2018年09月26日

手当たり次第に ⅩⅥ ~ここ2、3日みた映画

 映画館でみた「Passion」と「君の鳥はうたえる」についてはもう書いたので、手元に積んでおいたビデオの中から手あたり次第にひろってみた、ここ2,3日の映画雑感です。

「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博監督) 1934

  戦前のモノクロ映画ですが、時代劇では珍しいミュージカルで、「日本初のオペレッタ」と言われているそうです。 
  これを見ると、時代劇でもちゃんと面白いミュージカルができるんだなぁ、と思います。

  宮本武蔵に机竜之助、むっつり右門、忠太郎に国定忠治、それに十三人の侍といった硬派の役柄だけ見ていると、あの片岡千恵蔵が歌うなんてと思いますが、赤西蠣太のようにもともと軽み、滑稽味のある役柄のできる演技派の俳優さんで、この作品でも温かくて軽みのある強くてやさしい照れ屋の武士を演じてすごくいい味を出してくれています。

 もう一人、私たちがよく知った役者さん、のちに七人の侍のリーダー役をつとめる志村喬が千恵蔵演じる浪人といい仲の隣の娘お春のの父親役で出ています。まだ実際にはかなり若いときだと思いますが、とてもうまい。彼の役名が志村狂斎(笑)。いや、彼だけではなくて、千恵蔵を愛して張り合う三人の娘がみな、役名お春が市川春代、おとみが服部富子、藤尾が清水藤子と、芸名から取った名で笑っちゃいます。

 ビデオの映像が古くてちょっと見にくいところはありましたが、内容的には物珍しさもあったし、なにせ底抜け明るいので、気楽に見て楽しめて気が晴れるような感じでした。


「赤い河」(ハワード・ホークス監督) 1948


  中学から高校の始めにかけて大の西部劇ファンで、ワイアット・アープに例の銃身の長いバントライン・スペシャルを贈った作家ネッド・バントラインのアープの伝記の原書を取り寄せて、まだろくに英文も読めないのに辞書をひきひき読んだり、モデルガンで早撃ちの練習もした(笑)くらいなので、 この西部劇の名作は何度も見ていますが、先日、リオ・ブラボーを本当に何十年ぶりかで見たら、これもまた見たくなってビデオ棚の隅っこで下積みになっていたのを取り出してきて観ました。

 いま見ても本当に面白くできた西部劇だと思います。インディアンのような先住民族、少数民族への差別意識を排して白人のやってきたことを歴史的に再検証してこれはいかん、というふうになってから、そのこと自体は間違ってはいなかったと思いますが、娯楽映画としての西部劇は正直のところあまり面白くなくなりました。もちろんそれ以後もそういう観点を取り込んだうえで深みを増したすぐれた西部劇はつくられたけれど、それはもはや「西部劇」というジャンル映画ではなくて、ただ時代をアメリカのフロンティア開拓時代にとっただけで、単にすぐれた映画というべきものになっていったんだろうと思います。そして、純粋娯楽的な要素だけでそれを継承したのは勧善懲悪でバンバン殺しちゃうマカロニウェスタンだったのかもしれません。

 「赤い河」ではインディアンのコマンチ族はジョン・ウェイン演じる主人公ダンソンの恋人が残った幌馬車隊を襲撃し、牧場づくりを企図してウォルター・ブレナンと2人で幌馬車隊と別れていくダンソンらをも襲う完全な悪者というか恐るべき敵として登場します。でもインディアンとの戦いがテーマではなくて、ダンソンが1対の牛からはじめて、豊かな牧草地で牛を育て、14年後には並ぶもののないほどの大牧場にするのですが、そこでは牛が売れないので鉄道駅があり、高値で売れるミズーリまで、1万頭近い牛を100日ほどかけて運んでいく大事業の困難を描いた西部劇です。

 ウェイン演じるダンソンの相方になるのが、ダイソンの恋人もいて全滅した幌馬車隊にいて、たまたま九死に一生を得た少年マシューで、青年になった彼をモンゴメリー・クリフとが演じています。マシューは牛の扱いから拳銃まですべてをダンソンに教えられ、逞しい好青年になっていますが、頑固一徹なダイソンとある部分で張り合うところがあります。

 彼らに出発前に加わる隣の牧場主に雇われていた拳銃の名手チャーリー(ジョン・アイアランド)も加わります。彼もすごく魅力的な役者です。
 
 彼らを幾つもの困難が待ち構えていて、そのたびにダンソンの強力というか強引なリーダーシップとをそれを支えるマシューらカウボーイたちの協力での乗り越えていくのですが、あまりに大きな困難と不安、そしてダンソンの強引さが内部のカウボーイたちの不満を招き、亀裂がはいって、反乱を起こす者も出ますが、マシューやチャーリーがこのときはダンソンを支えて困難を克服します。しかし、あるとき規律違反で逃亡したカウボーイをチャーリーに追わせて連れ戻された2人をダンソンが縛り首にすると言ったところで、マシューがダンソンの命令に逆らい、他の者たちもみなマシューについて、ダンソンは置き去りにされて、行く先をミズーリから列車が来ているらしいという情報のあったアビリーンへと変えて行くことになります。置き去りにされるダンソンは、マシューに、かならずいつかお前を殺す、と言います。

 ダンソンの影におびえながら、それからはマシューをリーダーとして進みます。その途中でヨーロッパからの移民とかの幌馬車隊の一行がインディアンに襲撃されているのに出会い、援けてインディアンを追っ払い、休憩します。そして、そこにいたテス・ミレーという女性がマシューといい仲になり、テスはマシューからダンソンのことを聴きます。

 マシューらが去った後にダンソンが近くの街で集めた手勢をひきつれ、マシューらを追ってその幌馬車隊のところへやってきます。あらかじめマシューから話をきいていたテスは、ダンソンに直接話しかけて、テントでいろいろと話をし、ダンソンのマシューへの愛情についても彼の人柄についても理解したテスは、ダンソンと一緒にアビリーンへ連れて行ってくれ、と頼んでいくことになります。

 こうして無事にアビリーンにたどり着いたマシューらは高い値で牛を売ることにも成功しましたが、翌朝、ダンソンと対決することになります。


 最後は、もともと深い父子的な愛情で結ばれていたダンソンとマシューなので、あわや銃撃戦か、いや殴り合いになってどこまでやるのか、というあたりで、テスの介在で、頑固なダンソンがマシューを頼もしい対等な牧場主として認めるところで終わります。

