2006年01月

2006年01月30日

となり町戦争・ニート・輪舞

 「白夜」が面白かった、と言ったら、そうかな?推理小説としてしっかりした構造を備えていないし、きまりきったパターンの繰り返しだし・・・と長男はクールで、そう言われればそのとおり。ただ、主人公二人の行動と内面を直接は一切描かずに周囲の登場人物の客観描写で抑えて抑えてあの長尺を描ききっていく力量はやっぱり並みじゃないと思う。

 で、その長男が最近読んだ若い世代の小説でちょっと面白かったのは「となり町戦争」くらいだった、というので、早速今日の車中で読んだ。三崎亜記という70年生まれの人だから30代半ばの作家だ。日常的な世界とぴったり重なるように目に見えないもう一つの世界があって、それがところどころズレたりほころびがみえたりして、そのハザマにこぼれ落ちて右往左往するといった設定のなかで、実はわたしたちにとって戦争というのは、こんな形でやってくる、いやすでにやってきているし、いまその中でぼくらは生きているんじゃないか、と言いたげな小説だ。

 糞リアリズムと切れた人工的な作品世界で、すこしひ弱な印象はあるけれど、こういう世界をつくるという意志は感じられて、それが十代か二十代のナイーヴな青年作家の作品のような透明感を感じさせて、悪い印象ではない。ただ、そのせっかくの設計が弱くて、荒唐無稽が日常を突き破っていくような迫力に欠ける。

 当然こういう作品を読むと、日常のすぐ隣に自分をとらえにくる法の執行官がいたり、掟の門番がいたりするようなカフカの世界が想起されるけれども、カフカ自身は病弱ひ弱な肉体の持ち主だったけれどその作品世界はひ弱ではなく、その荒唐無稽はあの虫のように日常性を食い破っていく。

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 芥川賞を受けた糸糸山秋子(糸がふたつ並んだ字の「いと」)「ニート」。これは面白かった。ニートのキミに語りかける二人称的(?)な語り口がよく効いていて、いまどきの脱力系の男女のつながりかた、切れ方が、なかなかたくらみのある文章で描かれていて、各所でにんまりするようなところがある。まぁ、好きなタイプの作品じゃないけれども。

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 テレビドラマは「白夜」と「輪舞」をビデオにとって見逃さないようにしている(笑)けれど、(白夜」のほうは、作品が私にとっては面白かっただけにがっかりの連続だ。あえて作者が厳しい抑制から描かなかった主人公たち2人の行動と心理を直接追っかけようとして完全に失敗していると思う。ここには二人のクールさも非情さもない。ただ行き当たりばったり、なりゆきに翻弄され、その都度おろおろ泣いたりわめいたりしながら罪を重ねていく、凡庸な青少年犯罪者の姿しかない。

 原罪を背負い、宿命的に結び付けられた二人が、表舞台には一度も姿を見せず、寄り添う姿を見られることもなく、極悪非道を冷徹につらぬいて、永遠に陽のささぬ白夜を手をたずさえてひた走る、読者はその無垢の原点を知るゆえに、その汚辱にまみれた極悪非道が、親鸞がいう悪人正機の極悪人の行ないのように、まるごと浄化されるかのようだ。だから二人の白夜行が、明け六つの鐘を聴きながら曽根崎の森へひた走る男女に重なり、現代の道行のように見えてくる。

 そんな原作の美しさを、このドラマは台無しにしてしまった。男優は「セカチュー」以前にテレビドラマで消防士を演じていたころから、一途な演技が嫌いではなかったし、女優もわるくない(少女時代を演じた福田麻由子が抜群によかったので、彼女がハイティーンになればああいう顔になるかも、と思わせるところがあるし)のだけれど、なにせ脚本がいけない。松浦役の男優など、役者はなかなかいいのだけれどなぁ。どこかにもっといい脚本家がいるだろうに!といっても三谷幸喜じゃぁ喜劇になっちまうしなぁ(笑)

 それにひきかえ、「輪舞」(ロンド)のほうは、和製香港ノワールって感じで、なかなかイケル。なんたってチェ・ジウだ。悪かろうはずがない!(笑)。美しき日々のセナ役と再び姉妹役ってのもサービス満点だ。竹野内豊も好きだし、ホットでクールな難しい役どころを魅力的に演じている。
 まわりを固めている俳優たちもいい。もこみちもよくやっているし、きっとチェ・ジウたちの探している父親なんじゃないかと思う「神狗」の親玉の韓国人役も迫力満点。いま一番楽しいテレビのエンターテインメントだ。

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 映画でも小説でも、私は「大衆性」のある作品が好きだ。エンターテインメントという意味ではなく、観客や読者に開かれている、ということだ。

 だいぶ前に、西宮で映画館をつくる運動をしている人の誘いで、彼らが商店街の幾つかのスポットを借りて上映した映画「祭」を夫婦で見に行ったときのこと。カフェみたいなところに、若いボランティアスタッフがたむろしていて、そこでもテレビのディスプレイで学生のつくった映画を上映していた。

