はまったく成り立たなかったろう。

 オダギリジョーも、映画にテレビにCMにこれだけ出ずっぱりで、よくまぁこれだけの演技ができるものだ。タフさには舌を巻く。田舎の「つまらない人生」を足蹴にして出て行き、都市の洗練と薄汚れを身につけた浮薄な成功者(カメラマン)である弟役だが、もと田舎者の泥臭さもちゃんと引きずっているところがいい。

 うだつのあがらないその他大勢の役者だった仮面ライダーマンの孤独な彼の初期の役者人生が生きているような気がする。香川輝之については言うまでもないだろう。もうこれは天性の役者の血だと思うより仕方が無い。

 脇役陣もよかた。カメラも照明も。唯一の不満は?欲を言えば?音楽かな。

                *

 M=i=? はこちらもあのイントロが聞こえてくると、もう期待でワクワク、愉しむことだけを期待して感覚を開いているので、それを満たしてくれさえしたら文句なし。殴ったり蹴ったりはあまり好きじゃないので、もうちょい007的にスマートにやってほしいとは思うけれど、息もつかさぬ展開に堪能する。
 
 ところで、最後にイーサンが殺されそうになるとき、縛られている奥さんの顔の意味ありげなアップがあって、唇がふっと笑っているように緩むじゃないですか。ありゃ、これはまたもう一枚顔をめくるんじゃないか、と思ったのだけど、ハッピーエンドになったので「???」でした。あれは次回への布石?

 次回予想→局長はやっぱり国家を戦争にひきずりこもうとする狂信的なネオコン一派で、それを死ぬ前に告げようとしたイーサンの教え子が優秀だったことが判明する。イーサンの結婚も仕組まれたもので、イーサンと同様親がいないという彼女も怪しげな風貌の弟もみな局長の手下。すぐれた諜報員であるイーサンを罠にはめ、彼が国家のためにすぐれた活躍をすることが、そのまま戦争の危機を招くように仕組まれる。・・違うかなぁ(笑)。

 それにしても、いつも内部に裏切り者がいて・・・というこのパターン。次回からもう少し新鮮なシナリオを使って下さい、パラマウントさん。

                *

 きょうは「研究日」。ハシゴして映画文化の「研究」に励んでおりました。ケータイメールの返事が遅くなってしまったみなみなさま、ごめんなさいm(_ _)m

at 22:36|Permalink
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