 この映画では、大西部の広がりを背景に、1万頭近い牛を運ぶダイナミックなスペクタクル・シーンで見せる場面と、インディアンの襲撃や、仲間内あるいはマシューとダンソンといった人間くさい対立、確執による、銃撃戦を含むあわやという緊張感に満ちた場面と、2種類のエンターテインメントの要素がうまく交互に全編に配置されていて、飽きさせません。

 スペクタクル・シーンで言えば、例えばこの1万頭近い(最初は9千頭くらいだったとか言っている)牛の大群が暴走を起こす場面。伏線として大きな図体をしているくせに甘いものに目がなくて、指をなめて幌場所の荷台に積んである砂糖をなめる悪い癖のあるカウボーイが、何度もなめにきてはウォルター・ブレナンのグルート爺さんに叱られる場面がありますが、これがコヨーテが鳴いて牛たちが不安がって落ち着かない夜にまた馬車の荷台に忍び寄って砂糖をなめようとして、そこにあった金属製の食器類をガラガッチャーンと大きな音を立てて落としてしまい、それがきっかけになって牛が大暴走を起こします。「スタンピード!」と叫ぶダンソンの声。一度これがおこれば10キロでも走り続けるのだそうです。

 このときは谷間に追い込みますが、それでも気のいいカウボーイが一人犠牲になり、牛も300-400頭犠牲になります。

 もう一つ、同様に牛の大群を使ったスペクタクル・シーンは、1万頭近い牛の川渡りです。こういうシーンはすごく見ごたえがあります。

 さらに、アビリーンに鉄道が来ているかどうか確証がなかったのでみな心配しながら向かっていたわけですが、鉄道に遭遇するシーンで、機関車が煙を吐いて近づき、その前の線路を牛の大群が渡っていくシーンです。汽笛を鳴らしてくれ、という要請に応えて、機関車夫が盛んに汽笛を鳴らして一行を歓迎します。アビリーンの街からは牛を待ちに待っていた人々がみな丘を上がって歓迎してやってくる、その街へ牛の大群が降りていく、これも感動的なシーンです。

 人間くさい関係がもたらす緊張の場面は、最初のインディアンの襲撃を撃退する場面、それから牧場を作る場所についてからは、最初にまずダンソンが自分の土地と定めたところが、別の所有者の手下が来て撃ちあう場面、それから14年後、成人したマシューとチャーリーが出会い、互いの拳銃の腕を試し合う場面、それからダンソンの強引さと行進の大変さに反乱を起こす3人との銃撃戦、さらに逃亡した別の3人のうちチャーリーが生きてとらえてきた2人をダンソンが縛り首にするというのでマシューが反対してあわや銃を抜き合うか、という場面・・・見せどころ満載のエンターテインメントです。

 こういう見どころに対して、細部のほんのちょっとした場面に、すごく味わい深いところがあります。たとえば、反乱者3人とダンソン、マシュー、チャーリーの銃撃戦で足を負傷したダンソンの傷の手当てをグルートがするのですが、ウィスキーを傷口にぶっかけて消毒する。するとダンソンが痛さに苦痛の表情をすると、ウォルター・ブレナン演じるグルートは、もうそれが嬉しくてたまらんわい、という顔をしてみせる(笑)。それに気づいてダンソンがこのやろう、という顔をしてグルートをにらむ、このあたりの呼吸も素敵。

 例の砂糖舐め男もにくめないカウボーイで、幾度か繰り返されるグルートとのやりとりが面白いだけでなく、それがスタンピードを引き起こす伏線になっているのもすごい。

 女性は重要な役割を果たすテスが登場するのは、もう旅も終わりかけのシーンで、女性の影は乏しい男性的な映画であることは確かですが、最初にダンソンの恋人が、連れて行ってと懇願するのにダンソンが女性には無理だと断って幌馬車隊に残したきたために、すぐあとでコマンチに殺されてしまう、という悲劇を置くことで、その後のダンソンの頑なな、困難に耐える14年間と、そのあと皆を率いていくときの頑なで強引なリーダーシップのあり方が感覚的につながって理解されるようになっているのはさすがです。また、最初の女性の面影と、後で出会うテスとがダンソンにとっては重なってくるような仕掛けになっていて、それがダンソンの軟化につながるわけです。男性的な映画ではあるけれど、女性はポイントで重要な作品の構造上の役割を果たしているといえる、周到なシナリオです。

 チャーリーが最後に、ひたすらマシューを目指して突き進んでいくダンソンを呼び止めて、ダンソンがいきなり銃を抜いて、チャーリーも銃を抜いて、ダンソンも負傷しますが、チャーリーも倒れるという、ちょっとあっけない退場の仕方になるので、かっこいい早撃ちチャーリーには、あまりにもマシューに寄り添うのでなく、いくぶん善人すぎるマシューに対するリアリストの立場で、もう少し緊張感のある場面をつくって、あとひとつふたついい場面を与えたかったな、と言う気はしますが、彼はずっとマシューのよき友で、彼とともにダンソンを支え、最後にマシューについてアビリーンに入ります。

 ちなみに、このチャーリーを演じたアイアランドは、テス・ミレーを演じたジョアン・ドルーの現実の世界での2番目の夫だった人だそうで、なかなか魅力的な俳優さんだと思います。


「アタラント号」(ジャン・ヴィゴ監督)1934


 サイレントからトーキーへの移り変わる時代に才能を見せながら29歳の若さで夭折して、その作品が後に著名な映画監督になった人たちにも影響を与えたと言われるフランスのこの映画監督の名は聴いていたけれど、観たのは今回が初めて。

 フランスの地方の町とル・アーヴルを往復する小さな船がタイトルのアタラント号で、その船長であるキマジメそうな田舎の青年ジャンといま結婚式を挙げたばかりの田舎娘ジュリエットが主人公です。映画は、式を済ませて教会から出てきたばかりの2人が、田舎町の街路を先頭になって歩き、その後ろを式に参加した町の人たちがぞろぞろついていく光景から始まり、この2人はどういう若者なんだろう、どこへ行くんだろう、と思っていると、行き着く先はこれから二人が暮らす河辺に繋留する船。この船にはベテランの老水夫ジュールとまだ少年のルイもいます。