 少々場違いな感じはしたけれど、カウンターの前に座って、次々に上映される映画を見た。ほんとうに死ぬほど退屈な、そしてつまらない映画だった。帰り際に感想を聞かれて、なんとか一つくらい良いところを見つけて言ってあげないと、スタッフのみなさんも苦労の甲斐がないわなぁと思って焦るのだけれど、何一つ思いつけなくて困った。仕方なく、どうもこういうのは苦手で・・・あまりぴんとこないというか、・・・というようなことを言ったのだと思う。

 すると、カウンターの内側にいた女性が、不満だったようで、「自主制作映画を見たことがありますか?あまり見なれてないと、なかなかこういう映画は分かりにくいでしょうね」みたいな言い方をした。

 目が点になってしまった。自主制作であろうがメジャーであろうが、こっちの知ったこっちゃない。いいものはいいし、ダメなものはダメなの。それが分からなかったら、映画に関わることなんかやめたほうがいいし、文化がどうのこうのなんて言うべきじゃない。

 たまたま次男が映画や音楽に関わるようになったので、ほかの若いクリエーター(のたまご)たちにも接するようになったけれど、彼らがあの彼女のようでないことを祈る。

 若いからプライドが高いのは結構だし、傲慢であっても不遜であっても構わないけれど、「自主制作映画だから、つまらない映画でもハンディをつけて評価してくれ」、というような根性だったら、はじめからやめたほうがいい。

 金がない、暇がない、いいスタッフやキャストが集められない、だからこういう映画しか作れないんだ、と泣き言をいうくらいなら、映画づくりなんかしないほうがいい。

 200万には200万の、60万なら60万の作り方ができるはずだろう。60万の製作費だからといって、キャストやスタッフはどんなやつでもいい、と少しでも思ったらアウトだと思う。60万なら60万の範囲で、最高のキャストとスタッフを必死で探すべきだし、みつけたら土下座してもひっぱってきてやってもらう熱意を示すべきだろう。

 京都国際学生映画祭でも見た、学生の自主制作映画につきまとう、本人だけが大真面目で傍からみれば滑稽でしかない、気恥ずかしくなるようないくつかのシーンや、独りよがりな暗さ、意味のない意味ありげな「目くばせ」の類、閉じたサークルの中でしか意味を持たないそんなガラクタは、自分で覆っている暗幕を取り去ってしまえば全部カラッと消えてしまうし、そのとき初めて作品が不特定多数の観客に開かれるのだと思う。 
 それは「セカチュー」に感動するような観客に媚びることではないし、エンターテインメントに堕ちることでもないはずだ。

 次男の周囲の人たちを見ていると、それぞれの判断を尊重するのはいいが、その前に徹底的に議論しあうとか、批判しあう、ということがないのが気になる。互いに立ち入るまい、立ち入られまい、という中途半端な距離感を保とうとしているようにみえる。これはぶち壊したほうがいい。雇ったアーチストにどんなコネがあるのかは知らないが、そんな音楽じゃだめだ、というのは、はっきり言うべきだと思う。怠けていないで真剣にやれ、というのも言ってやればいい。それが相手の才能を本当に尊敬する友情というものだろう。
 それでも、オレはこうするぞ、というなら、最後はプロデューサーなり監督なり、最終責任を持つ者の判断に委ねればいい。それまでのプロセスが物足りない。それは確実に作品に反映されるはずだ。

 次男の友人たちが、いま数十万、せいぜい100万、200万の映画しか作れなくても、そういう「自主制作映画仲間」みたいな<部分社会>に閉じて、「自主制作映画を見慣れていて自主制作映画がわかる」お仲間どうしほめあって自己満足するような人たちであってほしくない。
 切磋琢磨して、万人に見てもらえる開かれた映画をつくる努力をしないで、これが分からんやつは映画が分からんのだ、というプライドだけ高い閉じた「自主制作映画長屋」の住人であってほしくはない。そういう人たちは、永遠にその貧乏長屋から出ることはないだろう。

 いま現実には100万の映画しか作れないとしても、1000万与えられれば1000万の、1億与えられれば1億の作品を、いつでも作ってみせる、という誇り高い姿勢と技量を磨く努力を保ち、不特定多数の観客に開かれた志をもって作っていってほしいと思っている。

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 仮称クルミちゃんは明日が予定日なのだけれど、きょうもさしたる徴候はない模様。さすがにまんまるにふくらんだおなかのほうに、「もうそろそろ出てきてもいいぞぉ?っ!」と声をかけてみる。
 

at 22:05|Permalink

2006年01月17日

白夜行

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 とうとう読んでしまった!明日から車中の楽しみがない (>_<)

 最後までよかった。少なくとも、つかまったりして、悪は栄えず、みたいなPTA的結末にだけはしてほしくなかったから。

 もしも行動を逐一追いかけたり、主人公たちの心理描写をしたら、平凡で繰り返しが多くて、そううまくいくかよ、と言いたくなるような、単純な話だけれど、これを800ページ、息もつがせず引っ張っていく筆力はすごい。