 最初に花嫁が花束を水に落とすシーンや、ジュールの住まう船室内部のとりちらかした、或る意味で楽しい光景など、いろいろ細部に楽しめるシーンがありますが、ハイライトはパリという大都会など見たこともなかったジュリエットが、ジャンの導きでこの大都会の魅力に触れて変化することで、二人の関係にも揺らぎが生じる展開にあります。

 ジャンと二人でパリのカフェみたいなところへ入って、そこで歌ったり踊ったり愉しむ人々の光景にジュリエットは魅せられます。
 また彼女に関心を示して近づく、いかにもパリでしかお目にかかれそうもない、トリックスターみたいな、悪気はないのだけれど、或る意味で既存の硬い秩序をはみ出し、境界線を出たり入ったりしていたずらをしかけ、陽気な混乱に巻き込み、人々を笑わせ、ある人々を怒らせ、繭をしかめさせもする道化役のような若い男の雰囲気に惹かれます。
 つまり異性として彼に惹かれるというより、それまでの人生で彼女が見たこともないような、彼のもつ都会の雰囲気に触れて魅せられるといった趣で、彼の誘いのままにフロアで踊り、ジャンは当然不機嫌になって、彼とジュリエットの間に割って入って彼女をひきはがします。

 トリックスターの男は、別れ際にジュリエットに、今夜も楽しい催しがあるからおいでよ、と誘います。大人しく船に帰ってベッドにつくジュリエットですが、夜になるとそっと船を抜け出し、トリックスターの男の導きで夜のパリを楽しみ、つい夜明けまで過ごしてしまいます。

 翌朝、ジュリエットのベッドがからっぽであることに気づいたジュールは腹を立てて、必ず帰ってくるから彼女を待とうというジュールの諫めに耳を貸さず、少し意固地になったジャンは、ジュリエットを街に置き去りにして出航してしまいます。街から船着き場へ戻ってきたジュリエットは、船が出航してしまってそこにないのを知って茫然とします。仕方なく街へ戻り、列車でコルベイユ(これが彼らの故郷の田舎町だったのでしょう)へ戻ろうと切符売り場に立っていた彼女をひったくりが襲い、バッグをさらわれてしまいます。途方にくれ、仕事をみつけなくては、と街をさまようジュリエット。

 他方、彼女を置き去りにしたものの、心の晴れないジャンは船中で一人寝の悶々とした夜を過ごします。鬱々とした気分を拭い去ろうとするかのようにジャンは川へ飛込み、水中深く泳ぐ中でジュリエットの面影が生々しく眼前に浮かんできます。彼はそれを追い求め、自分がジュリエットに裏切られたような思いで腹を立てて彼女を置き去りにしたものの、なお彼女を深く愛していることを身に染みて感じたのでしょう。

 結局ジャンは再びジュリエットを見出し、船に帰ってきた彼女と抱き合い、故郷への船の旅に戻ります。

 ジャンとジュリエットはもちろん互いに愛し合っていたし、その気持ちが変わるわけではありません。でも生まれて初めて接するパリの雰囲気に魅せられ、その象徴ともいえるトリックスター的な男性に導かれて夜のパリにふらふらと夢遊病者のように出ていくジュリエットの気持ちが、とてもよくわかります。彼がジャンに追い返されてから、ジュリエットが一人になったときに、もらったスカーフに触りながら、ほんとうに嬉しそうな表情をする、そんな細部にも彼女のそういう気持ちがとてもうまく表現されています。

 他方、そんなジュリエットの悪気のないパリという都会の魅力に惹かれる気持ちも、それゆえトリックスター的な男性の強引なアプローチにもつい嬉しそうに誘われていくジュリエットの気持ちもわからなくはないけれど、無性に腹立たしいジャンの気持ちも、男性のはしくれとして、ものすごくよく分かります。ジャンもジュリエットほどではないにせよ、やっぱり田舎育ちの生真面目な堅物青年で、大都会の若者の生活や楽しみなど知る由もなく、例のトリックスターのような女性の心をくすぐり、挑発し、誘惑し、楽しませるようなスマートな社交性など全然持ち合わせていません。そういう自分が持ち合わせていない、むしろ自分の資質とは正反対のそんなトリックスター君の資質には反感と嫉妬を覚えるでしょうし、ましてやそれに自分の愛する新妻が強く惹かれているのを感じれば、腹立たしくてならないでしょう。だから彼のトリックスター君への厳しい拒絶も、無理やりジュリエットを引っ張って戻るようなところも、またそれでも夜中に街へもどっていったジュリエットに腹を立てて置き去りにして出航してしまうことも、そしてそれでも彼女への想いは断ち切れるわけもなく、悶々として水に飛び込んで彼女の幻影を見ることも、いちいちすべてが深く納得できます。

 この映画はそんな一対の愛し合う男女に訪れるささやかな気持ちの行き違いを生じる経緯、そうした成り行きに伴いそれぞれの気持ちの動き、そして一時的に疎隔するときのそれぞれの気持ちの揺れを微細に描き、誰も故意の悪者はいないし悪意のあるものもいないので、それぞれの気持ちがすごく共感をもって見ることができるし、ジュリエットのパリとの出会い、トリックスターの男との出会いも、それはそれでものすごくよくわかる女心で、素敵な出会いだし、あのフロアでダンスをしたり、トリックスターが本領を発揮する出会いの場面はとても楽しい、そんな温かい優しさにあふれた作品です。

 私には映画づくりの技術的な側面はまるで分らないけれど、おそらくジャンが河に飛び込んでジュリエットの幻影を見るシーン(水中撮影?)とか、2人が離れ離れになっているときに、ジャンだけでなく、ジュリエットも、それぞれにベッドで悶々とするような一人寝の姿が交互に素早く映し出されるようなシーンには、サイレントからトーキーへの変わり目くらいの時代の映画としては非常に新しい映像が創り出されているのだろうな、と思いながら見ていました。いま見ればそういう部分は技術的にはるかに高度に洗練された手法が可能になっているから、どうということもなく見てしまい、むしろ二人の気持ちをそれぞれに心の襞のひとつひとつまで描くような微細な描写や、周囲の人々との出会いをとらえる温かく優しく陽気な眼差しのほうに惹かれるのですが。


「操行ゼロ」(ジャン・ヴィゴ監督) 1933


    こちらの方をあとから見たのですが、「アタラント号」が良かったので、同じ監督のを中古品のDVDが安く出ていたので取り寄せて見ました。

 これは「アタラント号」とはずいぶんタッチの違う作品でした。フランスの中学校でしょうか、厳格な寮生活の規律や学校の規則規律に対して抵抗し、やがて反乱にいたる、昔よく言われたアンファン・テリブル、恐るべき子供たちを描いた作品で、映画づくりのいわば「文体」のほうも、「アタラント号」のように静謐で優しいタッチのものから、冒頭の音楽からはじまって、いささか騒々しく、粗っぽいタッチになっています。いや時間的な順序はこちらが先ですが・・・。

 生徒たちが屋根の上に上がって、下で学校の記念式典か何かをやっている偉いさんたちを見下ろす位置から、何かものを投げたりして攻撃しているシーンなど見ると、すぐ連想したのは、封切のときにロンドンで見た「if」の同じように主人公の学生たちが屋根に上がって、下で説得に出てきた神父を撃ち抜くシーンでした。もちろん「if」のほうはイギリスのパブリックスクールの話で、もう少し子供たちの年齢が上で、ハイティーンくらいだったような気がしますし、「操行ゼロ」よりずっとシリアスな視線で作られていて、時が時だけにもちろん日本の大学闘争やパリの五月革命と言われたような学生の反乱とじかに結び付くような印象がありましたが・・・

 たぶんジャン・ヴィゴの描くこの子供たちの反乱の光景は、日本の学級崩壊の光景に一番よく似ているかもしれません。もちろん学級崩壊ではみ出ていく子供たちはこの映画の子供たちのように自分たちのエネルギーで敵である大人たちへの反乱を起こすことはできないでしょうが、みかけは学級崩壊でいままさに崩れていく教室の光景に酷似しているような気がします。

 このヴィゴの作品は「大人は分かってくれない」や「if」のような作品にも影響を与えたのかもしれませんが、そういう評論家的な映画史への関心はないので、どれもこの映画はこの映画として見るだけで、かりに自分が感心したあるシーンが、誰かに、それは誰某がとっくにやった方法の模倣だよ、とかそれは誰某監督へのオマージュだよ、なんてとくとくと指摘したとしても、私にはどうでもいい無用の蘊蓄にすぎず、そのシーンが今見ている作品にとって意味のある生きたシーンだったら、どこの誰に源流があろうと本当はどうでもいいことです。

 逆に、その源流となった作品が、その時代にどんなに新鮮に思われ、後の誰某に影響を与えたとしても、今その作品をみて面白いとか心動かされるとか、そのシーンが生きていると感じられなければ、そんなものは現在の観客であるわたし(たち)にとって意味のないものだと思います。歴史的な発明とそれを生み出す努力に敬意を払うことは大切だとは思いますが、現在生み出される作品のうちにそういう過去ばかり探したがるのは蘊蓄の好きなインテリの悪い癖で、目の前の作品に過去の作品への言及がありオマージュがあること自体がその作品の価値をあげることにはいささかもないのに、そういうものを指摘しては喜んで持ち上げているような映画評論家というのは、結局そういう蘊蓄ある自分を見てく、見てくれ、と言っているだけのように思えて鼻もちがならないものです。

 閑話休題(笑)。この「操行ゼロ」は「if」のようなシリアスでクールなタッチではなく、もっとずっと粗っぽく、と言って悪ければ楽しそうに、子供たちのいたずら、乱痴気騒ぎを楽しみ、一緒になって煽り、盛り立てる、温かくてユーモラスなタッチで子供たちの反乱が描かれています。

 それを映像として一番よくあらわしているように感じたのは、寮の共同寝室での数度にわたる子供たちの乱痴気騒ぎで、とくにあとのほうの枕投げをしあって、枕が裂けて飛び出したらしい羽毛が部屋中に舞い上がって浮遊する中を、子供たちが髑髏の旗を押し立てて行進してくる場面です。ここは乱痴気騒ぎが極まって結果的にほとんど美しいと言っていい光景を創り出し、感動的でさえあります。

 いまネットで調べてみると、あの学校はコレージュ、公立中等教育機関なのだそうです。冒頭は、夏休みが終わって帰省先から寮へ戻ってくる生徒が列車内で悪ふざけをしているシーンから始まっています。「アタラント」号のトリックスター君もやっていたような手品をやったりして友達と次々色んな小道具を繰り出して芸を競うようなことをやってみせたり、禁煙車両なのに煙草をふかして煙で充満させたり。同じ車両で眠っていて煙で死んだんじゃないかと子供たちがささやいていた男が新任の教員で、あとでわかるのは彼だけが生徒たちのいたずらに寛容でどちらかといえば味方らしい。それ以外の大人たち、寮長(舎監)、校長、教師(太ったちょっと男色趣味らしい男など)はみな規律の鬼で生徒たちの敵。生徒らは古臭い校舎、二列にずらっと並べられた一望監視の監獄空間のような共同寝室に閉じ込められ、与えられる食事は「豆ばかり」とか。窮屈な規則・規律を強いられていて、少しでも違反すると「操行ゼロ!」を言い渡されます。

 タイトルのこの「操行ゼロ」は、学校の規律・規範を破った時に科せられる、日曜日の外出禁止という罰で、生徒たちに科せられる罰としては重いものだそうです。

 とても温かくて、ユーモラスな作品だと思いますが、これがフランス政府から上映禁止の憂き目に遭ったというのですから、どこの国でも共同規範に抗う行為を賛美するかのようにみえる表現には過敏なんだなぁと思います。

 さきほどから粗っぽいタッチとか、乱痴気騒ぎと書きましたが、この映画はいわゆるリアリズムの映画ではありません。子供たちの乱痴気騒ぎにもラストの反乱の描き方にも、映像の様式性というのが感じられます。先に挙げた羽毛が寝室中に広がってとびかうシーンも、あそこまではいかんだろうとか、子供たちの行進がスローモーションでとらえられていたり、共同寝室で子供らがいったん寝たふりをしてまた起き出し、寮長をベッドに縛り付けてベッドごと立ててしまうようなところも、リアリズムで行けば、こんなやり方をすれば寮長がすぐ起きて来てとがめるだろう、とか、拘束した寮長をこんなふうにベッドごと立ててしまうなんてありえないじゃん、とかいっぱい半畳を入れたくなるようなシーンがあります。それはこの映画の抽象度が要求する様式的なありようなのだと思います。