 これがうまくいっているのは、主人公たちと同様に作者も禁欲的だからで、二人の接触を描かず、内面を描かず、一番重要な芯の部分を読者の想像力に委ねる方法を徹底しているからだろう。

 素材は陰惨な話で、彼ら自身のその後の犯罪にも美化しうる要素は何もない平凡で汚い犯罪にすぎないけれども、そのすべてを原点の無垢が浄化するかのように、読者には見えない手をとりあって歩いていく若い男女の白夜行が哀切きわまりないものに感じられる。

 たまたま今日、作者東野圭吾が新作で直木賞を受賞したというニュースが飛び込んできた。テレビドラマも先週第一回が始まったところだし、なんというタイミングの良さだろう!背後でリョウが動いているのではないか?(笑)

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 今日の夕食は次男好み。酢豚、小鯵の南蛮漬け、鶏肉のタタキ、鯖の味噌煮、大根とジャガイモの煮込み、畠菜のカラシ和えなど。今日の鶏肉のタタキは、犬山の「お肉のサイトウ」さんから注文制でとっている食材によるもので、新鮮・美味・安全。タマネギやカイワレと共に酢醤油で食べると絶妙。

 バターも取り寄せのアルプスバターが一番おいしいが、最近パッケージに描かれていた大型の道具が木製だったのが、金属製に変わっている!時の流れには勝てぬか・・・。しかし味は変わらない。これがないと朝食のトーストがドンクでも半分の味に落ちる。

 牛乳はヘルプで売っている木次。どんなまぜものをした「高級」牛乳より美味い。値段も安い。パックをあけて新鮮なうちに飲むと、そんなに牛乳は好きではないのに、美味い!と思う。牛乳好きの長男はこの牛乳で育った。水がわりに飲めるという。息子たちは幼いころから自然な味になじんでいて、人工的な味を敏感によりわけてしまうので、へんな「付加価値」をつけた牛乳などは一口でおいてしまう。

 まずいものしかないときは困るだろうが、ほんとうにいい味を知っていることは、食物でもアートでも幸せだと思う。そして、つまらないものをいくら味わっても、いい味がわかるようにはならないけれど、いいものだけを味わってきた舌は、食でもアートでも、ほんものとニセモノを瞬時に識別できる。

 

at 21:55|Permalink

2006年01月06日

映画のはしご

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 積雪はさほどでもないけれど、寒さはこの冬一番というほど寒い朝でした。30日以来のゴミ出しの日。

 朝食後、買物ついでに、久しぶりにパートナーと映画のはしご。Movixでハリー・ポッター、昼食後は今月末にはなくなってしまうらしい京都スカラ座で Mr.& Mrs. Smith 。

 今回の映画の選択はパートナー。映画館でアルバイトをしている学生さんが、一番多く入っているのはハリー・ポッターかなぁ、と言っていたし、Mr.&Mrs.Smithは彼女も面白かったと言っていたようだったので、私も見てもいいか、という感じだった。残念ながらどちらも私は期待はずれだった。

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 ハリー・ポッターは龍に追っかけられたり、水中で魔物に囲まれたりするCGがセールスポイントで、スピードと立体感のある映像はさすがだけれど、Lord of the Rings のCGを見たあとでは、TDLのあとで地方の遊園地へ行ったような感じで・・・。
 
 イギリス英語が綺麗なのと、パブリックスクールの文化が自然に出ているところとか、見方によっては面白いところがあるけれど、一方でイジメに対する解決の仕方や、敵の描き方、残酷さの質、みたいな部分で、たぶん原作者、製作者共通のものかもしれないけれど、なんでもないところで思想的にちょっと厭なところがあって、なじめない。

 でもこの種の映画は理屈ぬきに楽しめればいいのだろうし、次々に展開するストーリーと映像のスピード感を楽しめばいい、テーマパークのジェットコースターと同質のものだとは思う。ただ、ハリボテの絵柄だけとりかえたジェットコースターには、観客も飽きがくるのではないだろうか。

 Mr.&Mrs Smith のほうは、もちろんブラッド・ピットを見に行ったつもりだったけれど、彼よりアンジェリーナ・ジョリーのほうがカッコよかった。スパイものは好きなので、ブラピがいい演技をした「スパイ・ゲーム」や、マット・デイモンの「ボーン・アイデンティティ」のような緊迫感を期待した。
 しかし、もともとそれはないものねだりだったようだ。これはスパイもののエンターテインメントではなくて、夫婦ものとして見たほうがいい。どんなにドンパチやっても、所詮は夫婦の痴話喧嘩だし、実際そう見えてしまうために緊迫感がそがれてしまう。

 買物のほうが主で、映画は従だったので、まぁ仕方がない。パートナーのほうはそれほど否定的ではなかったようだ。

 昼は田ごとで天ぷらそばを食べる。

 高島屋などで買物して帰る。

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at 19:04|Permalink
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