 ラストも屋根の上でみな後ろ向きの姿で並んだ子供たち4人が手を振るシーンで終わっています。

 教師たちのキャラクター設定やその動きなどにも或る意味の様式化が顕著です。とくに生徒に寛容な信任男性教師のほとんどパントマイム的な演技など。

 もうひとつオッと意表を突かれたのは、何だったか描かれたイラストみたいなのが一瞬アニメで動くシーンもありました。スマホやパッドの画面をとらえているわけじゃないので(笑)リアリズムならありえない、ちょっとしたいたずらです。多分映画の技術に詳しい映画好きが見れば、他にもいろいろと当時としては新しい実験的な試みがあるのかもしれません。そういうのは映画史の中では次代にひきつがれていったのかもしれませんが、いま見ればたぶんこれがそうだ、といろいろ指摘されてもふーん、と思うだけで、そのことに作品として見た時に心を動かされる要素かと言えば、ほとんどはむしろかえってそういう部分が古臭いものにみえるような気がします。心に残るのはむしろ子供たちの乱痴気騒ぎ、あの暴発するエネルギーの生み出す羽毛の散乱する空間であったり、てんでに沸き立ちながら旗を押し立てて行進する子供たちの姿、そこに感じられるある種の強度ではないでしょうか。


「ぼくの小さな恋人たち」(ジャン・ユスターシュ監督) 1974 

  29歳でなくなった夭折の監督ジャン・ヴィゴほどではないけれど、43歳のいまではずいぶん若いとみなされる年齢で自殺してしまったけれど、ゴダールなどが賞賛していたというジャン・ユスターシュ監督の作品のひとつです。

 主人公は13歳のダニエルで、フランスのべサックという小さな村で優しい祖母と平穏な毎日を過ごしています。仲の良い友達と遊び、自転車で出かけたり、サーカスに行ったり、女の子にハラハラドキドキ、アプローチしてみたり、ごく普通の思春期初期の少年の幸せそうな日々です。ただ両親はなくなったのかな、とか思っていると、或る日突然母親がダニエルの父親ではない別のスペイン人(だったと思う)の男ホゼ・ラモスと一緒に来ていて、その男と一緒に何か買いにやらされるとき一言二言彼と話して、彼が3人兄弟で弟の一人が自転車屋をして自転車を売ったり修理したりする仕事をしていること、自分は農夫で畑を耕している、ということを知ります。

 そして、しばらくしてダニエルは村から遠く離れたナルボンヌという街の母親と先の男が住む狭いアパートに引き取られていきます。着いた当日、夜になって仕事から帰宅したホぜと握手したとたんに、ダニエルは自分がこの家では歓迎されていないことを悟ります。

 映画を見に行って知り合った同年配の男と、また学校で一緒になればいい友達になれそうだな、などと言われ、高校へ行くのを楽しみにしていたダニエルに、母親は高校は金がかかる、学費はタダでもその他の色んな経費がかかって楽じゃないんだから、勉強なんかしてもしょうがないし、ホゼの弟が経営する自転車(オートバイ)屋を手伝うように言い渡します。

 自転車屋では能力を発揮して仕事は雇われた日からきちんとつとまるダニエルでしたが、一人前の仕事をしても母親は給料をもらってはいけないといい、そういう約束になっているのか、給料は支払われず、ときおりもらうチップが彼のものになるだけです。映画を観に行ったり、ゲーム場みたいなところで遊んだり、カフェで街路を行く女の子を眺めたり、仕事のないときはそんな日々を過ごす中で、あらたに男友達もでき、その間で刺激しあって女性に対する関心も次第に強く、思春期らしい現実味を帯びてきます。

 あるとき、そんな友人たちに誘われて、彼も自転車をつらねてナンパ目的で郊外の村に出かけます。そしてちょうど同じ年頃の女の子2人、実は姉妹がくるのをみかけ、このナンパツアーを企図した友人とダニエルはほかの友人たちが飲み物を飲んでいる間にそっと抜け出して姉妹のあとを追い、友人が姉を、彼は妹をナンパします。ダニエルは緊張して何を話して良いかわからず、女の子から何か話してよ、と言われても話すことがない、と言うありさまで、観ていてはがゆくなるほど(笑)。でもなんとか友人とその子の姉が草叢に横たわってうまくやっているのを見て、同じように女の子に手をひかれて草叢に横たわり、彼女の着衣に手をかけるけれど、彼女はつきあうのが先で、ちゃんと結婚してから、と妙に教科書的なことを言って、それ以上は触れさせてくれず、数日後の祭りの夜かなにかに両親と行くからまたそこへ来て、と言われて、ダニエルはその日は祖母のもとへ行くことになっているんだがな、と思いながら、わかった、と返事して別れます。

 こうして、性への好奇心が芽生えながら、まだそういう自分自身に戸惑いながら、友人たちとのやりとりの中で刺激も受け、挑発もされながら、おずおずと女性にアプローチしてぎこちない対応をしているまさに思春期初期の少年の姿を、実にこまやかに素直にとらえていて、瑞々しい思春期ドラマになっています。

 少年の父は亡くなったのか離婚なのか、いったいこの母親はどんなひどいやつなんだ、なんで優しい裕福層でもある祖母の家においといてやらないで、こんな狭い自分が男と住むアパートに息子をひきとって、しかも学校へも行かせずに男の弟の店でタダ働きなどさせるんだ?と疑問だらけですが、少年に寄り添い、少年の目を通して眺める人々とその光景の前で、そうした疑問、そうした過去、そうした世界は後景に退いて、この作品の中では大きな意味を持たなくなって、ただ少年の日々を枠組として拘束し、少年のはばたく夢を折るような所与の条件として置かれるだけで、少年の無垢の心が向かい、求め、また斥けられもする、平穏な日々のうちに進行するものではあるけれど、少年にとっては、なにもかもが初めて出会う世界との触れあいであるような瑞々しい思春期のドラマにとっては本質的なことではないのです。

 この少年の心の動き、彼の心が向かい、触れあい、経験するすべてが初めての出会いであるような出来事の継起を見つめ、その中での少年の心の動きを見つめるこの映画の作り手のまなざしはとてもやさしく、温かいもので、少年が置かれた理不尽で苛酷な状況に対しても、同情や苛立ちの思い入れたっぷりの視線ではなく、淡々としたクールな視線でこの思春期のドラマの後景を描いているだけといった印象です。


「ざくろの色」(セルゲイ・パラジャーノフ監督)1969

  先日「火の馬」を見て、わかりやすくもあり、とても良かったので、同じ監督の「映像詩」と賞賛される「ざくろの色」もぜひ見ておきたいと思って、今回DVDを取り寄せて見たのですが、正直のところまだ「見た」とは言えないな、と自分で感じています。

 たしかに色彩はとても美しく、これがグルジア(ジョージア)的な色彩であり文様であり装飾なのか、とそれ自体の美しさは感じ、また左右対称にいくらかこだわりのありそうな様式的でスタティックな映像美、さらにほとんどセリフがなく、ストーリー性も一見したのではまったく理解不能な、象徴的な映像のモンタージュ、そして登場人物たちに向けられるカメラがちょっと普通の劇映画を撮るような位置や動かし方とは基本的に異なるようで、真正面からカメラを向いていたり、真横の横顔だったりがやたら多いとか、もうふつうのこれまで見て来たような映画の観方ではまるで歯が立たない感じですから、全編見終わってもまだ見た、という感じが持てないのです。自分なりに普通の観客として何か充実感があればそれでいいのですが、ある強い魅力のようなものがあるのに、その正体がまったく分からずに入口で門だけ見て引き返してしまったような感じと言えばいいでしょうか。

 それで、これは何か手掛かりになるような情報が要るのかな、と思ってネットで検索していたら、ある人が「『ざくろの色』(サヤト・ノヴァ)のストーリー」という文章を書いているのを見つけ、そこに次のように第1章から第八章まで解き明かしてあるので、びっくりしてしまいました。この作品にもこんなストーリーがあったんだ!と(笑)。でもそれをこれだけきちんと解き明かして見せる人ってすごいなぁ、と思ってこれを書いた方にも感心しました。

 それによれば、
 第一章 詩人の幼年時代
 第二章 詩人の青年時代
 第三章 王の館
 第四章 修道院
 第五章 詩人の夢
 第六章 詩人の老年時代
 第七章 死の天使との出会い
 第八章 詩人の死

 だそうで、それぞれについて簡潔な説明もありました。
 たぶん私などは10回この映画を観ても、これは分からなかったでしょう。この作品が詩人サヤト・ノヴァの(「伝記」ではなくて)内面の歴史というのか、なにかそういうものを描いたものだというのは映画の冒頭に断り書きが出てくるので、そういうものなんだな、というのは分かっていましたが、それにしても何度見てもこういう分節のされ方と、それぞれの内容がこういうことの表象なんだ、ということは私には知り得なかったでしょう。

 想像するに、映像の一コマ一コマに登場する文様や何かに、この民族固有のイコンみたいなものが実は描かれていて、そういうのを見れば知る人ぞ知るで常識としてパッと何を描いているかわかるんだとか、登場人物の衣装や装飾品、その動作、あるいは登場する様々な事物、道具類、空間等々にもこの民族の暮らしにあって当たり前のものが溢れていて、見る人が見れば、あれはこういうときに身につける衣装や装飾品だ、あぁいう動作はこういうときにするものだ、あの道具はこういうときこうやって用いるものだ、あの空間のしつらえはこういう場所に固有のものだ、というように、一目でわかるものだ、というようなものかもしれないな、と。

 それ自体はだから極めてローカルなものかもしれないけれども、それさえわかれば、そこから立ち上がってくる物語にはとてつもない奥行きがあったり、そのローカルなものを語る語り方(映像の取り方)自体が非常に新鮮なものであったり、というところに作品としての価値が構成されているんだ、ということなんだろうか、と思ってみます。もちろんその語り口の中に、あの独特の色彩やスタティックではあるけれど特異なカメラ位置から捉えられた人物のアップなんかも含まれるので、そういうものをまだよくよく見ないと見えないのかもしれないな、とは思いますが、単に色彩がどう、視角がどう、というテクニカルなことではなくて、それが作り手の表現意志の核とどうつながっているかが、少しでも垣間見えないと、観た、と言う気になれないのは仕方がありません。

 従って、この映画は私にとっては当分のあいだまだ未見ということで、ここに書き留めておく次第です。ネット上の先の解読者の解説を手掛かりにあと何度か丁寧に見る機会がもてればと思っています。つまらない作品なら、こんなわけのわからないもの、自分には関係ないだけだ、とうっちゃっておくのですが、わけわからないけど、強烈な磁力は感じるので(笑)。

 で、ネット上で、いいのかどうかわからないけれど、同じ監督の「スラム砦の伝説」(1984)と言う映画が全編公開されていたので、これも見ました。残念ながら原語でしゃべるだけで字幕はなく、度々本編に挿入される原画の字幕もグルジア語なのかロシア語なのか知らないけれど翻訳なしの、もとの映像だけなので、もちろんストーリーはネット上で誰彼があらすじを説明している程度のことしかわかりません。どうやら堅固な砦に、どうしても破られてしまう弱い部分が一カ所あって、何度つくりかえてもやっぱりだめだった。それを美しい若者が人柱になって、その場所に生きたまま埋められる(みずから埋まる)ことで、克服される、という人柱伝説を映画化したものなんだそうで、それを知った上で見れば大まかに、おぼろげにその太い筋は分かります。

 なによりもこの映画では硬い石の砦とその背景になっている乾燥した荒地の風景がとても美しくとらえられているし、この砦の石窟みたいな穴ぐらに住まう人々の暮らしの光景や儀式的な風景も、絵画的な美しさを持っています。儀式的な場での正装なのか、朱の色が映える美しい女性の衣装とか、食卓に載っていたりそこらをうろちょろしている孔雀とか・・・むしろを敷いただけのような粗末なしつらえだけれど、そこで民族衣装的な(そこではふつうの日常着かもしれないけど)衣装を着て踊るシーンとか、二人の男が、真ん中の男にザクロの実を放り投げさせたのを交互に刀でまっぷたつにして、中の乾燥したザクロの種がパラパラとこぼれるシーンとか、全体が分からなくても、個々にはとても楽しい面白い場面があります。素敵な馬が登場するほか、荷の運搬に使われるロバや二こぶラクダやラマ?も羊もふつうに登場します。

 この作品でも登場人物がまっすぐにカメラに正対してセリフを言うような場面がけっこうあります。また真横を向いた顔をアップで撮ったりします。面白かったのはその横顔の女が頭巾をかぶって、まっすぐにカメラの方を向いて正対する同じ動作を3度繰り返す場面があります。あれは何だったんでしょうね。

 それからたくさんの鷗が登場する場面がありますが、その水際でのシーンだったと思いますが、ちょっとミニアチュア的な船が宙に浮いている場面もありました。ワイヤーで吊ってあって、あれはワイヤーが見えていたけれど、わざと見せていたのか、あれはほんとは無いことになっているのか(笑)。吊っている上部を見せないから、見ちゃいけなかったのかも(笑)

 いろいろ疑問を思い浮かべながらも、おかしなもので、イラチのはずの私が、映像の美しさに惹かれて最後まで見てしまいました。いつかまたこの人の作品は見てみたいな、と思いましたが、たぶん手ぶらで何度見てもよくわからんなぁという状態は変わらなさそうな気がしました。



saysei at 14:21|PermalinkComments(0)

2018年09月25日

「ラルジャン」と原作

 ロベール・ブレッソンの「ラルジャン」の原作であるトルストイの一般には全集版の翻訳タイトル「にせ利札」として知られている中編小説をまだ読んだことがなかったので探したら全集版の適当なのが見当たらず、また分厚い本が増えるのもいやだったので、最小限の作品で編んだ、北御門二郎訳の『トルストイ短編集』(人吉中央出版社 2016)をみつけたので、その本で「贋造クーポン」という同じ原作の翻訳を読みました。

 予想はしていましたが、映画の「ラルジャン」とは似ても似つかない、トルストイらしい、いい作品でした。映画と小説を比べるのもどうかと思いますが、どっちをとる?と言われたら、わたしの場合は躊躇なくトルストイの小説のほうに軍配を上げます。

 ある人がラルジャンに触れて、トルストイの原作の前半だけ映画化して、後半をカットした、といった趣旨のことを書いているのを読んでいたので、原作を読まずに映画だけ見たときは、ただそういうものかとちょっと誤解していたのです。つまり、「贋造クーポン」が最初に使われたことが悪の連鎖を広げていって、映画で言えば主人公のイヴォンヌによる自らを救済してくれた老婦人の一家を皆殺しするというところまで行きついて、彼が自ら警官にその殺人について自首する、いわば「往路」で映画は終わっていて、トルストイの原作ではそこから回心する主人公の行為が善の連鎖を生み出していくいわば「還路」を描いているのを、ブレッソンは意図して後半の還路をカットして映画化した、というふうに。

 それはある意味でその通りなのですが、原作を読むと、それほど単純じゃないな、と思わざるを得ませんでした。トルストイの話はもちろんロシアの土俗的な世界を背景としていて、悪の連鎖には階級的には様々な階級の人物が参加することになるけれど、殺人や盗みに直接かかわるのは無知無学な貧しい下層民です。トルストイが描く連鎖は悪の方も善のほうもポリフォニックで、その連鎖は単純ではなく、連鎖を形作っていく一つ一つの輪がおそろく多様で、どれ(だれ)が幹でどれ(だれ)が枝などというのもないように、いわば竹の根のように際限なく広がって相互にまた思わぬところでくっついて網目状をなすというふうで、読んでいて、あるエピソードが終わって次の輪に進むとき、前に登場した人物の長ったらしいロシア名がいきなり出てくると、おぼえてなくて、その話がなんでここに置かれたのかよくわからなかったりして、前の方のページを振り返ると、あぁ、ここで登場していたこいつか!と分かってつながっていく、みたいなところがあります。

 建築家アレグザンダーの「都市はツリーではない」で知った、ツリー構造とセミラティス構造の区別で言えば、「ラルジャン」のほうはイヴォンヌを幹とするツリー構造のようにみえ、原作の「贋造クーポン」はセミラティス構造のようにみえます。ドゥルーズやなんかがいう根茎(リゾーム)と言ってもいいのでしょう。もちろん先に書いたような往路、還路の構造があって、ちゃんと連鎖はひとめぐりしてメビウスの輪のようにひとひねりして表裏逆になって元へ戻ってくるようになってはいますが、その中身はとても豊かな印象です。

 それに比べると「ラルジャン」のほうは、或る意味とても洗練されていて、余計な枝をできる限りそぎ落として幹というのか、連鎖をつなぐ芯になる軸としてのイヴォンヌとその行動に的をしぼって、シンプルな物語になっています。

 おまけに先日感想に書いたように、ブレッソンは通常の物語の出来事の発生順に継起的な映像を見せていくことをしないで、意図的な選択をして、むしろその継起的な出来事のピークを形づくる映像をことごとく棄て去って例えば結果を示すような表徴だけ見せて、肝心の登場人物の決定的な場面での行動や表情は観客の想像力に委ね、原因だの理由だの動機だの経緯だのといったものは、もしそうしたければ結果から逆に観客たちが考えなさい、と言わんばかりの「不親切な」映像なので、トルストイの原作ではそれぞれのエピソードに相当する出来事が継起的なつながりをもって自然に納得されるのに、「ラルジャン」では、まるで不条理劇のように唐突に殺人が行われ、また唐突に殺人者の転回が起きる、というふうです。

 いくら正義のとおらない世の理不尽さに鬱屈したものをかかえていたにせよ、また、そのために刑務所でとらわれているあいだに最愛の娘を失い、愛妻に去って行かれてもはや生きる希望をなくして、自殺を試みてたまたま命が助かっただけという状況のイヴォンヌであるとしても、脱獄を手伝うからやらんかという悪いかつての知人で囚人仲間の誘惑にも乗らずに、無事刑期をつとめて出所したにもかかわらず、その足で止まった宿の夫婦を斬殺し、また自分を寛容に受け容れてくれた老婦人とその家族一家を斬殺するのは、そうした異常な行為に及ぶに至るイヴォンヌの心の動きなり、彼をそういうところまで追いつめる外在的要因なりが示されてはいないので、ふつうは理解しがたいでしょう。だからみずからの殺人を太陽のせいにしたムルソーと重なってみえます。

 たしかにいまでは、まったく自分と縁もゆかりもない人たちを殺しておいて「ただ殺したかっただけ」、相手は「誰でもよかった」という殺人者は珍しくないので、そういうもののハシリなんだ、と思えば、別に理由だの動機だの原因なんて無くていいわけでしょうし、世の中は不条理なものだし、人間の行動というのは原因があって結果があり理由があって行動があるなんて合理的なものじゃなく、もともと不合理なものなんだ、ということが言いたいなら、そういう作品があってもいいでしょう。

 でもわざわざトルストイを原作に選んで、そんな映画をつくるだろうか?(笑)と考えると、私はこの映画監督のことは何も知りませんが、ちょっと違うんじゃないか、という気がします。仮に不条理劇に類するものであったとしても、そこには逆にトルストイの原作を強く意識したカウンターウエイトみたいなものを置いたようなものなんじゃないか、という気がするのです。そうでなければ、わざわざ原作の物語の枠組みを借りる必要はないでしょう。

 トルストイの物語の枠組みを使いながら、後半の還路をカットしてしまったのはもちろん意図的で、トルストイ流の宗教的回心を契機とする善の連鎖を、「金」(贋造クーポン)を契機とする悪の連鎖からなる往路のようには信じられないのは、おそらく私たちも監督も同じで、後半をカットしてしまうのはわかるような気はしますが、では自分が二件の斬殺事件をひきおこしたことを淡々と平然とした顔で警官に申し出るイヴォンヌの心のうちはどういうものなのか。

 そこだけはトルストイの描くような、自分を受け入れてくれて殺される前でさえも自分はいいけれどもあなたは人を殺す前に自分を殺してしまって・・・それでいいの?と言った老婦人の幻影に悩まされて回心を遂げるステパンと同じ種類のものだと言っていいのでしょうか?イヴォンヌの殺人の場での姿もこの事件が彼に及ぼした作用も最後のシーン以外には何も描かれていないので、それは分からない、というより、この映画はそれはわからなくていいんだ、というスタンスで作られているわけでしょう。そこがやっぱりよくわからない。じゃ彼の行為というのは何なんだ?と。

 そうするとそれは意味なんかない、何なんだ?という問いかたそのものが間違っているので、彼はただ金がほしかったから、あるいは殺したかったから、でもいい、彼のほうの事情でやったわけで、私たちは老婦人に寄り添って、あるいはそれに近い眼で見るから、そんな理不尽な!と思うけれど、彼の立場に立ったら、そんなことは関係ない。俺は殺したいから殺したんだし、金がほしいからとっただけだ、ということになるでしょう。

 濱口監督のPassionの女教師の暴力の話ではないけれど、外部からやってくる暴力というのはそういうものなのかもしれません。暴力を受けるほうは、ただ赦すことしかできないのだ、と。

 トルストイの世界には神があったし、登場人物にもそれが何らかの契機によって神があることが信じられた。では神が死んだと言われてからの私たちの世界で、トルストイの登場人物たちが経験するような転回、回心というのは可能なのか。可能だとすればいかなる契機で可能なのでしょうか。

 その意味では「ラルジャン」のラストのイヴォンヌの、殺人を告白して連行されるときの、悪びれる様子もなくむしろ平穏な表情がどのようにして可能なのか、あれはどういう契機でもたらされたものなのか。どうみても彼が老婦人を斧で斬殺する場面にそれが示されていたようにはみえないのですが、どうでしょうか。

 警官に連行されていくイヴォンヌの姿を目で追わずに、レストランの客たちがみんなイヴォンヌらが去ったあとの隣の部屋を覗き込んでいるのはいったいなぜなのか。そこにはなにもない(血の跡も抵抗の後もない)はずなので、空っぽのありきたりのレストランの一室を見ているはずです。そこにはトルストイの登場人物たちが見るような神の世界はない。小さな善が広がっていく連鎖の往路なんか見えないはず。じゃ何が見えるのか。現代はそういうものがすべて消え失せた空っぽの部屋のように空虚だと言いたいのか。希望を空虚な部屋で示そうというのか。あるいはそこに私たちが埋めるべき善の連鎖の糸口を見よというのか。そうでなければイヴォンヌのあの居直りでもないのに平然とした表情は何なのか・・・

 

saysei at 14:39|PermalinkComments(0)

2018年09月24日

栗ご飯・・・

茹でピーナツ1

 「木下さんの茹でピーナッツ」とか。毎年この季節に入荷しているのをみつけては勝ってきてくれます。中の実がものすごく大きい。

2茹でピーナツ

 もともとピーナツ好きだけど、この茹でピーナツはまた格別。枝豆も好きですが、味の濃さではとうていピーナツにはかないません。左手が使えないのも右手の親指が遺伝的ななんとか病で痛いのもなんのその(笑)一人でちゃんと割って(裂いて)大きな実を取り出して食べれます。歯が悪くて硬いピーナッツが食べられなくても茹でピーナッツなら大丈夫。

アサリときのこの出汁酒蒸し


 あさりと三種のきのこの和風酒蒸し。一般には洋食でオリーブオイルを使ってワイン蒸しにするのだけれど、きょうは和風にしたかったので、出汁を使って作ったそうで、アサリの味がよく出て、酢橘を絞って皮ごとつけて、香も味も良かった。キノコで秋の風味というわけかな。

豆腐と野菜の胡麻和え

 とうふと野菜の胡麻和えといったところかな。別段秋の味覚というわけではありませんが・・・

鶏のせりと野菜炒め
 野菜と鶏のせせりの炒め物だとかパートナーがおっしゃってました。これも秋はとくに関係ないけど。
栗ご飯

 栗ご飯。おなかいっぱいで、もうこんなちょっぴりしか食べれませんでしたが、また明日。パートナーがサッカーおばさんのお友達から(故郷の内子町のご親戚から送っていただいたもののおすそ分け)いただいた大量の栗を、パートナーが昨日あたりから夜なべして(笑)皮むきしていました。5キロくらいはあったそうで、皮を剥いても大きな深い鍋にいっぱい。それを一日中茹でていましたが、まだやっているようで、栗は処理するのに3日かかるんだそうです。向くときに白皮を傷つけると、料理しても栗ご飯にしても実が崩れて形がなくなってしまうので、白い薄皮を傷つけないように、まるごと綺麗に外の硬い皮を剥かなくてはならないので、それが大変らしい。毎年切り傷をつくっていますが、きょうもパートナーはちょっと切り傷をつくったようです

 でも新鮮な栗の実による栗ご飯は本当においしい。白皮を傷つけてしまった実は、菓子など別の用途に使うようです。

 

saysei at 23:59|PermalinkComments(0)
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